Words & Emotion Written by 奥杜レイ
「夏の風」
−2−
目を覚まし、瀬戸は枕元に置いたケータイを探る。もうすぐ午後五時だ。
のろのろと起き上がり、もう一度ざっとシャワーを浴びる。ラウンジに下りて、自動販売機でウーロン茶を買った。
飲みながら大きな窓に歩み寄る。ガラス越しにもヒグラシの声が聞こえ、太陽が西に傾き始めている。午後の練習は終わったようで、それぞれのコートで片づけが始まっていた。
だが、一番端のコートでは、まだ打ち合いが続いている。まばらにギャラリーも見える。
――鮎川先輩?
ネットの向こう側にいるのは、間違いなく鮎川だ。ただの打ち合いではなく、試合をしているようだとわかる。
誰とやってる――?
こちら側にいる対戦相手は背中しか見えない。渡部かと思いかけ、それにしては渡部よりも背が高く、スリムだと気づく。
軽快なフットワーク、ラケットを豪快に振り抜くスウィング、キレのいいショット――襟足の短い、真っ黒な髪。
本間?
咄嗟に足が動いた。ラウンジを飛び出し、瀬戸はコートまで駆け下りる。本間の背後、フェンスの外にかじりついた。芝生に立って、少し高い位置から試合を見守る。
「サーティ、フィフティーン」
本間の声が上がり、サービスポジションを取る。セルフジャッジで、やはり試合をしているのだ。
本間の、膝のバネをやわらかく十分に生かしたサービス――弓なりに反り返った背が、弾かれたように伸びきる。鋭いインパクトのあと、ボールは弾丸のように相手コートに飛んでいく。
すげぇ……。
胸がしびれた。自分のテニスがクレバーと言われるなら、本間のテニスは、攻めに徹したアグレッシブなパワーテニスだ。
そんな本間のテニスに、ずっと魅せられてきた。それを今、瀬戸は再び思う。
俺も受けたい――。
胸の前で、ぎゅっと強く拳を握る。後悔にも似た思いが湧き上がってくる。
本間の打つボールなど、いくらでも受けてこられたのだ。サークル同士の練習試合で、仲間内でのテニスで――それができなくなったのは、自分が本間を避けるようになったからで――。
「……くっそぅ!」
慌ててフェンスを回る。中に駆け込んだ。
「ゲーム。俺の勝ちですね、鮎川さん」
本間はネットにゆっくりと歩み寄っていく。
「市村、ラケット貸せ!」
「瀬戸さん?」
市村からラケットを奪い、代わりのようにウーロン茶のボトルを押しつけた。
「本間、次は俺と勝負だ!」
まだコートにいる本間に向かって、ラケットを突き出した。本間は、怪訝に振り向く。
「もう終わりですよ〜、瀬戸さーん」
矢田の情けない声が聞こえた。
「コート、五時までなんです。もう過ぎてるから、明日にしてください」
渡部には、きっぱり言われてしまった。
「なんで本間は、鮎川先輩となんか試合したんだよ! さっきまで、着替えてもなかったくせにさあ!」
「ごねないでくださいよ、瀬戸さん」
ラケットを取り返しながら市村が言う。本間と鮎川が戻ってきた。
「鮎川さんとやるくらいなら、自分とやれって? 瀬戸?」
呆れたような笑みを浮かべて本間は言った。
「ひどいな、それ」
鮎川は、さらに呆れたように言う。
「瀬戸は、渡部との試合でバテて寝てたじゃないか――パンツ一枚で」
「えっ?」
「マジっすか?」
瀬戸が叫んだ声に、本間の声が重なった。ふたりに気圧されたのか、鮎川は口早に続ける。
「部屋まで、呼びに行ったんだよ。『フェア・ウィン』と、OB、四年対決するからって。瀬戸と俺、部屋同じだからさ」
本間は、見る間に険しい顔になった。瀬戸に食らいつく勢いで言う。
「裸で、何もかけないで寝てたのかよ!」
「んなの、おまえには関係ないだろ!」
瀬戸はムッとして言い返すのだが、本間は引かない。
「だらしないぞ!」
「暑かったし、めんどくさかったんだよ!」
「はいはい、先輩方、コート整備しますから、続きは場所変えてやってくださいねー」
ブラシを引いてきた矢田に追い払われてしまう。三人は、気まずそうにフェンスの外に出た。
瀬戸は先頭に立ってホテルに戻り始めるのだが、胸のもやもやは消えない。
