二 「今日、あいてるだろ? 夏休みの練習計画、決めちゃおうぜ」 毎週水曜日は、週に一度の部活停止日だ。やっと放課後になって帰る支度を始めたら、隣から繁に止められた。 「それ、ヤバくね? いくら主将でも、勝手に決めたらもめんじゃねえの?」 「そんなヌルイこと言ってっから、今年も県大会行けなかったんだろ」 剣道部の顧問は、理解はあっても経験がない。指導を仰げない分、強くなりたければ自分たちでどうにかするしかないわけだ。 「けど、強引に仕切ると、誰もついてこなくなるぞ?」 「琢己がフォローしてくれんだろ?」 繁にそんなこと言われる俺は、実は副将だったりする。中学のときから地元の剣道場に通っているのもあって、三年が引退したあと、実力順に、ほぼ自動的に決まった。 まあ、なんつーか……。普段はのへーっとしてても、繁は剣道のこととなると超マジで、小学生のときから培われたのも納得の強さと、一八五センチの身長に八〇キロの体重で、しかも角刈りのムサイ顔なもんだから、道場では文句なしに誰をも圧倒する。その点では、確かに主将に向いていると思う。 俺だって、それなりに身長もあるし筋肉もついてるんだけど、繁と並ぶと見劣りするんだよな。繁が熊なら俺は……馬? 馬かも。熊が荒らした跡を黙々と耕す、馬。なにかと繁のフォローをしてるんじゃ、そうだよな。 「なにやってんだよ、繁」 ペチッと、いきなり平手で頭をはたかれ、繁はしかめた顔を上げる。繁よりムッとした様子で、靖男が立っていた。 「今日、部活ないんだろ? 僕の家に寄ってゲームするんじゃなかったの」 「あ……」 途端に繁は、教室でのいつもの顔になった。気まずそうに、夏休みの練習計画を書き始めていたノートをチラッと見る。 「なら、やっぱ明日ミーティング開いて、みんなで決めようぜ。夏休みのことだし、もう予定とか入ってるやつもいんじゃねえの」 だよな。自分で言って納得した。試合組んどいて、その日出られるやつ少なかったら、マジ、ヤバイし。 「けど」 「て言うか、俺はヒマでも、今日はおまえが用あったんだろ」 「そうだよ、なんで忘れてんだよ、繁」 繁には、俺の突っ込みよりも靖男の一言のほうが効くようだ。 「忘れるくらいなら、もう、ゲームさせてやらない」 言われて繁はしゅんとなる。どこの小学生だよ、とか思っちゃいけない。このふたりには普通の会話だ。 「俺が原案立てといてやるよ。今日は、もうそれでいいだろ?」 先週、食堂で繁が靖男に拝み込んでいた、あのゲームの約束なんだろう。あそこまでして靖男にうんと言わせたなら、普通は忘れないと思うけど。やっぱそこは繁だから、剣道の前ではゲームも霞むってことか。 「忘れてたペナルティー。『アンナ』に寄って、ケーキ五個ね」 靖男はさっそく偉そうに繁に言う。 「なんで五個なんだよ」 「決まってんじゃん、僕が三個、繁は二個」 「きったねえ」 おまえら、デカくて激甘い、アメリカン・ケーキを二個も三個も食うのかよ――という突っ込みは、あえてしなかった。 「繁、俺にもおごれ。ポカリ二本でいいや」 「ふざけんな。おまえは副将だろ」 俺にノートを突き出して仏頂面で答えた。 ……ったく。俺はこき使っても、靖男にはケーキですか、そうですか。 「おまえら、仲いいよなー」 マジに思って、そう言った。 「なんで!」 「え?」 「なんで、そう思うの」 「なんでって……」 靖男に食いつかれて、鞄にノート入れてた手が止まっちゃったよ。 「ヘンなこと言うなよな、琢己!」 「べつに、ヘンってことは……」 「だってこいつ、なかなかオッケーしないし」 繁がため息混じりの声を出した。 