Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    今宵、あなたに跪き
    ‐2‐



         その後の人生を変えるほどの大事など、生涯に何度あるでもない。進学に就職、それに結婚と離婚と、それぞれに日常を変える出来事ではあったが、この歳までに部長職に昇進したことをもってしても、大事と言えるほどではなかった。ましてや四十代半ばともなれば人生も半分が過ぎているのだから、今後も大事など起こりようがないと自分は思っていたはずだ。
         窓を背にしてフロア全体を見渡せる部長席にいて、松島はそっと顔を上げる。四月一日付けの人事異動から一週間、真っ先に鮎沢が視界に入るようになった。課長席は『島』の端で目の前だから当然で、だがいちいち気を取られるのはどうかと思う。
         今も鮎沢は、静かな横顔を見せて事務仕事に勤しんでいる。昇進と共にひとつ隣に席を移しただけで、以前と何も変わりはしない。こちらから呼びかけるか、用があって向こうから話しかけてくるかしない限り、目を向けられることもない。
         ――あたりまえだ。
         自分をいなすようにそう思い、松島は手のあいてそうな女性社員を見つけて呼びつける。部長印を押し終えた伝票の束を差し出し、階下の経理部へ届けるようことづける。そうしてから、未決裁の書類をまたデスクに広げた。
         文面を目で追い、内容もきちんと把握していくのだが、やはり、なんとはなしに鮎沢を意識していると気づく。
         あの晩のことがなかったら、こうはならなかったか――。
         そう考えてしまうのも仕方ないのか。仕事を進めながらも、流したはずの出来事に手繰り寄せられるような感覚を松島は味わう。
         春まだ浅い三月のあの日、取引先に鮎沢を伴ったことは間違いではなかった。本来なら課長を同伴させるのが筋だったが、あの時点で課長の異動と鮎沢の昇進は内々に知らされていた。年度をまたぐ案件の、それも重要な契約の場に、いなくなるとわかっている部下を連れ出しては配慮に欠ける。
         ただ、結果として鮎沢に隙を見せたのは配慮不足だった。それも鮎沢を信頼していたからで、ひとつのベッドで共に夜を明かすことに抵抗を覚えながらも瑣末と打ち捨てた。
         まあ……仕方ないな。
         鮎沢は同性だから、同性とあのような事態になるとは思い及ばなかったから――同衾に至るまでの経緯は自分の落ち度と引き受けている。だが現実に鮎沢を抱いてしまったことは――いまだ何も結論を得ていない。
         あの翌朝、目覚めて松島は不思議な光景を見た。カーテンを透かす光に薄明るくなった部屋で、鮎沢はすっきりと身じまいを正してソファにいた。前夜に不測の熟睡から目覚めて見た光景が、脳裏でぴたりと重なった。
        『お目覚めですか?』
         言葉こそ違えども、同じ状況で同じ口調で尋ねられ、一瞬、鮎沢を抱いたのは夢だったかと疑ったくらいだ。
         しかし自分があんな夢を見るはずもなく、何より乱れたシーツと、ベッド下に引き寄せられたゴミ箱の中身が多くを物語っていた。
        『コーヒーをご用意しましょうか。その前にシャワーを使われますか?』
         問われて、初めて鮎沢の様子が普段と違うと気づいた。気の利いたことを言いながらも、ソファから一歩も動こうとしない。涼しげな視線をまっすぐに寄越し、声も涼やかに話すが、先にバスルームを使ったことを詫びる言葉も出ていなかった。鮎沢なら、真っ先に口にするはずなのに。
        『いや。きみは帰ったらいい』
         だから、そう答えた。
        『私はチェックアウトまで、ひとりでゆっくりさせてもらうよ』
         その瞬間だけ、鮎沢はかすかに眉をひそめた。しかし、すっと立ち上がると背を見せてビジネスバッグを取り上げ、薄く笑んだ顔で振り向いた。
        『では、お言葉に甘えさせていただきます。私はこれで失礼いたします』
         深々と一礼し、背筋を凛と伸ばしてすぐに部屋を出て行った。
         そんな細かいひとつひとつが記憶に刻まれているのは、鮎沢に言ったとおりに、あの日はチェックアウトまで部屋に留まったからだ。