俺が裸で寝ようと、鮎川先輩に見られようと、んなの、本間にカンケーねえじゃん――。
すると、背後から小さな声が聞こえた。
「……よし!」
なんだ、と振り向けば、本間が小さくガッツポーズを取っている。
「鮎川さんに勝っておいてよかった」
うつむいて歩きながら言うのだから独り言なのだろうけど、鮎川にも聞こえたようだ。
「どういう意味だよ、本間」
「え……?」
焦って、本間は鮎川に振り向く。
「だから、その……リーマンに負けなくてよかった、って――」
「ナマイキなんだよ」
「てっ」
鮎川が、コツンと拳で本間を小突いた。
瀬戸は、なんだか拍子抜けしてしまった。笑いそうになって、慌てて顔を前に戻した。
「……笑いごとじゃないぞ」
ボソッと聞こえた本間の声に、なおさら笑ってしまいそうだった。
午後七時になって、夕食を兼ねた合宿の打ち上げが、畳敷きの大広間で始まった。それまでの食事のときと同じように、ふたつのサークルは、広間の左右に分かれて、それぞれ席に着いた。瀬戸たち引退組は、慣例で末席にいる。
「合同の夏合宿は、今年で二回目だったわけですが――」
『フェア・ウィン』の部長が前に出て挨拶を始めた。それを遠目に由佳がやってきて、瀬戸のグラスにビールを注ぐ。
「えらかったじゃない、ちゃんと、渡部くんと真剣勝負したなんて」
「ラケットも握らなかったおまえに言われたくねえよ」
「うるさいわね。引退してるんだから、私はわきまえたのよ」
由佳の手からビール瓶を取り、瀬戸も由佳のグラスにビールを注ぐ。
「言ってること、矛盾してるぞ。それ以上、たくましくなりたくないだけだろ?」
「これ以上、日焼けしたくなかっただけ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ふたりは笑顔だった。
「じゃ、みんな――乾杯!」
渡部の声に、グラスが合わされる。
「お疲れさまでした〜」
口々に声が上がった。
「瀬戸さーん!」
数人の女子がビール瓶を片手にやってくる。
「モテてて、よかったじゃない」
ふわりとした笑みを残して、由佳は美玖の隣へ戻っていった。
一通り料理を平らげるころには、ドッと湧き上がる笑い声や嬌声が、あちこちから聞こえていた。何人かが、連れ立って大広間を出て行く。部屋に戻って騒ぐのだろう。
瀬戸は、席を一度も動かずに、次々と来る後輩たちの酌を受け続けていた。今は渡部と差し向かいに飲んでいて、ほろ酔いかげんだ。今後のサークル活動についての真面目な話を聞かされている。
ひとつ空席を置いた隣では、さっきから黄色い声が絶えない。
「鮎川センパーイ」
気にならないでもないが、瀬戸は、渡部の真剣な話に耳を傾けていなくてはならない。
「もう飲ませないでくれよぅ」
なのに、普段の鮎川からは想像できない、甘ったれた声を聞いて気が散ってしまう。
「去年も飲みすぎて大変だったんだからぁ」
その一言に、ギクリとした。
「記憶飛んじゃってー、何も覚えてなくてー、二日酔いがひどくてさー。今年は車で来てるから、明日、運転できないと困るんだ」
……何も、覚えてない?
そろそろと瀬戸は顔を向ける。数人の女子に囲まれて、鮎川はだらしない顔をしている。
「瀬戸さん?」
渡部に怪訝に呼ばれたが、顔を戻せなかった。
鮎川に尋ねたい。はっきりさせたい。去年のあのできごとは、何だったのか。去年あんなことがあったのに、今年も合宿に来たのは、なぜなのか。
でも、どう言い出せばいいか――。
「――鮎川先輩。去年……記憶なくなってたんですか?」
瀬戸の声に、鮎川も顔を向けてくる。その表情をうかがいながら、瀬戸は、恐る恐る尋ねた。
「俺に――ひっぱたかれたことも……覚えてない?」
「いや〜ん、瀬戸さん、鮎川先輩をひっぱたいたの〜?」
みんな、酔っている。けらけらと笑う女子は気にせずに、瀬戸はじっと鮎川を見る。
「あー……そう言えば」
すっかり酔いの回った頭でも、鮎川は思い出せたようだ。
「俺を、ひっぱたいた――?」
悠長な動作で、瀬戸を指差す。瀬戸は、コクンと頷いて返した。
「でも……なんでだ?」
ガクッとしてしまう。とろんとした鮎川の目を見ていると、ムクムクと苛立ってきた。
