Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    今宵、あなたに跪き
    ‐1‐



         この数週間はひどく忙しかったが、それも今日をもって決着した。途端に、緊張の糸が切れたであろうことは否めない。それにしても、接待先の料亭の前で、先方の常務と担当部長を乗せた車を見送ったのが記憶の最後とは――どうしたことかと松島は思う。
         名実共に、接待だったのだ。杯に口をつけても酔えるはずがなかった。それなのに今、ぼんやりと目に映るのは覚えのない天井だ。ここはどこなのか、なぜここにいるのか――見当がつかない。
        「気がつかれましたか?」
         涼しい声を聞いて顔を向けた。少し離れたソファから立ち上がるのは――鮎沢だ。
        「ここは……」
         腹心の部下は、フロアスタンドの淡い照明を受け、半身を陰に沈めて近づいてくる。
        「申し訳ありません、このような部屋しか取れませんでした。ご自宅までお送りすることも考えたのですが、ご住所を存じ上げるのみでしたので……」
        「では、私は――」
        「覚えてらっしゃらないのですか?」
         鮎沢は、細い眉を怪訝に寄せた。ベッドにいる松島を間近から覗き見る。
        「タクシーにお乗りになった途端、眠いと、一言おっしゃって――」
        「眠ってしまった?」
        「はい」
         起こされても起きなかったのか――自分に呆れてため息が出た。
         気づけば、スーツの上着は脱がされ、タイは抜かれ、シャツも第二ボタンまではずされている。
         ダブルベッド――。
         鮎沢が「こんな部屋」と言った意味を飲み込んだ。鮎沢のことだから、タクシーを走らせながら携帯電話でホテルをいくつか当たり、結果、こうなったに違いない。
        「部長」
         起き上がろうとして、支えられた。
        「ずいぶんと迷惑をかけたようだ」
         いいえ、と鮎沢は首を振る。
        「肩をお貸しはしましたが、部長はご自身の足で歩かれていましたから。ただ、この部屋に入られるとすぐに、ベッドに倒れてしまわれました」
        「これは、やはりきみが?」
         松島は襟元を示した。
        「……失礼ながら」
         つぶやくように答え、鮎沢はすっと目をそらす。
        「お眠りになるには苦しいですから――」
        「いや、世話をかけた。これでは、せっかくの週末が台無しだな。それでなくても今夜は気を遣わせることが多かったのに」
        「とんでもありません。あれだけのご苦労のあとでの契約です、先様には、おもてなしも喜んでいただけ、うれしく思っています」
         松島は、フッと口元を緩めた。鮎沢を見る。
         大したやつだ。
         四十代半ばの自分に比べれば、まだまだ鮎沢は若い。切れ者との評判を得て他部署から引き抜いたのは確かに自分だが、期待以上の働きをしてくれている。
         気が利く、と言ってしまえばそれまでだが、それができない者の多い中、やはり鮎沢のような部下は貴重だ。
         今日もそうだった。先方に赴いて契約に至ったのだが、鮎沢は、頃合を計ってさりげなく中座した。事前に言い含めておいたわけでもないのに、酒席の用意ができたと、戻ってきて耳打ちした。それまでの流れから、その必要があると判断したのだ。
         そして今も、こうして自分に付き添ってくれている。おそらく、記憶を欠落させるほどの睡魔に襲われた上司を案じてのことは容易に察せられるが、それにしても。
        「ずっと、そこのソファにいたのか?」
         つい、呆れたように言ってしまった。鮎沢は変わりなく、乱れのないスーツ姿でいる。
        「はい」
        「帰ってくれてもよかったのに」
        「そんな……」
        「昏睡したとでも思ったか?」
         からかうように言ったことに他意はない。だが、泥酔していたわけでもなく、こうなる前に眠いと漏らしていたのなら、心配は不要と鮎沢にはわかっていたはずだ。
        「きみらしくもない」
        「いいえ」
