Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    不惑の果実
    ‐8‐




     自宅まで、ひどく遠く感じた。足をもつれさせてリビングに入り、岩瀬はソファに倒れ込む。しかし大して酔ってもなく、飲み慣れない紹興酒に悪酔いしたでもない。
     ただ、気持ちがふさいでいる。胸が苦しいようにも思う。深い溜め息が出た。
     仰向けに身を返し、天井を目に映す。照明がまぶしくて、床からリモコンを拾い上げて消した。そうすると今度は暗闇が息苦しくて、背後のフロアスタンドのスイッチを手探りで引いた。
     ほんのりと広がる鈍いオレンジの光に包まれ、ようやく息がつけたように感じる。明るい中にも暗い中にもいられない自分を思い、どうしたことか涙が滲んだ。
     ……終わりだ。何もかも。
     ふと湧いた思いに胸が締めつけられた。何を指してそう思ったのか、判別がつかない。
     部長の前で、自分の役目を演じきれなかったことか。いっそ、失態をさらしたことか。その原因を思ってか。嶋田がいて、若く美しく快活な女性が三人いて、信頼と親密さと、そこから予感される何かを見たからか。
     彼女たちは、立派だな。
     雇用形態を変える意見を聞かされたとき、実際にリーダーシップが取れるか疑ったが、邪推に終わった。彼女たちを知りもしないで疑いをかけた自分に気が滅入るし、彼女たちの大らかさと可能性にも気が滅入る。
     今もこの時間にどんなふうにいるのか、目に浮かぶようだった。部長と嶋田と彼女たちとで、和気あいあいとしているだろう。そこに自分がいなくて本当によかったと思う。
     いたら、台無しだ――。
     こんな気持ちは子どもじみている。なのに、抑えられない。暗闇に沈みきることも、明るみに出ていくことも、今の自分にはできない。
     八月から、どうしてこんなふうになってしまったのか、もう十分に理解できていた。目を向けたくない自分の心情にも気づいている。
     ひとりの男に心を捕らわれ、これまで四十年に渡って築いてきたものが崩れかけているというのに、自分には何も打つ手がない。
     嶋田を拒み続けても、受け入れても、逆に見限られても、自分が崩壊することは目に見えていた。
     ……もう、壊れている。
     嶋田の前では自分が出てしまう。キッチンに立って、他愛のないことを言い合ったのもそうだ。そんなことを誰かとしたのも自分には嶋田が初めてで、だとしても、どうしてあれほど自分は屈託なくいられたのか。
     プライベートに強引に踏み込まれたと言っても、きっかけを作ったのは自分だ。私用でワイシャツを買ってきてほしいと思ったとき、頼むなら嶋田しかいないと、なぜ思えたのか。
     他の社員には、絶対に知られたくない一面だった。社内で築き上げた自分のポジションを揺るがせたくなかった。
     嶋田は異動してきたばかりだったし、旧知だったから――。
     新人の指導をしたのは嶋田が最後で、それは自分のキャリアが新人指導の域を超えたからにほかならなかったが、嶋田を指導していた当時にも嶋田が最後とわかっていて、さらには嶋田の人柄もあって、無意識にも嶋田にはひときわ強い思い入れがあった。
     そのことには、部下として嶋田が戻ってきたときに気づいていた。再び自分と働けることがうれしいと嶋田に言われる前から、自分もそう思っていた。
     新しく配属になった部下が嶋田なら、気兼ねなくていい――。
     あのときはその程度の認識だったが、実際は違っていただけのことだ。嶋田には気兼ねがないだけでなく、心を許せた。
     いつからか知れない。だが、きっと指導していたときからだ。嶋田も言っていたように、退社後に連れ回すようなまねは一度もしたことがなかったが、マンツーマンで仕事を教えていた時間は確かに濃密だった。
     反応のいい、教え甲斐のある新人だった。疑問をぶつけてくることにためらいがなく、遠慮もなしに反発も見せたが、常に意欲的で、丁寧に説けば素直に聞き入れる伸びやかさがあって、可能性を感じた。
     いつか、自分の部下になるならいいと思うほどだった。実際にそうなって、浮かれたのは自分だ。そんな自分の感情をさほど重要に捉えずにいたから、この現状に至った。