         鮎沢が出て行って、ドアの閉まる音を耳が拾ったあとも、しばらくはソファのあたりを眺めていた。今思えば、鮎沢の残像をなぞるかのようだった。
         もしかしたら鮎沢が戻ってくるかと思っていたのかもしれない。しかしそうはならず、深い溜め息が漏れて天井を見上げた。
         素肌を包む夜具には熱い湿り気が残っているようで、自分以外の肌の匂いをかいだように感じた。鮎沢を抱いたのだと、後悔もなく認められたことがやはり不思議だった。
         それなのに、そのあと入ったバスルームはまるで未使用で、それがあまりに鮎沢らしく、前夜の姿を打ち消そうとしたかのようで胸が詰まされた。
         そうした一連のことから予測したとおりに、週が明けて職場で顔を合わせても鮎沢は何も変わりなかった。そしてその後も何もないまま、年度末の忙しさに追われて三月を終えた。
         だからかもしれない。顔を上げると真っ先に鮎沢が視界に入るようになり、四月の今になって、あの出来事は何だったのかと、ふとした拍子に思い返してしまう。
        『たかが男を抱いたくらいでは何も変わりませんよ』
         鮎沢が言ったとおりのことだったにしても、それは自分にとっての話だ。あの晩の鮎沢は必死とも言える様子だった。あそこまでして自分に抱かせておいて、鮎沢はそれでいいのか。現実に何も変わっていないなどおかしくはないか。そうも思えるのだ。
         しかし鮎沢が何事もなかったふうを装うなら合わせてやるのが大人の対処と思い、そうしてきた。あれは一夜の過ちと鮎沢が恥じているなら、好都合にも受け取れた。言うなれば、自分は誘惑に負けた身だ。持ち出されたところで応えられるものがあるわけでもない。
         ――しかし。
         鮎沢とは、そんな男だったか。恥じたり、後悔したりするようなことは、周到に予見して決してしないのではなかったか。
         それなら、一度寝て満足したか?
         そう思って納得できるならよかった。今は誘う素振りどころか、自分を気にかける様子すらないのだから。
         だがあの晩、息の静まらないまま抱き寄せた胸で、鮎沢は涙を伝わせてうれしいと漏らしたのだ。
        『あのとき見せられた情けの……かけらでもいただけたのなら――』
         背筋がざわついた。それを聞いたとき湧き上がった感情が、再び胸に満ちる。
         やるせなかった。
         あの日、鮎沢と乗り込んだ電車で、目の前に座っていた幼い少女の目が不自由と知り、うっかり涙ぐんだ自分の気持ちなど安っぽいものだ。同情にもならない。あの少女は祖父らしき老人といて、表情に翳りなどなかったのだから。赤の他人の自分が、どうしてあの少女を哀れめようか。傲慢にもほどがある。
         それなのに、涙ぐんだ自分に気づき、鮎沢が心を動かされた。そんな、つまらない情のかけらでも欲しかったのだと、最後になって打ち明けた。
        「……くっ」
         低く喉を鳴らし、暗く湧き上がった笑いを松島は押し殺す。
         そんなものが欲しくて、ああまでして俺に抱かせたなんて……一度で満足なものか。
         たとえ、あの晩の出来事が巧妙に陥[おとしい]れられた罠だったとしても、鮎沢の本心に触れたと感じたから自分は忘れられないでいる。それもまた鮎沢の手管[てくだ]か。どれほど鮎沢が何事もなかったふうを装っても、本当に忘れたとは思えない。
         組み敷いて、あまりに艶めかしかったことを思う。女とは違って、きつく締まった器官の熱さを思い描いた。
         それとなく鮎沢に視線を流す。静かな横顔を見つめた。
         色欲だけだったと、俺に勘違いさせたいならそれでいい。
         冷ややかな目を書類に戻す。決裁の判を押す手に、おのずと力が入った。
         おまえが、そのつもりならな。
         今では課長職に昇進して、鮎沢は名実共に腹心の部下だ。仕事でもプライベートでも、どのようにもかわいがってやれるだろう。


         定時を過ぎて女性社員の姿がほとんど消え、残業する男性社員もフロアにまばらになったころ、鮎沢の席に竹原が来た。竹原は事業推進部の所属で鮎沢の同期だ。
         部長席にいても、ふたりの会話は松島の耳に筒抜けだった。例の、年度をまたいだ案件のことで込み入った話になっている。