        「むさくるしい上司の寝姿を見ていたのでは、おもしろくもなかっただろう」
        「そんなこと、ありません」
         松島は笑ってしまう。いくら会話の流れでも、即座に否定されるとは思わなかった。
        「何時だ? ああ――終電は、とっくに逃したか。車代は私が出そう、きみはもう、これで――」
        「部長」
         ベッドを降りようとした松島に、鮎沢は取りすがるようになる。松島は大きく目を見張った。
         間があいた。鮎沢は、松島の目をじっと見つめ返してから、つと視線を下げた。消え入るように言う。
        「私は……帰らなくてはなりませんか」
        「え?」
         すぐには飲み込めなかった。そんなことを聞かせる鮎沢は、あまりにも普段とかけ離れている。
        「いや、きみ……そう言ったって――まあ、確かに、こんな時間にタクシーで帰るくらいなら、ここに泊まるほうが楽なのはわかるが……ああ、それなら、別の部屋を――」
        「嫌です」
        「えっ?」
        「いえ、ほかに空きはありませんでした。ですから、こんな部屋になってしまって――」
        「それなら……」
         咄嗟に逡巡し、松島は努めて明るく言う。
        「わかった。私が帰ろう。一眠りさせてもらって休めたし、今はきみのほうが疲れているようだ」
         そうでなければ、自分と同じ部屋に、それもダブルの部屋に、鮎沢が泊まりたいなどと言い出すはずがない。
        「日頃のねぎらいにもならないが」
        「そんな! ねぎらいだなんて」
         鮎沢は、離れるどころか、さらに取りすがってきた。
        「こんな時間に無理にお帰りになられても、部長には……失礼ですが、待たされている方がいらっしゃるわけでもないですし、そんな、寒く暗いご自宅に今からお戻りになるくらいでしたら、いっそ私と――いえ、私をねぎらってくださるなら、どうぞ、そのように」
        「きみ……」
         松島は戸惑ってしまう。こんな鮎沢は初めてだ。常に冷静で、何事にも物怖じしない日頃の姿からは推し量れようもなかった。
         もはや、鮎沢は跪いている。床に足を下ろした松島の膝に両手を添え、歪んだ顔で松島をじっと見上げている。
         その眼差しがやけにせつなく感じられ、松島は戸惑いを濃くした。これでは、懇願されているのも同じではないか。
         どうして、ここまで――。
         思いかけて、バカバカしくなった。明日は土曜日だ。大きな案件がひとつ片づき、久しぶりに羽を伸ばせる週末だ。
         かわいい部下と一晩を共にするなど瑣末にすぎず、狭いベッドならともかく、これだけの広さなのだから、大の男がふたりで寝るにしても、たかが知れている。
         こだわるほうが、おかしい。
        「そうだな。今から帰るのでは、お互いに面倒だ」
         そもそも深夜のフロントにタクシーを呼べと言うのが面倒だ。
        「バスルームをお使いになるなら、どうぞお先に」
        「いや、それも面倒だ。朝にそうさせてもらうよ」
         ようやく鮎沢が離れ、松島は立ち上がる。クローゼットを開ければ、自分の上着がきちんと下げられている。訊くまでもない、鮎沢がしてくれたことだ。シャツを脱いでハンガーにかける。
        「部長」
         差し出されたローブを受け取ろうと顔を向け、ギクッとした。自分を見る鮎沢の目が、一瞬、濡れたように光った。
        「……ありがとう」
         素肌にローブをまとう。その束の間、背筋を這うような視線を感じた。しかし、構わずにスラックスも脱いでハンガーにかけた。ベッドに戻る。
         鮎沢――。
         シーツに潜りかけ、松島の動きは止まる。クローゼットの前に立ちながらも、松島の目につくところで着替え始めた鮎沢を怪訝に見つめた。
         暗がりに浮かんで見えた白いシャツが肩から滑り、薄い肉づきの背中があらわになる。続けてスラックスを下ろし、鮎沢は下着一枚の後ろ姿をさらした。
         腰の位置が高く、すらりと伸びる脚は長い。小さく締まった尻は、フィットしたラベンダー色に包まれている。
         咄嗟に松島は目をそらした。ドキッとしてしまったのは、部下のプライバシーを覗き見たように感じられたからか。
