Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    不惑の果実
    ‐9‐




     四

     すっきりと片づいたリビングのソファで、岩瀬はゆったりとくつろぐ。さっくりとした編み地のコットンのセーターが肌に心地いい。
     既に十月も半分が過ぎ、フロアスタンドが投げかける光も温かみを増して感じられる。夕食には、今年初めての鍋料理を嶋田と食べた。
    「ん。シャンパンにはイチゴって言うけど、リースリングにラフランスもイケると思いません?」
     隣で嶋田がそんなことを言うから、フッと笑ってしまった。白ワインのグラスを唇に傾け、岩瀬はなかば呆れ顔で目を向ける。
    「え? イマイチでした? また甘すぎたかな……シャブリのほうがよかったかも」
    「いや、うまいし、合うと思うよ」
    「なら、そんな目で見ないでくださいよ」
    「そんな目、って――」
     言い訳が口に上る前に笑顔でふさがれてしまう。ワイングラスを持つ手が捕らえられ、深く唇が合わさった。
    「……きみ」
     たっぷりと時間をかけて楽しまれ、ようやく唇が離れて唐突なキスを抗議しようとするが、顔が熱くなっていて岩瀬はたまらない。
    「そっちが悪いんです。いいかげん、こういう雰囲気にも慣れてください」
     さらりと言って嶋田がいたずらっぽく笑いかけてくるから、思わず顔を背けた。
     ……まったく。
     慣れろと言われても簡単には慣れられない。わかっていて嶋田は好んでこういう雰囲気を作り上げるのだから、押される一方だ。
     初めてベッドを共にしてから、まだ二週間しか経っていない。
     あの翌日、目覚めたときには窓はすっかり明るく、真っ先に寝過ごしたと思った。だがすぐに土曜日で休みと気づき、前夜のことが怒涛のように思い出されてうろたえかけたが、ベッドには自分ひとりで、そっちに戸惑った。
     当然のごとく全裸で、それでも肩まで夜具がかかっていて、自分を寝かせて嶋田はもう帰ってしまったにしても、とにかくシャワーで体を流そうと、ベッドを降りようとしたら変なふうに落ちてしまった。
     腰が抜けた感覚とはこういうものかと初めて知って床にへたり込んでいたら、ものすごい勢いで嶋田が部屋に飛び込んできた。慌てて目の前に落ちていたバスローブを胸に引き寄せたら、嶋田は小さく吹き出し、大丈夫ですかと、どう見ても笑いをこらえている顔で覗き込んできた。
     みっともないことこの上なく、熱くなった顔を伏せるしかできなくて、だけどそうしたら、ぎゅっと抱き締められて驚いた。
    『そんな、立て続けにかわいいことしないでください』
     耳元で照れたように言われ、なおさら驚いた。顔を上げたらキスされ、ますます驚いた。嶋田にバスローブを着せかけられ、腰を支えられて寝室を出たら、あれほど散らかっていたリビングがすっかり片づいていたのだから、もう、唖然とするしかなかった。
     嶋田が、ここまで甲斐甲斐しい男だったとは――。
     そう思ったのは、連れられたバスルームに嶋田まで入ってきたときだ。確かに、脚にも腕にもいまひとつ力が入らなかったから、手伝って体を洗ってくれたことは助かったのだが、まさか中まで嶋田が洗うと言い出すとは思わなかった。抵抗したらまたキスしてきて、その間に体の中に指を入れて、甲斐甲斐しいだけではないと、やっと気づいた。
    『しょうがないじゃないですか。健気に俺に抱かれてくれて、それでもう、たまらなくかわいかったのに、腰砕けになっていてベッドから落ちて、恥ずかしがってバスローブで裸を隠そうと――』
     思わず嶋田の口を手でふさいでしまったことに他意はない。単に黙らせたかっただけだ。
     それでも嶋田は少しもめげずに、シャワーのあとには用意してあった朝食を自分に出して寝室を片づけ始めた。鼻歌まで聞こえてくる始末で、自分のほうがめげるみたいで気が抜けて、結局は笑ってしまった。
     この二週間は、経験したことのないような日々だった。
     嶋田は会社でも以前に増してはつらつとしていて、週末には自分といてずっと笑顔だ。自分もまた、会社にいても嶋田を目にすれば胸が温かく満ち、いつしか仕事にも生活にも、かつての意欲が戻っていた。
     幸福だと思う。たったひとりの人間と思いを通わせられたことで、これほど自分が影響を受けるとは、過去には想像もできなかった。自分には、恋愛も、結婚さえも、さほど重要には捉えられていなかったのだ。
