Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

     
     

    「夏の風」
    −1−

     

         真っ青な夏空に太陽がきらめく。緑豊かな山を背にしたテニスコートに、高原の風がさわやかに渡っていく。
         しかしコートにいる渡部は汗だくだ。疲れはそろそろ脚にきているようで、ラケットを構えても腰の位置が低くならない。肩でせわしなく息を継いでいるのが、ネットのこちら側にいる瀬戸にもよくわかる。
         そんな渡部を見て、瀬戸はニンマリと笑う。一緒にコートにいる矢田が隣で顔をひきつらせても、少しも気にしない。
         ネット脇に置かれたラジカセからは、大音量で渡部のテーマソングが流れている。夏合宿恒例の二対一での「振り回し」――振り回される本人が選んだ曲が三回終わるまで、それは続けられるのだ。
        「もっと短い曲選べばよかったって? ――ヘイ、ユー!」
         生まれ変わっていかなければねえ――ラジカセから流れてくる、この夏一番耳にした曲を口ずさみながら、瀬戸はボールを出す。
        「おらおら、走れ渡部!」
         コートの隅を狙ったのは、もちろん、わざとだ。きついスピンのかかったボールは高く跳ね上がり、渡部はもつれそうな足でコートの外まで追っていく。
        「瀬戸さん、オニ」
         ボソッと矢田に言われても、瀬戸は笑顔だ。
        「ぼやっとすんな、矢田! そっち行くぞ!」
         渡部がやっとの思いで返したボールは、難なく矢田に拾われてしまう。
        「渡部先輩、がんばって!」
         女子部員の声が上がった。部長の渡部の振り回しとあって、部員の誰もがコートを取り囲んでいる。
        「行け、渡部!」
         声援に熱が入る。渡部にも熱が入る。サークル内での実力ナンバーワンの意地にかけてか、元ナンバーワンの瀬戸に食らいつくようにボールを返してくる。
        「おっと、まだまだって?」
         瀬戸の口元から笑みは消えない。いくら渾身の一打でも、疲れがピークに差しかかっている渡部のボールなど、余裕で返せる。
         瀬戸はスマッシュの構えを取った。渡部の全身に緊張がみなぎるのを目の端に捉える。
        「ほらよ!」
         だが、スマッシュの構えは見せかけで、瀬戸の打ったボールはネットを越えた際にポトンと落ちた。
        「きったねえ〜!」
         ギャラリーからブーイングが湧く。不意を突かれた渡部は、前に駆け出した勢いで無様に転んでしまった。
        「うっせえな! テニスは駆け引きだろ!」
         ギャラリーに振り向き、瀬戸は叫ぶ。
        「おまえら、みんな甘いぞ!」
         ビシッと差し出したラケットの先に、しかし、見たくない顔を見つけてしまった。
         本間――?
         どうしてここに本間がいるんだと思ったのも束の間、そのふたり隣に、もうひとり、見たくなかった顔を見つける。
         ――鮎川先輩!
        「せ、瀬戸さん?」
         矢田のうろたえた声は背中で聞いた。瀬戸は、ずかずかとコートを出て行く。
        「瀬戸さん!」
         渡部の呼ぶ声も聞こえた。ラジカセから流れる曲は、まだ終わっていない。
        「終わりだ、終わり!」
         なのに、振り向きもしないで瀬戸はイライラと声を上げた。
        「もう走れないだろ、渡部!」
        「やれますよ!」
         即座に返され、ムッとして足を止める。
        「んじゃ……おまえ、代われ」
        「俺ですか?」
         目の前にいた市村をラケットで突付いた。
        「市村、入れよ!」
         矢田の声に、戸惑いながらも市村がコートに入っていく。
        「瀬戸さん! 午後は試合で勝負です!」
         渡部が言い放った声に、瀬戸は背を見せたまま、ひらひらと手を振って答えた。


        「なあにぃ、さっきの態度」
         テーブルの向こうから、由佳が呆れた声を出した。タバコを取り出す指の爪は長く整えられ、エメラルドグリーンにマニキュアされている。長い髪をかき上げ、火をつけた。
        「あれじゃ渡部くん、カッコつかないじゃない。部長なのに」
         チラッと流し見られて瀬戸は目をそらす。
        「子どもっぽいところ、まだ直ってないのね」
        「いつ来たんだよ。つか、何しに来たんだよ」