         鮎沢が女性社員にもてはやされているのは松島でも知るところだ。高学歴、高身長、高収入と、かつて「三高」と呼ばれた条件をすべて満たし、その上、人当たりのよい静かな性格で、それを映す端整な顔立ちなのだから。
         ……色気まであったか。
         当然かもしれない。日頃の姿から思い及ばないのは、鮎沢が職場に色恋を持ち込まないだけのことだろう。自分より一回り若いとは言え、鮎沢は三十二歳だ。今はどうであれ、女性との交遊が皆無と言うことはないだろう。いまだ独身なのが不思議に思えるくらいだ。
         理想が高すぎとか――ありがちだな。
         無粋な勘繰りを自嘲して、松島はシーツに潜った。着替え終えて鮎沢が来る。
        「失礼します」
         ベッドの反対側に回り、そちらから入ってきた。松島は、いくぶん緊張する。余計な詮索をしたからだろう。そう思う。
        「ふぅ……」
         背後から温かな吐息が聞こえた。夜具に潜れば誰もが漏らしてしまうような、満ち足りた響きだった。
        「スタンドは……つけたままでいいのか?」
         気づいて、肩越しに振り向いた。
        「眠れませんか?」
         鮎沢の顔は、すぐそこにあった。
        「私は平気だが――」
        「私でしたら、お気遣いなく」
         穏やかに微笑した。
         近い――。
         もう少し離れていると思っていた。こちら側はベッドの端にぎりぎりなのだから、向こう側は余裕があるはずだ。
         離れてくれとも言えずに松島は目を閉じる。そうすると、鮎沢の生温かい吐息を首筋に感じる。意識したら、気になってきた。
         ひとつのベッドに誰かと眠るなど、もう久しくなかった。子に恵まれないまま離婚したのは去年だ。以来、単身を通し、男ひとりで住むマンションは、荒れるよりも生活を感じさせなくなっている。
         女性との交際は、まったくない。数年前から情欲が薄れているのは歳のせいもあるかもしれないが、女性に限らず、今では職場の外で人と交わる気になれないのだ。仕事尽くめの毎日なのは、自分でも否めようがない。
         次第に温まっていくシーツの合間に、松島は、改めて人肌を感じる。鮎沢の体温だ。
        「……眠れませんか?」
         そっと問いかけてきた声は、やわらかく耳に響いた。黙っていると、鮎沢はささやく。
        「私は……眠れません」
         かすかに身じろいだ。背後から松島の肩に手が這い上がってくる。
        「離れてくれないか」
         さすがに口に出した。
        「嫌です」
         きっぱりと言って、鮎沢は松島の背にすがった。肩に置いていた手をローブの中に滑り落とし、松島の素肌に触れた。
         ゾクッとし、松島は鼓動が速まる。いったい、どうしたものか――。
        「……なんのつもりだ」
         喘ぐ声で訊いた。
        「お察しのとおりです」
        「きみは……そうだったのか」
        「はい」
         くぐもった声を聞くと同時に、肩が生温かく湿った。唇を押し当てられている。
        「少しも、そうは見えなかったぞ」
        「職場は仕事をするところですから」
         そのとおりだが――。
         松島は動揺を抑えきれない。深夜に帰宅するのは互いに面倒と、同じベッドで眠るのを承諾したのが、なぜ、このような事態に。
        「きみがそうだったとは……」
         つぶやき、思考が混乱する。
        「意外ですか? でも、竹原もそうです」
        「えっ?」
         驚きのあまり、振り向いた。鮎沢は微笑して言う。
        「誤解されないでください。今もこれからも、彼とは何もありません、タイプではないので。私がいいのは……」
         鮎沢の手が目の前に迫る。男にしては細く長い指が、頬に触れてくる。薄闇の中、鮎沢の目にひたりと捉えられた。濡れて輝いて見える。
        「何をする――」
         怯える自分に気づき、松島はいっそう動揺する。ここはむしろ、怒るべきではないのか。
