Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      きみと恋愛研究
      −4−


       四

      「やっぱさー、男とキスしたらホモ?」
       週末を悶々と過ごして月曜日を迎え、直宏は吉村が隣の席に着いた途端、そう口走った。悶々とすることに疲れて頭には何もなかった。
      「……おまえなー」
       言いかけて吉村は口を閉じる。呆れた顔でそっぽを向いた。
       この教室にアヤメはいない。今の時間は別の授業に出ているはずだ。直宏が受けるはずだった授業は休講になった。教室に来てから知って、遅れて来た吉村も同様だった。
      「天気いいなー。梅雨なのに」
       なんとなくトゲのある口調で吉村が言った。直宏は机に突っ伏して思い切り溜め息をつく。つられたのか、吉村まで隣で溜め息をついた。
       いつになく静かだ。教室にはまだ何人か居座っているのに話し声もしない。みんな自習でもしているのか。無理にも直宏はそんなことを考える。
      「……まさかだよな。しちゃったとはね」
      「そうは言ってないだろ」
       暗く呟いた吉村に反論するが、疲れた声にしかならなかった。あっさり流される。
      「おまえ、あいつに気に入られてるもんなー。まあ、なんとなくわかるけどさ」
      「なんだよそれ」
       ぶすっとして言ったら、ぽんと頭に手を乗せられた。その手でわしゃわしゃと髪をかき混ぜられる。
      「……やめてよ」
      「うん」
      「やめろって」
      「うん」
      「だから、やめろって言ってるだろ!」
      「あ、復活した」
       ガバッと身を起こした勢いで吉村の手を跳ね除け、直宏は睨みつけるのだが、吉村は無表情で見つめ返してくる。
      「いいんじゃねえのー、べつに」
      「だから。……なんだよそれ」
       気まずくなって目をそらし、直宏は乱れた髪を手でいじくる。気遣われているのか突き放されているのか、なんだかよくわからない。
       吉村があからさまに溜め息をついた。
      「人間の感情なんて一筋縄ではいかないから。平気よ? 俺は。わりと寛容ってゆーか、おまえならアリってゆーか」
       直宏はガックリと肩を落とす。
      「アリなのかよ」
      「あると思います」
      「……なんでー」
      「ガキだから」
       ムッとして直宏は横目を向けるが、吉村は平然と続けた。
      「あ。でも、いちいち報告しなくていいから。どっちがどっちに突っ込みましたとか聞きたくないから。想像しちゃうから」
      「するなよっ。つか、言うか! じゃなくて、そんなこと、ぜんぜん無理だってー」
       食ってかかって返したものの、直宏はまた机に突っ伏した。いっそ泣きたい気分になる。なのに、吉村はけろっとして尋ねてくる。
      「なんで?」
      「……逃げちゃった」
       投げやりになって白状した。
      「だからおまえは夢見る中学生だっつーの」
      「……どうすればいい?」
      「知るか」
       吉村には迷惑な話だろう。どうしてこんな話を始めてしまったのか、今さらながら直宏は後悔する。もう駄目かもしれない。吉村にも愛想を尽かされたかもしれない。アヤメも呆れているはずだ。おとなしくキスされておきながら逃げ出したなんて――。
       吉村が面倒そうに口を開いた。
      「中学生で想像してみろ。まずゴメンして、それからマジに告白だろ? うげ、鳥肌立つ」
       直宏は顔を上げられない。
      「……キモイ?」
      「中学生並みにぐだぐだしてんのがな」
      「……ホモは?」
      「俺にはカンケーねえ」
      「友だちやめる?」
      「……だから関係ねえって」
      「うん――サンキュ」
      「あーあ。空が青いなあ」
       机に額を押しつけて、直宏はぎゅっと目を閉じる。胸が温かくなっていた。吉村の飾らないやさしさがうれしかった。


