Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    夏駆ける、きみ
    −1−



         一

        「なあ……」
         通路を隔てた隣の席から、繁[しげる]がシャーペンで俺の腕を突付いた。
        「オレたちのクラスには女子が転校してきたのか?」
         ……こいつ、ボケてんのか? んなわけ、ねえっつーの。
        「うちは男子校だろ」
         とりあえず小声で答えて黒板に向き直った。けど、繁ならそんなふうに言うのも当然か。
         最後列の俺の席からでもよく見える。担任の緒方が紹介しているのは、女子と見間違えそうな野郎だ。絵に描いたような卵形の顔に、くっきりとした目や無駄に形のいい唇なんかが絶妙に配置されていて、あいつ……やっぱ転入生だったんだ。
         先週の金曜日の放課後だ。自転車置き場は事務室の前にあるから、偶然、中にいるあいつが見えた。白いシャツにブルーのタイをして、スラックスは水色っぽいチェックだった。
         前の高校の制服だったんだろうけど、うちの制服はガクランで、その上、教職員も九割が男で、校内ではモノトーンしか見慣れてないから、やたら目についたんだ。
         何をしに来てたのか、事務員が何か言って離れたら、ふと顔を上げた。窓越しに俺と目が合って、いきなり驚いた顔になった。
         驚いたのは俺のほうだ。繁じゃないけど、一瞬、マジに女子に見えたんだから。しかもあいつは驚いたあと急に赤くなって……いや、それは俺の気のせいだったかもしれないけど、プイと横を向きやがった。そのくせチラチラ俺を盗み見るようにして――なんかムカついたんだよな。
         そいつが今、緒方と並んで教壇にいる。まさか俺と同じ二年で、しかも俺のクラスに入ってくるとは、少しも思っていなかったのは言うまでもない。
         黒板にデカく書かれた名前は、『紺野歩夢[こんのあゆむ]』。あの顔でその名前じゃ、あまりにベタだ。
        「よろしくお願いします」
         紹介が終わって深々と頭を下げた。トップの長めの髪が落ちて、サラリと揺れる。すっと体を起こすと教室内を見渡した。今日はもう、うちの夏服を着ている。オープンカラーの白いシャツに、黒のスラックス。だけど顔は変わらなくて――あたりまえか。
         にしても、あのホホエミはなんだよ。繁をチラッと見れば、思ったとおり、角刈りのムサイ顔を緩めて転入生を見ていた。女だったら美少女タイプだよな絶対――次の休み時間に聞かされるセリフが、もう聞こえたように思う。
        「席は……伍石[ごいし]の隣が空いてるな」
        「――え」
         空いてるな、って……ほかにも空いてるだろうが。横に八席並ぶ列の最後尾は、俺と繁のふたりしかいないんだし。
        「伍石。頼んだぞ」
        「えー、なんだよ緒方〜」
         俺は思いきり面倒くさそうな声を上げた。
        「転入生の世話とかそういうのなら、フツー、クラス委員がすんじゃねえの?」
         麻生が俺に振り向く。麻生はクラス委員だ。俺に向かって、頼むよ、って感じで薄く笑う。
         ……ったく。面倒が嫌なら、なんでクラス委員になってんだよ。自分から手を挙げて、立候補までしてさー。あのときの空気じゃ、そうするしかなかったのはわかるけど。
        「クラス委員は忙しいからな」
         緒方はけろっと答えやがった。
        「俺だって――」
        「忙しいか?」
         ニンマリと言っても、目が笑っていない。
         ……くっそぅ。
         部活はとっくに地区予選敗退の上、一学期の期末テストも終わってるんじゃ、俺には忙しいと言える理由がひとつもない。緒方は渋くて食えない中年教師だから、余計なことを言えば墓穴を掘る羽目になる。ちなみに麻生は、クラス委員のほかに生徒会もやってるから、今も二学期の文化祭に向けて大忙しだ。
        「決まりだな」
         俺がムッと黙り込んだのを見て、緒方は転入生を席に促した。あー、転入生じゃなくて紺野か――って。
         紺野。俺と目が合って、またそらしやがった。これじゃ、このあいだと同じ――。
         ムスッと睨みつける俺と、紺野は目を合わせないようにして歩いてくる。と、一瞬、足を止めた。おや、と思った。
         麻生を見て、俺と目が合ったときみたいに驚いた顔になった。けど、すぐにハッとして、まっすぐ俺の右隣の席に来た。
        「よし」
         何がよしなんだか――紺野が着席すると同時に緒方が言った。
        「これでずいぶん眺めがよくなったな。今まではデカくてムサイのがふたりも目について、うっとうしいだけだったからな」
         俺と繁のことだ。
        「えー、そんなら席替えしようぜ、緒方〜」
        「バカ言うな。今替えたばかりじゃないか」
        「ちぇっ」
         やっぱ俺が『お世話係』かよ。とか言っても、高校生にもなって『お世話』もないけどな。気に入らないのは、こいつの態度だ。
         目が合えばそらすし。今だって、席に着いても一言もナシだ。そんな無礼者に、俺からヨロシクとか言うのはムカつくし――。
         俺は、頬杖をついたまま、こっそり目だけを動かして隣の席を見る。紺野の横顔が視界に入った途端、あら、と気が抜けた。
         照れたような、困ったような表情で、頬を少し上気させて……うつむいている。もしかして、緊張しまくりとか?