     嶋田と親密に関わるようになってから自分は変わった。それまで見えてなかったことが見えるようにもなって、嶋田には感謝もしている。今は嶋田といればすべてが満たされるようで、嶋田も楽しそうでいてくれて、だからこそ、つい考えてしまう。
     嶋田は、これでよかったのだろうか――。
     ワイングラスを傾け、岩瀬はひっそりと息を落とす。洋ナシを一切れ取り上げ、さくりと噛めば、爽やかな蜜の味わいが舌に蕩けた。
     白ワインと洋ナシで食後を楽しもうと言い出したのは、嶋田だ。洋ナシは食べ頃になるまで購入したあとも追熟するそうで、嶋田が持ってきた。白ワインは、夕方に連れ立って買い物に出た際に買った。以前同様、銘柄ではなく原材料のブドウの品種で嶋田が選んだ。
     それは、ささいかもしれない。だが、たとえばこういった粋な計らいも嶋田はできるのに、隣にいるのは自分でいいのか。
     嶋田の気持ちを疑ってはないし、自分にも惑いはなく、むしろそうだからこそ客観的な思いが湧く。はっきり、嶋田には女性を魅了する要件が、そろいすぎるほど備わっている。
     なにも自分を選ばなくとも、嶋田なら女性のほうが放っておかないだろう。自分といて、いくら嶋田が楽しそうでも、嶋田には本当の幸福がほかにあるのではないか。
     たとえ今が幸福でも、これで正しかったのだろうか――。
    「どうしたんです、考え込んじゃって」
     肩を抱き寄せて嶋田がやさしく訊くから、岩瀬は苦く笑ってしまった。抗わずに嶋田にもたれ、ワインを口にして言う。
    「きみは……結婚しなくていいのか?」
     ビクッと肩に回った手が震え、岩瀬は嶋田を見上げる。
    「それ――マジに言ってるんですか?」
     苦しそうに顔を歪め、嶋田が目を合わせてきた。岩瀬が答えずにいると、ふうっと大きく息を吐き出して弱々しく笑って見せる。
    「マジ……ですよね、わかります。どうして、あなたはそうなのかな。やっと、あなたとこうなれたのに、俺がそんなこと考えるはずがないと――思わないんだろうな。そういう生真面目なところも含めて好きなんだから、俺も何も言えませんけど」
     岩瀬は眉をひそめてしまう。胸が高鳴って、嶋田に知られまいと、そっと目をそらした。
    「えーと、ですね。たぶん、俺は三十で未婚なことが気になるんでしょ?」
     それだけではない――思っても、声にして伝えることに戸惑う。
    「いつか結婚しなくちゃならなくなるんじゃないか、とか。けど、そうなっても俺の意思じゃない」
    「だとしても」
     つい返してしまい、しかし言葉は続かない。
    「志信さん――」
     嶋田の低い声が耳にしみ入る。やわらかく唇で耳朶をまさぐられる。
    「怒りますよ?」
     ゾクッと背筋が震えた。悦んでしまう自分を抑えられない。
    「俺が信じられませんか? それとも信じるのが怖い?」
    「そうではなくて、これできみが本当に幸せなのかと――」
     苦しい声を絞り出した。言ったことに嘘はない。自分は幸せでも、嶋田は本当に幸せと言えるのか、自分は嶋田を幸せにできるのか。
    「それは、あなたが考えることじゃない」
     しかし、きっぱりとそう返され、その言葉に目を瞠った。岩瀬は嶋田に振り向く。
    「俺は自分で幸せになりますから。と言うか、幸せってそうでしょ? 御膳立てされた幸せで満足できるほど、俺は甘くないですよ」
     フッと笑って見つめてこられ、大きく息を飲んだ。
     今さらながら思う。年齢とか、社会的立場とかに関係なく、男として嶋田の器は大きい。
     きっと、だから惚れた。
     惚れたと、ためらいなく思えることが今の自分の喜びだ。惚れた相手に惚れられたなら、それで自分も幸せだ。
     そうだ――幸せは、自分でなるもの――。
    「なんか……わかってないようですから言いますけど」
     つと視線をそらし、浅く息をついて嶋田は言う。
    「俺のほうが不安ですよ」
     驚いて岩瀬は見つめる。耳を疑った。
    「あなたは、いつか再婚するんじゃないかと思えてならない。あなたは気づいてないだけで、社内にもあなたをいいと思ってる女性がいるし」
    「いや、何を――」
     うろたえて声が出たが、じっとりと横目を向けられて口を閉ざした。
    「それが不安なんですよ」
     はあっと肩で息を落とし、嶋田は背もたれに深々と身を預ける。