       まずゴメンして、それからマジに告白かぁ。
       昼休みが終わる頃になって、直宏は吉村に言われたままに胸のうちで繰り返し、手にしたケータイをぐっと睨みつけた。嫌なくらいドキドキしている。だが、どっちにしろ謝りたいと思っていたのだ。土曜日の自分のあの態度はないだろう。それに、アヤメがどんなつもりでキスしたのかも知りたかった。
       知るのが怖いだけ――。
       キスをした直後のアヤメのうろたえぶりを思うと、あれは弾みでしたとか、雰囲気に流されましたとか言われそうで怖い。アヤメでもそんなことがあるのかイメージと結びつかないが、なにしろアヤメの言動は予測しきれない。もしそう言われたら悲しすぎる。キスされて、本当にうれしかったのだ。
       なのに、逃げたんだよな、俺――。
       はーっ、と息を吐き出し、直宏はガックリとうな垂れる。どうしようもない。アヤメを男と知って好きになったのは自分だ。覚悟を決めた。
      「――アヤメ? その……土曜日はごめん」
       誰もいない教室を選んで、そこから電話した。がらんとした室内に自分の声が響くようで余計にドキドキしてくる。
      『そんな! こっちこそ本当にごめん!』
       いきなり謝り返されてしまった。やっぱりあのキスは不慮の事故扱いされてしまうのか。
      「……なんでアヤメが謝るの」
       気落ちして、思わず暗く言ってしまった。
      『なんでって――。驚かせちゃったから。あんなふうにするつもりはなかったんだ』
       ……やっぱり。
      『急に理性が飛んだって言うか――抑えられなかった。あんなことしたなんて、自分でも信じられないんだ。絶対に嫌われたと思ったから電話もできなかった』
       え、と思う。何か違うことを言われている。
      『うれしいよ、直宏から電話くれて』
       直宏と呼ばれてドクンと胸が鳴った。
      『謝れてよかった。今度の実験のとき、どんな顔して会えばいいのか悩んでたんだ』
      「ちょ……待って! それ、どういう――」
      『え? ……ぼくは、許してもらえないの?』
      「違う! そうじゃなくて――ねえ。会って話せる? 俺、今日は五限までだけど」
      『ぼくもそうだ』
      「じゃあ……連れてってよ。土曜日に行こうとした店」
       思い切って言ってみた。ドキドキして胸は苦しいほどになっている。たとえ期待どおりの結果にならなくても、アヤメが誘ってくれたその店に行き、せめてこれまでの関係でいられるならいいと思った。
       だってさ……男同士なんだし。そんな都合いいこと――。
      『うれしいよ、そう言ってもらえるなんて』
       でも、弾んだ声が返ってきた。
      『ごめん、教授が来た。またあとで電話する』
       慌しく切られたが、ホッとするような思いだった。ケータイを閉じて、急いで次の授業の教室に向かう。アヤメと会って話して実際にどうなるかはわからないと思うのに、どうしても期待が湧いた。
      「ここだよ。入ろう」
       五時限目の授業が終わってしばらくした頃、ふたりは通用門で落ち合って店に来た。顔を見た途端なぜか互いに照れてしまい、ここに来るまでに会話らしい会話はなかった。
       夜には早いせいか、客はまばらだ。片隅のテーブルに着き、それぞれに定食を注文した。
       さっそく直宏は改めて謝ろうと思うのだが、今になって場所の選択を誤ったことに気づいた。よく考えなくても、定食をつつきながら恋を語るなんて無理だ。
       誰もいないところ……あの東屋とかにすればよかった――。
      「土曜日は本当にごめんね。気持ちも確かめないであんなことして乱暴でした」
       うな垂れそうになったところへ唐突に言われ、驚いた。直宏は顔を上げてアヤメを見る。
      「嫌われなくてよかった。本当によかったよ」
       しみじみとしたアヤメの口調に心が揺れる。
      「……なんで」
       アヤメの目を真剣に覗き込み、口を開いた。
      「うれしかった、って言ったらどうなる?」
      「――え」
       目を合わせたまま、そろってしばらく言葉がなかった。視線が絡むまでになって直宏はドキドキしてくる。アヤメの眼差しが熱い。穏やかなのに熱い。瞳が揺れてしまう。
      「――その顔。弱いんだ。たまらなくなる」
       アヤメが低くささやいた。頬が淡く染まっている。
      「……それだけ?」
       自分で言って、ずるいと思った。即座に言い足した。
      「俺は、アヤメが好きだよ……」
       見る間にアヤメの顔が真っ赤になる。店員が盆をふたつ持って近づいてくることに気づき、直宏は慌てて椅子に座り直した。アヤメも気づいて窓のほうに顔を背ける。
       外はまだ明るい。暮れなずむ空がオレンジに染まっている。特別なときでなくても目にすればせつなくなる景色だった。ふたりとも押し黙り、食事を始める。離れた席で笑い声が上がった。
      「ひとつだけ教えて」
       箸を動かしながらアヤメがやさしく呟いた。
      「土曜日、どうして急に帰っちゃったの」
      「――ごめん」
       直宏はしゅんとなる。うまく説明できる自信がない。
      「俺もアヤメも男だから。――怖くなった」
      「怖い――?」
       アヤメは箸を止めて目を向けてきた。
      「いけないような気がして。俺、なに考えてるか自分でわからなくて」
      「ぼくもだよ」
       直宏は驚くのに、にっこりとアヤメは言う。
      「同じだったんだね」
       ……そんなんでいいのか?
       拍子抜けしてぽかんと口を開ける直宏にアヤメは穏やかに笑いかけ、再び箸を動かして話を続けた。
      「でも、ぼくは怖くなったりしないよ。ただ、いきなりあんなことしたのは本当に悪かったと思ってる。それでも直宏がうれしかったって言ってくれるなら少しも後悔しない。衝動とか感情って、そういうものだと思うんだ。驚くことはあるけど、怖くはならない」
      「……ありのままに受け入れるから?」
       直宏が探るように呟いたら、パッと明るい笑顔になった。
      「そうだよ。ぼくも同じなんだ。男なのに直宏を好きになって、直宏に悪いと思うのに、でも、直宏が大好きだ」
       どうしよう……。
       声が出ない。好きと言ってもらえた喜びに増して、アヤメのやさしい心遣いに胸が締めつけられた。
       自分のことしか考えてなかった。男の自分が男のアヤメを好きになったらアヤメに悪いんじゃないかなんて、少しも頭になかった。
      「アヤメ……俺――」
       キスされて逃げたことを心から申し訳なく思う。きっとアヤメを傷つけた。
       ぜんぜん嫌じゃなかったのに。本当にうれしかったのに。
       直宏はうつむき、箸を持つ手にぽたっと涙が落ちる。アヤメの気持ちに応えたい。自分もアヤメが好きなのだから。
      「また、キスして――」
       消えそうな声で言った。
      「お願いだから」
      「直宏」
       穏やかにアヤメが笑う。甘い声でわかった。
      「そんなふうに言わないで――泣かないで。ご飯の味がわからないんじゃない? ここの定食、おいしいでしょ? 食べたら、ぼくの部屋においで」
      「――うん」
       だけど、やっぱり味はよくわからなかった。ただ、アヤメが薦めるにふさわしい、とてもやさしい味に感じられた。