         これじゃ、何か悪いものを見てしまったような気分になる。俺は、向けたときと同じように、こっそり目を戻そうとして――ギクッとした。
         紺野……泣きボクロがある――。
         だから何、ってことはないんだけど。ただ、伏せた目が長いまつげに半分隠れる横に『それ』を見つけてしまったことが……これだけ近くなきゃ気づきそうもない『それ』を左の目尻のきわに見てしまったことが、なぜか、俺を居たたまれない気分にした。
         紺野は、俺の視線に気づいたのか、うつむいたまま俺をそっと見た。けど、目が合った途端、またプイとそらした。
         だから。そりゃ、なんだってんだよ?
         ……やっぱこいつ、ムカつくかも。


        「九州、って言ってたよな?」
        「そう。しかも田舎だったから……転校が決まったときは、マジうれしかった」
         転入初日で給食のない紺野を購買へ連れていく。給食は、Aメニュー、Bメニューとあって、二週間前に選んで予約するシステムになっている。なもんだから、給食の予約も弁当も忘れたときは購買が頼みの綱なんだけど、購買のパンは一部の手堅いファンがついているから、品揃えは豊富だ。
         しかし、なんつーか、なんで紺野は、最初からこうじゃなかったんかね? 
         目が合えばそらしたのは朝までの話で、その後、文理別選択授業の教室移動で文理どっちなのか投げやりに訊いてやったときも、俺と同じ文系だって言うから、んじゃ一緒に行くかと誘ってやったときも、そして昼休みの今も、わりと普通に一般的だ。
         『わりと普通に一般的』と、超曖昧にしか言えないのは、なぜか紺野が、いちいち照れくさそうに受け答えするからで……それは、やっぱ転入初日だからってことで、俺は納得することにした。
        「じゃ、こっちに住むのは初めて?」
        「ううん。親はふたりとも東京出身だし、ぼくも小学校までは都内だったから」
         紺野は、今も照れくさそうにしている。
        「なら、帰ってこられて、うれしいって?」
        「それもあるけど……ぼく、男子校って初めてで――ものすごく楽しみだったんだ」
        「はあ? 楽しみだった? 男子校なんて、男ばっかでムサイだけだぞ?」
        「だからいいんじゃない」
        「――え?」
        「あ、購買って、あそこ?」
         今、なんか、とてつもなく想定外のセリフを聞かされたような気がすんだけど。さっきの休み時間に繁から聞かされた、紺野って美少年だよな、を上回っていたような?
         教室を出て左の階段を一階まで降りて、右にふたつめの渡り廊下から特別教室ばかりの校舎に入って、右手に折れたドン詰まりにある、口じゃ、すこぶる教えにくい購買に辿り着き、紺野は嬉々としてサンドウィッチを物色する。
        「あー、これもおいしそう」
         カツサンドに卵サンドにミックスサンド?