     岩瀬は、胸を大きくふくらませ、いっぱいに息を吸う。そうして、胸の底からゆっくりと吐き出した。
     そっと、目を閉じる。涙がこぼれて、目尻からこめかみに伝った。
     だとしても……。
     どこで一線を越えたか。嶋田が新人のときから魅了されて、知らずに嶋田に心を開いていたとしても、それは仕事上でのはずだった。
     クッと喉を鳴らし、岩瀬は弱々しく笑う。ばかばかしかった。何を思っても、どんなに思っても、もう終わりだ、何もかも。
     打つ手が、ないのだから。
     思って相手に伝わるなら、どんなにいいか。もしそうなら、自分は離婚も経験せずに、今も安心の海に浸っていられただろう。自分が目指すところを見つめるだけで、自由に自力で泳ぎ渡って。
     ――愚かだ。
     おもむろにスーツのポケットから携帯電話を取り出そうとして、身をよじる。うまく取り出せなくて上着を脱いだ。そうして、ようやく携帯電話を手にするが、開いて指は動かない。
     せっかく自分と結婚してくれたのに、幸せにしてやれなくて悪かったと、今さら元妻に伝えられるはずがなかった。その思いはせり上がるのに、電話をすることもメールを送ることもできない。
     あたりまえだろう。今になって伝えて何になると言うのか。復縁したいわけでもないのに、いたずらに彼女の平穏を乱すだけだ。
     むしろ、相手にされないな。
     どれほど自分が恵まれて生きてきたか、胸に迫った。自分が、どんなに自分本位でいたか、とことん思い知った。
     自分に欠けていたものは何だったのか――。
     岩瀬は、浅く息を落とす。涙は、もうこぼれない。穏やかに繰り返す自分の呼吸を耳にするだけで、泥のような眠りに沈んでいった。
     それから、どれほどの時間が経ったのか。自分しかいない部屋に、岩瀬はひとの気配を感じる。
     どんな錯覚かと呆れて目を開けた。しかし飛び込んできた顔に、息が止まりそうになる。
    「な、なんで、きみがいるんだ!」
     咄嗟に叫ぶが、声が掠れた。跳ね上がって起きかけたが、そこで止まった。
     ぶつかりそうになった男の顔を、間近から食い入るように見つめる。しかし嶋田は、眉ひとつ動かさない。苦痛に耐えるような表情を崩さず、じっと見つめ返してくる。
    「……どうしちゃったんですか、この部屋」
     ただ、ぽつりと低く漏らした。
     岩瀬も動けず、嶋田をじっと見つめるが、やがて疲れてソファに仰向けに戻った。
    「……帰ってくれないか」
     精一杯の思いで言うが、あっさり跳ね除けられる。
    「無理です」
     ムッとして睨みつけても、嶋田は微動すらしない。依然としてソファの前に膝をつき、じっと見つめてくる。
    「どうして、きみはそうなんだ」
     ほかに言えることなどなかった。どうしてここにいるのか、どうして今いるのか、どうして入ってこられたのか、部長や彼女たちはどうしたのか。
    「顔色を悪くされてたから……あのタイミングで、帰るなんて言うから」
    「笑いに来たか?」
     いっそ投げやりにもなる。八月のあの日から一度として来なかったのに、今ここにいるのだから。
    「やめてください、そんなふうに言うの――」
    「傷ついたか?」
    「そっちでしょう? 自分で自分を傷つけて、何がおもしろいんですか」
     ぐっと声に詰まった。天井に目を移し、額に手を載せる。嶋田に顔を見せたくない。
    「……志信さん」
     しかし名前で呼ばれ、そっと手をどかされた。苦痛に耐えるような顔が覗き込んできた。
    「……泣かないでください」
     泣いてなどいない。なぜそんなことを言われなくてはならないのかと、岩瀬は顔を背けようとする。だがそれも、嶋田に阻まれた。
    「こんなに、生活が荒れて……会社では平気にしてたなんて、俺はそっちに傷つきます。さっきまで、生きた心地がしなかった。電話したって何したって、あなたが入れてくれないのはわかってたから、下でエントランスが開くのを待って、ここまで来て、そうしたら玄関が開いてたんですよ? 鍵がかかってないだけじゃなくて、靴が挟まってドアが開いてたんです。血の気が引きました」
