二
「カキツバタってさー。いいヤツだよなー」 しみじみと言って、直宏は机に頬杖をつく。はるか前方、縦に長い大教室の最前列の席にアヤメこと杜若智則の後ろ姿が見える。 「おまえ最近、そればっかだな、マジで」 「だって本当にそう思うんだもん」 「はいはい」 夢見るような眼差しの直宏に吉村は隣から呆れた調子で返した。いいかげん聞き飽きたらしい。応用生物科学実験が始まっても一度も助けを求めてこない直宏に吉村が様子を尋ねたときから、直宏は五月の連休が過ぎた今になっても、カキツバタが親切にしてくれる、本当にいいヤツだとやたらと口にしていた。 「けど、不思議なんだよなー。なんで三年になるまで知らなかったんだろう」 「誰が一番できるとか、そういう話に興味ないからだろ」 面倒そうにも律儀に答え、吉村はテキストを開いた。次の授業は必修の細胞生物学だ。 「そうじゃなくて、あいつ美形じゃん。俺なんて、今でも顔見るとドキッとする」 だが吉村はノートを取り出した手を止め、胡散臭そうに目を向けてきた。 「なに言ってんの、おまえ。相手男だぞ?」 「え? でも美形だろ? 美形がヘンだって言うならイケメン? でもイケメンって感じとはちょっと違うよな?」 「……ホモかよ」 「なにそれー」 吉村はつまらなそうに顔を背け、それきり口を閉じてしまった。なぜそんな態度を取るのか、直宏もムスッとしてテキストを開いた。担当教授が入ってくる。無駄話をする間などなくなり、すぐに講義が始まった。 直宏は教授に目を向けて耳を傾ける。誰もが同じように軽くうつむいてノートを取っているせいで、さっきよりもアヤメの姿がよく見える。背筋を伸ばして、教授に顔を向けている。アヤメの隣はどちらも空席だ。 四月から気になっていた。アヤメと一緒になる授業は応用生物科学実験を始め必修科目ばかりで、一週間のうち半分もないが、どのときもアヤメの隣には誰もいなかった。 普段から連れ合うような友人がいないのか、それとも単に最前列を嫌がって別々に座っているのか、そんなことを考えて眺めるようになって気づいたが、アヤメは話しかけられれば誰とでも話すのに、自分からは誰にも話しかけていかない。 それが不思議だった。自分といるときのアヤメを思うと、自分のほかにもっと親しい友人がいてもおかしくなさそうなのに、いつもひとりだ。 実は単独行動が好きとか? ふたり一組の実験パートナーだから自分には親しくしてくれるのか。でもアヤメの態度はいつも自然だ。初対面から気さくだったし、それからも親身に接してくる陰に無理はまったく感じられない。自分が知っているアヤメは、ありのままに思える。 じゃあ……俺が特別ってこと? そう思ったら、トクンと鼓動が跳ねた。自分の思い込みでなく本当にそうなら、とてもうれしい。 いつも落ち着いていて、理知的で、しかもアヤメは顔がいい。体格もいいのに上品な雰囲気で、頭もいいのに気さくでやさしくて、同じ男でもときめいてあたりまえではないか。 やっぱ、王子様だよなー。 講義中であることも忘れ、直宏はうっとりとアヤメを見つめる。もっと親しくなりたいと思った。アヤメをもっと知りたい。そんなふうになれるのではないかと期待した。 「あのさー」 講義が終わり、次は昼休みとあって早々に教室を出て行く学生たちでざわめき始めた中、直宏はテキストを閉じるよりも先に吉村に話しかけた。 「前にカキツバタと話したことあるって言ってたよね? なんで?」 吉村とは一年次からほぼ毎日一緒にいるのに、吉村だけがどうしてアヤメを知っていたのか、思い出したら気になった。 吉村は机に広げてあったものを片づけながら、ムッとしたようになって答えてくる。 「去年、分子生物学で一緒だったんだよ」 直宏は選択しなかった科目だ。