        「おい、それ全部食うのか?」
        「うん。あと、メロンパンも」
         ……繁が言うところの美少年は、大食いらしい。サンドウィッチだけで、食パン一斤分あるだろ。
        「おまえ、給食はBメニューにしとけ」
        「え?」
         コンビニ帰りかと言いたくなるほど膨れた袋を購買のオバチャンから受け取り、紺野は、恥ずかしそうな笑顔で俺を見上げる。
         ……なんだよこの、バランスの悪い絵。
        「Bメニューはご飯食中心で、おかわり自由だから」
        「そうなの? いいこと聞いちゃったな。ありがとう、伍石くん」
         それなら、その細っこい体のどこに、それだけの食い物が入るのか教えてもらいたいものだ。そうしたら、そっくりそのまま、同じセリフを返してやるよ。
         そうなの? いいこと聞いちゃったな。ありがとう、紺野くん……いや、口が曲がっても言えません。
        「その『伍石くん』っての、やめねえ?」
         購買を離れ、今度は食堂に向かう。『ランチ・ルーム』が正式名称だけど、ダサすぎて誰もそうは呼ばない。よりによって、購買とは正反対の廊下の果てにある。
        「うん、わかった。それなら、なんて呼べばいい?」
         明るく尋ねられ、返答に詰まった。一般には『伍石』と呼び捨てにされ、一部からは『琢己』と名前で呼ばれている。
         けど、女子みたいな顔の紺野に照れくさそうに見つめられると、そのどちらも却下に思えてくる。
         例、一。
        『伍石』
        『女子みたいなおまえに、呼び捨てにされたかねえ!』
         例、二。
        『琢己』
        『やめろ、おまえにそう呼ばれると、勘違いされる!』
         いや。……勘違いって。
         繁のニヤついたムサイ顔が唐突に浮かんだ。
        『紺野って、美少年だよな』
         ――なに考えてんだ、俺。
        「下の名前は?」
         うれしそうに尋ねる紺野に、咄嗟に本能が『答えるな』と警鐘を鳴らした。けど、スルーできないだろ。
        「……琢己」
        「へえ、『琢己くん』かあ」
         声に出されて、グッと詰まった。
        「空気読めよ。俺は、『くん』づけはナシって、最初に言っただろ?」
         うっかり、きつく言い返しちまった。
        「……え」
         紺野は、急に怯えた目になる。こっちが、ビビるっての。つい、紺野の泣きボクロに目が行っちまう――。
        「じゃ……『琢己』ならいい?」
        「もういいよ、マジにどうでも」
        「どうでも、って……」
        「けど、俺は『紺野』としか呼ばないからな。苗字を呼び捨てがディフォルトだ」
         なんで、こんな会話でマジになってんだよ、俺たち――。
        「おまえは好きにすりゃいいじゃん」
         顔も見ないでボソッと言って、食堂に入った。Bメニューのチケットを係に渡し、黙り込んでしまった紺野を連れて、配膳台に並ぶ料理をトレーに載せていく。
         いつものテーブルに向かった。十二人掛けの片方の隅に繁と靖男が並んで座っていて、麻生は繁の向かいにいる。いつもの顔ぶれだ。三人とも食べ始めているんだけど、どういう流れでなのか、黙々と食べる靖男を繁が拝んでいる。繁の声が聞こえた。
        「一回でいいから。お願い、やらせて」
         なんだ、ゲームの話か。靖男はマニアだから、コアなゲームまでたくさん持っている。
        「やらせてください。頼みます」
         俺には見慣れた光景だ。高校二年生にもなって、とか突っ込む気にもならない。
        「どうか、お願い。一生の思い出にするから」
         さすがにそこまで言うのはどうかと思ったけど、靖男は涼しい顔だ。
        「……ビックリした」
         麻生の隣に俺と並んで座ると、紺野は小声でポツリと漏らした。ま、なんつーか、デカくてムサイ繁が細くて弱そうな靖男に拝み込んでるんだから、見るの初めてなら驚いて当然――と、俺は思ったんだけど。
        「やっぱ……男子校だと、こうなんだ」
         うつむいて何を言い出すんだ、こいつは。
        「男子校だからってことはないだろ」
         あえて言うなら繁と靖男だからで、あんなのに男子校も女子校も共学も関係ないっての。
        「そんなことないよ。マジに……ビックリしちゃった。この高校に入れてよかった――」
        「へ……?」
         箸を持つ手が止まった。紺野はうつむいたまま、なぜか頬まで染めて妙にウキウキしている。こいつ……なに興奮してんだ?