     いっそ淡々と、静かに語って聞かせ、嶋田は口をつぐむ。岩瀬は深い息を吐き出した。玄関のドアに靴が挟まっていたとは――。
     ククッと、低い笑いで喉が震える。もう、抑えようがなかった。目尻から涙が伝う。
    「帰ってくれ」
    「志信さん――」
    「帰ってくれ、今すぐ! もう私に構わないでくれ、もう私を見限ってくれ、これ以上、私を苦しませないでくれ!」
    「嫌です!」
     ぎゅっと強く、上からかぶさるように嶋田に抱き締められ、きっとこうされると予感していたと気づき、岩瀬は激しく自分を嫌悪する。思いきり抗った。嶋田に抱き締められて心が溶けるように感じるなんて、自分に許せない。
    「やめろ、放せ!」
    「嫌です!」
    「私が嫌なんだ、放せ!」
    「放しません!」
     虚しい押し問答を繰り返し、すぐに岩瀬は疲れてしまう。腕からも、体中のどこからも力が抜けて、仰向けでいたままに、ソファに身を投げ出した。
    「……愚かだ」
     ふと口をついて漏れた言葉は、誰を言ったのか。自分なのか、嶋田なのか――。
    「それで構いません」
     上からかぶさって強く抱き締める腕を少しも緩めず、嶋田が言った。
    「もう強姦でいいです、あなたを強姦します」
     きっぱりと聞かされ、岩瀬は苦笑するしかない。
    「どうして私なんだ――」
     それなのに嶋田は、声を詰まらせて言う。
    「……ただ、愛しい。それではいけませんか」
    「だからって、どうして強姦なんて――」
     苦笑が止まらない。余計に泣けてくる。
    「今日が、本当に最後だから! 今あなたを手に入れなかったら、二度と届かない――」
     苦しげに吐き出した嶋田に、なおさら泣けた。そこまで言われる価値が自分にあるとは思えない。
    「憎んでくれていいです、俺にも本当の自分を見せたくないんでしょ」
     しかし、それにはハッと息を飲んだ。そろそろと嶋田と目を合わせる。たちどころに唇を奪われ、どうしようもなく、くらんだ。
    「嫌がっていいです、思いきり怒っていい。そうしないでいられないなら、そうしないと耐えられないなら――」
     低く掠れてささやきながら、嶋田は唇で頬をまさぐる。しっかりと上に乗り上げてきて、抗えない強さで岩瀬を組み敷いた。
    「な、にを……」
     ぼんやりと天井を目に映し、岩瀬は息を震わせる。何を言われたのだろう――嫌がっていいと、憎んでもいいと、本当の自分を見せたくないのだから――嶋田に抱き締められて心を溶かす自分に、耐えられないのだから。
     だから、私を強姦するって?
    「ないだろう……」
     首筋に顔をうずめられ、そこに舌を這わされ、目に映る天井がじわじわと滲んでいく。
    「……愚か過ぎる」
     この男は悪者になってまで自分が欲しいと言うのか。
     私は……嶋田に強姦させるのか――?
     できない。それは、できない。
     拒んでも、受け入れても、見限られても自分は崩壊するなら、打つ手がないのだから、嶋田に託して、嶋田だけは守りたい。
    「どいてくれ」
     絞り出すようにでも、はっきりと言えた。
    「聞けません」
     想定したとおりの返事を得て、小さく息をつく。
    「違うんだ……場所を変えてくれ」
    「――志信さん」
     嶋田が上目で見つめてくる。明らかに心を乱して、瞳を揺らめかせた。
    「どういう――」
    「どいてくれ。――わかるだろう?」
     嶋田が驚いて体を浮かせた隙に、ソファから転げ降りた。足がもつれそうになったが、大丈夫だ。
     岩瀬は寝室に向かって歩き出す。リビングから続くドアを開け、しかし明かりをつける気にはなれない。ベッドへ歩んでいきながらネクタイをほどいて床に捨て、ワイシャツも脱いで床に落とした。
     嶋田に強姦はさせられない――それでも、どうしてもベルトを解く勇気は湧かない。
    「……志信さんっ」
     背後から、きつく抱き締められた。嶋田は肩に顔をうずめてきて、熱く湿った息を肌に浴びせる。
    「この部屋まで、こんな……!」