「なんでって、あんた――」
「瀬戸!」
背後から肩をつかまれた。チラッと見れば、本間だ。
そのことが、余計に瀬戸を苛立たせる。口から飛び出しそうになっている言葉を本当に声にしてもいいのか、それを考える余裕など、今の瀬戸にはない。
「あんた、俺に――」
「やめろ、瀬戸!」
ぐいっと強く、本間に肩を引かれた。それから逃れる勢いで、瀬戸は言い放った。
「あんたが俺に、キスしたからじゃん!」
「きゃー!」
途端に、黄色い悲鳴が上がる。
「瀬戸さん……」
渡部の手から、ゴトンとグラスが落ちた。
「あー……言っちゃった」
本間の気の抜けた声が背後から聞こえた。
「……春樹」
由佳は、丸くなった目で瀬戸を見つめる。その隣にいる美玖も同じだ。
「ウソだ、絶対、ウソ!」
慌てふためいたのは、むしろ鮎川だった。
「やってない! ゼーッタイ、俺はやってないって!」
鮎川が必死な顔で言うものだから、瀬戸もムキになって言い返した。
「しましたよ! 真っ暗なラウンジで!」
だが、食い下がったのは逆効果だった。
「いや〜ん、真っ暗なラウンジだって〜」
周りは、いっそう騒然とする。
「……バカ」
ため息混じりの声と共に、ぽん、と本間の手が肩に置かれた。瀬戸は、ようやくハッとする。
「見たかったかもー」
「やだ〜」
「冗談じゃないぞ、俺は!」
かなり真剣な声で鮎川は叫んだ。まずいことになったと、瀬戸はハラハラしてくる。
「あたし、鮎川先輩なら、キスされちゃってもいいかも」
「えーっ」
不埒な発言が上がって、状況は収集のつかない方向に流れていく。
みんな……酔ってる〜!
「俺……風呂入って、酔い醒ますわ」
ふらふらと瀬戸は立ち上がった。
「渡部、悪い……あとはヨロシク」
「瀬戸さん!」
渡部の悲痛な叫びを背に、瀬戸は大広間を出た。その足で、よろよろと大浴場に向かっていく。
何がなんだか……。
もう、何も考えられなかった。酔っているのもあるが、それよりも、去年のあのできごとを鮎川がまるで覚えていなかったという事実に――瀬戸は、すっかり脱力させられた。
「はあ……」
檜造りの露天風呂に肩まで浸かり、首の後ろを湯船のへりにもたせかけると、瀬戸は、ゆったりと体を伸ばした。
目の前には、黒々とした夜の山がそびえている。見上げれば、満天の星だ。高原の夜風はひんやりとしていて、頬に気持ちいい。
俺……何やってたんだろう――この一年。
去年の、あのできごと――自分自身が根底から揺さぶられたように感じた。それを鮎川はまったく覚えてなかったとは――。
ちっくしょー、酔っ払いのすることなんか、もう二度とマジに受け取らないぞ!
しかし、よくよく考えるまでもなく、鮎川にキスされたことなど、本当はどうでもいいのだ。ショックだったのは、それを本間に見られてしまったかもしれないことで――。
『女扱いしなければ、いいのか?』
本間に、そう言われたことだった。
男にキスされた感触は、そのとき、まだ唇に生々しく残っていた。
『女扱いしなければ、おまえにキスしてもいいのか?』
本間には、そう言われたのも同然のように思えて――その瞬間、胸が激しく高鳴った。本間にそうされるのを期待する自分を見つけて――めちゃくちゃ動揺したのだ。
あのときは、まだ由佳とつきあってたのにな……。
由佳とつきあっていながら、心の底では本間に惹かれている。その事実に気づかされてしまった。
しかし、男に惹かれる自分は認めたくなかった。だからと言って由佳とつきあい続けるのでは、由佳に後ろめたいだけだった。
それが――由佳と別れた本当の理由だ。
由佳を一方的に泣かせる覚悟で、思いきって別れたが、何も解決されなかった。さっぱりとした気持ちになるどころか、本間に惹かれる自分を無視できなくなり、結局は、自分の本心から逃げて本間を遠ざけてきただけだ。
「はあ……」
ちゃぷりと湯を波立たせ、瀬戸は体を返す。へりに腕を組んで、その上に顎を乗せた。
本間と、ずっとテニスしてない――。
今日、久しぶりに見た、本間のプレイが目に焼きついている。アグレッシブで、攻めに徹したパワフルなテニス――。
カッコよかった。