         都市再開発事業の一環として年明けに立ち上げられたプロジェクトだ。不動産会社と建築会社とタイアップして、ファッションビルを新設する。社内では、企画営業部長の松島が主導して推し進めてきた。
         現場の近隣との交渉や誘致するテナントの厳選など、基盤固めは三月に鮎沢と赴いた先との契約を最後に終わった。今は建築会社によるビルの建設も始まり、社内では他の部署にも仕事が割り振られ、松島は全体の進行を管理するに留まっている。
         ノートパソコンに向かいながらも耳を傾け、松島は案の定といったありさまで鮎沢から声をかけられる。
        「こんな時間から申し訳ありませんが、下の会議室に場所を移します」
         言い終えないうちに、ファイルを手に鮎沢は立ち上がった。松島は黙って頷いて返し、廊下に向かうふたりの後ろ姿を目に映す。
         竹原が、急かすように鮎沢の腰に手を回してきた。それをうるさそうに鮎沢は払うが、再び回ってきたときには払わなかった。
         ひょいと、松島は眉を跳ね上げる。ドアの外に消える竹原の姿を目に焼きつけた。
         鮎沢と、あまり変わらない背丈だ。竹原のほうが長身に思えていたが、がっしりとした体格のせいだったらしい。着ているスーツは、鮎沢よりサイズが上だろう。
         竹原はタイプじゃない、か。
         急に思い出して松島は口元を歪める。あの晩に鮎沢が言ったのだ、竹原も同性愛者だと口走ったあとに。あれは鮎沢も気づいただろうが、失言だった。同僚を売って自分を取り繕うとは、鮎沢らしくもなかった。
         むしろ俺と似たタイプじゃないか、竹原は。違うのは歳くらいで。
         見るからにスポーツで鍛えた体だ。自分は大学時代までラグビーを続け、今はたまにスイミングをこなす程度だが、竹原はどちらかと言うとアメフトでもしていた体格だ。
         いずれにしても硬い筋肉質で、肩幅が広く姿勢がいい。それでも首が太すぎないのは、自分と同じか。
         そんなことを思って首に手が行っていることに気づき、松島は苦笑する。
         竹原も鮎沢に引けを取らず、かなりの女性社員に評判がいい。鮎沢とは違った魅力で惹きつけていることは、見た目にも明らかだ。
         やわらかくウェーブした栗色の髪が、かえって男っぽい印象を強めていると中年の自分にもわかる。バタくさいとでも言ったらいいのか、竹原はそんな容貌だ。
         外見の印象に違[たが]わず仕事もエネルギッシュにこなす。少々粗雑だが、鮎沢がいなかったら、自分は竹原を引き抜いたのではないかと思うくらいに評価している。
         もしそうなっていたら、俺とぶつかって、使いにくかったかもしれないけどな。
         だが、それを越えたあとに腹心の部下となりうる予感は今もある。鮎沢との関係とは違い、それこそ体育会系の、おおらかで固い絆が生まれそうな予感だ。
         ……何を考えているんだ、俺は。
         ふと、キーを打つ手が止まり、松島は所在無くフロアを見渡した。
         企画営業部は二課の課長と男性社員が数人残っているだけで、一課は既に鮎沢ひとりだ。フロアの向こう半分は事業推進部で、そちらにもまだちらほら社員の姿が見えるが、松島の管轄ではない。
         松島は帰宅を決めた。一応は部の最終退出は部長の役目で、それで鮎沢は会議室に移るときにあのように言ったのだが、特に急ぎでもない仕事をしながらつまらない思いを巡らせるくらいなら、帰ったほうが時間も経費も無駄にせずに済む。
         デスクを片づけ、二課の課長に声をかけて廊下に出た。エレベーターには乗らずに階段で下の階に行く。
         経理部と総務部で使うオフィスは照明が落ちていた。そこから左手に続く廊下の左右に、応接室と大小の会議室が並んでいる。突き当たりは休憩室で、そこももう暗かった。
         使用中の会議室は、ドアが閉じられているからすぐにわかる。その前まで来て、松島はノックしかけた手が止まった。
        「いいかげんにしろっ」
         ガタッと、物がぶつかる硬い音が聞こえたと同時に、鮎沢の上げた声が耳に飛び込んだ。続いて、低くなだめるような男の声がかすかに流れてきたが、ドア越しでは内容まで聞き取れなかった。