         瀬戸はふてくされたように脚を組み直し、窓を向いてテーブルに肘をついた。
        「あんたと同じよ。就職決まってヒマだから来たの。着いたのは、さっき。渡部くんの振り回しが始まって、すぐかな。て言うか、久しぶりに会うモトカノに、そんな言い方しないでよね」
         お盆を過ぎたこの時期、ホテルの別館は団体客専用になっている。正午前なのもあって、ふたりのほかにラウンジに人影はない。足元まである大きな窓に沿って丸いテーブルが並び、ふたりはそのひとつにいる。
        「なんで、いきなり拗ねたの――さっき」
        「もうつきあってないのに、まだ俺に説教?」
         ムッとして、瀬戸はテニスコートを見下ろしたまま答えた。何面も連なる中、ひとつだけ人だかりができている。振り回しは、まだ続いているようだ。
        「説教なんかしないわよ。渡部くんが気の毒なだけ。ホント……あんた、手がかかる――」
         チラッと目を向ければ、由佳は横顔で、ふうっとタバコの煙を吐いた。
         キャミソールスタイルのカットソーは、由佳の締まった肩と腕を露出させている。テニスで鍛えられた体と、おおらかな性格から、サークル内では引退した今も『由佳さま』と慕われているのを瀬戸は思った。
        「私と別れてからカノジョいないんでしょ? あんたみたいなオトコ、よっぽど年上か、かなりデキたコじゃないと、ムリよね」
         暗に、私でも手に負えなかった、と言われたように感じてしまう。
        「俺のことなんか、どうでもいいだろ」
         こんなことで苛立つ自分が、瀬戸は不甲斐ない。
        「あら。少しは気になるわよ。いきなり、おまえとはもうつきあえないって言われて、私たち別れたんだもの。私のほかに好きな人ができたんだって、あのときはそれなりに傷ついたわよ。なのに、そうじゃなかったなんて――あんたは、モトカノが気にならないの?」
        「タバコ吸う女も、カレシをあんたって呼ぶ女も、俺は嫌いだ」
         口を尖らせて言った瀬戸に、由佳は明るく笑う。
        「今の、軽くセクハラ。私が女じゃなければいいってこと? けど、心配しなくても大丈夫よ。今のカレは私がタバコ吸っても何も言わないし、私もカレのこと、あんたなんて呼んでないから」
         瀬戸は、思わず由佳と目を合わせた。
        「年上で、オトナなの。カレのこと、あんたなんて呼べないわよ。つきあう相手から甘えられるのは快感だったけど、自分が甘えられるのはもっと快感よね。あんたと別れて、私、シアワセ」
         ニッコリとした笑顔を見せられてしまう。
        「私はどんどん先に行っちゃうからね。あんたもオトナになるか、それとも、私より甘えられる相手を見つけることね」
        「余計なお世話だ」
        「子ども」
         エントランスがざわついた。ふと目を向けた瀬戸の視界に、テニスウェアに身を包んだ集団が入る。そこに本間を見つけ、瀬戸は眉をひそめた。
        「あら、『フェア・ウィン』じゃない。合宿、今年も一緒だったの? あ……美玖!」
         由佳は慌てたように立ち上がるとタバコをもみ消す。そうしながら、集団の中のひとりに向かって、大きく手を振った。
        「じゃ、またあとでね、春樹」
         呼び止めた美玖に駆け寄り、大袈裟に手を取り合う。やだあ、いつ来たの、さっき、などと言い合うふたりの会話が、瀬戸にも聞こえてくる。
         由佳から目を戻そうとして、瀬戸はビクッとした。エレベーターに向かう集団から残って、本間が足を止めてこちらを見ている。ピタリと視線が合った。
         ――こっちに来る?
         しかし、すらりとした長身は動かない。真っ黒な長めの前髪の陰から、瀬戸をじっと見つめるだけだ。ダボッとした白いTシャツに、ジーンズという服装で――ほどよく日焼けした肌が、瀬戸にはまぶしく感じられる。
         なんだよ……。
         嫌な記憶が脳裏をよぎった。去年と同じだ。あのときも、本間は、今のように瀬戸を見つめた。
         くっそう。
         目をそらしてしまいたいのに、そらせない。本間もそらそうとしない。瀬戸の鼓動は速まる。息苦しさに耐えられなくなる。
         そこに、テニスウェア姿の女子が遅れてやってきた。本間は、弾かれたように彼女に顔を向ける。本間に何か話しながら、彼女が恥じらうようにしているのが遠目にもわかる。
         瀬戸には、初めて見る顔だ。『フェア・ウィン』の、今年の新入部員なのだろう。
         引退しても、モテてるって――?
