三
これは恋なのか。アヤメが好きだと自覚してから、気づくとそのことばかりを考えている。いつのまにか六月が終わろうとしている。一ヶ月以上も悶々とし続けてきたことになる。 だってさ。なんで俺が男に――。 「矢島? どうかした?」 パタッと手にしていた洋書を閉じ、直宏はアヤメに差し出す。ふたりは理学部の図書室にいる。大学の図書館に比べたら蔵書の数は雀の涙ほどだが専門書が充実している。 「やっぱり、これがいいんじゃない? アヤメの目的に一番合ってると思うよ」 「ありがとう。助かるよ」 にっこりと言われ、落ち着かない気分で目をそらした。 「役に立ってるなら、いいんだけどね……」 直宏が選択していない科目の参考書だが、選ぶ手伝いをしてほしいとアヤメに言われてここに来た。ざっと読み比べるにも原書では一苦労なことはアヤメでも変わらないらしく、直宏は実は英語が得意で辞書がなくても概略はつかめると知られてから、たまにこうしてアヤメに頼られるようになった。 ぜんぜん構わないんだけど。いつもは俺が助けてもらってるんだし。 あの東屋でばったり会って以来、実験のとき以外にも一緒にいることが増えた。アヤメから話しかけてくるのだ。同じ授業を受けていても最前列のアヤメの隣に座るまで至ってはないが、終わると声をかけられ、次の教室に移動しながら話をする。そんなとき吉村は、さりげなく離れていった。アヤメが苦手というわけではなさそうだが三人ではいたくないらしい。 俺がアヤメとばかり話すから――。 そんなふうに考えるのも中学生みたいだが、アヤメと話していたい気持ちを抑えられないのだから仕方ない。アヤメが好きだと自覚してしまった以上、そこを吉村に突っ込まれてはやるせないし、吉村が本当にはどう思っているのか深く考えたくなかった。 「そうだ。うっかりしていた。真木教授の研究室の手伝い、来週だけど大丈夫?」 「えっ! それマジだったの?」 そんなふうに答えても直宏はアヤメと目を合わせられない。アヤメの顔を見ると、以前にも増して胸がドキドキして困る。 「本当だよ。一緒にやろう? 一時間ごとに経過観察してデータ取るだけだから、残りの時間は遊んでいても構わない」 「でもなー」 「真木教授がそう仰ってました」 「……わかったよ」 どうもアヤメは真木教授のお気に入りらしく、そのためか、研究室の手伝いでもアヤメが直宏とやりたいと言えば通るようだった。 べつにいいんだけど。アヤメがメインで俺なんておまけにしか思われてないんだろうし。 時には空き時間にこの図書室の机に並んでそれぞれにレポートを仕上げたりもしてきたが、アヤメとのプライベートなつきあいはまだ一度もない。休み時間に少し話すくらいでは物足りなく感じるのだ。たとえ研究室の手伝いでも、授業とは関係のないところで長い時間一緒に過ごせるなら楽しみに思える。 俺って、いろいろ期待しすぎ――。 「金曜日、授業が終わってからだ。二十四時間の経過観察だから泊り込みになる。その日の自分の実験、がんばって終わらせないとね。手伝いのはずが、逆に手伝ってもらうことになっちゃったりして」 「わかってるよー」 そこまで言われてやりたいとは思えないが、一晩アヤメと過ごせると聞いて気持ちが浮き立つ。ムスッとして上目遣いにアヤメを睨むのだが、直宏は口元がゆるんでいた。 アヤメはパッと目を瞠り、すぐにいつもの穏やかな笑顔になった。何か言いかけたように見えたが直宏が薦めた洋書を片手に、貸し出しの手続きをしに離れていった。 「あっちー。なんで冷房入らないのー」 初めての研究室の手伝いとあって、やはり気が引けていたが、実際には単純な作業の繰り返しだった。数時間前に終えた自分の実験のほうがよほど困難で、その反動もあって、直宏はくつろぎすぎるほどくつろいでいた。 真木教授は翌日の朝から出張だそうで既に帰宅している。だが、実験の準備は自分の手で整え、初回のデータは自分で取り、アヤメと直宏に手順を確認させた。