        「いくら仕事が終わったと言っても公私混同じゃないか、卑劣だな」
         また鮎沢の声だ。はっきり聞こえた。鮎沢はドアの近くにいるのか。
        「その汚い手をどけろ。こうまでして――俺が欲しいか?」
         鮎沢とは思えない品を欠いた口調、ガタッとまた音が上がる。ドン、と目の前でドアが鳴った。
         反射的に松島はドアを開けようとするが、内側に開くつくりで押しても動かない。ドアに張りつく格好になって、低い男の声が耳に響いた。
        「女王様ぶったって、勃たせてんじゃな!」
        「――んっ!」
         ゴン、とドアがまた鈍く鳴った。松島は、すっと血の気が引く。指先まで冷えて感じられ、言い知れないものが胸のうちで滾った。
         ひとつ息をおいて、軽くドアをノックする。すかさず、中に呼びかけた。
        「松島だが、鮎沢くんはここか?」
         一瞬の間のあと、ドアが細く開いた。竹原が顔を覗かせる。
        「先に帰らせてもらおうと思ってね」
         竹原が口を開くより先に、そう言った。
        「部長! こちらも終わりましたから」
         中から慌しく鮎沢が答えてくる。竹原は、感情を映さない顔でドアを大きく開いた。
        「ちょうど今、終わったんですよ。長引いてしまい、すみませんでした」
         言いながら、ファイルを取り上げて見せる。会議用の長机の上は、すっかり片づいていた。
        「俺は戻りますので。失礼します」
         松島と入れ違いになる形で廊下に出るなり、竹原がドアを閉めた。
        「……鮎沢」
         しんと静まった室内は狭く、白い壁で無駄にまぶしく感じられる。目を細めて、松島は鮎沢を見た。ふたつ並んだ長机の向こう側にいて、心なしか服装が乱れている。
        「どうした。前が開[ひら]いてるぞ」
         鮎沢がスーツの上着を開いているなど、まず目にしたことがなかった。呆然と立っている前まで回り、鮎沢に手を伸ばす。
        「部長――」
         ここに入ったときから、怯えたような目を向けられていると気づいていた。松島は、胸のうちで暗く笑う。
        「……これでは、な」
         鮎沢のスーツの合わせを両手に取り、喉の奥でクッと声を立てた。
        「部長、私は――」
         あえて目も上げずに言ってやった。
        「女王様ぶっても――だな。娼婦に思われる」
        「誤解です!」
         サッと鮎沢は右前を閉じた。眉をひそめ、頬をほのかに染めて横を向く。
         そうなっても松島は、白いワイシャツの下に透ける淡い紅色を目に捉えていた。左側のそこに、そっと指先で触れる。
        「あ……」
         あえかな声がこぼれ落ち、うつむいた陰で薄く笑った。
        「誤解だって? 俺が気づかなかっただけだろう? ――いつからだ?」
         鮎沢が素肌にワイシャツを着るのを以前から常としていたのか、思い返しても定かではない。
        「誤解です、そんな――畏れ多い」
         喘ぐように鮎沢が答える。
        「畏れ多い? 聞いて呆れるな」
        「本当です! 疑わないでください。自分で開いたのではなく、これは――」
         言いかけて、口を閉じた。松島は胡乱そうに目を上げる。
        「これは?」
        「――部長。タイミングがよすぎました。竹原は頭が切れます。どこまで部長に知られたか、もうわかってます」
         苦しそうに、背けた顔で鮎沢は言った。
         聞かされるまでもなかった。竹原がドアを開くまでの間に、乱れた椅子や長机を鮎沢が整えたなど、容易に推察できる。そんな時間稼ぎをしたのだから、竹原は自分の腹のうちまで承知のはずだ。なぜ、あのタイミングでドアをノックしたか。
         むしろ、わかってないのは鮎沢か。
        「……答えになってないな」
         フンと松島は鼻で笑った。
        「勘弁してください! お願いします」
        「ほう?」