瀬戸は、うっとりと目を閉じる。火照った頬を夜風が撫でていく。
そのとき、カラリと戸が開いた。ハッと見開いた瀬戸の目に、すらりとした長身のシルエットが飛び込んできた。
「ほ、本間っ?」
ずるりと足を滑らせ、湯に沈みそうになって瀬戸はじたばたする。しかし本間は、それがあたりまえのように瀬戸の隣に入ってきた。
「なんで来たんだよ!」
「風呂に行くって言ってだろ? 酔って風呂入ったら倒れるんじゃないかって、大浴場、見に行ったんだけど、いなかったからさ……」
さりげなく答える本間に、瀬戸は顔を赤くする。
「じゃなくて! 貸し切り露天風呂使用中の札、出てただろ!」
「カギ、かかってなかった」
「けど、普通、入ってこないだろ! 入ってたの、俺じゃなかったら、どうすんだよ!」
「カゴの中の服見て、瀬戸ってわかった――て言うか、やっぱ、入ってきてよかったんだ。先に入ってたの、おまえだったんだし」
あげあしを取られたようで瀬戸は悔しい。本間をギッとにらみつける。しかし本間は、やわらかな眼差しを返してきた。
「……テニスはクレバーなのに」
「どうせ、コートの外じゃ、俺はバカだよ!」
つーんと、瀬戸は顔を背けた。
「バカなんじゃなくて、正直すぎるんだよ。無防備って言うか――」
苦笑混じりの声で本間は穏やかに言う。
「さっきだって、あんなふうにストレートに言わなきゃよかったのに――」
「うるさいな!」
「俺は、覚えてる」
「……え?」
うっかり、瀬戸は本間に向き直ってしまった。本間は眉を寄せた顔で、まっすぐに瀬戸と目を合わせた。
「おまえ――鮎川さんにキスされてた。すっげぇ、ムカついた。いっそ、忘れたかった」
「じゃ、やっぱ……」
本間はしっかり見ていたのだ。鮎川にキスされてからの一部始終を――。
「――なあ、瀬戸」
唖然としてしまった瀬戸を、本間は気まずそうに上目づかいで見つめてくる。
「あのとき俺が言ったこと――覚えてる?」
瀬戸はドキッとする。もちろん、覚えている。だが、今ここで本間がそのことに触れてきたのは、あまりに唐突に感じられる。正直に答えられない。
「……何のことだ?」
「ズルイな。こんなときは、駆け引きか?」
とぼけたの、見抜かれてる――?
そう思うと、なんだか腹立たしい。人づきあいの上での駆け引きは嫌いと言ったのは嘘ではなく、瀬戸は抑えがきかなくなってくる。
「おまえこそ、ズルイじゃねえか!」
咄嗟に叫んだ。
「テニスは攻めで押し通すのに、俺にはそうじゃないのかよ!」
「瀬戸?」
「あんなこと俺に言ったくせに、そのあと、なんにもなかったじゃないか!」
「瀬戸」
「一年も俺をほっぽいといて、なんで今になって、覚えてるかなんて訊くんだよ!」
「瀬戸……」
「覚えてるよ、言ってやろうか? 忘れられなかったから、俺は、由佳と別れたんだぞ!」
興奮して、息が上がる。顔が熱いのは、ずっと湯に浸かっているせいではないようだ。
本間は、じっと瀬戸を見つめていた。目にかかる真っ黒な前髪の陰から――吸い込まれそうなほどの、黒く深い瞳で。
「ごめん、瀬戸」
やわらかな響きの低い声で本間は言う。
「もう一度、訊かせてくれ。――女扱いしなければ、いいのか?」
「だから、何が!」
「おまえに……キス、しても――」
瀬戸が何か言うよりも先に、本間の手が伸びてきた。瀬戸の頬を包み、引き寄せ、上からおおうようにして唇が重ねられてくる。
チュッと、軽い音を立てただけで、本間の唇は離れていった。呆然とする瀬戸の目を見つめ、本間はしっとりと言う。
「半分、あきらめてた。なんか俺、ずっと避けられてたし……追えば、逃げると思ってたんだ。鮎川さんにキスされたとき、おまえ、ものすごく怒ってたから。やっぱ男なんか、絶対イヤなんじゃないか、って……」
「あのとき俺はまだ、由佳とつきあってたんだ! けど、あのあとすぐ別れただろ!」
声を荒げた瀬戸に、本間は困ったように目を伏せる。
「でも……俺は、男しか好きになれないけど、瀬戸は――」
「んだよ! ハッキリしろよ! 俺はもう、言っただろ!」
「瀬戸……!」