普段なら院生などに手伝わせているのだろうが、学部生でもできる実験で、何よりアヤメがやらせてほしいと言ったから任せたようだ。 「もう少し早く気がつけばよかったね。この時間じゃ、管理室は誰もいないだろうな」 「大元の電源切られてんのかよー。省エネか」 直宏は白衣の前をはだけて、手近にあったファイルをうちわにしてあおぐ。白衣を脱いでもデータを取るときは着なくてはならないから一時間ごとにそうするのも面倒で、下のTシャツを脱いでしまおうかと考える。 「隣の部屋も窓開けようか? でも風がないから変わらないだろうな」 梅雨の合間の晴れて蒸し暑い夜だ。ふたりのほかに研究室に誰もいない。一時間ごとに確実にデータを取れるなら順に仮眠を取っても構わないと言われている。研究室には冷蔵庫もシャワーブースもあって、どちらも使っていい許可が下りているが、もとからあった消耗品は使用不可だ。 「さっき弁当買いに行ったとき、氷も買ってくればよかった」 「氷? 体冷やすの? 氷なら使っても平気じゃないかな。あ、保冷剤がある」 「貸してー」 一時間ごとにデータを取るとは言っても、その作業にも時間を取られるから、実際には数十分単位でオンとオフが切り替わる。空き時間は遊んでいても構わないと言われたが、何ができるわけでもなかった。 「はー、冷たくて気持ちいいー」 アヤメから受け取った保冷剤を首の後ろに当て、直宏は心地よく目を閉じる。頭がすっきりとして助かった。実験は簡単でもミスは許されない。むしろ単調な繰り返しのため、どこかで気がゆるみそうで怖い。だがずっと緊張しているのではそれもまたミスを招きそうで、適度にリラックスしていることが肝要に思える。 「やっぱ、かなりキツかったかも。ミスったらまた二十四時間かけてやり直しなんて、俺ゼッタイ嫌だなー」 「そんなこと考えてるの? 弱気だな」 クスッと笑う声がして、あのいたずらっぽい笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。きゅんと胸が締めつけられたように感じ、直宏はパッと目を開くと、飛びつくようにしてアヤメの首に保冷剤を押し当てた。 「ひゃっ、ちょ、なんでっ?」 アヤメは、いっぱいに見開いた目を向けてくる。直宏を押し返しもせずに身を引くだけで、普段からは想像もつかない怯えようだ。 直宏は目を丸くし、ブッと吹き出す。自分よりも体格がいいくせに弱々しくうろたえて、顔を真っ赤にしている。 「や、やめろよっ」 たかが保冷剤にどうしてここまで動揺するのか、おかしくてならなかった。直宏は声を上げて笑い、だが保冷剤を離してやる。 「冷たくて気持ちいいのに。暑くてぼうっとしてたらミスるぞ?」 「ぼ、ぼくは大丈夫だからっ。蒸し暑さには慣れてるからっ」 「――あ。そうか、京都だったな」 「そうだよ!」 「普通に関東の言葉しゃべるから忘れてた」 「二年も住めば慣れるよ。同じ日本語だし」 「京都ってそんなに蒸し暑いの? 修学旅行でしか行ったことないからなー。でも顔赤いんだけど。やせ我慢してない?」 「えっ」 ボッと、沸騰したようにアヤメの顔がまた一段と赤くなった。直宏がうろたえてしまう。 「あ! 時間!」 「うわ、やべ!」 うっかりするところだった。まだ二分ほどある。ふたりは落ち着いて実験台の前に立つ。時計を見て実験用のケースを開けた。すばやく検体をひとつ取り出し、すぐにデータ測定に移る。 「ヤバかったな。ふざけてなんかいられない」 「……ふざけてたの?」 「――え?」 アヤメの顔を見てしまいそうになったが、直宏は動かす手を止められない。直宏が実験に慣れるために研究室の手伝いをすると言ったとおり、ふたりとも起きているあいだは、アヤメは直宏にやらせるつもりでいる。 ふざけたんじゃなかったら、何だったって言うんだよ――。 