「マジに仲いいなら、靖男はもっとやさしくてもいいと思うぞオレは」 「繁、ゲームやめる? それともケーキ七個にしたいわけ?」 「……な?」 情けない目で俺に訴えても、繁は席を立って靖男と教室を出ていく。おざなりに俺に振り向いて、練習計画ヨロシク、なんて言い残したけど、顔はもう緩んでいた。 「なんだかなあ……」 こうなっちゃうと、なんで俺が繁のノート持ち帰ってまで、家で夏休みの練習計画立てなきゃなんないのか、わかんね。考えてみたら俺、ヒマって言ったのに、誘われてもないじゃん。ゲームもケーキも特別好きってわけじゃないから、どっちにしたって行かないけどさ――。 下駄箱を出たら、遠く校門のところに繁と靖男がいるのが見えた。これだけ離れていても見ればわかる、デコボコのふたりだ。 立ち止まって何か話してる。まだもめてるなら笑える。けど、すぐに歩き出した。遠目にも頑丈そうな繁と、繁と並ぶと華奢に見える靖男と――。 「う」 何がどうしたのか、うっかり紺野の半べそ顔を思い出してしまった。涙を溜めた目と、左目尻の小さな泣きボクロ――。 また、胸が痛む。もう『お世話係』も何もないけど、紺野とは席が隣だから、あれからも普通には話すし、昼もずっと一緒だけど、あのときのことに触れるような会話は一切なかった。ある意味――当然だ。 一週間ちょっとで、紺野はすっかりクラスに溶け込んだ。最初は、高校の転入生ってことで珍しがられてただけのようだけど、今は、自然にいい感じになっていると思う。 一緒に帰ろうぜとか、部活はどうすんだとか、そんなセリフも俺の隣から聞こえるようになっていた。繁もその中にいたのを知ったのは先週の終わりで、放課後の部活が終わって、ふたりで部室にいたときだ。 『一応、誘ってみたんだけど、やっぱ紺野、入らないって』 『は? おまえ、わざわざ訊いたのかよ?』 繁の剣道部にかける情熱はスバラシイと思うけど、たとえ部員を増やすためでも紺野を勧誘したと言うのには、ちょっと呆れた。 『経験者なら、誘われる前に入部してるだろ』 逆を言えば、二年で入部するような未経験者はいないってことだ。 『だとしても、紺野って姿勢いいし、意外といい体してるし、向いてると思ったんだ』 『いい体って……おまえ、なに見てんだよ』 こんな話、紺野が一緒のときに出てこなくてよかったと、マジに思った。いい体してるとか何だとか、聞かせられないじゃん、紺野が相手なら、特に――。 『今、体育、水泳だろ? お、って思ったんだ。あれだけ食うから、細く見えてもブヨッてるかと思ってたのに、逆。引き締まってんの。あれは絶対、何かやってる』 『って、おまえ……やっぱ見てんじゃん――』 『欲しいと思ったんだ。あれでスジがいいなら、今から仕込んでもモノになりそうだし、紺野、美少年だから袴とかハマると思わね?』 『バカか? 面つけたら、顔なんて見えねえだろ』 『けど、待ちのときとか! 目、引くぞ絶対』 それは意味が違うだろ、と的外れに興奮する繁に言いたかったけど、呆れて言えなかった。待ちのときでも視線を集めて、竹刀を合わせる前から相手を威圧できるのは、うちの部じゃ繁くらいだ。 紺野が注目されるとするなら、待ちのときではなく、竹刀を合わせる直前だろう。繁は口ではズレたこと言うけど、こと剣道に関して目に狂いはない。俺も、紺野は本当に姿勢がいいと思うし、剣道に向いていると繁が言うなら、そんな気にもなる。 見られるものなら、見てみたい。真っ白な剣道着と剣道袴に正藍染の垂をつけて、飴色に光る道場に、凛と立つ紺野――。 「バカは俺か」 自転車置き場に来て、ため息が出た。紺野は剣道部に入る気はないと、既に、ハッキリ答えているんだ。 