         眉を跳ね上げ、ひたりと鮎沢を見つめた。鮎沢の胸に触れる指先をそっと滑らす。唇を震わせて、鮎沢が視線を流してきた。
        「……蒸し返す覚悟がおありなんですか?」
         ありていに艶っぽい。つまらなくなって、松島は答える代わりに鮎沢のスーツのボタンをひとつひとつ留めた。
        「部長――」
        「先に帰ると声をかけに来ただけだ。そっちも終わったことだし、もう用はない」
        「部長!」
         離れようとしたら、素早く腕を捕られた。
        「なんのまねだ?」
         冷ややかに松島は振り返る。
        「勘弁してください、私は――」
        「なんの話だ?」
        「部長……」
         鮎沢はすがるように見つめてくる。だが唇を噛み、ついと視線をそらした。
        「……安っぽいな」
         松島は暗くつぶやく。不意にこぼれ落ちた本音だった。
         まったくだ――本当に安っぽい。
         この場で自分を引き止めて、鮎沢はどんなつもりなのか。肌を透かすワイシャツを着て、竹原まで惑わせて。
        「あんまりです」
         鮎沢は、絞り出すように言う。
        「竹原に隙を見せたかもしれませんが、本意ではありません」
        「わかったから、放してくれないか」
         もう面倒なだけだった。竹原も同性愛者で、言い寄られているなら、鮎沢は竹原を相手にしたらいいではないか。
         タイプを言うなら、俺と大して変わらないんだから。
        「……放せません」
        「また、それか」
         あの晩が思い出され、深い溜め息が出た。
        「ですから、勘弁してください! 誤解されたまま、帰られてしまうわけにはいきません」
        「きみの都合だろう?」
         うんざりと言ってやった。鮎沢は、ハッと目を瞠る。
        「そこまで、お怒りですか……?」
        「怒ってなどいない」
         互いに言葉が途切れ、狭い室内は再びしんとなる。息苦しい静けさだった。
         松島は自分を持て余してならない。こんな沈黙につきあう義理もなければ道理もない。それなのに、鮎沢を置き去りにしない自分がもどかしい。
         ……愚かだ。
        「部長は……やはり部長ですね」
         何を言われたか、伝わった。ここで、誠実だとか何だとか言われるよりも、数倍ましに思えた。
        「竹原には、困っているんです」
         つと、鮎沢は身を寄せてきた。
        「はっきり断っているのに少しも聞き入れてくれなくて」
         間近から目を合わせてくる。
        「男同士では、セクハラで上司に訴えることもできない。今は立場的にも無理ですし」
         フッと松島は口元で笑った。鮎沢も、うっすらと笑みを浮かべる。艶めいた微笑だ。
        「もう思いつく手立てがなくて――どうしたらいいでしょう?」
        「……大したタマだな」
         首に両腕を絡められ、松島は呆れて笑った。
        「そのワイシャツだって、わざとだろう?」
        「部長がそうさせるんです」
        「俺のせいか」
        「あなたが、そう思っているなら」
        「そこまで自分を貶[おとし]めるか」
         すっと、鮎沢の顔から表情が消えた。松島は唇を合わせる。鮎沢を抱き寄せて深くキスした。
        「……あ」
         首に絡んでいた腕がほどけ、鮎沢の両手に頬を包まれた。鮎沢は背をしならせ、キスを受け切れないとばかりに、やわらかく背後に倒れていく。
         長机の上に上体を横たえた。松島が押し倒した形になり、被さってキスを続ける。
         そうなって、体をまさぐり始めたのは鮎沢だった。卑猥な動きの指先に、そこかしこを刺激されながら松島はキスに没頭する。
         甘いと思った。男とキスして、それも鮎沢とキスして、自分は甘いと感じるのか。
         ……鮎沢だからか。
         こんなにもあからさまに求めてくるキスは女としたことがない。かつて妻だった彼女も、こんなふうにキスに応えたことはなかった。