        『ちょっと冷たそうなところがいいのよ』
         以前、本間のことを由佳がそんなふうに言ったのが思い出された。
         けど、本間のカノジョの話なんて、聞いたことない……。
        『男っぽくて――あんたとは正反対ね』
         ついでのように、そう言われたのまで思い出してしまった。
         俺とは正反対、か――。
         瀬戸は、ぷいと目をそらす。コートを見下ろせば、振り回しは終わったようだ。後片付けをする何人かを残して、コートを囲むフェンスの外に部員たちがぞろぞろと出てくる。
         ……来るんじゃなかったかな。
         夏合宿最終日を明日に控えた今、来ている四年生は瀬戸のほかに由佳だけだ。引退しても夏合宿に顔を出すのは、よほどサークルに熱を入れていた者か、よほど暇を持て余している者くらいだ。
         佐々木も来なかったんだし。
         ここに来るのに佐々木の車をあてにしていたのもあるが、それよりも、バイトの都合で急に来られなくなったと聞かされて、瀬戸はがっかりしていた。
         部長を務めた佐々木とは、三年間、共にテニスに熱を上げた。大学生活をどう送るかは人それぞれでも、瀬戸と佐々木は、一年生のときからサークルがすべてだった。
         瀬戸は、由佳ともサークルで知り合って、一年ほどつきあった。別れたのは、去年の夏合宿のあとだ。それからも、友人として普通に接している。だが――当事者の由佳にも明かせない、別れのきっかけになった自身の内面の変化を思うと――気がふさがれてしまう。
         鮎川先輩……。
         まさか今年も夏合宿に来るとは、まったく思っていなかった。一学年上の鮎川は、今はもうOBだ。だが、もうすぐ他の部員たちと一緒にこのラウンジに現れるはずだ。コートを取り囲むギャラリーにいたのだから。
         やっぱ、来るんじゃなかった。
         引退した四年生だろうと、OBだろうと、OGだろうと、夏合宿は来る者拒まずで、例年は盛り上がって楽しかった。
         なんで今年も、本間と鮎川先輩と一緒になっちゃったんだよ――。
         ため息が出る。
         鮎川先輩はしょうがないけど、『フェア・ウィン』と、また一緒なんて――。
         去年は、企画してそうなった。本間のいる『フェア・ウィン』と、瀬戸のいる『スプラッシュ』は、学内のテニスサークル同士で、瀬戸たちの学年の仲がとりわけよかった。
         いつからか、練習試合を毎月するようになっていたし、去年、夏合宿を一緒にしようと言い出したのも、どちらのサークルが先かわからないほどだ。
         今年は違うと思ってたのに……渡部のヤツ、なんか勘違いしたか?