      「あ――」
       直宏は戸惑う。このあいだのキスとはぜんぜん違う。唇は深く合わさり、アヤメの舌が執拗に口腔をなぶる。
       腰も回された腕にしっかりと引き寄せられ、頭も同じようにされ、全身がぴったりと密着している。膝のあいだに脚を入れられて、硬く猛ったアヤメの興奮が布越しにも感じられ、きっと同じように自分の興奮もアヤメに知られている。
       たまらなかった。アヤメがこういうことにも積極的だとは考えていなかった。むしろ色恋とは無縁に思えていた。勝手に抱いた幻想だったと思い知らされる。
       アヤメの住むアパートは意外にも簡素で、着いたときにはすっかり日も暮れて、一階の一番奥の玄関を入った途端、こうして抱きしめられて唇を奪われた。まだ靴を脱いだだけだ。狭いキッチンから、その先の部屋にたどり着けないでいる。
       だが、とっくに頭はくらくらで、背筋を何度も甘い痺れが走り、直宏は立っているのもやっとの状態だ。膝に力が入らない。体中が熱くて、どうにかなってしまいそうに思う。
       もう、どうにかなってしまっているのかもしれない。こんな経験は初めてで、何もわからない。ただアヤメにすがるだけで、それが精一杯で、受ける一方のキスに翻弄される。
      「直宏――」
       唇を触れさせたままアヤメがささやいた。
      「大丈夫?」
       少しも大丈夫じゃない。脳が溶けているんじゃないかと思う。それもとろとろに。
      「怖くなったら言って。嫌だったら――」
       どうにか頭を横に振り、直宏は答える。アヤメの肩に額を乗せ、浅く短い呼吸を繰り返す。指の先まで甘く痺れていた。アヤメの胸に置いた手が、ずるずると下がっていく。
      「困ったな」
       艶めいた低い声でアヤメが呟いた。
      「止まりそうにないみたい」
       直宏はアヤメの首筋に鼻を押しつけ、うっとりと目を閉じる。唇が触れたそこにキスをした。舌の先でそっと舐める。
      「いいの? 本当に」
       アヤメが欲しがってくれるならとてもうれしい。自分もアヤメが欲しかった。
      「……どうなってもいい」
       言ってから恥ずかしくなった。だが恥じらっている間などすぐに奪われ、腰を抱かれて奥の部屋に連れて行かれる。
       ベッドに腰を下ろし、見つめ合った。胸が熱くなる。体はもう溶けそうなほどになっていたが、アヤメの眼差しに心が溶かされた。情欲に染まっても、やさしくて穏やかだ。メガネを取ったアヤメの顔をまともに見るのは初めてに思う。いっそう魅了される。
      「どうなってもいい、なんて言って――」
       はにかむようにアヤメは笑う。
      「どうなっても知らないよ?」
       それでいいんだと首を振った。
      「直宏」
       かき抱かれてアヤメの胸に顔をうずめた。
      「たまらないよ。最初からそうだった。うれしかったんだ」
       頬を重ね、せつなくなる声でアヤメが言う。
      「直宏は何でも自分で知ろうとする。そういうところが、たまらなく好きだ」
      「アヤメ――」
      「わかってる? そんなふうにぼくを呼んだのは直宏が初めてなんだよ?」
       直宏は目を閉じる。深く息を継いだ。いつもひとりでいるアヤメが気になっていたことを思い出した。
      「ありのままを受け入れようとしているのは直宏なんだよ――」
       胸がじんとした。ひとりでいるほうが都合いいこともあるとアヤメに言わせた背景がどのようなものか、わかったように感じた。
       目を開き、思いの丈を込めて見つめる。
      「俺はアヤメが好きだから。もっと知りたい」
      「……ぼくもだ」
       キスをして、舌を絡ませ合う。そっと押されてベッドに倒れた。被さってきたアヤメを受け止める。鼓動が跳ね上がった。
       アヤメの手がTシャツの裾から忍び込んでくる。素肌をまさぐられ、一段と火照った。乳首に触れられる。そこがそんなにも感じるなんて知らなくて、ビクッと体が跳ねた。
      「あ、いや」
       身をよじり、直宏は逃れようとする。快感がダイレクトに股間に伝わる。
      「……あかん?」
       ふと聞こえたアヤメの言葉に焦った。
      「あかんなん? ――こないなこと」
       な、んで!
       いきなりの京言葉に心臓がバクバクする。性感を刺激される快感とは別物だ。
      「なあ、直宏……感じへん?」
      「いや! ダメ! おかしくなるっ」
       腰をくねらせ、半ば必死に訴えた。
      「知らない人みたい! お願い、やめて――」
      「かんにんな――あ。ごめん、つい……」
       唇にやさしくキスされた。吸いつくように応えて直宏は震える。Tシャツを引き抜かれた。ボトムもまとめて下ろされた。
      「あ、アヤメ……」
       涙で目がにじんだ。昂ぶった自分ものを大きな手が包んでいる。ゆっくりと扱かれた。露が溢れてアヤメの手を濡らした。
      「だめ、いく――」
       最初のキスから危なかったのだ。あっさりと頂点まで上り詰める。
      「いって」
       甘くそそのかされ、素直に放った。息が乱れてたまらない。手際よく裸になったアヤメが肌を重ねてくる。しなやかな筋肉と共鳴するような速い鼓動をじかに感じて眩暈がした。
      「あ」
       股間にもぐり込んできた手が奥の狭間を探った。ぬるぬるとなめらかに動く。それと同時に乳首を口に含まれた。アヤメの黒髪が首をくすぐる。肉厚の舌が乳首を舐める。
      「ひゃ、あ、ん、んっ」
       とんでもない声が出た。恥ずかしさにも頬が染まり、顔が熱くてどうにもならない。気持ちいい。感じている。アヤメと触れ合っている箇所はどこも、とろとろと溶けていくようだ。ぬるりとアヤメの指が体の中に入って驚いたが、また快感の波が襲ってきた。
      「平気――?」
       何度も頷いて答える。アヤメにやさしく気遣われると、そのことでも感じる。
      「もう……きてっ」
       アヤメは驚いた顔になり、指を抜くと唇を引き結んで硬い昂ぶりを突き立ててきた。
      「あっ、あ、はん!」
      「これだから、直宏はっ」
       そんなふうに言われても直宏は翻弄されるばかりで、もう一度放ち、そのときにアヤメも放ったことと、黒髪の王子様は実はひどくいやらしかったことがわかっただけだった。