        「かわいい人……そそられます。仕事で敏腕を振るう部長はたまらなく魅力的ですけど、今の部長も、とてもすてきです」
        「ちょ、ちょっと待て!」
         跳ね起きて、ヘッドボードまで身を引いた。鮎沢は、うつ伏せの姿勢で松島を見上げる。
         濡れた眼差し――もう、疑いようがない。濡れて見えるのは情欲に染まっているからだ。
        「そんなに驚かれるなんて……豊富なご経験をお持ちのようなのに、男は初めてですか?」
        「き、きみには関係ないだろう!」
         言い捨てても、動揺は静まらない。どう対処したらいいのか――。
        「お願いです、逃げないでください」
        「そ、そんなこと言われたって」
         これが逃げずにいられようか。いくら腹心の部下が相手とは言え、男に迫られているのだ。いや、男でなくとも、職場がらみの相手に迫られては大問題だ。
         セクハラ? 違う、俺は何もしていない、それなら――。
         この場合、逆パワーハラスメントとでも言うのか。腹心の部下を足蹴にできない弱みを逆手に取られるなら――混乱が混乱を呼び、松島は大きく息をつく。
         鮎沢は、フッと口元を緩めた。陰になっていない顔半分が、鮮やかな微笑に染まる。
        「こんな部長を拝見できるなんて。それだけでも得した気分です」
        「な、なら……」
        「嫌です。さきほども申し上げました。こんな機会、二度と巡ってきません」
        「……なんだって?」
         松島は、しげしげと前に伏せる男を見る。そうなっても表情を変えることなく、鮎沢は松島をじっと見上げている。
        「まさか、おまえ……」
         普段は「きみ」と呼びかけているのも忘れ、言葉をつないだ。
        「俺に薬をもったとか――」
         クッと声を漏らし、鮎沢は顔を伏せた。肩を小刻みに揺らし、喉の奥で笑う。
        「そんな陳腐なセリフを部長の口から聞けるなんて……信じられません、部長とは思えない。そこまで取り乱されているなんて」
        「では、やはり」
        「ありませんよ。落ち着いてご判断ください。部長は熟睡されていただけでしょう? 頭が重いとか、どこか体調のすぐれない点がございますか?」
        「それは、ないが――」
         即答して、失敗したと気づいても後の祭りだ。
        「誠実な方だ」
         鮎沢の目は、うっとりとなる。
        「仮に、そんな便利な薬を手に入れられたなら、もっと以前に使っていました」
        「鮎沢――」
        「逃げないでください。私と楽しんでいただきたいと……それだけの気持ちです」
         鮎沢の手が、すっと松島の脚に伸びた。
         ……う。
         息を飲み、松島は食い入るように見つめてしまう。シーツに投げ出した自分の脚を鮎沢の手がゆっくりと這い登ってくる。じわりと素肌をさする、生温かい感触――背筋がゾクッとした。嫌悪ではない感覚と知って驚く。
        「すてきな方……乱れる姿も見てみたい。私にされることで気持ちいいとおっしゃっていただけるなら……それだけのことです」
         鮎沢は、上目づかいに松島を見た。松島は目を離せなくなる。
         しどけなくローブがはだけ、鎖骨から胸元まで覗き見える。平たく、なめらかそうな素肌に小さな紅色の突起を認め、松島の鼓動は跳ね上がった。
         男のそこに性的なアピールを初めて感じる。松島は動けない。鮎沢の手は、既にローブの裾に潜っている。その先にあるのは、もちろん松島の男性の証だ。
        「あ……っ」
         小さく声を漏らし、松島はヘッドボードに背をぶつけた。ぴったりと張り付く。腰が引ける。しかし、こうされる期待がまったくなかったかを問われるなら――自信が持てない。
        「……大きい」
         鮎沢のささやきを拾い、耳をふさぎたくなる。だが、それをしない。自分でもわからない、意地なのか、見栄なのか、許容なのか。
        「部長……思い描いていたとおり、とてもご立派です。そそられます……欲しい、いただきます」
        「くぅ……」