    「堅実で真面目で外見もいいなら、結婚相手には最適ですよ。収入もあるし。あなたには近寄りがたいオーラがあるから簡単にはそうはならないだろうけど、慰労会のあとのカラオケでも、あなたは独身だと部長がバラすから、メアド知りたいなんて言い出されて――」
    「えっ」
    「俺のほうが焦りましたよ。部長はあの調子でご機嫌だったし、マジ教えそうになるから止めるのに苦労しました」
     岩瀬は頭の芯が冷たくなる。嶋田には言えない。実はもう、銀座店の責任者からメールを受け取っている。会社で使っているノートパソコンへの社内メールで、どうやってアドレスを知ったのか疑問には思ったが、直営店の販売員も社内の人間に違いなく、内容も慰労会を開いたことへの謝辞だったので深くは考えなかった。
     まったく、部長は……。
     豪胆な人柄を思えば納得はいくが、そんなことまでされては大変困る。思わずワインをあおり、テーブルにグラスを置いた。
    「それに、吾妻さんにも言われてたじゃないですか。最近また元気になってよかったです、前よりしっとり落ち着いた感じです、って」
    「あれは、単に私を気遣ってだろう? 涼しくなって夏バテが治ったようだと言ったし」
     さすがにそれは憶測だと言い返したが、嶋田は、また横目でじっとりと見つめてくる。
    「そんなの、体裁を取り繕ったに決まってます。吾妻さんには遠慮があるから言い方はそうでも、しっとり落ち着いた、って、色っぽくなった、ってことじゃないですか」
    「――は?」
    「おかしいと、少しも思わないんですか? 変化があるたび、見逃さずに声かけてるんですよ? いつも気にしてなきゃ、できません」
     向き直って間近で目を合わされ、ぐっと声に詰まった。言われてみれば、そうも思える。
    「だとしても、私は――」
     動揺して、うまく続けられない。不安だと、嶋田に言われたのだ。この二週間にも嶋田が不安でいたとは、まったく気づけなかった。
     私がこんなでは離婚したときと同じに――。
    「違うんです」
     だが嶋田からもたれてきて、ぎゅっと肩を引き寄せる。苦しそうに声を漏らした。
    「俺は、あなたに無理をさせたわけで――男に抱かれるなんて……あなたには耐えられなくてあたりまえだった。やっぱり男の恋人は嫌だと、いつか言われるんじゃないかと――」
     顔が熱くなる。聞かされたことが、それ以上の意味を持って胸に迫った。羞恥に消え入りそうになって岩瀬は顔を伏せるが、嶋田がもたれる肩が温かい。
    「嶋田」
     気持ちのせり上がるままに呼べば、嶋田は耳元で息を震わせて苦笑する。
    「私は――今、幸せだ」
     はっきりと言えたことに安堵した。伝えずにいたら嶋田の不安は消えない。
     先週の土曜日に、嶋田は泊まったのに自分を抱こうとする気配すら見せなかった理由が、今わかった。まるで自分を抱き枕のようにして眠りつき、助かったと感じたことは否めないが、初めてのときはあれほど情熱的に求めてきたことを思うと淋しかったのも事実だ。
     しかし抱き合って眠る心地よさも幸福で、それに満足して嶋田の気持ちを察せなかった自分が不甲斐ない。
    「……志信さん」
     やわらかく呼ばれて、そっと目を上げた。
    「いい気になっちゃいますよ、俺――」
     顔を近づけてきて、嶋田はゆったりと笑う。
    「……構わない」
     その笑顔に見とれた。キスを予感して、胸がときめくことが岩瀬は信じられない。同性で、年上で上司であるプライドなど、忘れさせられる。
    「嶋田――」
     熱い吐息と共に、その名がこぼれた。
    「ま、いいですけどね」
     触れそうになって、くすっと嶋田は笑う。コクッと喉が鳴った。声が掠れる。
    「……篤史」
     望まれたとおりに呼び直せば、熱っぽく唇を奪われた。
     心が溶ける――何度でも。恋をしているんだと思う。――嶋田と。思春期に戻ったような恋を。
     そろそろと岩瀬は手を上げる。嶋田の腕に触れた途端、ぎゅっとつかんだ。キスの快感に蕩かされ、体を支えられそうになかった。
    「……ちょ、待て」
     コットンのセーターの裾から手が忍び込んできて、ヒクッと肌が波立つ。
    「さわるだけです……いいでしょ?」
     甘い声が誘惑するが岩瀬はためらう。
    「しかし」
     早くもベルトを解かれている。
    「無理はしません。初めてのとき、月曜日も会社でつらそうにしてたから――」
    「な……っ」
     あからさまに事実を突きつけられ、怯んだ隙に、やわらかくソファに押し倒された。