けど、一緒に部活するまでもなく、もう少し何か――誰とでも話すような、ありきたりな会話のほかに――紺野と話せたらいいのに。 そんなふうに思うなんて、繁と靖男を見てガキくさいとか笑えないよな。もしも紺野に一緒にゲームしようと誘われるなら、俺……たぶん行くし。部活がなかったら。 ――もしかして、『そこ』か? 俺には毎日、放課後に部活があって、けど、紺野は今のところ帰宅部で――。 だとしても……何を話せばいいのか――今は普通に話せてるから、紺野に嫌われたわけじゃないのはわかるけど、なんつーか……俺には表情硬いんだよな、紺野――。 ふと、窓の向こうに紺野が見えてビビッた。今度は事務室じゃない、その手前、生徒会室だ。一緒にいるのは……麻生。 窓に寄せた大きな机にはプリントの山が並んでいて、それを麻生が右から一枚ずつ取ったのを紺野に渡し、紺野は渡された束を揃えると、ホチキスで留めて重ねて置いていく。 紺野が生徒会の仕事を手伝っているのは、見ればわかるけど――窓に向かって立っているのは紺野と麻生のふたりだけで、手を動かしながらも楽しそうに話しているのが外にいる俺には丸見えで、それがなんだか――同じ室内にいるやつらに隠れてそうしているようで――嫌な気分になった。 紺野は俺に気づかない。麻生もそうだ。 梅雨明け間近の眩しい陽射しが、生徒会室の中まで明るく照らしている。紺野が動くたびに髪が揺れて光る。紺野より背の高い麻生は、紺野に顔を傾けて笑っている。 はにかんだような笑みに緩む紺野の唇――白い歯が少し覗く。麻生にパッと顔を上げて、ちゃんと麻生を見て、何か言って満面の笑みになる。 思わず、目をそらした。覗き見をしているような後ろめたさと、これ以上ふたりを見ていたくない気持ちが混ざり合って、嫌な気分が胸いっぱいに広がった。 麻生は、いつだって誰にだって、あんな笑顔を見せるけど、紺野のあんな笑顔を見たのは、初めてだ。 自転車を押して校門を出て――校庭で乗ってはいけない規則が、今までにないほどウザく感じられた。 理由なんて、わからない。通りに出てサドルに跨って、力いっぱいペダルを踏んだ。夏の風を顔に受ける。熱くなっていた頭が冷めるようで、その心地よさだけを感じ取ろうとした。 「どうしたんだよ琢己。俺、何かしたか?」 俺が睨んでいるもんだから、麻生は困った顔で言う。 昼休みの食堂、一緒にテーブルにいるのはいつもの顔ぶれだ。俺の前は麻生で、その隣に紺野、繁と靖男は俺に並んで座っている。 「麻生ってさ……マジ、イケてるよな」 「はあっ?」 ポツリとこぼしたら、麻生だけでなく、繁と靖男まで裏返った声を出した。紺野だけは何も言わずに、目を丸くして俺を見る。 「熱、あるとか?」 「ヘンなもん食ったとか?」 靖男と繁が声をかぶらせたけどスルーだ。こういうときに息が合うんだから、やっぱ、おまえら仲いいよ。 「なんとなく……カノジョいるのかなって。そういう話、麻生から聞かないから」 俺に言われて困った顔で曖昧に笑っても、やっぱ麻生は、絵に描いたような爽やか好青年だと思う。 クラス委員に生徒会で部活とは縁がなく、たぶん外でスポーツやってるなんてこともないはずなのに、麻生は俺と変わらないくらい身長も肩幅もある。体重は、なさそうだけど。 髪は優等生にありがちな、すっきりとしたスタイルで、色は当然変えていない。顔は顎が細くて少し尖った輪郭だけど、目がやさしいから印象はソフトだ。 メタルフレームのメガネをかけていて、鼻はすっと高く、口は大きめだけど唇は薄くて――理知的で、大人の雰囲気がある。 「それ言うなら、琢己からも聞かないな」 俺がじっと見つめるのをそらさずに、余裕で返してきた。 