         ゴクッと喉が鳴る。息を飲み、吐き出せなくなる。うまい……まさか、そう思ってしまうなんて。
         恐いもの見たさで視線を下げた。鮎沢はうつ伏せたまま、取り出した松島のものを舐めている。尖った舌先が淡い光を受けている。たっぷりと濡れていて、それが動くたびに強烈な感覚が松島を襲う。
        「硬くなってきました。うれしい……こんなに太いなんて。長いし」
         な、なんてことを――。
         思っても声に出せない。松島は歯を食いしばるだけだ。
        「もっと……くつろがれてください。気持ちいいでしょう? 少しもよくないだなんて、言わせませんよ」
         ぎゅっと握り、チラッと目を上げる。前髪の乱れた顔で、不敵に笑った。睾丸にも触れてきて、やわらかく揉みしだく。
        「こっちも硬くなっている」
         やめてくれ――言えなかった。鮎沢は、舌の使い方も指の使い方も絶妙で、およそ抗いえない快感で松島を黙らせる。
        「ずいぶんと、ご無沙汰ですか? 伺うまでもありませんね、誠実な方ですから――」
         指の腹でグリッと裏筋をこすり上げ、また、先端を舌先で割るように舐める。
        「……溢れてきました」
         松島は、両手できつくシーツを握り締めた。
        「存じ上げています、離婚されてから何人もの女性社員に色目を使われてらっしゃる……引く手あまたなのを上手にあしらわれてきたのに、今は、こんなふうになられているなんて――誇らしいです」
        「ううっ」
         じゅぶっと淫猥な音が上がった。ずっぽりと根元まで含み、すぼめた唇で鮎沢は松島を追い上げる。そうしながら閉じた口の中でも舌を巧みに使い、きつく吸う。鮎沢の唾液にしとどに濡らされ、腿の付け根をしずくが伝い落ちていった。
         何が、楽しいんだ……。
         松島の理解を越え、鮎沢は没頭している。動きに合わせて揺れる黒髪、細い肩――艶めかしくも思えるのは、この行為がそのようなものだからか。
         熱い――全身が火照ってくる。いっそう鼓動が速まり、急激に昂ぶる。
        「……まだ、です」
        「く」
         きゅっと根元を掴む手に力を入れ、鮎沢は身を起こした。
        「せっかくの機会を無駄にはしません」
         すっと目を細め、松島を直視した。
         ああ……鮎沢だ――。
         仕事に熱中したときに見せる目――狙った獲物は逃さない、狩る者の目だ。
        「……俺を、どうするつもりだ」
         漏れた声は弱々しく、鮎沢の失笑を買った。
        「嫌だな、これだからノンケは――」
         ニヤリと歪んだ顔は、松島をゾクッとさせる。赤い舌先が濡れた唇をぺろりと舐める。
        「失礼しました。部長ほどの方でも、そのようなことを口にされるとは意外でしたので」
         前のめりに体を傾けてくる。
        「男を抱くのは恐いですか?」
        「き、きみ……」
         湿った手が松島の頬を包んだ。
        「部長は何もされなくていいんですよ」
         ささやいて、うっとりと笑む。
        「これを私にください。そう……私をねぎらってくださるなら、これで」
         握っているものの先を軽く扱いた。
        「こんなに硬くされているのに、ここで終わりでは……部長がお辛いでしょう?」
        「つ、辛いなんてことは」
        「ハッ」
         一声上げて顔を背け、鮎沢は肩を震わせる。
        「あまりにもお定まりで、どう申し上げたらいいのか――」
         半眼で見上げ、松島に視線を据える。
        「部長は肝の据わった方のはず。たかが男を抱いたくらいでは何も変わりませんよ」
        「鮎沢――」
         吐き捨て、松島は眉をきつく寄せた。
        「お怒りになってください。そして、私をねじ伏せればいい」
        「うっ」
        「ほら、ここはまだ、こんなに猛ってらっしゃる。簡単なことです、私が望んでいるのですから」
        「鮎沢!」
         思わず鮎沢を跳ね除け、勢いで組み伏せる。松島を見上げ、鮎沢は笑った。
        「すてきです、部長……たまらない――」
