一
三年次で唯一の必修専門科目「応用生物科学実験」のガイダンスで矢島直宏は青くなっていた。同じ理学部生物学科の学生は一学年に八十人程度で、縦に細長い大教室がほとんど埋まっている。教壇ではプロジェクターを使って年間の授業計画の説明が始まり、大きなスクリーンとマイクを通した声で、最後列に近い席の直宏にもしっかりと伝わってくる。 ……マジにヤバイかもしれない。 伸びすぎた茶色い髪で顔を隠すようにして直宏は縮こまった。細い眉をひそめ、開始前に配布されたプリントをもう一度手に取る。もともと大きな目をさらに見開いて何度見直しても同じだ。記載内容が変わるわけがない。 プリントの一枚目には使用するテキストや参考書の案内のほかに授業目標が掲げられていて、二枚目には年間の授業計画が一覧になって記されている。今この部分の説明がされているわけだが、二年次までに履修した実験をベースに、より専門的で高度な実験を行うと言われるならそのとおりと思えるけれど、直宏には軽く眩暈がしそうな内容だった。 初回から遺伝子の組み換え実験だ。二年次に半期をかけてやったようなことを二週間足らずでやり終えなくてはならない。その先には遺伝子ライブラリーの作製とか遺伝子クローニングなどという文字が並んでいて、段階を踏んで実験を進めるにしても、ついていけるか早くも不安でいっぱいになった。 なにしろ、必修の専門科目なのだ。単位が取れなければ卒業できない。 三枚目に記載されているクラス分けが頼みの綱だったのに、自分の受け持ちは厳格と評判の真木教授で、その上八人しかいないメンバーに知っている名前がひとつもなかった。 なんで……。 懇意にしている友人は数えるほどでも、直宏は同学年の半分とは顔見知りになっている。しかし何度見直しても、自分のクラスに知っている名前はひとつもない。 「矢島、あきらめろよ。クラス違ってもやることは同じなんだから、困ったときは俺が相談に乗ってやるって。今はちゃんと説明聞いとけ。じゃないと、もっとヤバくなるだろ」 「……うん」 隣から友人の吉村に耳打ちされて、力なく直宏は頷く。入学以来ずっと頼りにしてきた吉村とクラスが別になってしまったことが、一番のショックだった。 俺、もうダメかも。 必修の専門科目がお手上げだなんて、だったら、なぜこの学科に入学したんだと他人は言うかもしれない。今では、直宏自身がそう思わざるを得ない状況だ。 生物、好きなんだけどな――。 それだけの理由だった。理系なのに数学がどうしても苦手で、受験しなくて進学できるなら大変助かると、高校三年生になってすぐに指定校制の推薦入学を希望した。自宅から通学できる距離にあって、生物学関連の学科に推薦枠があるのはこの大学だけだった。他の同級生とかち合わずに推薦を受けられた理由は、入学してから知った。要はキツイのだ。生物学科と称しても履修内容は応用生物科学の範疇で、一年次からバイオテクノロジーに関わる科目が必修になっている。 それでも、一年次はまだ楽しかった。基礎生物学実験なんて、毎回わくわくして臨んだ。たとえば光学顕微鏡を使っての観察は高校生のときから好きだったし、得意だった。 しかし二年次に必修の実験でつまずいた。一言で済ませるなら、直宏は「操作」が下手なのだ。酵素によるタンパク質の部分消化など、手順に従って実験を進めているはずなのに、なぜか期待どおりの結果が得られない。自分の何がいけないのか、もしかして何か勘違いしているのか、何度か吉村につきあってもらったが、決定的な要因は見つけられなかった。吉村に言わせれば単に要領が悪いということらしいが自分ではわからない。最終的には実験の目的を果たせるものの、途中でのやり直しは必然のようになり、とにかく他の学生に比べて時間がかかる。 そうこうして、すっかり実験に苦手意識を持つようになってしまった。理系学生としては致命的なんじゃないかとまで自分で思う。