     どうして今そんなことを聞かせるのかと、岩瀬はまた泣きたくなる。
     寝室の荒れ方はリビングの比ではなかった。閉められなかったドアから漏れ入る明かりが、脱ぎ捨てた衣服で散らかった床を淡く照らし、寝乱れたままのベッドまでおぼろに射している。そんなところに嶋田を誘い込んだ羞恥は、岩瀬には言い知れない。
     深くうな垂れて、耐えた。嶋田に隠しおおせている自分など、どこにもいない。すべて知られて、裸にされる。言葉どおりに。
    「俺はあなたが愛しい、愛しくてたまらない。あなたの弱さも健気さも、俺しか知らないと思いたい」
     岩瀬は笑ってしまう。弱々しく、いびつに口元が緩んだ。しかし笑いは声になって出ず、喉を詰まらせるだけで、嗚咽にも届かない。
    「健気だなんて……私が、か――?」
     それに応える声はなかった。むしゃぶりついてきたキスにさらわれる。ひどく性急に、ベルトを解かれた。苛立ちを感じさせる手つきで途中まで下肢をむかれ、恥ずかしい姿でベッドに倒される。
     ……あ。
     シーツに突っ伏し、膝で止まったスラックスを自分でどうできるでもなく、岩瀬の耳はせわしい衣ずれを拾い、胸がじわりと潤んだ。
     すぐに両脚をつかまれ、全裸にされる。乗り上げてきた重みでベッドが沈んだ。
    「志信さん……」
     熱い肉体が背にかぶさり、せつない響きが耳元で自分の名を刻んだ。そのすべてが、肌を通して胸にしみこんでくる。
     ぎゅっと目を閉じて岩瀬は喘ぐ。何をおののいているのだろうと思う。同性に抱かれることか――そうなって悦ぶ自分か。
     違う……嶋田、だから――。
     すっと、大きな手が腕を掠め下ろした感触は、明らかに愛撫だった。うぶ毛を逆立てるような刺激は岩瀬を震わせる。全身が強張り、怯えを隠せない。それなのに、心が溶ける。
    「……志信さん」
     艶を孕んだ声はいっそう甘く、蕩けて耳にまとわりつく。頬に、肩に、キスが散る。
     耐えられず、岩瀬はシーツをきつくつかんだ。背中が熱い。十月の夜気に満ちた薄暗い寝室に、そこだけ火がともったように感じる。いや、胸にも火がともる。嶋田の体温に包まれて。
    「志信さん――」
     そう何度も呼ばないでほしいと思った。名前で縛りつけなくとも抗う気力など最初からなかったし、紹興酒の酔いも少しは残っていて、何もままならない。
     愛撫は愛撫として感じられ、体が応えていく。仰向けに返され、胸にある飾りを舐められても肌がさざめいた。
     どうしようもなく体が弛緩していく。怯えも消し去られ、嶋田の落としていく感触ばかりが鮮やかになる。そうして全身が埋め尽くされ、自分自身はきっと見えなくなる――。
    「……あっ」
     たとえ小さくでも声が漏れて、一瞬で我に返った。嶋田の黒髪が乱れて腹の上で揺れている。腿の内側に手をかけられ、ビクッと下肢に力が入るが、それだけだった。
    「くっ」
     声を漏らしたくなくて、岩瀬は奥歯を噛みしめる。勃ちきらなかった劣情が、嶋田の口の中で育てられていく。
     どこよりも敏感な皮膚が、熱っぽく絡みつく舌の感触を貪欲に追った。
     「は……っ」
     胸を反らし、腰を浮かせそうになって岩瀬は悶える。初めてだった。女性に口で奉仕させるような、浅ましいセックスの経験はない。
     どう、して――。
     頭まで痺れる強烈な性感に、一気に持っていかれる。どこか曖昧だった意識が、くっきりした。嶋田にやめさせたほうがいいのか迷いが湧く。だが、嶋田に託すと決めたあとだ。
    「し、まだ」
     ただ、呼んだ。熱く濡れた響きになったのは、自分の知るところではない。
     薄闇にまぎれ、嶋田が目だけを上げて見つめてきた。それを見つめ返し、自分の劣情が育てられる様子まで見てしまった。
     なのに、目が離せない。あだっぽいと言うほうがふさわしいほど、影の差した嶋田の顔は艶に満ちている。
     息を飲むのを抑えられない。胸が高鳴るのを嫌でも知る。急激に昂ぶった性感は嶋田に伝わり、あっけないほどの絶頂を強いられる。
    「あ、あ」
     岩瀬は喘ぐので精一杯で、腹を引きつらせ、どこに放ったかもわからなかった。ぬるりと股間を滑って、長く骨ばった指がもぐり込んだと気づいても、胸を上ずらせるだけだ。