納得した。 「それって、もしかして真木教授?」 思い当たってついでに尋ねたら、軽く溜め息をついて手も止めずに答える。 「後期試験の前に、どうしてもわからないところがあってさ。杉田もわからないから誰に教えてもらおうってなって、一緒にカキツバタに訊きにいったんだ。それまで話したことなかったのに丁寧に教えてくれて、だから、わりと話しやすいっておまえに言った」 「へえー」 それなら今は、もっと親しくなっていてもいいはずなのに、なぜそうではないのだろうと考え、直宏はハッとする。 アヤメはとんでもなく気を遣うのかもしれない。吉村はいつも誰かと連れ合っているから――去年のその講義でなら杉田と、普段なら自分と――だから、そこに割り込むようなまねはしないと、そういうことかもしれない。 ……だったら。 応用生物科学実験のとき以外は話しかけてもこない理由がわかったように思う。直宏がいつも吉村といるから。直宏から話しかけていかないから。 直宏は、アヤメが座っていた席に目を向ける。しかし、そこにはもう誰もいなかった。 「昼って、学食?」 「は? いつもそうだろ?」 何を今さら、とでも言いたそうに吉村が目を上げた。 「カキツバタ、呼んでもいい?」 「は?」 怪訝そうに眉を寄せる吉村には構わずに、ケータイを取り出した。電話番号もメールアドレスも教えてもらっている。まだ一度も使ってなくて、迷って電話にした。アヤメを呼び出す。だが、なかなか出ない。 「……おまえさー。なに考えてんの」 疲れた口調で吉村が呟いた。 「呼んだって来ないんじゃねえの」 「なんで」 「あいつのこと、学食で見たことあるか?」 「……なかったわ」 パタッとケータイを閉じ、ぽかんと吉村を見た。ガックリと肩を落とされる。 「おまえ、どうしたいわけ? カキツバタとラブラブにでもなりたいって? だったら、俺抜きでやれよな。おまえらがいちゃつく横になんていたくないから」 「なんだよ、さっきから!」 思わず、きつく言い放った。とんでもない言いがかりだ。だが吉村は、呆れきった様子で淡々と言い連ねてくる。 「そんなふうに見えるって言ってんだよ。前からガキくさいとこあったけど、今のおまえって、初めて恋しちゃった中学生みたいだ。カキツバタっていいよね、なんて言われたって俺は知らねえっての。ぐだぐだ俺に話してないで、さっさとカキツバタのとこ行きゃいいじゃん。ドキドキするから一緒に来てなんて、冗談じゃねえっての」 「そ、そこまで言ってないだろ!」 焦って言い返せば、冷ややかな目になって見つめてくる。 「同じだろ? あいつ呼んで俺も一緒にメシ食おうって思ったんだろ?」 顔が熱くなった。それは、確かに中学生レベルだ。吉村の視線に耐えられなくなって、直宏はすごすごと顔を背けた。 「お、怒ったわけ……?」 「べつに。怒るとか言うより面倒なだけ。俺、あいつとなに話したらいいかわからないし。しらけてメシ食うんじゃまずくなるから、それが嫌だっただけ」 「――ごめん」 直宏はしょぼんとしてしまう。アヤメのことばかりで吉村のことを考えていなかった。 「つーかさー。おまえがホモったって俺はどうでもいいけど、ほかのヤツに俺に言ったみたいにしたら、フツーに引かれるぞ?」 「だから、そんなんじゃないってばー」 どう話せばわかってもらえるのか、情けない顔になって吉村を見るが言葉が続かない。吉村はあからさまに溜め息を落とし、やれやれと肩をすくめて見せる。 「かもしれないけど、そう見えるんだって。カキツバタが好きなら普通につきあえばいいじゃん。ドキドキすんなよ」 「だ、だって!」 「顔がいいって言うんだろ? 俺もそう思うよ? けど、おまえが言ってんのはちょっと違うだろ?」 諭すように言われ、直宏はガックリと肩を落とす。