        「ねえ……琢己」
         俺に視線を流してくる。なんだよ、その目は――つか、俺は『琢己』に決まりか。
        「あのふたりのほかにも……校内でつきあってたりする人って――いる?」
        「はぁっ?」
         俺の声が裏返っても、紺野は聞いちゃいない。照れまくりでカツサンドを開き、小声でボソボソと続ける。
        「でも……すごく大胆だよね、人がいるのに――やっぱ男子校だと平気なのかな?」
        「紺野……なに言って――」
         やっと唐揚げをつまんだ箸が空中で止まる。なのに、紺野はもじもじとパンをかじりながら、まだ言う。
        「訊いても、いいかな……琢己は――」
         チラッと俺を上目づかいに見た。
        「ちょーっと、待った!」
         いくら俺でも、もう、わかった。
        「え?」
         ガシッと俺に肩を掴まれ、紺野はハッとなって目を丸くする。
        「その話、あっちのテーブルで聞こう!」
        「あ……」
         パンを口に運びかけたまま、見る見る真っ赤になる紺野の横で、俺は紺野の残りのパンを手早く袋に押し込み、トレーを片手に立ち上がった。
        「琢己――」
         麻生の呆れた声が後ろで聞こえて――つまりそれは、麻生には今の会話が筒抜けだったってことだろうけど、麻生ならたぶん平気だ。繁と靖男は、何が起こったんだって感じで、テーブルを移る俺たちをぽかんと見てただけだし――。
        「……琢己?」
         俺に強く握られて痛かったのか、最果てのテーブルに来て、紺野は不安そうに俺を見上げて手首をさする。
        「話は座ってからだ」
         俺の硬い声に、ビクッとして従った。目の前に、ほい、とパンの入った袋を置いてやる。
        「おまえさー……。もうちょっと考えろよ」
         隣に座って、俺は箸を取った。本当は、かなり動揺してたけど、平気を装う。
        「あいつら……繁と靖男は、ゲームの話をしてたんだぞ」
        「え――」
         息吸って、そのまま呼吸を止めちまったんじゃないかと思った。紺野の手から、ボトッとカツサンドが落ちる。
         顔面蒼白、全身硬直――ろくでもない四文字熟語が頭に浮かんでくる。紺野は、文字どおり、茫然自失となった。
        「つまり――なんだ」
         言葉が続かなくなりそうで、とにかく食いながら話した。
        「男子校に転校できるのが楽しみだった、てのは……そういうことだったのか――」
         質問が、納得になっちまった――。
        「――だって……しょうがないじゃん」
         紺野は涙声を出す。俺はテーブルに落ちたパンを拾って、うな垂れる紺野に握らせる。
        「いいから食えよ」
         それでなくても……量が多いんだからさ。
        「前の高校は共学で……それも九州の田舎だったから、ぜんぜんそんな雰囲気なくて……」
         だろうな。つか、そもそも地域とか高校とか、そういうのって関係あんのかよ。
        「東京の男子校なら、ホモばっかだと思ったのか?」
         唐揚げを口に放り込み、ため息が出るに任せて言ってやった。
        「ひどいよ、ホモだなんて……差別用語だ」
         このタイミングでそれ言われるんじゃ――嫌でも遠い目になっちまう。
        「あのさ。追い討ちかけるみたいで悪いけど、教室でもエログラビア見て『やりてえ』とか言ってんだからな。男子校なんて、どこもそんなもんじゃねえの?」
         紺野は何も返してこない。うな垂れたまま、もそもそとカツサンドの続きを食べ始める。
         テーブルを移って正解だった。配膳台から遠く離れているから、周りには誰もいない。
        「こんなことまで言っちゃ、なんだけどさ」
         無言でひたすら食べ続ける紺野に言う。
        「俺が知ってる限り……うちの高校じゃ、そういうのはないぞ?」
         う、と紺野は声を詰まらせた。卵サンドを開きかけていた手が止まる。