ハッと目を上げ、本間は瀬戸を見つめる。両腕を広げると、その中に瀬戸を包み込んだ。熱い吐息をつき、頬をすり寄せてくる。
「ずっと好きだったんだ――ずっと。おまえのテニスに惚れて、おまえに惚れた」
耳元でせつなくささやかれ、瀬戸の鼓動は駆け出す。カッと頬が熱くなる。
「けど、おまえにはカノジョがいたから……つらかった」
瀬戸を抱きしめる腕に、ぎゅっと強く力が入った。
「俺はもう、ガマンしなくていいんだよな?」
瀬戸の目をまっすぐに覗き込んできて言う。
「……本間」
ゾクッとした感覚が瀬戸の体を走り抜けた。絡んだ視線をほどけない。本間の熱っぽい眼差しに――釘づけになる。
低く、艶のある声で、本間はささやいた。
「好きならキスしたいとか――ひとつになりたいとか、そう思うのには……男も女もないよな?」
「え……!」
ためらいも戸惑いも、唇ごとさらわれてしまった。
瀬戸は背をしならせる。湯の中に倒れそうになる体を、本間の肩にすがって支えた。
きつく重ねられた唇を開いて、本間の舌が押し入ってくる。遠慮など少しもない。瀬戸は、口中を舐め尽くされ、舌を絡め取られる。
ス……ゴ、イ。
受ける一方のキスなど初めてだ。自分からするにしても、こんなにも熱いキスは、今までの経験になかった。
それだけに、本間の熱情がどれほどなのか、わかってしまう。
俺、どうなっちゃうんだろう――。
「ま、待てよ」
「待てない」
どうにか逃れても、すぐに捕まってしまう。
「誰か、来るかも」
「来ない、貸し切りだ」
きっぱり言われて、瀬戸はうろたえる。
「って、おまえは入ってきたじゃん――」
「カギ、かけておいた」
「は? ――ああっ」
いきなり、握られた。
「お願い、逃げないで――」
大胆に仕掛けてきておきながら、本間の声は震えている。
「ずっと……欲しかったんだ、それがやっと」
「ま、待って、本間!」
「おまえのこと、女扱いなんてしない、欲しいだけなんだ――」
「あ、はあ!」
湯が波立つ。それが、自分のものに絡まる本間の指が起こすと思うと、瀬戸はくらみそうになる。
快感が突き抜けた。本間と触れ合いたいと思わなかったことはない。しかしそれが、これほどまでに激しく求められて叶えられるとなると、受けきれなくなってしまいそうだ。
「あ、熱い……」
絶頂に押し流されそうになって、瀬戸は顔を背ける。ぐったりと本間の肩に頭を預けた。
「だ、大丈夫か!」
「へ?」
本間は、あたふたと瀬戸を抱き上げた。総檜造りの床にザバッと湯をあふれさせ、瀬戸を横たえる。
「のぼせた……?」
上から瀬戸を覗き見る本間の顔は真剣だ。瀬戸の脇に両手をついて、湯船から身を乗り出している。
瀬戸は、何が起こったのか、すぐにはわからなかった。ただ、見上げる目の先に本間の顔があって、本気で自分を心配しているようなのがわかる。
ぽたりと、本間の前髪から湯がしたたり、瀬戸の頬に落ちた。
俺が、風呂でのぼせたって――?
「ぷっ」
瀬戸は吹き出してしまう。くすくすと笑いがこみ上げてくる。すぐそこにある、心配そうな本間の顔が気まずそうに変わる。
「ちょっと、来いよ」
仰向いたまま、瀬戸は本間の首に両腕を絡めた。
「いいから、ちょっと来いって」
湯から上がる本間を全身で受け止める。ぴったりと肌を合わせ、肩に引き寄せた本間の耳に、瀬戸はそっと声を吹き込んだ。
「のぼせたんじゃない。……イきそうになっただけ」
恥ずかしくて、照れくさくて、余計にしゃべってしまう。
「男となんて、初めてだから――ビビっちゃっただけ」
重なる肌を通して、本間の激しい鼓動が伝わってくる。
ほうっと、本間は深い吐息を落とした。
「こうしていられるだけでもいい」
瀬戸の首筋に、そっと唇を押しつける。
「――ムリすんなって。先に延ばしたって、初めては初めてだ」
本間の昂ぶりは、内腿にダイレクトに感じている。瀬戸自身も、たきつけられた熱を失っていない。
「もう、ヤバイんだろ?」
瀬戸は、本間の顔を覗き込む。
濡れた前髪の陰から、本間はうらめしそうに瀬戸を見た。すっと、目を細める。ヒヤリとする声で――低く、言う。
「カワイイこと言って――あおるなよ」
「……あ」