卒業研究は文献から起こした論文で許してもらえないかと去年から考えているくらいだ。しかし、この応用生物科学実験は逃れようがない。今年度の必修科目だ。単位を落として来年度も履修するなんて、それだけはなんとしても避けたい。 どうしよう。 そんなことばかりを考えて、集中できないうちにガイダンスは終わった。 「はあー……」 直宏は盛大に溜め息を吐き、机に突っ伏す。 「おまえなあ。今から落ち込んだって何にもならないだろ?」 隣から吉村に苛立ったように言われた。 「でもさー」 誰に頼れる見込みもなく、この一年を乗り切らなくてはならないのだ。実験は、基本的に個人単位で行うと説明された。 なんで遺伝子工学が必修かな……。 この大学の生物学科にいて、そんなことを思う学生は自分くらいだろう。誰もが生物学の最先端を学べて喜んでいるはずだ。 吉村だって、きっとそう。けど、俺は工学的に遺伝子を操作するなんて好きになれない。 「矢島とクラス別になって、俺だって残念だよ。でも一緒の講義のほうが多いわけだし、そっちではこれまでと同じように頼むよ」 急になだめるようなことを言われて直宏は恨めしそうに目を上げた。吉村は困った顔になってプリントの三枚目を開く。 「おまえのクラス、誰がいるわけ?」 吉村が心配してくれているとわかり、直宏はしゅんとする。 「あ。カキツバタがいるじゃん」 明るく言われたが一緒になってプリントを見る気になれない。聞いたこともない名前だ。 「誰、それ」 「マジ? おまえ知らないの? 俺らの学年で一番頭が切れるヤツだぞ?」 「……知らない」 「信じらんねえな。去年なんか、学内の論文コンテストで表彰されてたじゃん。サイトにも出てたし、掲示板にも貼ってあっただろ?」 「俺、自分のことで手いっぱいだったから」 「……そうだったな」 そこはむしろ同意してほしくなかったところだ。吉村も気づいたようで、取り繕うように慌てて言う。 「でも何かわからないことあったら、こいつに訊いたらいいよ。俺に訊くより早いだろ? わりと話しやすいし、教えてくれるはず」 「吉村、話したことあるんだ?」 「ちょっとだけな。おまえのクラスでほかに知ってるヤツ、俺もいないし。カキツバタがデキるのは本当なんだからいいじゃん。ほか当たるより確実だぞ?」 「……とりあえず覚えとく」 「そうしとけ」 三年にもなってから新しく交友関係を広げることになるとは思っていなかったが、吉村の言うとおり、背に腹は変えられない。何はともあれ、単位を落とさないことが目標だ。 カキツバタ、ってヤツと仲良くなれるなら、どうにかなるかもしれない。 非常に自分本位な思いつきだが、そう考えたら少し気持ちが上向いた。いずれにしても、同じクラスに相談に乗ってもらえる相手はいたほうがいい。 「――うん。がんばってみるよ」 「だよな」 ニカッと笑って返されて、なんだかホッとした。やっぱり吉村の笑顔は和む。短い茶髪をツンツンと立たせ、学科内では浮いて見えるほど派手な服装をこよなく愛し、鉛筆のように痩せてひょろりと背が高く、ずいぶんと尖がった印象が強いが、根はやさしい男だ。 新年度は始まったばかり、前向きでいようと直宏は元気よく立ち上がる。あれだけいた学生の姿は、もう教室にまばらだった。今日の授業はこれで終わり、どこに寄って帰ろうなどと話しながらふたりは教室を後にした。 「カキツバタ、って……これ、そう読むんだ」 応用生物科学実験の初日、直宏は唖然として目の前の男を見上げる。ガイダンスで配られたプリントを今さらのように広げて「杜若智則」の文字を指差す。読めていなかった。 担当の真木教授の指示でペアを組まされた直後だ。実験はあくまでも個人で進めるが、便宜上ふたり一組になってひとつの実験台を使う。その相手を特定された。 「そう。杜若智則です。一年間、よろしく」 「こ、こちらこそ、よろしく」 直宏は恐縮してしまう。