        「いや、だから……俺が知らないだけで、もしかしたらってことは、あるかもしれないけど――」
        「……いいよ、慰めてくれなくても」
        「そんな、投げやりにならなくたって」
        「じゃあ、どうすればいいんだよっ?」
         小さく叫んで、紺野は顔を上げた。まっすぐに俺を見る。
         ハッキリ言って……まいった。どう答えたらいいのかわからなかったとか、そういうのもあったけど――くっきりとした目が、じわっと潤んで光って見えて――そんな目を正面から向けられて困ったと言うか、ズキッと胸が痛んだと言うか――その上、紺野の左目尻の小さな泣きボクロが目についてしまうと、どうしようもないほど苦しくなってきた。
         俺は、固まりかけていた口を強引に開く。
        「あまり……言わないほうがいいと思う」
         うん――何かあって、紺野の目が、また、こんなふうになるんじゃ……。
        「……どういう意味?」
        「――え?」
         尖った声が返ってきて、意外だった。
        「隠せ、ってこと? 普通じゃないから?」
        「紺野?」
         俺を見据えていた目が、急に弱々しくなる。
        「琢己は……そんなふうに思うんだ」
         声が出なかった。俺を見つめる紺野の顔が歪んでいく。繊細に整った……きれいな顔が、暗く沈んでいく。
        「――わかった。ごめん。もう誰にも言わないから……安心して」
        「ちょ……紺野」
         紺野は食べ残しのパンを慌しく袋に入れ、立ち上がった。
        「琢己を困らせたりしないから」
         さっきよりもずっと潤みを増した目で俺を見下ろす。だけど俺は、やっぱり何も言えなくて――そんな俺を見切ったのか、紺野は背を翻してテーブルを離れていった。
         しばらく、何が起こったのかわからなかった。紺野と、こんなふうになってしまったなんて。だけど……俺の口からは、気の利いたセリフなんて出てきそうになくて、俺は、紺野を追うことすらできなかった。


        「どうなってたんだよ、昼」
         五時間目の英語が始まるぎりぎりになって席に着いた俺に、繁がこっそり訊いてきた。
        「紺野、麻生と教室に戻ってきたぞ? 校内の案内、おまえがするんじゃなかったのか?」
        「繁」
         教室の前のドアが開く音がする。俺は、思ったことをぼんやり口にする。
        「やっぱ、泣きボクロがあると泣きやすいとか、あるのかな――」
        「……なに言ってんの」
         繁の声は週番の号令に消えた。姿勢を正して、礼――って、背筋なんか伸びるはずもなかった。
         六時間目の数Uはもっと悲惨だった。数学はもとから好きじゃない上に六時間目だったし、そんなことより、紺野に何も言えないうちに時間ばかりが過ぎて、どうしても隣の席が気になってならなかった。
         こんな気分……何年ぶりだ? たとえるなら、小学生の低学年のとき、同じクラスの女の子にちょっかい出して泣かせたときに似ている――じゃなくて。一番近いのは、中学生のとき、絶対泣きそうもない女子にいきなり泣かれたときの気分だ。
         普段から誰にでも気が強くて、俺には特に、なんだかんだと食ってかかってくる女子だった。だから、何かで言い合いになったあのときも、俺がどんなこと言ったって平気な顔で言い返してくると思ってたんだ。
        『おまえみたいな気の強い女なんか、いらねえよ』
         思い返すと、マジひどいこと言ったと、今でも思う。けど、あのときは売り言葉に買い言葉で、勢いで言ってしまっていた。あいつが俺に、何を言っても鈍感で少しもわからないバカ――って言ったあとだったから。
         知らなかったんだ。あいつ、本当は俺が好きだったなんてさ。わかるわけねえじゃん。顔合わせれば口ゲンカだったんだから。
         あいつ……俺が口滑らせた途端、じわっと涙浮かべてボロボロ泣き出して、周りにほかのやつらもいたのに……マジ、ビックリした。
         今、こんな気分になっているのは、べつに紺野の見た目が女子みたいだからってわけじゃない。それに俺は、男のくせに泣くなとかそんなふうにも思わないし、男にも目の前で泣かれたことが何度かある。