    「んっ」
     ぎゅっと口を閉じ、顔を横に背ける。両手でシーツを握った。誰にも触れさせたことのない固い窄まりを探られる。
     知識でしかなかったことが、実感となって襲った。ちゅくちゅくと、ひそやかに、隠微に響いてくる音にも耐えられない。ずるりともぐり込んできた圧迫感に息が詰まる。
    「志信さん……息を吐いて――」
     耳元で甘い声がした。
    「怒っても、なじってもいい。でも、傷はつけたくないから――お願いです」
     その気持ちが深く胸にしみた。強姦すると、口にした言葉とはほど遠い。嶋田の思いは、とっくに伝わっている。それが嶋田に伝わってないだけ――。
     岩瀬は、意識して息を吐き出す。止めようもなく涙がこぼれた。それが嫌で、腕で顔をおおう。だがすぐに、やんわりと払われた。
     代わりのように、嶋田の顔がおおってきた。ついばむようなキスのあとに、しっとりと唇を合わされる。なかば強引に舌を絡められ、甘い痺れにさらわれた。
     途方もないところへ放り出される。こんな快感は知らない。嶋田の舌に、指に、体の中を丹念にまさぐられ、悦びが満ちていく。
    「な、んで……」
     キスが解け、岩瀬はつぶやいた。涙が止まらなくて羞恥に苛まれるのに、幸せな気持ちになる。性感の波は繰り返し押し寄せて、どんどん高まって、大きなうねりになって自分を飲みこんでいく。
     再び募る射精感に戸惑った。今までにないほど、劣情が硬く結実していく。
    「……気持ちよくなってください」
     ささやかれて、いっそう戸惑った。嶋田はそれでいいのかとうろたえるが、ぐりっと、硬いものが腿に当たった。
    「もう……抑えが利きそうにないから」
     照れくさそうに聞こえた声に顔が熱くなる。
     愛しい――嶋田が愛しい。
     たまらず、岩瀬は嶋田に抱きついた。背に両腕を回して、胸と胸とをぴたりと重ねる。嶋田の鼓動が、じかに伝わった。自分と同じ速さと知って、なおさら涙が止まらなくなる。
    「……志信さんっ」
     切羽詰まって自分を呼んだ声も、ただ愛しかった。体の中にあった指を引き抜き、嶋田も両腕で強く抱き締めてくる。
     どうでもいいことだったのだ。嶋田が同性でも、会社の人間でも、年下でも、部下でも。
     これほど自分を思ってくれていたことが、うれしい。どんな経緯ででも、嶋田の思いに応えられたことがうれしい。
     たぶん……愛情とは、そういうものだから。
    「――きみが、欲しかった」
     声にして伝えれば、堰を切って溢れ出す。
    「土曜日になっても、きみが来ないから――」
     理不尽とわかっていて、そう言った。
    「私は、ひとりでは生きていけない」
    「志信さん!」
     嶋田が頬をすり寄せてくる。
    「誰だって、そうですよ。俺も、ひとりじゃ生きていけない」
     こすれる肌が濡れる感触は、自分の涙だけがもたらすものか。
    「もう、こんなになるまで自分に厳しくしないでください」
     苦しそうな声が、耳の奥まで低く響いた。
    「もっと、俺に甘えて。俺も甘えますから」
     岩瀬は胸を喘がせる。高まる気持ちが声を押し上げる。
    「……嶋田」
    「篤史[あつし]です、こんなときくらい名前で呼んでください」
     しかしそれには、羞恥が勝って応えられなかった。間近から睨まれてしまう。
    「甘えます――覚悟してください」
     背筋がゾクッとした。その声も眼差しも、男を感じさせる色気に濡れていた。
     ……あっ。
     両脚を開かされ、熱いかたまりが秘めやかな箇所に押し当てられる。圧倒的な量感で、体をえぐってくる。
    「はっ!」
     抑える間もなく、声がこぼれた。萎えそうになった劣情をきつく握られた。
    「……志信さん」
     腰を進めてきながら握った劣情をやわらかく刺激して、嶋田はじっとりと見つめてくる。
    「好きです、本当に――心から。誓います」
     聞かされた言葉にもそうだが、その眼差しに心が震えた。