さっきのアヤメの反応。あんなにも動揺するとは思わなかった。 ……慣れてない? あんなことに慣れるも慣れないもないが、ふざけること自体に慣れてないのかもしれない。これまで、アヤメはどんなふうに友人と親しんできたのだろう。うれしいとき、楽しいときにスキンシップを取ったりしなかったのだろうか。 ……スキンシップ。 自分がしたことを思って直宏は照れた。 アヤメが笑ったりするから。 あのいたずらっぽい笑顔が好きだ。つい絡みたくなる。抱きついて一緒になって笑いたいような、そんな笑顔。 やっぱ、これってヤバ……。 手を動かしながら、何を考えているんだと自分をいさめた。アヤメが見ている。つまらないミスをしたくない。引け目なくアヤメと肩を並べられるようになりたい。集中した。 二十四時間実験を続けることはマラソンに似ていると思った。夜更かしには慣れているつもりだったが、一時間単位で緊張を繰り返しているとつらくなる。直宏は音を上げて先に仮眠を申し出た。午前二時を回っている。 「どうせなら、もっと早く言えばよかった。ヤバくなりそうだったら起こして絶対」 眠った分だけアヤメが仮眠を取れる時間が遅くなる。三時間も寝たら五時になってしまう。考えが足りなかったことに気落ちした。 「ぼくは大丈夫。京都とは関係なく」 アヤメらしいジョークに直宏は笑う。この時間までずっと京都の話を聞いていた。 「うん、サンキュ。ちょっと寝てくる」 来客があったときのためなのか、研究室の隅にパーティションに囲まれてソファがある。頭をふらつかせてそこに向かった。白衣を脱いで横になった。だるくなっていた足を伸ばして肘掛けに乗せたらすぐに眠りに落ちた。 夢を見たように思う。アヤメが穏やかに笑っていた。うれしくて手を伸ばしたら、触れる前に驚かれて身を引かれた。 好きだという気持ち。触れてみたいと思う気持ち。どちらも、まだ友情の範疇なのか。 恋なら……もっと違うよな。 たとえば、どんなことだろう。抱き合いたいとか――その程度なら友人同士でもする。では、キスとか。友人とキスはしない。そうだ、抱き合う程度では満たされない気持ち。抱き合いたいのではない、密着したいのだ。ぴったりとくっついて、ひとつになりたいような気持ち。相手を自分だけのものにしたいと思う、少し暴力的な気持ち。 アヤメを俺のものにするなんて……。 王子様なのに。ふざけた勢いで触れる程度で精一杯だ。深く考えてないからできること。意識したら、途端に気持ちも体も引いてしまう。だけど、アヤメから近づいてきたら。アヤメに抱きしめられたら。キスされたら――。 「う、ん……」 蒸し暑い。パーティションのせいで余計にそうみたいだ。寝る前にどかせばよかった。こめかみを伝う汗を感じる。 ……あ。 ひやりと心地よい感触がした。首の横と額の上。すっと意識が沈む。これは保冷剤――。 もとから仮眠のつもりだったからか、浅い眠りにまどろんだ。ぼんやりと目が覚めて時間を確かめたら一時間半が過ぎていた。肩のあたりに保冷剤がまとまってふたつある。 夢じゃなかった。 アヤメのやさしい心遣いに胸が温かくなる。アヤメが仮眠を取るときにも使ってほしい。だが、保冷剤がいくつあるのか自分では確かめてもいない。起き上がって冷蔵庫に向かう。 「あれ? もういいの?」 アヤメは本を読んでいた。直宏が薦めた専門書だ。なんとなくうれしくなる。 「サンキュ。すっきりした。アヤメが寝てよ」 「ありがとう。じゃあ、シャワー浴びてから」 保冷剤を冷蔵庫に戻そうとして、手が汗ばんでいることが気になった。横の洗面台で保冷剤ともども洗おうと、直宏は目の前の台にあるハンドソープに手を伸ばす。 「あっ」 白衣を脱ぐアヤメの腕が背にぶつかった。ハンドソープが目の際にかかった。 「うわ、ごめん!」 「や、平気だから……」 片目を固くつぶって鏡を覗き込み、ハンドソープが入らないよう、指先で慎重に拭う。