         それとも、前部長の佐々木と現部長の渡部とのあいだで、合同の夏合宿を恒例とする取り決めでもあったのだろうか。だとしても、『フェア・ウィン』の同意がなければ合同の合宿はありえないわけで――。
         来る前に、ちゃんと聞くんだった……。
         また、ため息が出た。
         ふと、窓ガラスに映る自分の姿に目が止まる。由佳に、本間とは正反対と言われるような容姿に、さらにため息が出る。
         髪は生まれながらに茶色っぽく、くせが強くて、少し伸びただけで毛先がカールする。それをごまかすために今はシャギーを入れているが、母親似の顔が、なおさら女っぽくなっているように感じる。一度、中学生のときに丸坊主にしてみたのだが、同級生の笑いを取って終わった。
         瞳は、自分でも思うほど大きいが、目尻が切れ上がっているのが救いだ。それで、眉もきつめの印象に整えたことがあるのだが、かえって逆効果だった。
        『やだ、猫みたいでカワイイ』
         由佳に言われた。以来、眉をいじるのはやめている。
         鼻も口も小さめだ。幼さを残す小顔と言われるなら、頷くしかないように思えてくる。
        『性格は荒くれなのにね』
         由佳には、そんなふうにも言われた。
        『そこが、好き』――。
         瀬戸は、窓ガラスから目をそらす。
         俺……なんで、由佳と別れちゃったんだろう――。
         思いかけ、ズキッと胸が痛んだ。見たくない自身の内面に、目が向いていく。嫌でも、去年のできごとが思い出されてくる。
        『俺を女扱いすんな!』
         このラウンジに響いた、自分の声――。
        『俺は、男だ!』
         吐き捨てても、わななく唇に生々しい感触が残っていた。目の前には、打たれた頬を手で押さえる鮎川の横顔があった。
         深夜で、照明は既に落とされていた。暗がりの隅に、自動販売機だけが明るかった。
         そこに、本間がいた。
         合宿最終日の前夜で、どちらのサークルの部員たちも、それぞれどこかの部屋でまだ騒いでいるはずだった。
         あのとき――ラウンジに先に下りていたのは、瀬戸だ。酔って、喉がやたら渇いて、何か買うつもりで自動販売機の前にいた。そこに鮎川が現れて、ふたりで冷えた缶を手にすると、流れで窓際のテーブルに着いた。
         何を話したのか、詳細は覚えていない。覚えているのは、鮎川がひどく酔っていたことで――どこかで、鮎川が言ったのだ。
        『地元採用だから、卒業したら名古屋に帰る』
         それで、二年間つきあった年下の彼女に振られてしまった。遠距離恋愛なんてできない、と言われて――。
         それが、どうして、キスされる羽目になったのか。
         瀬戸は鮎川の頬を平手で打ち、怒鳴り捨て、エレベーターに向かった。そのときになって本間を見つけ、足がすくんだ。
         いつからいた……?
         見られたか――何を。何を見られていたら、気まずいのか――瀬戸は動揺を強気で隠し、本間の横を過ぎようとした。
        『女扱いしなければ、いいのか?』
         はっきり聞こえたのだ。本間の、低く静かでいて、熱のこもった声が。
         思わず、足を止めそうになった。だが、瀬戸は本間に振り向かなかった。何も聞こえなかったかのように、その場を後にした。
         瀬戸が由佳と別れたのは、その一週間後だ。今思えば、由佳との関係は、始まりからずっと、友情の延長のようだった。
        『ねえ、春樹。私たち、つきあわない?』
         気が合って、一緒にいるのが楽しくて、じゃれあうような日々だった。デートも、テニスをすることが多くて――。
         別れたのは、そんなつきあいが、嘘っぽく感じられるようになったからだ。言ってしまうなら――由佳との関係は、瀬戸にとって恋愛ではなかった。それなのにつきあうのでは、由佳を傷つけるだけのように思えたのだ。
         今、瀬戸は、肩にのしかかるような重みを感じる。テーブルに肘をつき、額を支えた。
         窓の外には、澄みきった夏空が広がっている。湧き立つ雲が、緑の山の向こうに見える。きっと、コートには、まだ高原の風がさわやかに吹いている。
         瀬戸は、そっと唇を開くと、長い息を吐いた。由佳との恋愛は嘘と、自分に気づかせたのは誰なのか――それを思った。
         再び、ラウンジがざわめいた。振り回しを終え、午前の練習から引き上げてきた部員たちが現れる。
        「瀬戸さん!」
         呼んだのは矢田だろう。しかし、瀬戸は顔を上げられない。
        「昼飯は、二階の宴会場ですからね!」
         顔を上げたら――今度は、鮎川と目が合ってしまいそうに思えた。


        「瀬戸さん、ここどうぞ!」
         総勢三十人ほどが集まり、テーブルに昼食が用意された宴会場は騒がしい。瀬戸は、渡部に呼ばれながらも由佳の姿を探す。由佳は既に端の席にいて、女子部員たちに囲まれて笑っている。
         宴会場の向こう半分は、がらんとしている。『フェア・ウィン』の部員たちは先に昼食を終えたらしく、片付けに何人かが残っているだけだ。本間の姿が見えないのは当然だろう。本間も瀬戸と同じ四年生なのだから、引退した今は、合宿では客人扱いだ。