でも、そうではないのだ。自分は、ただ――。 「あいつ、いつもひとりみたいだから。近づきにくい、って言うか。そんなことないんだけど、おまえとかそうなのかな、なんて」 「ガキ」 言われて、上目遣いに吉村を見た。 「もう、つきあっちゃえよ。おまえ、どうせカノジョいないんだし。俺は妬いたりしないから、気にすんな」 「な、なんでそうなるんだよ!」 サーッと顔に血が上った。いきなり鼓動が跳ね上がり、直宏はうろたえる。 「おまえの理屈だとそうなるの。ほら、学食行くぞ。早くしないと食いたいもんなくなる」 吉村はバッグを手に取ると、くるりと背を見せた。 「待てよ、吉村! それじゃわかんない!」 直宏は出してあったものを手当たり次第にバッグに放り込み、吉村を追った。廊下で並び、もう一度尋ねようとして先に言われた。 「けどさ、マジに今年の実験はキツイよな。一年のときから話には聞いてたけど、時間内に終わらせるだけでも精一杯だわ。木曜日のカテキョのバイト、曜日変えてもらったよ。矢島もほとんど居残りになってんだろ?」 吉村は真顔で見つめてくる。 「え。……うん」 さっきの話はもう終わったと言われたに等しく、直宏は押し黙るしかなかった。 なんだよ。つきあっちゃえなんて、勝手なこと言ってくれてさ。どこが俺の理屈だよ。俺はアヤメが気になるだけで――。 ドキッとした。なぜか顔がまた熱くなる。 それだって、アヤメがひとりでいるみたいだからで――。 吉村に並んで歩き、吉村の話す声が聞こえているのに、歩調よりもどんどん速くなっていく鼓動が耳にうるさかった。 だから……なんで。 「矢島。――矢島!」 「え! あ、ごめん」 背後から吉村の声が聞こえて、焦って振り向いた。吉村が立ち止まったことにも気づかなかったらしい。 「ひとが話してんのに、ぼーっとすんなよ」 吉村は大股で近づいてきながら呆れ返った調子で言った。 「悪い」 直宏はうな垂れてしまう。 「おまえさー……。ま、いいか」 言いかけて、吉村は溜め息をつく。ポンと直宏の肩に手を置き、困った顔で笑った。直宏はホッとする思いだった。 吉村は一年次からの一番の友人だ。大学の帰りに連れ立って買い物に行ったり食事をしたり、休みの前の日や実験で遅くなった日にはアパートに泊めてもらったりもしてきた。 吉村との関係を大事にしたいと思っている。つまらないいざこざは、できるだけ避けたい。 でも……なんで。 吉村の笑顔にホッとしたことに直宏は戸惑う。アヤメの笑顔にはドキッとすることを思い、どうして今アヤメが浮かんでくるのか、そんな自分にうろたえた。 五月の空は青くすっきりと晴れ渡っている。初夏を思わせる気温でも風は緑でさわやかだ。直宏の通う大学は郊外にあって敷地がやたらと広い。校舎のほかにセミナーハウスや研究施設が点在していて、入学して二年が過ぎた今年になっても直宏には足を踏み入れたことのない場所がかなりあった。 昨夜よく眠れなかったせいか、直宏は二時限目の理科教育論の講義に合わせて出てくるつもりだったのに遅れてしまった。教職関係科目で欠席は望ましくないとわかっているのに、自主休講を決めてラウンジに立ち寄った。まばらにいた学生に知った顔はなく、なぜか居たたまれない気持ちになって、中に入りかけていたその足で再び外に出た。そうして今、大学の敷地内をふらふらとしている。 もとは雑木林だったらしく、いたるところに背の高い木々が見られる。それが用途別にキャンパスを仕切る役目を果たしていて、学生課のある校舎の裏手には、いっそう生い茂った緑が見える。 その向こうまで行ってみようと思ったのは、ただの気まぐれだった。学部内にいたくなかっただけだ。