そうしている間にも白い液体が頬をたらりと伝う。鏡の中でアヤメと目が合った。 ――え。 目を大きく瞠り、頬を染めて固まっている。直宏の視線に気づき、急にあたふたした。 「あ、俺はマジ平気だから」 振り向いたらビクッと肩を揺らし、直宏を見つめていっそう赤くなる。口まで半開きになって、アヤメとは思えない顔だ。 「ど――」 「いや! なんでもないから! ごめん!」 どうしたのか訊こうにも、アヤメはいきなりシャワーブースに駆け込み、その際にドアで頭をぶつけた。 ……ヘンなの。 直宏はぽかんとして、顔にかかったハンドソープを洗い落とす。手も保冷剤も洗って、冷蔵庫を開けた。保冷剤はふたつきりだったようだ。ほかに見当たらない。 「あ、いけね」 もう次のデータを取る時間だった。直宏は白衣を着て実験台に向かい、時計を睨む。隣にアヤメがいなくて少し緊張する。 無事にデータを取り終えて、パソコンに数値を打ち込もうとして気がついた。アヤメがまだシャワーから出てこない。耳を澄ますと水音が聞こえる。ずっと聞こえる。まったく止まらない。ギクッとした。 まさか倒れているとか。 声をかけようとして、でも聞こえないなと思った。入力は後回しにできる。直宏はシャワーブースに歩み寄り、ドアを細く開いた。 アヤメと呼びかけた声を咄嗟に飲み込む。勢いよく落ちる水滴に打たれて、アヤメは片手を壁につき、うな垂れている。濡れた髪が顔にかかり、引き結ばれた唇しか見えない。だが股間に伸びた手が何をしているかはよく見えた。 直宏は軽いパニック状態になる。とんでもない場面を見てしまった。すぐにドアを閉めなければと思うのにアヤメから目が離せない。硬く引き締まって見える体。水滴を弾く肌。手に包まれ、猛々しくそそり立つもの――。 カッと顔が熱くなった。股間まで熱くなる。慌ててドアを閉めそうになり、どうにか耐えて、気づかれないうちにそっと閉めた。 「はあー……」 忍び足でパソコンの前に戻り、椅子に身を投げ出した。アヤメを心配しただけのことだ。覗き見するつもりはなかった。 けど、なんで今、あんなことするかな。 つい思ってしまったがアヤメは悪くない。覗き見した自分が悪いのだ。実験は既にストレスになっているし、短時間で深く眠るためにしたことなら理解できる。だいたい、あれがアヤメではなく吉村だったら、ネタにして笑っているところだ。 ……すっげー、エロかった。 結局はそれだ。あんなアヤメを見て、興奮しかけた自分が恥ずかしい。いや、しっかり興奮した。女の子のシャワーシーンを見て興奮するのとは種類の違う興奮だ。 ……そんな分析してないで忘れよう。 気を取り直してデータ入力を済ませる。シャワーから出たアヤメに、じゃあ寝るねと声をかけられても、顔を向けられなくて背中でうんと答えるだけだった。アヤメがソファに行ったとわかって溜め息が溢れた。知らずに息を詰めていたらしい。 なんなんだよ、俺――。 胸がドキドキしている。半端ない強さだ。マウスをもてあそぶようにしてインターネットブラウザを開いた。次々とウェブサイトを巡るが何も目に入ってこない。 アヤメでも抜いたりするんだ……。 意外に思うほうがどうかしているとわかっていても、ひどく意外に思えた。普段の上品な雰囲気とは段違いだ。 あのときのアヤメの顔。口元しか見えなかったが、シャワーに打たれ、シャープな顎先から水滴が落ち、とてもセクシーだった。しなやかな背と小さく締まった尻。鍛えられているとしか思えない肉体。大きな手が雄々しく充実したものを握り、上下に動いて――。 だからヤバイって。 股間がズクッと疼き、焦る。また鼓動が速くなったように感じた。意識して、ゆっくりと息を吐く。モニターを見て忘れようとする。 任された実験は、まだ半分も終わっていない。自分は大丈夫なのか、不安になった。 それから数時間してアヤメが起き出し、窓の外もすっかり明るくなって朝食を買いに出ようとしたとき院生がやってきた。