         瀬戸は重い気分で渡部の隣に着く。周りにいるのは三年男子ばかりなのと――向かいの席が鮎川なのには、文句は言えない。
        「このあと、マジに試合してくださいよ」
         真っ黒に日焼けした腕で、渡部はご飯を盛った茶碗を瀬戸に差し出した。
        「さっきはあんなだったけど、一対一の試合なら、負けませんから」
        「おう」
         渡部のさわやかな笑顔を見て、瀬戸も素直に笑んで返した。
         たとえサークルにすぎなくても、テニスそのものに熱心な部員は何人もいる。現部長の渡部もそうだし、前部長の佐々木もそうだった。もちろん、瀬戸も同じだ。そして、所属するサークルは違っても、本間もそうで――。
        「鮎川先輩、名古屋から来たんですか?」
         隣の市村に尋ねられ、鮎川は箸を止めた。
        「まさか。配属で、七月から東京勤務になったんだ。ちょうど夏期休暇だから来てみた」
        「夏期休暇って――会社員だと、一週間くらいですよね?」
         鮎川は市村に頷いて答える。矢田が能天気な声で口をはさんできた。
        「なら、鮎川先輩、今カノジョいないんだ。休み、一週間しかないのに合宿に来るなんて――イテッ」
         隣から渡部に小突かれ、矢田は慌てて口を閉じた。鮎川は明るく笑う。
        「そういうこと。新入社員研修が終わって、すぐ東京に戻ってきて、まだカノジョどころじゃない」
         しかし、気まずい空気になってしまった。瀬戸は、周りの三年生たちが何を考えているのか、わかるように思える。
         鮎川が去年の夏に別れた彼女は、二学年下のサークル部員だった。今は三年生だが、鮎川の卒業直後に退部している。
         鮎川は、彼女との再会はないと知って、この合宿に顔を出したのか。それとも、就職して三ヶ月で東京に帰ってきたのだから、よりを戻すきっかけにでもなればと、彼女との再会を期待して、ここに来たのか――。
         そんなことは、誰にもわからない。ただ、OB一年生の鮎川を歓迎しない理由は、誰にもないだけだ――瀬戸を除いては。
        「地元の本社勤務だと思い込んでいたから、東京支社に配属が決まったときは驚いたよ。先のことなんて、わからないもんだな。夏期休暇をもらってもヒマで――大学のときの友だちはみんな就職できているから、休みが取れても合わなくてさ」
         苦笑するように鮎川は言った。
        「会社の人とかは――?」
         遠慮がちに市村が尋ねる。
        「夏期休暇は交替で取るんだ。それに、配属して二ヶ月も経ってないから、同期のやつらとも、まだそんなに親しくないし――」
         そんなことをなめらかに口にする鮎川は、大人びて見える。今は洗いざらしのように無造作な髪も、会社に行く際には、きっちり整えられているのだろう。
         生成りのシャツの胸ポケットにはサングラスが覗いている。ボトムは、モスグリーンのコットンパンツだ。ここには、自分の車を運転して来たと、さっき言っていた。
         瀬戸は、なんとなく、来年の自分を見るような気持ちになる。
         不意に、鮎川と目が合ってしまった。鮎川の温和そうな顔立ちに、薄く笑みが広がった。
        「そんなに前のことでもないのに、なんだか、合宿が懐かしいよ。やっぱ、学生時代が一番楽しいよな」
        「あ、今の、なんかオヤジくさい」
         矢田がふざけた声を出しても、鮎川は余裕で笑う。
        「でも、今年は四年が少ないよな。来てるの、ふたりだけだろう?」
         瀬戸と由佳を指して言ったのだろう。
        「長谷さんが、初日に来ました」
         渡部が答えた。
        「そうなんだ。長谷か――会いたかったなあ、佐々木にも。でも――」
         鮎川は、瀬戸をじっと見つめる。
        「瀬戸には会えたな」
         その一言が意味ありげに聞こえ、瀬戸は緊張した。
         俺は、会いたくなかった――。
         鮎川に会うと知っていたら、この合宿には来なかったかもしれない。佐々木も、元部長なのに来なかったのだから――。
        「鮎川先輩も、このあと一緒にどうですか? 持ってきてますよね、ラケットもシューズも」
         渡部が明るく言った。
        「でも、ずいぶん、やってないからなあ――ワンセットマッチなら。だよな、瀬戸?」
        「え? 俺?」
        「あ、瀬戸さんは引退してもテニスやってるから。さっきの振り回し、鮎川先輩も見てたでしょう?」
         渡部が口をはさみ、鮎川はニヤリと笑った。
        「あれな。なんでか、途中で投げたヤツな」
        「そうですよー。瀬戸さん、なんでいきなり、やめちゃったんですかぁ?」
         あっけらかんと矢田にまで言われ、瀬戸はぐっと声を詰まらせた。ギャラリーに鮎川と本間を見つけ、やる気が失せたとは言えない。
        「だからそれは、このあとの試合でリベンジ」
         渡部は、ぎゅっと拳を握って見せる。