頼りにできそうだから親しくしたらいいと吉村に言われたが、自分から近づいていく前にこうなった。 学年で一番頭が切れると聞いて想像していたよりも、ずっと印象がソフトで意外に思えた。何より、声がびっくりするほど穏やかで低い。背が高く、だけど吉村のようには痩せていない。むしろがっちりとした体格に見える。これまでにつきあったことがないようなタイプだ。 そんなことより、なんて言うか――。 天は二物も与える、とでも言えばいいのか。吉村から聞いたとおりの秀才なら本当にそうかもしれない。男の直宏がドキッとするほど顔がいいのだ。 「杜若なんて珍しいでしょ? ぼくも自分の親族以外に同じ苗字を見たことがないんだ」 「ど、どこの人なの? 自宅通学?」 いちいち声が上ずってしまい、直宏は恥ずかしくなる。しかし相手は平然としていて、さっそく実験の準備に取りかかり、手を止めずに話す。 「家は京都だよ。だから今はこっちでひとり暮らししている」 「そ、そうなんだ……」 「やっぱり実験が長引いたりすると帰りが遅くなるじゃない? 先月で契約が切れたから、更改しないで大学の近くに引っ越したばかり。矢島は自宅通学?」 「う、うん」 「遅くなると家に帰るのも大変でしょ?」 「ま、まあな。けど、そういうときは友だちのとことか泊めてもらうし――」 「そうでもしないとキツイよね」 にっこりと見つめられて、顔が赤くなったように感じた。 な、なんで。 さっきから無駄にしどろもどろしている。いくら初対面でもどうしてこんなに緊張してしまうのか自分でわからない。 な、なんつーか……王子様っぽい? 自分で思って内心で引いた。よりによって「王子様」とたとえた自分のセンスが信じられない。 ……でもさ。 そう見えるのだ。さっぱりと整った黒髪も、きれいな弧を描く眉も、メガネの奥で静かに笑みをたたえる瞳も、すっと通った鼻筋も、嫌味のない薄く大きな唇も、シャープな顔の輪郭も、理学部生物学科の学生には余剰に思えるほど品がある。王子様に白衣が許されるなら、まさにそのものだ。 なんで今まで目につかなかったんだろう? 純粋に疑問だった。一学年に八十人程度しかいないのだから、全体で受ける講義のときにでも目を惹かれておかしくなかったはずだ。 「あのさ。このあいだのガイダンスのとき、どのへんに座ってた?」 まったく脈絡のない質問をして、直宏はまた自分で引いた。アホだ。アホすぎる。 「ガイダンスのとき? 一番前だったかな」 しかし何を気にするふうでもなくさらりと答えられ、納得する。普段の行動が、きっと重ならないのだ。それなら、これまで一度も目につかなかったのも当然に思えた。 「去年、論文で表彰されたんだって?」 「あれね。講義で提出したレポートだったんだけど、よかったみたいで、真木教授に薦められて応募したんだ」 「去年も真木教授の講義取ってたんだ?」 「そう。ぼくは遺伝子工学を専門にやりたいと思っているから。院にも行くつもり」 「……へえ」 やっぱり自分とは違うと思ってしまう。想像していたよりずっと気さくで、すぐにも打ち解けられそうに感じたが、しょせん中身は科学の最先端に傾倒する秀才のようだ。少しだけ残念に思えた。 残念だなんて……俺が変わり種なのに。 「どうしたの? もう実験始めないと」 「あ」 うっかりしていた。雑談に気を取られて準備をする手がお留守になっていた。この授業は週に二回、木曜日と金曜日の三時限目から五時限目までだ。今日は組み換えDNA実験の第一回で、制限酵素によるDNAの部分消化まで行わなくてはならない。終わらなければ明日の実験に差し支える。 「俺、実験が苦手で――」 わたわたと手を動かし、直宏は言い訳するように口走った。テキストを食い入るほどに見て、手順を確認する。 「実験が苦手、って。それなのに予習してこなかったとか?」 「してきたよ! 