「いないよ。つか、いるわけねえじゃん。誰かのせいで、土日も剣道だし」 投げやりに答えれば、繁がすかさず突っ込んできた。 「オレのせいかよ。なら、時間あれば、速攻カノジョできるって?」 「速攻はどうかな、琢己ってば鈍感だから」 「靖男。今の地雷」 鈍感と言われると、嫌なこと思い出すから胸に痛いんだよ。 「んじゃ、訂正。黙ってれば、琢己はかなりイケると思う」 「……変わんないじゃん」 「なんで」 「鈍感で余計なこと言うから黙ってろ、ってことだろ?」 それが余計なことだってのに、自分で言って自分の傷をえぐる俺って、バカ……。 「なんだ、わかってんだ。て言うか、琢己はすぐ突っ込むからなー。女子って、そういうのダメでしょ」 「だよな……って、麻生の話が、なんで俺の話になってんだよ」 「麻生にかわされたからじゃん」 靖男は俺のココロの叫びをあっさり足蹴にしてくれて、代わりに繁が口を出してくる。 「で、麻生はどうなん?」 「え? やっぱ、俺?」 こっそり会話から逃げて食事に戻っていた顔を上げた。 「麻生は、いるでしょ。じゃなかったら、繁に望みはない」 「ちょ、靖男。余計なこと言うの、おまえもだぞ」 「いつものことじゃん、気にしない」 ムッとする繁に靖男はけろっと返した。麻生は苦笑いで言う。 「俺にカノジョいるかどうかなんて、誰にも関係ないと思うけどな」 「わかってないな、麻生。麻生でもカノジョいないんじゃ、繁なんて絶望的――イテッ」 「琢己じゃなくて、おまえが黙れよ」 「頭、ぶたなくたって、いいじゃん!」 「悪かったよ、ほれ」 繁は、ゲンコツ食らわした靖男の頭をぐりぐり撫でる。 「で、いるんでしょ?」 それでも懲りずに、靖男は上目づかいに麻生に訊いた。 「まいっちゃうな……」 麻生は呆れた顔になって口を開く。 「いるよ」 「やっぱね!」 「いつから? どうやって知り合ったの?」 繁が身を乗り出してきた。 「中学のときの同級生だよ」 「え? ずっとつきあってんの?」 「……まあね」 繁が生唾飲み込んだ音は……もしかしたら、ここにいる全員に聞こえたかもしれない。 「じゃ……もう、しちゃった?」 「うわ、直球〜」 靖男がふざけた声を出しても繁は無視だ。 「答えろよ、麻生」 「えー……」 ちょ、麻生――。どうしたんだよ、らしくもない。ここは、サクッと否定するとこだろ。 俺は、そっと目を移す。紺野を見た。麻生の隣で、ひとり黙々と食べ続けて、もう食べ終わりそうだ。今日も購買のパンで――て言うか、一学期が終わるまで紺野に給食はないんだけど……じゃなくて。 少しうつむいてるんじゃ、どんな顔してるのかわからない――。 「まだだよ」 「あ、『まだ』って言った」 ボソッと返した麻生に靖男が突っ込んだ。麻生は急に真顔になる。靖男、アホだ……。 「真剣につきあっていればいつかはそうなる、って意味で、『まだ』って言ったんだけど」 メガネを中指で押し上げ、麻生は冷ややかに俺たちを眺める。 「もっとも、興味が先走って、気持ちがないのに、そういうことするやつもいるかもしれないけど……俺は、そういうのは嫌いだから」 靖男も繁も神妙になってしまうのは当然で、よりによって麻生に正論言わせちゃってるんだから……。 「そういうことは……互いに、それだけ気持ちが高まってからじゃないと――無理なんじゃないかな」 「そうかな」 「え……」 ずっと黙っていた紺野が言ったもんだから、俺も繁も靖男もビックリした。 「お互いに、って言うのはあると思うけど、ぼくだったら、先に相手から求められるのでも、うれしいと思う」 麻生は目を見張って紺野を見る。 