        「マジで勝負ですから、瀬戸さん」
        「へえ、瀬戸の本気、見られるんだ」
         目の前でニヤニヤと笑う鮎川から、瀬戸は、そっと目をそらした。まだ途中の昼食をそそくさと終えようとする。
         この、思わせぶりとも取れる鮎川の態度は、なんなのだろう。
        「……穂波ちゃん、もう、退部してますから」
         瀬戸は目も上げずに、鮎川の別れた彼女の名をわざと声にした。
        「瀬戸さん」
         隣から、渡部が諌めるように小声で呼んだ。
        「知ってるよ」
         しかし聞こえてきたのは、鮎川のけろりとした声だ。
        「穂波とは、きれいに終わってる。ここには、穂波に会いたくて来たわけじゃない。俺は、そんなに未練がましくないよ」
         それなら、なんで来たんだよ――。
         この場で、そこまで言う勇気は、瀬戸にはなかった。


        「瀬戸さん、もしかして今、機嫌も調子も、めちゃくちゃ悪いですか?」
        「――なんで?」
         午後になってコートに入り、瀬戸は、うつむいてガットのよじれを直している。
        「瀬戸さんと試合できるの、もしかしたらこれが最後だから、できれば本調子の瀬戸さんとやりたいんですけど」
         やけに真面目に響いた声に、瀬戸はハッと顔を上げる。渡部は、穏やかな目で瀬戸を見ていた。
        「俺もこの合宿で引退だし。就職決まってなきゃ、来年は来られそうにないし。て言うか、この次、瀬戸さんとコートで会えるのなんて、いつになるかわからないし」
        「バカだな、渡部」
         くすっと瀬戸は笑う。
        「テニスなんて、コート取れば、いつだってできるじゃん」
        「でも――」
        「わかった。マジで勝負だ。ブランクあるけど、負けないからな」
         肉づきのいい渡部の肩をぽんと叩いた。渡部はニコッと笑う。
        「姑息な技はナシですからね」
        「冗談だろ? テニスは駆け引きだぞ?」
         ネットの向こうに回っていく渡部を瀬戸は笑顔で送った。
         ほかの部員たちは、それぞれコートに散って午後の練習を始めている。鮎川もテニスウェアに着替え、向こうのコートに入っている。
         渡部との試合は、本気の三セットマッチだ。競り合いになれば、二時間近くかかるかもしれない。
         厳しいな――。
         去年の夏合宿を最後に引退してから、瀬戸が三セット以上の試合をすることはなかった。講義とゼミとバイトの日々に就職活動が加わって、忙しい中、テニスは暇を見つけてサークルに顔を出すか、あとは、たまに佐々木たちとコートを借りてやるくらいだった。
        『え? なんで?』
         テニスに誘われれば断らない瀬戸が、初めて断ったとき、佐々木はそれこそ驚いたようだった。
        『用ができたわけじゃないんだろ?』
         一度は行くと答えたあとだったから、瀬戸はバツが悪かった。ほかのメンツの名を聞いて行く気が失せたと答えるのは、いくら佐々木を相手でも気まずかった。
        『しょうがないか。いや、なんつーか……マジ、珍しい』
         いつまでも答えない瀬戸に、佐々木はそう言っただけだ。それが、いっそう心苦しく感じられ、瀬戸は耐えきれずに言ってしまった。
        『――もう、本間に会いたくないんだ』
         佐々木がそれに答えるまで、ほんの少しの間があいた。
        『へえ』
         ケンカしてんのか、とでも問いただされるのではないかと瀬戸は構えていた。
        『おまえら、すっげぇ仲よかったのに――。会いたくなくなっちゃうなんて、あるんだな』
         佐々木は、どうして、とも訊かなかった。それならまた今度な、と言っただけだ。
         それ以来、瀬戸が誘われるときに、本間の名が出ることはなくなった。
         自分でも子どもじみていると瀬戸は思う。本間に会いたくない理由が、鮎川にキスされたのを見られたかもしれないから、とは。
         見られてないかもしれないのに――。
         どうして本間は、あんなことを言ったのだろう。
        『女扱いしなければ、いいのか?』
         瀬戸を女扱いしなければ、何が『いい』のか。それを考えようとすると、瀬戸の頬は、カッと熱くなってしまう。鼓動が、駆け出してしまう。
         だって、それなら――。
         本間は、なぜ瀬戸に何も言ってこないのか。故意に避けられていると、気づいているからなのか。
         だとしても、これだけの長い期間、それまでの親しさが嘘のように、ピタリと何もない現状は――捉えようがないように思える。
         俺だって、ゼミとかバイトとか就職活動とか、いろいろ忙しかったけど……。
         学部が違っても、本間も自分と似た状況だったのは想像がつく。しかし――。
        『女扱いしなければ、いいのか?』
         あんなこと言っといて、なんで、いつまでも俺を放っておくんだよ。
         そう思ってしまうから、瀬戸はやるせなくなる。
         べつに、深い意味はなかったって?