         だから別れたか――。
         一抹の苦い思いが込み上げ、即座に鮎沢のキスに流される。
         そう、キスを仕掛けているのは鮎沢だった。
         まったく……大したタマだ。
         それなら、もっとうまく竹原をあしらえてもいいじゃないかと思う。
         ハッとした。キスを解き、顔を離して松島は鮎沢を見つめる。
        「計ったな」
        「なんのことでしょう?」
        「怒らせてけしかけるのが、おまえの手口か」
         それこそ艶然と、鮎沢は笑った。圧倒的な色香に溢れる。
        「……安くはなかったな」
        「おわかりいただけましたか」
         なんてことはない。鮎沢に一本取られたのだ。自分がここに来るとまで読んでいたかは知れないにしても、竹原とのいざこざは鮎沢が仕組んだに違いない。自分はそれにまんまと挑発されて、キスまでさせられたわけだ。
        「そこまで本気か?」
         呆れて言ってやった。
        「……さあ?」
         楽しそうに鮎沢は笑う。
         松島は鮎沢から離れた。スーツの乱れを直す。そうしながらも、鮎沢を見つめた。
         鮎沢も、何事もなかったように身を起こし、やはりスーツの乱れを直した。だが、きっぱりとした眼差しを松島に投げつける。
        「部長には到底おわかりいただけませんよ」
         いきなりの言いざまに松島は眉をひそめた。
        「あなたのおっしゃる本気とは、どのようなものでしょう?」
         返せる言葉がなかった。突如低く燃え立ったような鮎沢をただ見つめる。
         鮎沢は口元を緩め、正面から松島に上目を向けた。松島がゾクッとしたのを見て取ったのか、フッと笑いを漏らす。
        「あの朝、ベッドに眠るあなたを見つめながら着替えていて、私はあなたに注がれたものが体内から流れ出てくる悦びに浸りました」
         松島は、ゆっくりと息を飲む。すんなり理解できたと同時に、そんなことは自分の想像になかったと認める。
         唐突に、まるで未使用だったバスルームが脳裏に浮かんだ。
        「では――あのあと、シャワーを……使わなかったと言うのか?」
         確かめるように問いかけるも、思いがけず声に詰まった。
        「もちろんです、もったいない。帰宅してからもすぐに、あなたにされたことをなぞって悦楽に耽[ふけ]りました」
         不覚にも顔が熱くなった。
        「そういうことは……知らされなければわからない――」
        「ええ、ですからお伝えしました」
        「鮎沢」
         涼しい顔で生々しい実情を話して聞かせる男を睨んだ。
        「俺をもてあそんで、おもしろいか?」
         しかし鮎沢は、軽く目を瞠る。
        「あなたをもてあそぶ? 私が? そうできるなら、どんなに楽か」
         ずいと一歩近づいて、胸に手を置いてきた。そうして、わずかに見上げた目線で松島を捕らえる。
        「抱いても、少しも態度を変えられなかったくせに」
        「おまえがそうだろう?」
        「あの朝、用済みのように先に帰れと言われたのですから当然です」
         ひそやかに漏らし、だがすぐに、うっすらと華やいで笑った。
        「私に、もてあそばれてくださいますか?」
         松島は答えられない。見え透いた媚態に、息もつけなくなる。
        「本当に――誠実な方だ」
         ムッとするも一瞬で、たちどころに跪いた鮎沢に目をむいた。あの晩の光景がフラッシュバックする。松島は固まった。
        「お許しがいただけるなら、もてあそびます。あれから一ヶ月……溜まってらっしゃいますよね?」
         てらいなく品のない言葉を口にするのも、鮎沢の常套か。スラックスのファスナーが下りる音を他人事のように松島は聞いた。
         勃ち上がる兆しもないものを取り出して、鮎沢は手のひらに包む。そこに濡れた舌先を押し当てた。
         ……これが、本気か?