真木教授からの差し入れだと言ってサンドウィッチの入った袋を渡してきた。だがそれで帰るわけではなく、さっそくサンドウィッチを食べ出したふたりなど眼中にない様子で実験を始めた。もとからその予定だったらしい。 その院生は夕方までずっといた。ほかにも何人かやってきては用を済ませて帰り、日のあるうちは何かと気ぜわしかった。直宏はかえって実験に集中せざるを得なくなり、たまに院生に話しかけられても好都合に感じられ、アヤメとふたりきりでいるより手際よく進められたように思う。手の空く時間にさまざまな話が聞けたことも楽しかったくらいだ。 マラソンのように感じられた実験だったが、夕方に最後の院生が帰って、ふたりきりになってから残り二回のデータを取り、使用したすべての器具を片づけて終わった。 「すっげー、疲れた」 直宏が思わず声に出せば、アヤメはいつもの笑顔で気安く請け合ってくる。 「本当だよね」 「なんかさあ、ずーっと緊張してたよな?」 「慣れないとそうだろうね」 「……そうでもなかったのかよ?」 クスッとアヤメは笑う。また、あのいたずらっぽい笑顔だ。 「なんだよー」 ムスッとして上目遣いに睨んだら、アヤメは穏やかに目を細め、やわらかな笑顔になる。 「矢島はかわいいな」 「えっ」 とんでもないことを言われたように感じ、直宏は息を飲んだ。顔が熱くなる。慌ててアヤメから目をそらし、バッグを取り上げた。 「帰ろう。熱々のご飯と味噌汁が食べたい」 「それならちょうどいい店が近くにあるよ。居酒屋だけど定食もある。寄っていく?」 「うん……そうだな」 自分から言い出したようなものなのに直宏は曖昧に濁した。アヤメとはこれで別れるつもりだったのか、もう少し一緒にいたかったのか、自分の気持ちがわからない。だが初めて夕食に誘われた。照れくさいような、浮き立つような気分になる。 ふたりは通用門から大学を出て、駅とは反対の方向に歩き出した。夏本番を前に、夜空がずいぶんと明るく感じられる。梅雨の合間を見計らったかのように満月が浮かんでいる。 「でか。黄色くてまん丸だ」 直宏は目にしたままの感想を口にした。 「きれい?」 「うん。今日の月、すっげー、きれい」 満月を見つめて、自分では気づかずに足が止まりそうになる。 「やっぱりロマンティストだね」 そう言われてハッとした。わざと足を速め、アヤメに並ぶ。 「矢島のそういうところ、いいなって思う。自然科学なんてやってると忘れるからね」 それはどういうことかと目を向けた。 「月が白く見える日と黄色く見える日があるのはなぜか」 アヤメは取り澄まして言って、にっこりと笑いかけてきた。 「湿度の違いだよね。湿気の量で光が吸収される領域が変わるから、少ない日は白く見えて多い日は黄色く見える。じゃあ、今日は湿度が高いんだ。まだ梅雨だしね。なんて会話するんじゃ、つまらないでしょ?」 「――ロマンがなくなるから?」 アヤメが酵素反応をロマンと言ったことを思い出し、そう返してみた。 「うん。そうだよ。ロマンがない」 こっち、と言ってアヤメは角を曲がった。住宅が建ち並ぶ通りで車の往来はなく、土曜日の夜だからか人影もなくて静かだ。 「でも、七夕の話は科学的にもロマンだよ」 夜空を見上げ、のんびりとした口調でアヤメは話し出す。 「昔は太陰暦を使ってたから七夕の日は三日月になるんだ。今だと八月七日あたりで彦星のアルタイルも織姫のベガも南の空に見える。彦星のほうが東に位置するから、舟に見立てられた三日月には彦星が乗って織姫に会いに天の川を渡っていくんだ。――ロマンでしょ」 うっとりとしたアヤメの表情に見入って、直宏は聞いていた。同意を求めて向けられた眼差しが甘く感じられた。アヤメのゆったりとした歩調に乗せられて、ゆらゆらと気持ちが揺れる。 「……ロマンだね」 吐息混じりに呟いていた。 