         だが少なくとも、親しかったのが急に疎遠になったのだから、それだけの理由からでも、本間から何かしらあってもおかしくなかったはずだ。
         ずっと会ってないな、とか――言ってきたって、いいじゃん。
         本間を避け始めた当初は、ただ会いたくないだけだった。それからは忙しさに紛れて、本間を忘れがちだった。就職が決まって落ち着いた今になって、こんなにも、本間が気になってならない。
         ずっと何もないのは――俺とは、その程度だったってこと?
        「くっそう……!」
         瀬戸は、むしゃくしゃする思いをボールにぶつける。今は、渡部との試合中だ。
         最初のセットは、あっさり渡部に取られてしまった。試合の勘がなかなか戻らなかったのと、雑念に惑わされてプレイに集中できなかったせいだ。
         汗が、こめかみを伝う。Tシャツの裾で、乱暴に拭う。心拍数は適度に上がっている。火照った頬に、高原の風が心地よい。体が、軽くなっている。
        「来い! 渡部!」
         瀬戸は低く構え、渡部のサービスを待つ。ボールをトスする渡部の動きに全神経を集中する。インパクトの瞬間、コースを見極めてダッシュする。
        「ハッ!」
         本調子の渡部が打つボールは重い。その衝撃に耐え、思いきりスピンをかけて返す。
         こんなことに、大学生活のかなりの時間を割いてきた。それが、何より楽しかった。
         引退した気楽な身で参加した今回の合宿が、本当に最後だ。社会人になってしまえば、再び来られるかどうかなんて、わからない。
         最終日前日の今日に来て、明日には帰る一泊二日にすぎないけれど――それなら、なおのこと、つまらないものにしたくないと瀬戸は思う。
         コートにいれば、本間も鮎川も関係ない。瀬戸が向き合うのは、対戦相手の渡部だけだ。
        「ちっくしょー! 今の、入ってます!」
         セルフジャッジで試合は進む。悔しそうな渡部の声に、瀬戸の顔は自然とほころぶ。
         楽しい。
         テニスは楽しい。パワーのぶつかり合いも、テクニックの応酬も、心理的な駆け引きも、姑息めいた小技までも――。
         テニスだから、楽しい。
        「渡部、正直すぎ! もうちょっと頭使え!」
         瀬戸は昂揚する。全力を尽くせることに、それができる相手である渡部に、感謝にも似た気持ちで胸がいっぱいになる。
         体が軽い。心が軽い。ハイになって、風が吹き抜けていく。
         やがて、試合は終わった。瀬戸は息の上がったままネットに駆け寄ると、ニッコリと渡部に手を差し出す。熱く湿った大きな手に、力強く握り返された。
        「やっぱ俺、瀬戸さんのテニス、好きです」
        「すっげー、ラブコール」
         矢田の笑い混じりの声が飛んできた。バラバラと拍手も聞こえる。いつのまにか、コートの周りに数人が集まっていた。
        「で、どうだったの? オレ、途中からだったからさ」
         矢田に尋ねられ、渡部が答える。
        「第一セットは俺で、第二セットは瀬戸さんで、第三セットは――」
        「六―四で、渡部だ。ダメだ、ブランク長すぎ。最後、走れなかった」
         乱れた息で喘ぐように言った瀬戸に、渡部は白い歯を見せて笑う。
        「瀬戸さん、引退して、もうよぼよぼだから」
         瀬戸は、顔を拭くタオルの陰から、わざとらしく渡部をにらんだ。
        「やっと本音が出たな、渡部」
        「あ、地雷でした?」
        「バッチリ」
         顔を見合わせて、吹き出してしまった。
        「俺はもう上がるよ。おまえ、部長なんだし、練習に戻れ」
        「はい」