         松島は問えない。記憶に刻まれた感覚が、施される前から理性を席巻する。
         ただ呆然と鮎沢を見つめていた。密室とは言え、ここは社内であることを思った。誰も来ないかもしれない。しかし疑いようもなく職場で、自分は不埒な行為を許している。
         たとえようのない快楽に襲われた。
        「ん……」
         鮎沢の漏らす声にもあおられる。あの晩と同じに、鮎沢の唾液にしとどに濡らされる。巧みな舌使いに追い上げられ、たちまち興奮に達した。
         どうしてそうなるのか、鮎沢は瞳を潤ませて見上げてくる。
         たまらなかった。松島は鮎沢の頭に手を置き、その髪のさらりとした感触にも震える。
        「……大きい」
         べろりと出した舌で、形を確かめるように根元から舐め上げ、鮎沢はそうささやいた。熱く湿った息が、しっとりと松島のものにまといついた。
         松島の、鮎沢を見下ろす目が途端に冷たくなる。手の中の髪を掴み、ぐいと押しやった。
         仰け反って、鮎沢は目を瞠る。
        「あれから一ヶ月……溜まってたのは、おまえだろう? 誰ともしてないのか? それで、我慢できなくなったか」
         見る間に鮎沢の頬が赤く染まった。うろたえたように、潤んだ瞳が揺れる。
         かわいいと、一瞬でも思ってはならなかったか。松島は鼓動が跳ね、怒張した自分のものと、そこに顎を突き出した鮎沢の顔を同時に見る。
        「これを……もう一度くださるのですか?」
         やりきれなくなった。
        「そういうことしか言えないのか、おまえは」
         思わず、そんな言葉が口からこぼれ出た。
         松島は顔をしかめる。その言葉こそ自分の本音と知って、苦々しい思いが込み上げた。
        「部長――」
        「いいかげんにしろ」
         役職名で呼ばれたことにもなぜか苛立ち、鮎沢を突き放して背を向けた。ファスナーを自分で上げる羞恥に見舞われ、松島は感情を持て余す。
         慌しくドアに向かおうとするが、目を上げて足が止まった。わずかだが、開いている。
         背に取りすがってきた鮎沢を片手で止めた。視線で、どんな事態か鮎沢にもわかるように示す。耳元で小さく息を飲む音を聞いた。
         おおよその想像はついた。それは、鮎沢も同じだろう。
        「これも、おまえの策略のうちか?」
         だから、そう訊いた。
        「……いいえ」
         返された声はか細く、疑うに値しなかった。
         松島は、ゆっくりと振り返る。目を細めて鮎沢の目と合わせた。
        「しくじったな」
         鮎沢は青ざめて見えた。きゅっと唇を噛む。
        「携帯電話で写真の一枚でも撮られたか」
        「ですが……写っていても部長の後ろ姿ではないかと――」
        「そういうことか?」
         すっと、鮎沢は視線を横に流す。仕事中に見せる怜悧な顔になった。
        「まあ、俺はどうでもいいが」
         松島は、疲れた溜め息しか出ない。
        「あえて言うなら――竹原をもてあそぶのをやめるか、竹原にしておくか、どちらかだな」
         キッと、鋭い視線が返ってきた。
        「違うか?」
         途端に、鮎沢の顔から表情が消える。
        「ですから、部長はわかってらっしゃらない」
        「わかるわけないさ。おまえが何を欲しがっているのか、俺にはわからない。言わないのだから」
         押し黙り、鮎沢は目をそらさなかった。だがやがて、苦しそうな、悔しそうな声を唇から漏らす。
        「……傲慢な方だ」
        「それは前も聞いたな」
         つまらなくなって、松島は目をそらした。
        「そうやって、私を引き止める」
        「引き止めるって――俺がか?」
         それは本当に意外で、すぐに目が戻った。