今度こそ、瀬戸はすくんだ。情欲に染まった本間の目に射抜かれる。本間の男っぽい色気を感じ取り、体が芯からしびれた。
俺、やっぱ、本間が――。
かすめるようにして、本間の唇が頬を滑ってくる。その感触に、胸の奥底から熱い吐息があふれ出る。
「好き……」
キスを受ける、その間際に声にした。
うっとりと、瀬戸は酔う。重なる体にきつく抱きしめられ、全身で本間を感じる。
本間になら、すべてを委ねてもいい。すべてを――委ねてしまいたい。
そろりと脇腹をなぞった本間の手が、瀬戸のものをやわらかく包んだ。おもむろに動き始める。
「ちょ、ちょっとだけ、待って。……あんま、変わったことすんなよ? 痛いのもヤだからな……?」
そんなことを言わずにいられない自分が、瀬戸はかなり情けない。
しかし、返ってきた本間の声は、真剣そのものだった。
「大切にする――そういうのにも、男も女もないだろう?」
顔を少し離し、じっと自分を見下ろす本間を瀬戸は見つめ返した。本間の目が、あまりにもやさしく温かく感じられて、瀬戸は胸をいっぱいにする。
「もう、何も気にすんな。もう、わかってる。俺も――おまえが欲しいんだ」
瀬戸は、本間を引き寄せた。唇を開き、舌を絡め合う。たっぷりとキスを交わした。
そのあいだも本間の手で愛撫を受け続け、瀬戸はあえなく絶頂を迎えてしまう。
「ふ……は、あ」
離れていく唇を目で追った。
本間は、体を下げていく。そうして、瀬戸の右ひざを立たせた。その陰に、本間の頭が半分消える。
「や……な、なにっ?」
生温かく濡れた、やわらかなものを、今まで誰にも触れられたことのない箇所に感じた。
「そ、そんなとこ……!」
少しだけ、先が入った。何をされているのか、尋ねるまでもない。わかっているから、瀬戸は目で確かめるなどできない。
「……痛くさせたくないし――瀬戸を……もっと、感じさせたいし」
やけにはっきり聞こえた本間の声に驚く。
「あ!」
ぬるりと深く潜りこんできたのは、見なくても本間の指だとわかる。
「や……ほ、本間……」
「――ここ?」
「あ、は、あん!」
信じられない声が、自分の口から飛び出ていった。
一息で全身が滾る。腰がしびれて、じっとしていられなくなる。体中を巡ってきた熱は、いっそう高まって、一箇所に集まる。
「は、あ……ほ、本間……」
どうしていいのかわからない。すぐにも破裂しそうな、急激な昂ぶりについていけない。
「本間……本、間!」
悶え、喘ぎ、瀬戸は髪を振り乱す。横たわる檜の床に爪を立てる。
「瀬戸……」
顔を覗き込んできた本間の目は溶けている。
「――いい?」
「い、いい……って!」
とろとろと先からあふれているのが、自分でもわかる。それをあえて尋ねられては――。
「は、早く、来いよ!」
「……瀬戸」
「俺……もう、おかしくなっちゃう!」
「瀬戸――」
フッと、本間は顔をほころばせた。全身でそっと瀬戸を包む。ゆっくりと指を引き抜いていった。
「……息……吐いて」
甘ったるく、ささやく。指に代わるものをそこにあてがう。
「吐いて、もっと……」
瀬戸がそうするのを蕩けた目で見つめる。
「かわいい――」
瀬戸の中に入ってきた。
「あ、ああ!」
初めてのことに、瀬戸は大きく目を見開いてしまう。
「ダメ、息、吐いて――」
「はぁ、は、あ……」
じりじりと満ちてくる圧迫感に耐えようと、瀬戸は浅い呼吸を繰り返した。
「――全部、入った」
自分を抱きしめる本間が熱い。
「ひとつになれた――」
夜風が渡っていく。本間は、瀬戸の首筋に顔をうずめ、じっとしている。本間の乾いている髪が揺れて、瀬戸の頬をくすぐった。
ぎゅっと強く自分を抱きしめるだけの本間に、瀬戸はそろそろと顔を向ける。目に映るのは本間の黒髪だけで、どんな表情をしているのかわからない。
「……本間?」
「ん――?」
「その……いいのか?」
「――うん」
つながったのに本間は動こうとしないが、体の中のそれは、十分に張り詰めているのが瀬戸にはわかる。
「こうしていられるだけで、いい――」
瀬戸の首筋に顔をうずめる本間の声は、くぐもって聞こえる。それは、せっぱつまっているようにも――聞こえる。