「自然に時期が熟すのを待つのもありだと思うけど、そうなっても、なかなか踏み出せなかったりすると思うんだ。そんなとき、相手から先に気持ち示されて強く求められるなら、やっぱ……うれしいじゃん」 紺野の声が消えて、しーんとなった。紺野はハッとして、照れくさそうに顔を伏せる。わずかに見える頬は――真っ赤だ。 「紺野って……」 靖男がつぶやいた。 「情熱的なんだな」 危うく吹き出すところだった。否定する気はないけど、『情熱的』って、声に出して言われちゃうと、なんだか――。 「て言うか、そうなると、相手の女のほうが、紺野よりずっと情熱的ってことだよな……」 繁まで――。つか、今のドリーム入ってるだろ、おまえ。 「もしかして紺野、前の高校で――」 繁は期待いっぱいの目を紺野に向ける。それに苦笑して麻生が言う。 「そうじゃなくて、紺野は、そんな恋がしたい、って言っただけだろう?」 「ぶっ」 今度はマジに吹いちまった。麻生が真剣な顔で、『そんな恋』とか言うから……。 「おい、琢己」 繁が小突いてくる。ムッとして俺に言う。 「吹いてんじゃねえよ。ちゃんと聞いてろ」 「へ?」 「おまえ、俺らの中じゃ麻生の次にイケてるのに、その気ないって、どうよ?」 「……は?」 「他人事みたいな顔、してんじゃねえっての」 「琢己にがんばってもらわないと、繁が困るんだよね?」 「なんでー」 思いきり不機嫌な声を上げたら、靖男に睨まれた。 「繁は琢己の紹介でゲットだから」 「なんだそら」 「靖男もだろ?」 繁に意地悪く言われ、靖男はそっぽを向く。 「僕はいいよ」 「なに拗ねてんだよ」 「カノジョ欲しいなんて思わないから」 意外だった。靖男がそんなふうに言うなんて。教室でエロ話が盛り上がると、繁と一緒になって入っていくのに――。 「紹介なら、琢己にカノジョができるの待つより、 「あ、そうか。いいこと言うな、紺野」 紺野の声に、繁はすぐにそう返したけど、俺は……固まってしまった。 『史明』って、誰だよ――麻生だと気づくまで、一瞬の間があいた。 「麻生。もうすぐ夏休みだし、合コン。ぜひ、お願いします」 なぜか繁の声が、遠くから聞こえるように感じる。 「ほら、琢己も頼んで」 「え? ……あ、ああ」 俺は、麻生の顔をぼんやりと見てしまう。 「合コンは……どうだろう」 麻生が答える。繁が言う。 「そんなこと言わないで」 「いや、マジで。向こうの高校は共学だし、どうかな、って……」 「そこをなんとか」 「繁、オヤジくさい」 いつも靖男にするみたいに麻生を拝む繁に、靖男が冷たく言うのだけど、それも遠くから聞こえるみたいで――。 「麻生、合コンなんか無理にしなくていいよ。繁メンクイだから骨折るだけ損になる」 「靖男、おまえマジ黙ってろよ」 「麻生」 口をついて出てきた自分の声も、なんだか遠くから聞こえるようだった。 「おまえ、紺野のこと……『歩夢』って呼ぶ?」 「え?」 軽く裏返った声を出してから、麻生は――俺をまっすぐに見つめた。絵に描いたような爽やか好青年が、ニッコリと俺に言う。 「そうだよ。知らなかった?」 ショックだ。なんか知らないけど、とにかくショックだ。 「信じらんねえ……今、カノジョいるって、言ったばっかなのに……」 「なに寝言つぶやいてんだよ琢己。そんなの、カンケーねえだろ」 バカ言ってないでおまえも麻生に頼めよ、靖男が口挟んでくるじゃねぇか、とか何だとか……繁の声は、もう聞いちゃいなかった。 俺は、もう一度、紺野を見る。目が合って――プイとそらされた。 どうしてだよ……。 「ふぬけ〜」 放課後の道場で繁にドヤされる。 「ぜんっぜん、集中できてねーじゃん!」 