        「そうでしょう? 私に言わせようとする。言わせて、どうされるつもりですか? 応えてくださるとでも? そんなことはない」
         まっすぐに鮎沢は見つめてくる。きっぱりとした眼差しで。
        「あなたは楽しまれている。違いますか?」
        「おまえ――」
         こんなことを始めたのは誰だと言ってやりたかった。しかし松島は絶句する。自分では受け入れられなかった心情を指摘されたと、認めるほかなかった。
         楽しんでいる……かもしれないな。
         鮎沢にかわされれば、つまらなくなるのだから。鮎沢の恋情に気づいていながら、言葉で聞きたいと思っていた。
        「色欲だけと、おまえが俺に勘違いさせるんだろう?」
         言ってはみたが、苦しい言い訳だ。案の定、失笑を買った。
        「私を狂わせるあなたこそ、天性の魔性です」
         松島は唖然として鮎沢を見つめ返す。なんたる言い草だろう。
        「それを……おまえが言うか?」
        「訂正する気はありません」
        「竹原はどうなる? 竹原を狂わせているのはおまえだろう?」
         ドアが開いていたのは、まず間違いなく竹原が開けたからだ。席に戻ったものの、いつまで経っても鮎沢が戻ってこないと気づき、様子を見に来たと思える。
         鮎沢に強引に迫ったことを自分に知られ、それが気になったか、直接の理由はどうでもいい。竹原が本当に鮎沢に思いを寄せているなら、いつまでも席に戻らない鮎沢を単純に気にして舞い戻ったとしてもおかしくない。
         まだ自分がいたと知って、どう思ったか。鮎沢とふたりで、しかも仕事の話をしていたわけではないと知って。
         いずれにしても、開けたドアを閉めることも忘れて立ち去る状況に追いやられたに違いなかった。
        「あなたが竹原を心配されるなんて、笑ってしまいます」
         冷淡に響いた声にハッとさせられた。
        「竹原に嫉妬されたくせに」
         ああ、やはりそうだったか――今さらのように、そう思った。
        「うれしかったです」
         ささやいて鮎沢は続ける。
        「竹原に汚[けが]された唇をあなたの唇で拭ってもらえたなんて、あまり私を悦ばせないでください」
         カッとなった。松島は食い入るように鮎沢を見る。ほのかに頬を染められて、暗い感情が波立った。どうしようもない情動だった。
        「思いどおりになっておもしろいか。おまえは、一度うちに来るといい」
        「部長――」
         鮎沢は目を丸くする。松島は笑った。いい気味だった。
        「くだらない遊びにつきあってられるほど暇じゃないんだ。おまえも、そのはずだがな。部外者を巻き込むな。愚かにもほどがある」
         鮎沢は声も出ない様子で、じっと見つめ返してくる。
        「今度の週末、うちに来い。わかるな? おまえの出方次第だ」
         鮎沢は大きく目を瞠る。喘ぐように言った。
        「傲慢です」
        「ああ、俺は傲慢だよ」
         まるで痴話喧嘩だ。
         苛立たしく思い、鮎沢を置き去りにして、松島は狭い会議室を出る。
         よくわかった。色恋に男も女もない。そして、それをまだ楽しめる自分がいる。
         笑えてならなかった。
         とっくに枯れたと思っていたのに。むしろ枯れていたからこそ、火をつけられるとよく燃えるのか。
         自分で何をうまいことを言っているのかと、余計に笑えた。エレベーターに乗り込み、ようやくひとりになれた心地を味わう。
         男女でもうまくいかないのに男同士でどうなると言うのか。そんなことを思う自分が、少しいじらしく感じられた。
         次の週末に、鮎沢は必ず自宅に来るだろう。自分がそう仕向けた。そうして、自分は何をするつもりか。
         考えるまでもなかった。


        つづく


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