    「あ、んっ」
     深く唇を貪られ、息が上がっていく。劣情がきざし、前を開かれてやんわりと握られた。
     ――さわる、って。
     快感にさらわれながら戸惑う。無理はしないと嶋田は言ったが、具体的にどこまでするつもりか。
     胸までめくられ、そこにある飾りを舐められる。じっくりと舌でへそまで辿られ、肌が熱くさざめいた。まだ下がっていくと知って、うろたえる。嶋田の手で硬く張り詰めた先に濡れた感触があって、慌てた。
    「ま、待ってくれ」
    「どうして」
     即座に問い返され、答えに詰まる。
    「ここまでしかしませんから……気持ちよくなってください」
     吐息交じりに熱っぽく聞かされ、なおさら慌てた。
    「そ、それなら! ……向こうの部屋に」
    「大丈夫ですよ、ソファを汚すようなヘマはしませんから」
     嶋田はくすっと笑いを漏らすが、岩瀬は震え上がった。
    「ど、どういう――」
     聞かなくても察しがついたが、信じがたい。嶋田が、そこまでするつもりとは――。
    「あなたになら、なんでもできる気分です」
     上目で見つめてきて、にっこりと言われ、限界だった。
    「やめてくれ!」
     思いがけずきつく言ってしまい、嶋田の頭を押し返していた。上半身を浮かせた岩瀬を嶋田は悲しそうな目になって見つめる。
    「ち、違うんだ……」
     どうにか岩瀬は言いたいことを伝える。
    「く、口でされるのは――」
     しかしそこまでしか声にならず、顔が赤く染まった。
    「嫌なんですか?」
     嶋田は、きょとんと返してくる。
    「もしかして……気持ちよくなかったとか。俺は、あのときが初めてだったし、勢いでしちゃって――俺ばっかり、夢中になって……」
     言っているうちに表情が翳り、最後には声も沈んだ。
    「は、初めて、って――」
     なかば岩瀬は取り乱す。どう誤解されたかわかって、ますます顔を赤くして言い放つ。
    「わ、私も、あのときが初めてだったんだ! だから、こんなことをするくらいなら向こうの部屋へ――」
     抱いてくれと自分から誘っているに等しく、たまらなく恥ずかしい。それでも、自分だけ射精に至らされるより、何倍も耐えられる。
     見る間に、嶋田の顔も赤く染まった。目を瞠り、まっすぐに見つめてきて、確かめるように言う。
    「ちょ、待ってください。入れるのはよくて、口はダメって……マジですか?」
     あまりに直接的で、岩瀬は顔が火を噴くほどの羞恥に襲われる。目をそらしたくなるのをこらえ、かすかにもうなずいた。
    「ちょ……っ!」
     食い入るほどに岩瀬を見つめ、嶋田は手のひらで口をおおう。明らかに絶句して、だが次の瞬間には岩瀬に抱きついた。
    「もう……もう! あなたってひとは――」
     ぎゅっと胸に包み込み、頬をすり寄せる。
    「俺をあおって、どうするんです! 生真面目なのはよくわかってますけど、そんなこと言ったら逆効果ですって! ベッドの中でまで折り目正しくいようなんて、俺がさせませんから!」
    「し……嶋田?」
    「フェラなんて、普通に誰だってしますよ。もっと変態チックなことするカップルだって、掃いて捨てるほどいますから!」
     カーッと、どうしようもなく顔が熱くなる。
    「もー……セックスまで清く正しくなんて、どんだけですか。合意なら、何したっていいと思いませんか」
     言葉が出なかった。何もかも見透かされた上に溜め息交じりに言われ、呆れられた気がする。
    「俺は、なんだってしたい。あなたが気持ちいいなら、俺も気持ちいいですから」
     しかし嶋田は蕩けた笑顔で覗き込んできた。
    「誰にも口でさせたことがなかったなんて、俺はうれしいです。あなたのいろんな初めてをもらえて――」
     うっとりと嶋田は言うが、それにはギョッとしてしまった。
     いろんな、って……。
     咄嗟に岩瀬はもがく。嶋田が何を言っているにしても、前回以上のことは自分にはまだ無理だ。
    「ちょ、志信さん?」
    「わ、悪いが、私は――」
    「わかってますって! 無理はしないって言いました! だから、もうっ」
     広い胸に押さえつけられ、岩瀬は身動きできなくなる。顔の横で、双方の手首を捕らえられた。
    「だから……本当に嫌ならしません。だから、寝室に行こうなんて言わないでください」
     ――え?