「ごめん……」 うずくまる俺と、俺を呆れて見下ろす繁の周りでは、竹刀の打ち合う音や、素足が床を擦る音が響いている。威勢のいい声、気合に満ちた空気――。 「おまえ、今日はもう、帰れ。こんなんじゃ示しがつかないし、ほかのやつらまでダレる」 「繁……」 思わずつぶやいたら、繁はすっと顔を背けて吐き捨てた。 「ったく。道場では、『主将』だろ!」 面の中から冷たい目線を流してきて、俺にひたりと据え、きっぱり言う。 「一晩頭冷やして、気合入れ直して来い」 「――はい」 それでも大きな声は出てこなくて、短く答えただけで立ち上がった。地稽古で繁の『面』を受け、頭がまだフラフラする。隙のない、上段の構えからの一撃は、一瞬の覚悟すら許さなかった。 夏の遅い夕暮れに校舎が染まり、オレンジ色に見える。俺はうつむいて自転車を押して、生徒会室の前を過ぎた。校門を出るまで顔を上げられなかった。ずっしりと重い気持ちで胸が塞がれていて、その理由がわからなくて――苦しいだけだった。 夕風を切ってペダルを踏んでも、俺の頭から紺野が吹き飛ばされることはなかった。 自分がわからない。どうして、こんなにも胸が塞がれるのか。いっそ、泣いてしまえば軽くなるように思えるのは、なぜなのか――。 『史明』 『歩夢』 あの日、放課後の生徒会室にいたふたりは、そんなふうに呼び合って笑顔を交わしていたのだろう。エアコンがついてたから窓は締め切られていて、外にいる俺には何も聞こえなかったけど、きっと……そうに違いない。 あのときの紺野の笑顔――思い出すと胸が痛む。誰が誰と仲よくしようと、名前で呼び合おうと、そんなことがこんなにも俺に重要に思えてしまうなんて、ありえないよ。 繁とは入学当初から剣道部で一緒だけど、去年はクラスが違った。靖男は一年のとき繁と同じクラスだったから、それでつるむようになった。麻生とは一年のときも同じクラスだったけど、こんなに話すようになったのは二年の今年になってからだ。 四人でつるんでいても、それぞれ好きなように呼び合って、たとえば繁が部活では見せない顔を靖男に向けても、それは意外でおもしろいだけで特に何も感じなかったのに、そこに紺野が入ってきて、麻生を『史明』と呼び、麻生も紺野を『歩夢』と呼ぶのを知ったら、どうして心が乱れるのか……わからない。 麻生――知っているのに。 知っているのに、なんで紺野にあんなふうにできるんだよ。カノジョがいるのに、そのことを紺野の前で堂々と言って、紺野に笑顔を向けて、紺野のあんな笑顔を受けて。 紺野が『そんな恋』をしたい相手は、女子じゃなくて男なんだって、わかっているのに。 転入初日、紺野が俺の隣の席に来る途中、麻生を見て足を止めた理由も、席に着いても照れまくりで頬を染めてた理由も、今なら、容易に察しがつく。 一目惚れ、なんて……俺には経験ないけど。でも、そういうこともあるってことくらい、俺にだってわかる。 だから……紺野があの笑顔の陰で、どんな気持ちでいるかを思うと、つらくなる。 残酷なんじゃねえの? 麻生――。 『そうだよ。知らなかった?』 昼に見た麻生の顔が思い浮かぶ。いつもの穏やかな笑顔で、爽やか好青年まんまの笑顔で、俺に、そう言った。 琢己、知らなかったんだ。少しも気づかなかった? 俺は紺野を『歩夢』って呼んでいるよ――。 どうしてか、悔しい。あのときの麻生は、勝ち誇っていたようにも思える――。 紺野、それでいいのかよ。麻生、わかってるんじゃないのか? 紺野は麻生に惚れてるらしい、って。そうだよな、鈍感と言われる俺でも気づけたんだから――。 