いっそ休みたいとまで思ったのに無理にも登校した理由は、今日が木曜日で午後いっぱい応用生物科学実験が入っているからにほかならない。 「実験かぁ……」 声に出して呟き、直宏は肩を落とす。初回以降、どうにかこうにか他の学生に遅れを取らずに続けられてきて、遺伝子組み換え実験は第三段階の遺伝子クローニングに入っている。今月中に最終段階まで終えて、月末には実験結果の総合討論があって、来月からは新しく構造生物学実験が始まる。 来月から始まる実験はおもしろそうだった。結局はアヤメの言ったとおり、自分の興味がどこにあるか、それだけのことに思えるようになった。 アヤメにはずいぶん助けられていた。気持ちの上でもそうだし、ふと湧いた疑問をその場で気軽に質問できる相手としてもそうだ。 雑談はほとんどしていない。している余裕がない。大学を出る時間が遅くなるから帰りに誘う余裕もない。自宅がもう少し近かったらと思わなくもないが、アヤメとはごくわずかな会話でも気持ちが通じるようだった。 それなのにな……。 『ぐだぐだ俺に話してないで、さっさとカキツバタのとこ行きゃいいじゃん』 昨日、吉村に言われたとおりに思う。あのときは吉村の言葉の選び方にいちいち引っかかって素直に耳を傾けられなかったけれど、帰宅して、夜もふけて静かに落ち着いた気持ちになってから思い返したら、自分が嫌になるくらいひとつひとつが腑に落ちた。 実験の時間中だけでなく、アヤメともっと関わり合いたいと思っている。見かけたら話しかけるとかすればいいのに、それができないのは、ほかの誰でもない自分自身がアヤメを近寄りがたいと感じているからだ。 だってさ……しょうがないじゃん。 吉村といるのに吉村を振り切ってアヤメに近づくなんて、なんとなく後ろめたい。だからと言って、昨日の失言のように吉村も巻き込んで一緒に仲よくしようなんて、まさに中学生並みの発想だ。 だが本当は、吉村といてもいなくても同じはずだった。遠く離れたところにひとりでいるアヤメに近づくことが怖い。話しかけて、もしも不機嫌にあしらわれたらどうしようと思う。実験パートナーという枠からはずれれば、自分などアヤメには取るに足りない相手に思える。自分が知っているアヤメはありのままのアヤメで、実験室の外で話しかけてもやさしく応じてくれると思えるのに、それが信じられない。 だからさ……しょうがないじゃん。 見るたびにドキッとするほど秀麗な容姿で、学年で一番と噂されるほど頭が切れるのだ。 やっぱ、王子様――。 『顔がいいって言うんだろ? 俺もそう思うよ? けど、おまえが言ってんのはちょっと違うだろ?』 吉村に指摘されるまでわかっていなかった。吉村のアヤメを見る目は客観的だけど、自分はひどく主観的にアヤメを見ている。 そのことに気づいて昨夜は眠れなくなった。アヤメが気になってならないこの気持ちが何であるのか、わかりたいようでわかりたくなくて、いつまでも悶々としていた。 「はあー……」 立ち止まって直宏は空を仰ぐ。大学の構内に敷かれた車道に沿って木陰が続き、そこは並木道のようになっている。先にある建物はセミナーハウスだ。何かしら催しがある日は多くの人で賑わうが、普段は閑散としている。今も直宏のほかに人影は見えない。 鳥の声が聞こえた。木漏れ日がちらちらと目にまぶしい。同じ大学の敷地内にいるのに空気まで普段と違っているように感じ、直宏は深く呼吸する。気持ちが落ち着いていった。 自分がアヤメに抱く感情は、あこがれのようなものだと思う。外見も中身も自分より格段にすぐれていると感じるから、ひがんだりねたんだりする気持ちが湧く余地もない。 気軽に近づいていけないのもそのせいに思えた。実験パートナーという、いわば強制された枠に入ることがなかったら、きっと存在すら知らなかった相手だ。 ……アヤメから見れば俺も同じ。 