     恐る恐る嶋田に目を向ける。眉を寄せた、情けない笑顔が見下ろしていた。
    「ベッドでなんて、止まらなくなる――本当は、あなたを乱したくてたまらないんだから」
     見つめ合い、互いに動かなかった。岩瀬は呆然として、だが、くすっと笑ってしまった。
    「まったく、きみは」
     力が抜けて、胸が温かく満ちる。愛しさが溢れてくる。
    「どこまで私を甘やかすつもりだ?」
     カッと頬を染め、嶋田は唇を引き結んだ。
    「きみだって、私と変わらないじゃないか」
     嫌がることはしない、快感をもたらすならなんだってする、そう言い切れる気持ちが清く正しくないはずがない。ベッドでも折り目正しくいようとしているのは、嶋田だ。
     嶋田は自分を求める思いが強いだけ――それがよくわかり、うれしくないはずがない。
     応えたいと思う。自分には、まだ不要なプライドがあるのかと思う。いっそ、乱れてみればいいのか。嶋田が苦痛を強いるとは自分も思わない。嶋田のもたらす快感に溺れ、嶋田の望むとおりになれるなら、なってみたい。
     熱く昂る思いを込め、岩瀬は嶋田を見上げる。唇が薄く開き、濡れた吐息がこぼれた。
    「し……志信さん」
     嶋田が息を飲んだと、目に見えてわかった。岩瀬はフッと笑みで口元をほころばせ、だが嶋田はすっと視線を横に流す。
    「――あ。ケータイが光ってます」
     不意に岩瀬の両手首を放して身を起こした。
     岩瀬は目をしばたたかせてしまう。ソファを離れて、嶋田がキッチンカウンターの上から携帯電話を取り上げるのを見て、とんでもない羞恥に襲われた。
     大急ぎで着衣を直し、ソファに座り直す。嶋田が差し出した携帯電話をムッとして受け取った。
     着信したのはメールだ。今すぐに読む必要があるとは思えないのに、甘い雰囲気を嶋田から壊された羞恥に苛立ち、開いた。
     しかし文面を通して読み、愕然としてしまう。どう反応していいかもわからず、手の中の携帯電話を見下ろして固まった。
    「……どうしました?」
     隣に腰を下ろして、嶋田が心配そうに顔を覗き込んでくる。
    「いや、なんて言うか――」
     いろいろな意味でショックなようで、だがそうでもないようで、とにかく複雑な気分だ。
    「メールですか……誰からなんです?」
     嶋田に言っていいものか迷い、だが言ったほうがいいと思い直す。
    「別れた妻からだ。――妊娠したそうだ」
    「ええっ!」
     あまりに嶋田が驚くから、それに驚いてしまった。
    「お子さんができたって……まさか」
    「違う、父親は私じゃない」
    「はー……よかったあ〜」
     あたりまえのことに、なぜそんなにホッとするんだと言いそうになって、くすっと岩瀬は笑ってしまった。呆れて嶋田に顔を向ける。
    「え? 笑ってんですか? ――ひどいな。と言うか、なんでそんなメールが?」
    「わからないか?」
     メールを開いたまま、携帯電話を嶋田に渡した。誤解も嫉妬も、無駄なものは避けたい。
     メールでお知らせする失礼の上に、大変お恥ずかしいのですが――元妻からの文面は、そう始まっている。岩瀬と離婚して四ヶ月に満たずに妊娠したこと、記された相手の名は岩瀬も知る男性で、年が明けたらその男性と入籍するとも書かれていた。
     万一にも志信さんにはご迷惑のかからないようにしますが、その限りではないかと思われますので、どうかご容赦ください――そう結ばれている。
    「そういうことですか」
     嶋田も納得したようだ。携帯電話を返してきた。
    「……女性は大変だ」