本間を受け入れて、瀬戸は、熱い。本間を受け入れている、そこが――熱い。
「……しよ?」
ほかに言いようがなくて、瀬戸は、そう口走った。
「瀬戸――?」
本間は、そろりと顔を上げた。その表情が、つらそうにも幸福そうにも見えて、瀬戸は胸が締めつけられる。
「あ、ほら……俺、わかったし……中でも、感じんの――」
「だから……俺を、あおるな」
本間の声は苦しそうにも聞こえ、しかし同時に、瀬戸は、ぐりっと深くをえぐられた。
「はっ……あ、は――」
喘いで、顎をのけぞらせる。
「もう……知らないからなっ」
小さく叫ぶように言って、本間は勢いよく上体を起こした。瀬戸の両脇に手をつくと、性急に動き始める。
「ん! ん、はっ」
瀬戸は急激に昂ぶる。もどかしい熱に身をよじる。乱れた髪が目にかかり、それを片手でかき上げた。
「はっ……ほ、本間!」
見上げても、本間はにじんで目に映る。
「瀬戸――初めてなのに、エロすぎ!」
苦しそうに本間は吐き捨てた。
「な、なに、言って――ああ!」
激しく、瀬戸は顔を背ける。ビクン、と体が跳ね上がった。触れられてもいないのに、達してしまったのを知る。
「く……うぅ」
本間のうめく声が聞こえた。
「もう……ガマン、きかなかったじゃん……」
照れくさそうな声と共に、本間の体が崩れてきた。
「おまえ――信じられないくらい、カワイイ」
瀬戸は、食いつかれるようなキスをされた。
「瀬戸さん、昨日、どこで寝たんですか?」
ざわざわとする朝食会場で、隣の席から渡部に言われた。渡部とは同室だから、一晩中、部屋に戻らなかったのはバレているのだ。
「瀬戸さんいなくなってから、大変だったんですよ」
打ち上げのことを言っているのは間違いないだろう。昨夜のうちに、瀬戸に文句を言いたかったのかもしれない。
「鮎川先輩、モテモテだったんだろ? よかったじゃん」
瀬戸は、適当なことを言ってはぐらかす。
「冗談じゃないですよ。鮎川先輩、あんなに酔いグセ悪かったなんて、知りませんでした」
いったい何があったのか、気にならないでもない。だが、昨夜どこで寝たのかを再び尋ねられる前に、瀬戸は話題を変える。
「今日は、このあと練習試合やって、それで解散だよな?」
「そうですけど――」
ムッとした声で渡部は返す。そう答えたきり、黙々と箸を進める。
「そっか」
もっと何か言ったほうがいいようにも思えたが、瀬戸は口を閉じた。
昨夜は、本間の部屋で過ごしたのだ。
『俺、ひとりだから――』
合宿に行くとの連絡が遅すぎて、部屋割りからあぶれたのだと言っていた。自分で予約を入れたから、一般客に混ざって、部員たちとは別の本館の部屋になったそうだ。
「へへ……」
瀬戸はニヤついてしまう。露天風呂を出て本間の部屋に戻ってからは、取り立てて何もなかった。せいぜい、キスしたくらいだ。
もう、体がついていけなかったのもあるが、それでも、一晩中、本間に寄り添って眠れたのは、とても幸せに感じられる。やけに、さっぱりした気分だ。
「瀬戸さん……なんか、機嫌よさそうですね」
「そうか?」
渡部に嫌味っぽく言われても気にならない。
向こうのテーブルでは『フェア・ウィン』の部員たちに混ざって、本間も朝食を摂っている。ふと目が合って、頬がゆるんだ。
「……やっぱ、なんかいいことあったんだ」
もう、渡部には何も答えなかった。
朝食を終えてラウンジに下りる。思ったとおり、窓際のテーブルに本間はいた。
「本間、今日こそ、テニスしようぜ」
言いながら近寄って、振り向いた本間の手にアイスがあるのを見つける。ソーダ味の、ハードキャンディーだ。
「あ、いいな。朝からアイスかよ」
手はポケットに突っ込んだまま、体を折って、パクッと食いついた。
「せ、瀬戸?」
「ん?」
驚く本間に、目だけを上げた。
「何やってんのよ、春樹!」
本間の向こうから由佳が顔を出す。そっちのテーブルには美玖も一緒だ。
「ったく、子どもなんだから!」
ふうっ、とタバコの煙を吐いた。
「瀬戸……」
まだアイスに食いついている瀬戸を、本間はうろたえたように見る。
「おまえ……ちょっと、来い!」
いきなり立ち上がった。
「ほ、本間?」