     何ごとにも率直で、物怖じしない。性格のままにまっすぐで、深く胸に届き、いっぱいに熱く満たす。
     惑わない――自分もそうだ。託すとか許すとか、もう、そんな気持ちではない。
     嶋田がいてくれるなら、嶋田に抱かれるなら、悦びにも幸福にも浸される。ひとりでは生きていけない、たとえ孤独を埋めるためであっても、ほかの誰もかなわない。
    「きみがいいんだ」
     岩瀬は意気込んで声を放つ。
    「きみでなければ駄目なんだ」
     感情が溢れ出し、全身から力が抜けた。
    「志信さん……っ」
     今また名を呼び、嶋田は崩れてくる。しかし岩瀬の手を片方ずつ取って、指を絡ませて握ると、ぐっと腰を押して深く突き刺した。
    「くっ」
     痛みで岩瀬は顔を背ける。嶋田の唇が追ってきた。ことさらに甘くやさしいキスを繰り返され、シーツに押しつけて握る手にも力を込められる。
    「……平気だ」
     つぶやけば、ねっとりと熱いキスでふさがれた。応えて自分からも舌を絡めれば、嶋田はゆっくりと腰を動かし始める。
     岩瀬をなだめ、まるであやすようだった揺れが次第に引きと押しに変わっていく。キスのもたらす快感に痺れ、意識してそちらに岩瀬が浸っている間に、確かな律動になった。
    「ふっ、んっ、んっ」
     唇を奪われながらも、岩瀬は声が漏れてしまう。もはや羞恥を覚える余裕すらなくて、体感のままに身をよじった。
     握られていた両手が解かれ、両腿が裏から持ち上げられる。あられもない体勢にされたことにも気づけずに、胸を上ずらせ、せわしく息を喘がせる。
    「ああっ」
     ひときわ高く声が飛び出て、キスを解かれたと知った。淋しく目で追えば、嶋田は上体を起こして、深々と自分を貫いている。
     薄暗い中にでも、嶋田の表情が見て取れた。髪を乱し、眉をひそめ、唇を引き結んでいる。しかし瞳はまっすぐに自分の顔に向けられ、したたりそうなほどの情欲に濡れている。
     胸が、熱く染まった。嶋田が、こんなにも余裕をなくしている。自分に深く突き刺して、絶頂に耐えている――。
    「あ……っ」
     ヒクッと、岩瀬は肩を震わせる。下肢にはとっくに力が入らなくて、痛みもわからなくなっていた。嶋田の律動に溺れ、未知の感覚が芽吹いていると気づく。その正体をつかみかけ、急激に性感が高まった。
    「し、まだ……?」
     不安に駆られ、抱きつきたくて呼んだ。嶋田は、フッと口元で笑う。その男くさい色気に息を飲むより早く、甘ったるい声が降ってくる。
    「……篤史です」
     いっそ澄まして言い切られ、ずくっと深く刺された。
     岩瀬は声もなく震える。悶えて、シーツにつかまった。しかしそれでは物足りなくて、嶋田の体温がほしくて、心地よい重みにおおわれたくて、小さく掠れた声をこぼす。
    「篤史――」
     いきなり両腕で抱き締められた。荒々しい吐息を耳元で繰り返し、嶋田は岩瀬のもっとも深いところまで到達して、ふるっと身を震わせる。
     岩瀬は息もつけなかった。これ以上にないほど大きく目が開き、じわりと視界が潤む。ほろりとこぼれた熱いしずくがこめかみに伝い、小刻みな震えが腰から駆け上がってきた。
     信じられない絶頂感に、頭がくらっとする。嶋田が達した感覚が体の中にあって、自分は放たずに達したような性感に襲われた。
    「……すみません。……大丈夫ですか?」
     なぜそんなことを訊くのかと思った。だから、嶋田の頬に唇を滑らせて、嶋田の唇に重ねた。すぐに深いキスにされて返され、胸がいっそう熱く染まった。
     じっとりと汗をかいていると気づいて、うろたえる。十月なのに。嶋田に抱かれて、こうなった。
    「――疲れた」
     つい言ってしまったのはどうしようもなく、八月から鬱積していたすべてのことが一度に霧散した安堵に引き込まれていく。
    「すごく……ホッとした」
     それを嶋田に言えたことは確かだ。あとは知らずに眠りに落ちてしまって、目覚めても定かではなかった。


    つづく


    ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る

    素材:+ Atelier Little Eden +