        「ふざけるな……っ」
        「ご冗談を。真剣です」
        「なら、言え! なんで今夜、こんな気になった!」
        「今夜に限ったことではありません、前からそうでした」
        「はぐらかすな!」
         鮎沢は、すっと息を詰めた。目を閉じて、ほうっと深く吐く。
        「……傲慢な方だ」
        「どっちが!」
        「傲慢ですよ、そこがたまらないのですけど。硬く起たせておきながら、理由を求められる」
        「な、なんだと!」
         嫌でも自覚させられてしまう。鮎沢の手を離れても、起ち上がったものは萎えることなく、鮎沢の腹を突いて、今もまだ猛々しい。
        「私を置き去りに、帰られたらどうですか?」
         目を見張り、松島は言葉を失う。動けない。
        「そんなに、この状況が信じられませんか? そんなに……理由が必要ですか――」
         静かに目を開き、鮎沢は松島を見上げた。それまでになかった翳を鮎沢の目の色に見て、松島は息を飲む。
        「傲慢です……たった一度の情交と引き換えに、私は言わせられるのですから」
         鮎沢の手がゆっくりと上がり、松島の頬を包んだ。吐息と共に、ひそやかな声を出す。
        「帰るに帰れないのは……私です。やっと、ここまで漕ぎ着けた。口ではどうおっしゃっても、あなたの体はまだ正直に欲望を示している――思い切れません」
         松島は顔を背けた。鮎沢から手を離そうとする。咄嗟に引き戻された。
        「逃げないでください」
         背けた横顔で鮎沢の声を聞く。
        「今日、先方に伺う車中で心を決めました」
         ……電車の中で?
         いったい何があったか――今日は車ではなく電車を使ったのだが、松島に思い当たることはない。
        「私たちの前に、白い杖を持った老人が座っていました。ですが、あの人は目が不自由には見えませんでした」
         松島は眉をひそめる。その老人には松島も気づいていた。鮎沢の言うように、彼はあたりを見回していて、目が不自由には見えなかった。しかし、それがどう関係するのか。
        「あの人は、駅に着いて立ち上がったとき、隣にいた幼い女の子に杖を渡しました。それを見て……あなたは涙ぐまれた」
         松島は、そっと息をつく。ゆっくりと顔を戻した。おとなしく横たわる鮎沢をじっと見下ろす。
         そうだ――。
         鮎沢の言ったように、あのとき涙ぐんでしまった。涙もろくなったのは歳のせいか。目が不自由なのは、老人の隣にいた幼い少女とわかって――。
        「……気づいてたか」
        「たまらなくなりました」
        「そんなことで――」
        「赤の他人には容易に情をかけるのに、あなたは……」
         胸が詰まされる。何も言えなくなる。目に映る鮎沢の顔が、悲痛に歪む。
        「私には大きなきっかけです――部長!」
         跳ね起き、鮎沢は松島をシーツに倒した。素早く、松島のものを掴む。
        「ここまで言わせられたのですから、もう、もらいます!」
        「う」
         食らいつくように松島のものを口に含み、急いて舐めて吸う。萎えかけていたのが、たちまちに硬く張り詰めた。
         そうしながら、鮎沢は片手を後ろに回した。何をしているのか――松島は問わなかった。仰向けにされたまま、鮎沢を見つめる。
         はだけたローブが、鮎沢の肩を滑り落ちる。肘で留まり、いっそう淫らな姿になる。せわしない動き――黒髪が振り乱れ、ひそめられた眉と閉じられた目がちらちらと垣間見える。耳につく、濡れて淫猥な音――情欲が高まる。
         一心……か。
        「こんな、中年のオヤジ相手に――」
         ふと、声がこぼれ出た。鮎沢は何も返してこない。身を起こし、松島にまたがる。
        「あ……」
         淡い光に浮かんで、鮎沢は眉を寄せた。歪んだ表情が、松島の目に艶めかしく映る。
        「は、あ」
         息を吐き、ゆらゆらと腰を落としてくる。
        「い、いっぱい……」
        「く」