         だけど、今までなら俺でも何か言えることがあった。それが、紺野には何もなくて――。
         ほっときゃ、よかったのかな。けど、繁や靖男にも気づかれてたらギャグにされるのがオチで……いっそ、そっちがよかったとか? ギャグならその場限りで、あとはスルーだし。
         ――俺が余計なまねして、紺野に突っ込んだこと言ったから、こうなったんだ。
         夢でも妄想でも、紺野は男子校に入るのを楽しみにしてたのに。それを俺は、わざわざぶち壊したようなもんだよな。もしかしたら、マジに俺が知らないだけで、うちの高校でもありえる話かもしれないんだから。
         繁は紺野を美少年だって言ってたし。そういう意味で言ったんじゃないのはわかってるけど、誰が誰を好きになろうと、そんなの個人の自由で俺にとやかく言う権利はない……んだけど。
         紺野が繁とつきあうってのは――想像できねえ。つか、したくねえ。女子だったら清楚な美少女間違いなしの紺野と、デカくてムサイ剣道部主将の繁じゃ『美女と野獣』、じゃなくて『小鹿と熊』って感じ? 紺野、ボロボロにされそう……。
        「紺野ってさ、なんで、こんな半端な時期に転入してきたわけ?」
         いきなり耳に飛び込んできた声にハッとした。ヤッベェ……数U、終わってる。当たらなくて、よかった――。
        「え? 普通に親の転勤だけど」
        「転勤? 今ごろ?」
        「そう、七月一日付け」
         紺野の席に何人か来ていた。
        「そういうときって、一学期が終わるまで、前のガッコにいたりしねえ?」
         鋭い突っ込みを聞いて、思わず顔を向ける。
        「それも考えたけど、結局転校するんだから早いほうがいいだろうって、親も言ってさ。転勤は六月中にわかってたし」
        「へえ……」
         男子校に入れるのが楽しみだったから、とか言うんじゃないかとヒヤヒヤしたけど……また余計なお世話だったようだ。
        「やっぱ大変なんだろ? 高校で転校って。編入試験は、入試より難しいって聞いたぞ」
        「フツー、卒業までオヤジ単身赴任じゃね?」
        「かもね」
         みんな放課後を待っていたのか、転入生の物珍しさから矢継ぎ早に質問を浴びせるのに、紺野は難なく受けている。俺と話すときと違って、余裕だ。紺野……なんでだよ。
        「けど俺だったら、男子校なんて来ないぞ?」
         誰かがドキッとするようなことを言った声にかぶさって、緒方の声が響いた。
        「ホームルーム始めるぞ。早く帰りたいだろ」
         渋くて食えない中年教師の緒方は、生徒のツボも心得ている。まさに鶴の一声、教室に散っていたやつらはバタバタと席に戻った。
         俺は、そっと紺野の横顔を盗み見る。余裕の表情は崩れていない。前を向いて、緒方を見ている。
         凛として、正しい姿勢。まっすぐな視線。体は心を表す――やっぱり、きれいだ。
         俺とも、こんな感じでいればいいのに――。
         まだ、たったの一日だけど。どうして紺野は、俺とはあんなふうなんだろう。目が合えばそらすのはやめたようだけど、なんて言うか……落ち着かないみたいで。やっぱ……俺のせい?
         先週の金曜日の放課後、事務室にいた紺野の姿が鮮やかに浮かぶ。窓越しに目が合って、驚いたように俺を見つめた。一瞬、女子かと思った。今になってわかる。繁だけじゃない、俺もあのとき、一目で紺野をきれいだと思ったんだ。
         今、目に映る横顔も同じだ。サラッとした黒髪はトップが長いだけで襟足はさっぱりと短く、形のいい唇はやわらかく結ばれていて、目はくっきりと印象的で、左目尻のきわには小さな泣きボクロ――。
         俺は、紺野が俺とも余裕でいられる言葉を言えたらいいのに。俺の言葉が紺野の涙を誘うんじゃ――口を閉じるしかないじゃないか。
         けど、俺……既に速攻で、紺野に嫌われたかもしれない――。


        つづく


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