暗記するほどしてきても心配なくらい苦手なの」 「今日やることって、去年もやったじゃない」 あまりにもこともなげに言われ、カチンときた。 「それが不安だから苦手だって言ってんの! ――あ」 声が大きすぎたようだ。教授の鋭い視線を感じて身がすくむ。当然ながら、実験態度も成績評価の対象に入っている。 「そんなに焦らなければいいのに」 実験台の向こうから困った顔で笑われて、直宏はムスッとしてしまう。 「そう思うならからかわないでよ、カ、カキ、カキツバタッ」 「からかってなんかないよ。て言うか、ぼくの名前で噛むなんて、少し落ち着いたら?」 「言いにくいんだよっ。――わかった。もう、アヤメって呼ぶ。いいだろ?」 「え」 「大して違わないじゃん、カキツバタもアヤメも。もう、おまえアヤメね。決まり」 すげなく言い捨て、とにかく実験を始めなければと試験管を取り上げた手が止まった。 「……な、に?」 笑っている。実験台の向こうで腹を抱え、すらりとした長身をかがめ、白衣を着た王子様のような男が声を殺して大笑いしていた。 「なんだよー」 そこまで笑われるようなことを言ったとは思えない。直宏は思い切り顔をしかめて睨みつける。そうしたら目が合って、またプッと吹き出されてしまった。今度は口まで押さえて笑いをこらえる。 「そ、その顔――」 「はあ?」 苦しそうに漏れ聞こえた声に、直宏はいっそう眉が寄った。 「いや、な、なんでもない」 「はあっ?」 涙目になってまで言われ、むしろ呆れた。 ヘンなヤツ。 気にせず実験を始めようとしたら、無理に笑いを抑えた声でまだ言ってくる。 「おもしろいよ、きみ。生物を専攻しているくせに、カキツバタもアヤメも変わらないみたいに言ってさ」 「ほっとけよ、ただの売り言葉だろっ」 暗にバカにされたようでムッとした。しかし相手は、きっと自分など足元にも及ばないほどの秀才だ。少し悲しくなった。 「怒らないでよ。おもしろいって思ったんだ。いいよ、ぼくはアヤメで。そんなことぼくに言うなんて、きみが初めてだ。あ、きみじゃなくて矢島? 矢島って呼んでいい?」 「……どうぞ。アヤメ」 苗字で呼ぶくらい普通だろ。 そう思って、つい嫌味ったらしく返してしまったが、アヤメはまだ笑っている。 「なんだか、矢島とは気が合いそうだ」 そんな話はもう実験が終わってからにしてほしいと思いつつ、直宏はチラッと目を向けた。屈託のない明るい笑顔が飛び込んできて、不意を突かれたみたいにドキッとした。同時に、教授の苦虫をつぶしたような顔が視界に入り、慌てて実験を開始した。 結局、五時限目が過ぎても、直宏は目的のところまで実験を終えられなかった。当然ながら居残りだ。自分の何がそんなに気に入られたのかまるでわからなかったが、アヤメも残ってつきあってくれた。 謎だ。いくら実験パートナーとは言え、初対面のうちからここまで親身にされるなんて意外でしかない。ほかの学生たちは次々と帰っていき、実験室にふたりきりになっていた。 「実験が苦手って言ってたけどさ」 今度こそうまくいったと思えたとき、アヤメが話しかけてきた。授業中とは違い、椅子に座って実験台に頬杖をついている。 「手際が悪いだけじゃない? 慣れてない、って言うか。自信がないだけかもしれないな。何度もテキスト見てつまらないミスをしたり。同じ実験を繰り返しやってみるとか、そういうことで克服できるんじゃない?」 「……今日も繰り返しやってるんですけど」 「そうじゃなくてさ」 さすがにいじけて返したら、改まった顔を向けてくる。 「興味を持って、積極的に自分から知りたい気持ちがあって、納得のいく結果がほしくて、そうなるまでとことんやる気になったことって、あるでしょ?」 真剣に問われ、返答に詰まった。もちろん、直宏にもそのような経験は数え切れないほどある。でなければ、ここにいない。もともと生物は大好きな学科だ。