       実験のある木曜日と金曜日はアヤメと昼食を食べる。晴れているなら場所はあの東屋だ。
      「直宏」
      「アヤメ!」
       授業が終わった教室にアヤメが迎えにきた。直宏の隣で吉村が目をむく。
      「アヤメ、って。マジか?」
      「あれ? 知らなかったっけ?」
      「それに直宏って――」
      「直宏、行こう」
      「ちょ、待って。まだ吉村と――」
       直宏はわたわたとするのに、半ば強引に手を引いてアヤメは歩き出す。
      「ぼくは、彼はライバルだと思っていたから」
      「はあっ?」
       教室を出る前に振り向いた。気がついて、吉村が小さく叫んで寄越した。
      「バカップル!」
      「えーっ……」
       何も言い返せない。アヤメを見る。自分の手を引いて先を行き、振り向きもしない。
       どうも黒髪の王子様は暴君になったようだ。まだ知らないアヤメはきっといるに違いない。
       直宏はアヤメに並び、満面の笑みで見上げる。照れくさそうな顔で見つめ返され、吉村が何を言ったか、しっかり聞いたなと思った。
      「バカップル。いいよね?」
       言った途端に髪にキスをされ、直宏は首をすくめた。隣でアヤメが穏やかに笑っていた。


      おわり


      ◆BACK  ◆作品一覧に戻る

      素材:700Km