         松島もまた顔を歪めた。鮎沢の中は狭く、熱い粘膜が松島を絡め取る。
        「あ、ああっ」
         鮎沢は仰け反った。突き出した胸に、紅色の粒がつんと尖って見える。
        「す、ごい……破れそう――」
         うっとりと言い放ち、端整な顔を華やかに染めた。腰を使い始め、黒髪をさわさわと揺らす。
        「ん……いい……」
         松島も息が上がる。鮎沢の締め付けはきつく、官能に染められていく。
        「は、あ、ん、んっ」
         鮎沢のものは松島の目に映らない。しかし、ローブの裾が鋭く持ち上がっている。
        「そんなに、いいか――」
         思わず言っていた。鮎沢は、熱っぽい目を向けてくる。
        「いい、です……とても――」
        「そうか」
        「ああっ!」
         松島は、グッと突き上げた。ガクッと揺れ、鮎沢は松島の腰をきつく掴み、顔を伏せる。
        「はっ、あ、ふ……深い――」
        「もっとか?」
        「はぁ!」
         背をしならせ、崩れてきた。胸に受け止める。
        「あ、あ……」
         うっとりと目を閉じ、鮎沢は頬を寄せてくる。
        「いい、です……たまらない――イきそう」
        「……そうか」
         熱い吐息が口をついた。胸がいっぱいになる。なんとも言いようのない気持ちで満たされる。鮎沢をしっかりと抱いて身を返した。
        「……部長?」
         胸元から鮎沢が見上げてくる。心もとなく、潤んだ瞳――。
        「もう……黙ってろ」
        「あ……っ」
         滾り、松島は鮎沢を突き動かす。指先で胸の紅色の尖りをいじくる。
        「あっ、は、あ」
         悶え、甘い声を上げ続ける顔を間近に見つめた。濡れて、薄く開いた唇――艶めかしい。
        「んっ」
         しゃぶりつき、貪るように鮎沢の唇を味わった。舌を絡め、口中を荒らし、離れては向きを変えて、何度も――。
         男を抱いているのはわかっている。下腹に硬く張り詰めたものが当たっている。むき出しになった先端が素肌にこすれ、ぬめる。
        「は、あっ」
         口づけを解かれ、鮎沢は深く息を継いだ。松島に視線を流してくる。涙に濡れた目だ。
        「部長……」
         ……愚かだ。
         愚かなのは、自分かもしれない――。
         松島は鮎沢を攻め立てる。歓喜にむせぶ顔を見つめ、荒々しくなぶる。
        「あ、あ、あ」
         顎を上げ、喉を仰け反らせ、鮎沢は喘ぐ。せつなく身をよじり、松島にすがろうとした手は落ちて、シーツを這う。
        「いい、いい……!」
         甘く声を放ち、頬に涙を伝わせる。
        「いい、もっと!」
         もう、松島は鮎沢から目を離せない。大きく見開き、壮絶な色気を振りまく男を見つめ続ける。
        「あ、ああっ!」
        「くぅ……っ」
         堪えがたい快感が駆け抜けた。全身が愉悦に震える。下腹が、じわりとぬるく濡れ、鮎沢も達したと知る。
         鮎沢の目からは、まだ涙が溢れていた。松島は身を横たえ、鮎沢を抱き寄せる。
         息が静まらない。指先まで痺れている。
        「……よかったよ」
         こぼれ出た言葉に胸が熱くなる。よかった――偽りはない。
        「うれしい……です、あのとき見せられた情の……かけらでもいただけたのなら――」
         松島の胸で、鮎沢はかすかな声を漏らした。
        「部長」
        「もう――言うな」
         松島は熱い吐息をついた。鮎沢を胸に抱く。温かい――いくらでも吐息が湧き上がる。
        「部長……」
        「だから、もう何も言うな」
         愚かだ……愛しくなるほど。
         薄い肉づきの体を抱きしめた。骨ばってはいても、たおやかに感じられた。鮎沢の放つ香りに酔う。


        つづく


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