小さく吐息をついて口を開いた。 「言いたいことはわかるよ。けど、俺は遺伝子操作とか好きじゃなくて。笑うかもしれないけど、そういうの、なんか受けつけないんだ。最初からそうだったわけじゃなくて、やればやるほどそうなっちゃった感じで。観察とか解析とか、疑問に思ったことを明らかにするのは楽しいんだけど、自然にあるものを人為的に変えるってのが、なんか、こう――」 吉村にも話してないことだった。それをどうして知り合ったばかりのアヤメに話せるのか、思ったら続かなくなって、最後は口ごもってしまった。 「矢島はロマンティストだね」 「え?」 突拍子もないことを聞いた気がして、驚いて顔を向けた。アヤメはにっこりと続ける。 「ほめてるんだよ。酵素反応なんて、好きでしょ?」 「は? え? まあ……好きだけど」 どうして酵素反応が引き合いに出てくるのかわからない。 「ぼくも酵素はロマンだと思うな」 「……なに言ってんの?」 「だからさ、そういうことなんじゃないの? 興味が持てないなら自分なりに持てるきっかけを探すとか。本当なら、今日の実験は楽しかったんじゃない?」 「……まあ、たぶん」 確かにそのとおりに思えたが、歯切れよく答えられなかった。うまくいかなくて何度か繰り返したあとだ。 「これから、どうしても好きになれない実験をすることになったら、嫌々やるんじゃなくて、いっそ機械的にこなせるようにしたら?」 「それができたら苦労ないって言うか――」 「じゃあ、できるようになろうよ。ぼく、たまに真木教授の研究室の手伝いしてるんだ。四年生や院生の実験データ集めがほとんどだけど、やれば慣れるよ?」 「えっ! 俺なんかがやったら迷惑――」 「ぼくと一緒にやればいいじゃない」 どうしてそこまで言われるのか、まったく見当がつかない。アヤメとは実験パートナーだが、肝心の実験は個々で行うのだから今後も足を引っ張ることはないはずだ。今もつきあって残ってくれているが、頼んだわけではないし、先に帰ってくれてもよかったのだ。 「……なんで?」 恐る恐る訊いてみた。そんなふうに訊かなくてもいいのにと自分で思いながら、しかし、そう訊いてしまった。 「なんででしょ?」 だが、きょとんと返されて直宏のほうこそ目が点になった。どんな思考回路をしているのか、ぜんぜんわからない。やっぱり謎だ。 ――ヘンなヤツ。 そう思った途端、ブフッと中途半端に吹き出してしまった。そうしたらいっそう笑いがこみ上げてきて、何がおかしいのか自分でもわからないままケラケラと笑った。 「いい顔」 頬杖をついた顔を上げてアヤメが見つめてくる。穏やかで明るい笑顔だ。 「初めて笑った」 そんなふうに言われて直宏は気恥ずかしくなる。自分は今日、そんなにも仏頂面でいただろうか。そうかもしれない。 「終わったなら、帰ろう?」 さらりと言ってアヤメは立ち上がる。直宏は無事に今日の実験を終えられたことを再度確認して実験器具を片づけ始める。 なんだか胸が温かい。白衣を脱ぐアヤメを横目で見つめる。困ったときに助けてもらえたらいいと、そんな打算的な気持ちで近づこうと考えていた自分を思って恥ずかしくなる。 きっと、本当にいいヤツ――。 春の夕暮れは早く、窓の外はすっかり暗くなっていた。照明を落とすと、四階にある実験室からは遠くに瞬く明かりが無数に見えた。 直宏はアヤメと連れ立って通用門から大学を出る。大して歩かないうちに、借りているアパートはすぐそこだとアヤメは言って、駅に向かう直宏と交差点で別れた。直宏は信号を待ちながら長身の後ろ姿を見送った。一度も振り返らずに凛として去っていく様子に、王子様のようだとまた思った。引き止めて、もう少し話せばよかったかもしれない。でも、明日また会える。そんなことを思う自分に気づき、戸惑って、ひどく照れくさくなった。 つづく ◆NEXT ◆作品一覧に戻る |
素材:700Km