けど……なんで俺、あのあと、また紺野にそっぽ向かれたんだ? ほっとけ、ってことか? だったら、なんで紺野のこと、こんなに気にしてんだよ? もー、わけわかんねえ。 俺の自転車はスピードを上げる。夕暮れ時の渋滞で、のろのろ進む車の列を横目に駅に向かっていく。荷台に積んだ剣道具が鈍い音を立てた。駅向こうの俺の家には、駅前ロータリーを左に折れて、地下通路を抜けるのが近道だ。 仕事帰りや買い物に出ている人の群れの中、制服姿が目につく。駅から歩いてきた女子や、駅へ向かう、うちの高校のやつらも目について――ハッとした。 あそこにいるの、紺野と麻生――。 けたたましい音を上げて俺の自転車が止まる。後ろから来ていた自転車のオバチャンに怒られた。 気がついて、紺野も麻生も目を向けてくる。俺と目が合って――間があいた。 麻生がいつもの顔に戻って紺野に何か言う。軽く手を振ると、目の前の本屋に入っていった。紺野は俺に目を戻してきて、戸惑った顔を見せる。俺のところまで来ようか、どうしようか――迷っているのが丸わかりだ。 「ち……くしょうっ」 思わず漏れた自分の声に驚いた。 「紺野の、バカ!」 紺野が目を丸くするのが見えたけど、すぐにペダルを踏み込んだ。ロータリーに出て左に折れて地下道を抜ける。めまぐるしく景色が変わり、俺の家はもうすぐの川沿いの道に出た。 「ハ、ァ」 土手に自転車を転がして、俺も草むらに転がる。川向こうに、のんびり沈んでいく太陽が目に映った。 紺野……今日も麻生と一緒だった。麻生にはカノジョがいるって昼に聞かされたのに。それとも、紺野は前から知ってた――? だとしたって。いや、だとしたら、なおさらだ。なんで今日も麻生と帰りが一緒なんだよ。生徒会室の中をあえて見ようとしなかった俺は、いったい何だったんだよ。 気になって仕方ないなら訊けばいい。けど、誰に? 紺野に? 麻生が好きなんだろう、って? 訊けるわけないじゃん。その次に、なんて言えばいいんだよ。麻生にはカノジョがいて残念だったな、とか? 冗談じゃないっての。紺野はもう、自分が女よりも男に惚れることを誰にも言ってないんだし。そのことに俺から触れていくのは、絶対にできない。 なら……麻生か。 あいつ、今も余裕だった。俺に気づいて目を向けたけど、すぐに紺野に何か言って、何事もなかったように本屋に入っていった。 気に入らねえ。そう思うと、余計に気に入らなくなってくる。マジにムカつく。 カノジョがいるのも、それを紺野の前で言ったのも、そのことで俺が突っ込んでも余裕でかわしやがったのも。 なに考えてんだよ。人の気持ちをどう思ってんだよ、紺野をどうするつもりなんだよ! 「ちっくしょー、バッカヤローッ!」 跳ね起きた勢いで叫んだけど、少しもスッキリしなかった。 本当は、わかってるんだ。どれもこれも俺の憶測で、たとえ事実だとしても、俺には口を挟むことすらできないって――。 わかっていても、気になってならない。麻生にはあんな笑顔を見せるのに、俺とは目を合わせて笑ってもくれない紺野が――。 転入初日の、あんなことさえなかったら。今ごろ俺は、すっかり紺野と仲よくなっていたんだろうか。けど、あのことがなかったら、紺野が本当はどんなことを思っているのか、ずっと知らないままだったかもしれない。 どっちがよかったかなんて、わからない。わかるのは、自分をどうなだめたって紺野が気になってならないってことで……この気持ちは重く苦しいだけで、やたらせつなく俺の胸を塞ぐってことだ。 いっそ、泣けてしまえばいいのに。そうしたら、きっと少しは、軽くなるのに。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:KOBEYA