そう気づいたら悲しくなった。ずいぶんと身勝手な気持ちだ。自分からは近づけないけれど、アヤメにはもっと近づいてほしい――。 再び歩き出すとセミナーハウスの陰に東屋が見えた。そこにそんなものがあったか漠然と考える。セミナーハウスには講演会が催されたときに入ったことがあって、一階ロビーのガラスの壁越しに小さな庭園が見えたことを思い出した。 あそこ、外から入れる? てっきり建物で閉鎖された中庭と思い込んでいた。急に興味が湧いて、そこに向かう。 「へえ、こんなふうになってたんだ」 コの字型に建物に囲まれている部分には池と芝生があって手入れも行き届いて見え、立ち入り禁止になっているが、建物の中から見えるその裏は、かつての雑木林のなごりなのか、下草もそのままの木々の合間を縫って遊歩道のような細い道が伸びて、ところどころにベンチが置かれ、手前に東屋がひとつあるだけだ。 東屋に気づかない限り、直宏が歩いてきた構内の車道からは、そこは木立にしか見えない。車道をはさんだ反対側には薬学部の研究施設があって、その先も無機質の印象の強い灰色の建物が緑の中に点在して見えるだけで、こんなところに憩いの場が設けられているとは周囲からは想像もつかないと思えた。 ラボの人たちが休むところ……? だとしても今は誰もいない。コンクリートで固められた細い道を往復してみたが数分とかからず、散歩をするにも短すぎる。ベンチや東屋も使われている形跡がない。 もったいないな、ここ。 東屋に入ると周りの木々しか目に映らなくて、大学の敷地内にいることを忘れる。座面に落ちていた葉を払い、そこに腰をおろした。風が吹き抜けていく。足も座面に上げて膝を立てて仰向けに寝転んだ。かすかに草の匂いを感じる。目を閉じて深く呼吸する。静かだ。 「……矢島」 どのくらいそうしていたのか、うたた寝をしていたのか、自分を呼んだ声に目を開けた。見上げる視界にぼんやりと顔が映った。ハッとして跳ね起き、顔がぶつかりそうになって咄嗟に身を引いた。 「あ、アヤメっ?」 「うん。こんなところで奇遇だね」 目を丸くして口をぽかんと開ける直宏に、アヤメはにっこりと笑いかけた。 「な、なんでっ?」 「そっちこそ、なんで? ここで知っている人に会うなんて初めてだ」 「え? なに? それ――」 直宏は焦るばかりで状況が飲み込めない。アヤメは普段からここに来ているのか。 「あ」 アヤメに足を向けていると気づき、慌てて下ろした。座り直したらアヤメとのあいだに中途半端な距離ができた。わざわざ間を詰めるのもおかしいように思え、顔だけ向ける。 「ここ、よく来るの?」 「うん」 「誰か来ているようには見えないんだけど」 「天気のいい日だけね。昼休みに来るんだ」 へえ、とも、ふうん、とも言えずに直宏はアヤメを見つめる。メガネの奥で目を細め、やわらかな笑顔でアヤメが見つめ返してくる。 「矢島。もう昼休みだって気づいてる?」 「あ」 もうそんな時間になっていたのかと少し慌てた。学食で吉村が待っているかもしれない。さっきの時間は授業が別々だった。 「戻る?」 直宏はケータイを取り出した手を止めて、またアヤメと目を合わせた。 「ぼくはここで食べるから」 ランチパックを見せられて腑に落ちた。 「いつも、ここで食べてるんだ?」 だから学食で見かけないのかと思った。 「いつもじゃないよ。よその学部の学食で食べたり、ラボの食堂に紛れ込んだりもする」 クスッと笑った顔はいたずらっぽくて、直宏はドキッとする。アヤメがこんな表情をするとは意外で、なぜか照れくさくなった。 「でも、いつもひとりで食べてるんだ?」 「まあね。そのほうが都合いいこともある」 それはどういうことなのだろう。