         渡部から離れ、瀬戸はラケットを手にコートを後にした。体はまだ芯から熱く、汗がなかなか引かない。
         シャワー浴びて着替えるか。
         気分は爽快だった。これだからテニスはやめられない。今は蝉時雨さえ、耳に心地よく感じられる。
        「瀬戸」
         呼ばれて、顔を上げた。途端に、足が止まった。
        「久しぶりに見た。おまえのテニス」
        「本間……」
         隠そうとしても動揺が顔に出てしまう。
        「ずっと――見てたのか?」
        「ああ。第一セットから」
        「いいのかよ、おまえ、自分んとこの合宿で来たんだろ?」
         本間は、フェンスの外の芝生に立っていた。本当に、ずっとそこで試合をする自分を見ていたのかと瀬戸は思う。
         服装は、昼前に見かけたときと同じだ。テニスウェアに着替えていない。コートに入るつもりは、ないのだろうか。
        「べつに……そういうわけでもない」
         ゆっくりとした足取りで近づいてくる。瀬戸の目の前で止まり、じっと、深い眼差しで見下ろした。
        「今日ここに来て、もう一度、瀬戸のプレイを見られてよかった――惚れ直した」
         ドクンと高く、瀬戸は鼓動が跳ね上がった。本間を見上げる目が泳いでしまう。
         くすっと、本間は笑みをこぼした。
        「惚れ惚れするほどクレバーなテニスをするのに、おまえ、コートの外じゃガキくさいな」
         それにはカチンときた。胸のつかえを吐き出すように瀬戸は言う。
        「つきあいの駆け引きは嫌いなんだよ! 俺が駆け引きするのは、テニスだけだ!」
         しかし、瀬戸を包む穏やかな眼差しは変わらない。
        「知ってる。――冷えるから、早くシャワー浴びて着替えて来いよ」
         カッとして、瀬戸は弾かれたようにホテルに向かって駆け出す。背中に本間の視線を感じた。
         冷えるって――本間が呼び止めたからじゃないか。
         部屋に戻って、全身に熱いシャワーを浴びながら、瀬戸はイライラと思った。
         なに考えてんのか、ちっともわかんねえ。駆け引きは嫌いだって言えば、知ってるとか返事しやがって――。
         キュッとコックを閉める。前髪からぽたぽたと垂れるしずくを見つめた。
         同じだ――鮎川先輩も、本間も。ヘンなことばっか、俺に言って。
         無性に腹が立ってきた。渡部と試合をした爽快感が無駄に消え去っていくように思えて、なおさら腹が立った。
         体が重い、気が重い。全身を吹き抜けた風は――消えてしまったようだ。
         本間は、ラウンジで瀬戸を待っているのだろうか。約束したわけではないが、そうしているように思えた。
         誰が行くか。
         体を拭きながらバスルームを出る。渡部と鮎川と三人で使う部屋に、瀬戸のほかは誰もいない。
         裸にバスタオル一枚の姿で、窓際に立ってコートを見下ろした。三面ずつフェンスで囲まれた左側が『スプラッシュ』、右側が『フェア・ウィン』だ。どちらのサークルも、まだ練習を続けている。
         今夜は合宿最後の夜、打ち上げも合同と聞いている。明日は朝から『フェア・ウィン』との練習試合があって、それが終わったら、コートで解散だ。
         ――寝ちまおう。
         どうせエキストラベッドは渡部が使うんだし、と思い、瀬戸はツインのひとつに体を投げ出す。
         ……パンツ。
         気づいて、それだけは、もそもそと身につけた。


        つづく


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        素材:ivory