「天体運動を観察して生まれた話なのにね」 やっぱりアヤメのほうこそロマンティストだと思う。 「遺伝子工学を専門にやりたいのにね」 ふと口にした直宏を見つめてアヤメは軽く目を瞠る。ひたりと足を止めた。小さな神社の前だった。通りにせり出して木々が生い茂り、直宏は黒い影の中にいる。アヤメは遠くの街灯とも月影ともつかない仄かな明かりを受けていた。上空を吹く風が高い梢を鳴らす。ぬるい夜気を感じて直宏はそっと息をついた。 言葉が続かない。先にアヤメが足を止めたのに何も言ってくれない。なんだか胸が詰まる。体温が上がるようで息苦しくなる。 「そんなことないよ」 ぽつりとアヤメが漏らした。 「自然はありのままであってほしいとぼくも思ってる」 じゃあなんで、と尋ねようとして顔を上げたら目が合って、その眼差しに止められた。 「ぼくが遺伝子工学をやりたい理由は医療に役立つから。とても単純なんだよ。たとえば副作用なしにガンを治せるようになったらいいと思わない? 極論を言えば医療も自然に手を加えることになるけど。でも、ヒトとはそういう種だから。ぼくは、その事実もありのままに受け入れる」 アヤメの眼差しが熱い。それなのにやさしくて甘くて、直宏は声が掠れる。 「……それがアヤメのロマン?」 「ロマンだよ」 返ってきた声は、しっとりと低いささやきだった。 直宏はアヤメを見つめる。どこか風変わりな王子様。何を言い出すかわからないロマンティスト。心に情熱を秘めた科学者の卵。 どれが本当のアヤメでもいいと思った。どれも本当のアヤメだと思う。この人が好きだ。この人といたい。自分を好きになってほしい。自分を欲しがってほしい。キスしても構わない。キスしてもらいたい。シャワーに濡れて、色気までしたたらせていたその体で抱きしめてほしい――。 「これからは、直宏って呼んでもいい?」 甘く聞こえた声に体が芯から疼いた。 「それも、ロマン?」 掠れた自分の声も甘く聞こえた。 「……そうだよ」 アヤメを見つめて瞳が揺れる。トクン、と鼓動が跳ねた。唇から吐息が溢れる。アヤメのやさしい眼差しに引き寄せられる。そんな自分が怖い。男なのに――アヤメも、自分も。 あ……っ。 一瞬の驚きは声にはならなかった。一歩踏み出して、アヤメも黒い影の中に入ってきた。わずかに身をかがめて被さってくる秀麗な顔をその瞬間まで見つめていた。唇が重なって、直宏は目を閉じた。 まぶたが震える。頭がくらくらする。駆け出した鼓動が耳にうるさい。胸がたまらなく熱い。助けてほしくてすがりたくなるのに、アヤメと触れ合っているのは唇だけだ。 「ん……」 鼻に抜けた自分の声を聞いてハッとなった。驚いて目を開ける。アヤメの顔がとんでもなく近い。咄嗟にのけぞった。 「――あ」 アヤメの顔がボッと赤くなる。薄暗い中でもわかるほどだ。メガネの奥で目を丸くして、自分がしたことを確かめるように、唇に手を持っていった。 「ごごご、ごめん!」 直宏は謝る。何を謝っているのか自分でもわからない。真っ赤な顔でうろたえるアヤメを見ていられない。 「ごめん! マジで!」 言い終わらないうちに駆け出していた。来た道を戻り、直宏と自分を呼ぶ声が背に降りかかっても止まれなかった。自分とは思えないスピードだった。駅にたどり着き、激しく肩を上下させる。休む間もなく改札を抜けた。 ホームのベンチにへたへたと座り込んだ。喉がからからだ。何か飲みたいと思うのに立ち上がる気力もなく、すぐそこにある自販機が恨めしく、どういうことか涙がにじんだ。 わからなかった。何もかも。アヤメを恋する自分の気持ちも、自分にキスしたアヤメの気持ちも、どうにもわからなかった。 だってさ……男同士じゃん。 そっと唇に触れてみる。重なるだけの淡いキスだった。なのに、今も胸が熱い。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:700Km