思っても尋ねられずに、直宏は間が持てなくなって手にあったケータイを開く。今日は学食に行けないから待たなくていいと吉村にメールした。 「戻らないの?」 「戻るよ、あとで。俺のことは気にしないで食べて」 アヤメの顔も見ないで言った。バッグからペットボトルを取り出し、お茶を飲む。 本当は自分もいないほうがアヤメには都合いいのかと思った。でも、もう少しアヤメとここにいたかった。 緑を目に映す。風が吹き抜けていく。東屋の中にも木漏れ日が踊る。鳥の声がする。 「気持ちよさそうな顔」 不意に聞こえてアヤメに顔を向けた。 「食べないの?」 「今はいい」 横顔を見つめられていたのだとわかって、また照れくさくなった。お茶を飲む。 「ここが気に入った?」 「え?」 「さっきから、そんな顔してるから」 どんな顔かと戸惑いながら直宏は答える。 「気持ちいいよ、ここ。林にいるみたいだ」 「やっぱり、矢島はロマンティストだね」 「え?」 アヤメはにっこりと見つめ返してくる。直宏はさらに戸惑って、視線が泳ぎそうになる。 「自然のままがいい、違う? 遺伝子操作は自然を壊すようで好きじゃない、でしょ?」 「あ――」 応用生物科学実験の初回で話したことだ。自分がうまく言葉にできなかったことを端的に言い表されたとわかって驚いた。 「いいんだよ、それで。自分が興味持てないことは誰かが解明するから。ゴキブリなんて見たくもない科学者もいれば、つぶさに生態を観察する科学者もいるってこと。もともと科学者って、そういうものでしょ?」 唖然とする直宏から目をそらし、アヤメもペットボトルを取り出して一口飲む。 「ぼくにも、あえて触れたくない領域はある。誰かが解明しても自分には謎にしておきたい。ロマンがなくなったら、つまらないからね」 それこそ楽しそうに笑いかけてきた。 「ロマンって。……前も言ったよな? 酵素反応が、なんでロマン? 謎じゃないだろ?」 思い出して尋ねた直宏に、クスッと笑う。さっきと同じ、いたずらっぽい笑い方だ。 「酵素は形の合う基質にしか反応しない。合わなければ完全にスルーだ。それって、恋愛みたいでロマンでしょ?」 驚いた。アヤメのほうが、よほどロマンティストだ。 酵素反応をそんなふうに思うなんて。 アヤメ自身がそうなのか。自分に合う相手にしか反応しなくて、それは恋愛のようなものだと――。 あ……。 直宏は顔が熱くなる。急にドキドキしてきて胸が苦しくなる。 そんなはず……ないのに。 「俺は――ここにいて、よかったのか?」 どんなつもりで言ったのか自分でもわからない。気づく前に口にしていた。 「ここに来て、人がいたことに驚いた。矢島だとわかって、うれしくなった」 「アヤメ……」 直宏はアヤメを見つめる。もう見慣れてもいいはずの明るい笑顔がまぶしい。 俺は――。 見つめる相手は黒髪の王子様。背が高く、何度でも見とれてしまう顔立ちの。メガネをかけていて白衣が似合う秀才だけど、いつも穏やかに笑っていて意外にロマンティストで。 胸が甘酸っぱく締めつけられた。こんな気持ちは、あこがれなんて言葉では済まない。もっと近づきたいのに近づけなくて、でも、アヤメには近づいてきてほしくて。 「矢島、どうしたの?」 やわらかな笑顔でアヤメが手を伸ばしてきた。目にかかる髪を指先ですくわれた瞬間、直宏は飛び上がった。 「ごめっ、ごめん! またあとで! 実験始まる前に、ご飯食べてくるから!」 あたふたとバッグを手に取り、東屋から駆け出した。一目散に学部校舎を目指した。 どうしよう……俺、アヤメが好きなんだ! 息が上がって苦しくて、だけどそれだけではない理由で胸が詰まった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:700Km