     岩瀬は、そう漏らすしかできなかった。
     離婚後、女性は六ヶ月のあいだ再婚に制限がある。元妻はその期間に妊娠したのだから、子の父親のことで、自分も何かしら手続きに関わることがあるのかもしれない。
     彼女が離婚後すぐに恋に落ちたことについては、自分の身を思えば何も言えない。ただ、妊娠したと知って、彼女らしくないと思った。
     だがそれも、自分には気づけなかっただけで、彼女は元から情熱的だったのかもしれない。それとも、相手の男性が情熱的なのか。
     つい、嶋田を見てしまった。
    「なんです?」
    「いや――」
     どうしてか照れてしまい、岩瀬は顔を戻す。しかしそうしても、顔はどんどん熱くなる。
     私がベッドでも折り目正しいなんて、言うから――。
     この気持ちはなんだろう。屈辱か。元妻を自分は満足させられなかったような――。
     違う、私は淡白なんだ。
     それなら嶋田に抱かれたときの昂りをどう説明するのか。
     だからそれは、嶋田が――。
    「……きみは、誠実でもいやらしすぎる」
    「えっ?」
     聞こえた声には何も返さず、元妻への返信を打った。
     おめでたい話です、心からお祝い申し上げます、私にできることがあるなら協力を惜しみません――。
    「なんですか、そのメール」
     あからさまに覗いてきて嶋田が言う。
    「社内文書じゃないんですから」
    「うるさいな」
     どうか幸せになってください、私も幸せになります――。
    「あ」
     耳元で小さく声が上がった。構わずに、岩瀬はすぐにメールを送信する。閉じて、ミニ画面に時間が表示された。午後九時を過ぎたばかり、先方に差し支えないだろう。
    「俺がいやらしすぎるんじゃなくて、あなたが硬すぎるんですよ」
     遅れてそんなことを言って、嶋田は両腕を絡めてくる。もたれてきて首筋に顔をうずめ、鼻先をこすりつけた。
    「ギャップがありすぎ……さっきの顔、理性が吹っ飛びそうだった」
    「きみは、まったく――」
     再び羞恥に見舞われ、岩瀬は睨みつけようとするが、顔を向けた途端、洋ナシのかけらを口に押し込まれた。出すわけにもいかず、黙って咀嚼する。
    「どうぞ」
     白ワインを注いで、嶋田はにっこりとグラスを差し出す。抗わずに飲めば、洋ナシの後味もあって、いっそう華やかな味わいが口に広がった。
    「酔っちゃってください」
     耳に唇を寄せ、嶋田がそそのかす。ワイングラスを取り上げ、のしかかってくる。
    「もう、気がかりは何もないでしょ?」
    「篤史」
     わざと、そう呼んだ。だけど続ける言葉を声にするには、かなりの勇気がいった。
    「やっぱり、向こうに行こう」
     目の前で、嶋田の顔が赤く染まる。男前で、同性の自分をも魅了する顔が。
    「――誘っているんだ」
     あえて思いきって言ったのは、嶋田に押される一方の関係を少しでも変えたかったのか、そんなプライドがまだあったのか、それとも今の幸福を伝えたかったのか――。
    「好きなんだ」
     目を丸くする嶋田の顎を捕らえ、岩瀬はキスをする。同性の年上でも、たぶん嶋田より拙いキスを。
     だがそれも、すぐに嶋田に熱くさらわれた。体中が歓喜に沸くような感覚を覚えるのも、単に性感に痺れたからではないと岩瀬はよくわかっていた。
     惑わない――幸せだから。その甘さに酔いしれる。嶋田も、いつまでもそうあってほしいと、心から願った。


    おわり


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