勢いよくアイスを引き抜かれ、唇が少しヒリヒリする。本間に乱暴に手を取られ、慌しくラウンジを出た。
「瀬戸……お願いだから、勘弁してくれ」
ホテル裏の駐車場に連れられて来て、いきなり本間にそう言われても、瀬戸は何のことだかわからない。
「やっぱ、無防備なんだよ、おまえ。去年は鮎川さんにキスされて、昨日は裸で寝てるの見られてさ――」
「俺のせいかよ!」
ムッとして言えば、本間は額に手を当て、顔を伏せてしまう。
「だから、おまえ……エロいんだって」
「は?」
うらめしそうな目を上げてきた。
「わからない? 人がいるのに、体かがめて俺のアイスにパクついて、あんな目で……見上げてくるなよ」
「そ、それって――」
ようやく瀬戸は理解する。本間が、今も沸騰しそうなほど顔を赤くしている理由も――。
「ごめん……」
謝っておきながら、しかし瀬戸は府に落ちない。
俺って……そんなにエロいかな――。
「この際、はっきり言っておくけど」
赤くなっている顔を背け、本間は言う。
「去年、鮎川さんがおまえにキスしたのって……たぶん、そのせいだからな」
まぶしそうに目を細めて視線を流してきた。
「え?」
「おまえも覚えてない? おまえさ――なんでか知らないけど、鮎川さんにキスされる前、言ってたぞ」
潤んだ目で――それは、きっと酔っていたせいと思えるけど――鮎川の目をじっと見て、『先輩……淋しいんだ』――と。
「マジッ?」
瀬戸は、まったく覚えてなかった。本間に教えられて、血の気が引くほどの思いだ。
「だからさ――」
小さく吐息を落として、本間は言う。
「あのとき俺、むちゃくちゃ嫉妬した」
瀬戸と目を合わせてきた。
「おまえが鮎川さんを誘ってるみたいに思えて――ひっぱたくのを見て、ホッとしたくらいだ」
すっと視線を下げ、つぶやくように言う。
「けど、それで、俺も男なんだからダメじゃん、って……思っちゃったわけだけど」
「本間――」
「やだよ、俺……おまえに、あおられっぱなしだ」
そう言うなり、瀬戸を抱きすくめた。瀬戸は、胸が熱くなる。わけもなく、涙腺がゆるんでくる。
「本間――」
朝の風が、ふたりを吹いていった。
「……俺はもう、おまえだけだから」
「瀬戸――」
震える声だった。唇が頬を滑ってくる。
「ん――」
瀬戸の胸は、甘くしびれる。やっぱり本間が好きだと――しみじみと感じた。
「なんかもう――おまえには、勝てないように思える」
コツンと額を合わせ、本間はくすっと笑う。
「けど、テニスは負けないからな」
「冗談」
ニッコリと笑って返し、瀬戸も言う。
「俺のほうこそ、テニスは負けられない」
間近で見つめ合った。そうして、眼差しが揺らめくのを互いに見て取る。声に出して笑い、きつく抱き合った。
「春樹……!」
本間は、せつない声を上げる。
「これからは、ずっと一緒だよな?」
「うん――」
答えて、瀬戸は本間の肩に顔をうずめる。風が吹き抜ける――ふたりの周りを、瀬戸の中を。
気持ちいい――。
空は、もう青く澄み渡っていた。ふたりのいる場所は静かで、明るい光にあふれていた。
「とりあえず――」
本間が明るく言う。
「今日は、俺の車で、一緒に帰ろう? ここには、バスで来たんだろう?」
頷きながら、それではまっすぐ帰れそうにないなと瀬戸は思う。そう思えるのが、照れくさくて、うれしい。
「その前に、試合だな」
「ああ、久しぶりに本気の勝負だ」
でも腰は大丈夫かと訊かれて、また笑ってしまった。そんなにヤワじゃないと返して、また抱きしめられてしまう。
「これじゃ、ダメじゃん」
ほうっと息をついて、瀬戸は言う。
「ラウンジに戻るのが先」
これからは、いつだって、こうできるのだから。のんびりと、やっていけばいい。一年もかけて遠回りしたのだから。それを取り返すように、昨夜は、いきなりフルコースを駆け抜けたのだから。
「て言うか、そのアイス、どうすんだよ?」
「んじゃ、おまえ、食っちゃえ」
溶けかけのアイスを口に押し込まれた。自分でしたくせに、本間は真っ赤な顔になる。それを見て、瀬戸も頬を染めた。
了
◆
BACK ◆
作品一覧に戻る
素材:ivory