Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    レタス畑で愛をささやけ
    ‐1‐




     一


     バスが走るにつれ、呆れるほどのどかな景色が車窓に開けていく。それを窓枠に頬杖をつき、狭い座席に無理に高く脚を組んで、純一はうんざりと目に映していた。
     ぜんっぜん、変わってねえの。
     まあ、そうかとも思う。ずいぶん久しぶりな気がするが、一昨年の春に帰って以来だ。二年かそこらで様変わりするような土地でないことは、純一自身がよく知っていた。
     あーあ……。
     知らずと溜め息が湧いてくる。昼下がりのこの時間なら父親の欣司[きんじ]は間違いなく家にいて、顔を見るなり怒鳴りつけてくるだろう。何を言われるだろうか。
     情けない、かな。
     それより、みっともない、が先かもしれない。なにしろ、田園風景には浮きまくりの服装で帰ってきたのだ。電車やバスの公共交通機関を乗り継いでくるにはほかに適当なものがなく、シルバーグレーの、それも光沢のある夏物の化繊のスーツに、ずばり紫としか言いようのない色のシャツを着ている。これにダークカラーのネクタイをするのはさすがにためらわれたのでノータイだが、かえって失敗したような気がしないでもない。八月の暑さで上着は腕に掛け、荷物はくたびれた黒のスポーツバッグと紙の手提げ袋で、降車駅に近づくにつれてがらんとしていくローカル線の車内ではやたらと視線を感じた。ただ、決して強面でないどころか女顔の上に小顔なので、たとえ誤解されたにしても、せいぜいチンピラ止まりだったろうとは思う。だいたい七月の初めに気合を入れて薄茶色にした髪はスタイルが崩れて根元だけ黒く、かなりマヌケに見えるはずだ。
     うー……。
     イライラと純一は小指の爪を噛む。ずいぶん前に直したはずの癖が出ていると自分でわかるから、余計にイライラする。これでは、きれいに切りそろえて丁寧に磨いた爪が台無しになる。男なのに妙に艶かしい細い手をしていると、他人から褒められたのはそのくらいなのに。柳眉に整えた眉が険しく寄るのを抑えられない。無理にも爪を噛むのをやめれば、今度は薄い唇を強く噛んでしまう。そんなことをたびたびするから、生まれながらに色白の肌に、唇が色濃く目立つことになっている。
     ったく、うぜえ!
     しかし内心でどう吐き出そうとも、こうするしかなかった。高校卒業を機に家を出て、よりによって学校の紹介で就職した工場が、六月の末に倒産してしまったのだから。寮とは名ばかりのボロくて狭いアパートに暮らしていたのだが、当然そこも出るしかなかった。その時点で家に帰っていればよかったのかもしれないとは思う。だけど、どうしても帰りたくなかった。そもそも家を出たかったから寮のある就職先を希望して、渋る担任に探させたくらいだ。
     だから、失業して住処も失うとなったとき、同僚で一番仲のよかった井村の誘いに乗った。
    『やっぱ、ホストしかないっしょ。金になるし、寮がある店もあるって言うし』
     ひとりでは新宿の歌舞伎町に足を踏み入れる勇気もなかったけれど、同じ薄給でありながら週末のたびに遊び歩いていた井村となら心強いように思えた。井村が探してきたホストクラブに一緒に面接に行くことにして、そうした。
     しかしそれが、この二十年に及ぶ自分の人生での最大の失敗となったのだ。
     自分だけが採用となり、それもあとから知ったのだが顔がよかったからというだけの理由で、ここが寮だと連れられたマンションに喜んだのも束の間、蓋を開けてみれば先輩ホストと同居の上に顎でこき使われる毎日だった。
     しかも店ではさらにその上をいく扱いで、誰よりも早く開店前に入るのはもちろんのこと、店内の掃除を下っ端の数人でするにしても更衣室やトイレなどはひとりでさせられ、営業中も先輩ホストのパシリとなって駆け回され、客につくことがあっても指名ではなくヘルプにすぎず、無理やり酒を飲まされるばかりで、一ヶ月も続ければ軽く死ねると思った。
     それで気が利かないだの、愛想がないだの、毎日同じスーツで来るなだの罵倒され続けたのだ。素直に反省するも何が悪いか少しもわからず、どこをどう直せばいいのか誰からも教えられず、せめて服装くらいは言われたとおりにしようと雀の涙ほどもなかった貯蓄を思い切ってつぎ込み、挙句にすっからかんになってクビを言い渡された。
    『ここまで使えなかったヤツは初めてだ。悪いことは言わん。黙って辞めてくれ』
     冷たく切り捨てられたというより、むしろ同情の目でそう言われたのだから、いっそ泣ける。それがなくても十分に泣けた。またもや、失業と同時に住処を失ってしまったのだ。稼げると聞いてホストになったのに、試用期間の給与では寮費を引かれてないに等しく、工場で働いていたときの薄給の残りまでなくしてしまい、これでは次の仕事を探すこともできない。
     もう、どうしようもなかった。涙を飲んで、父親に電話した。大変言いにくいのですがお金を貸してもらえませんか、と。
    『ばかやろう! すぐ帰ってこい!』
     すかさず返ってきた怒鳴り声が、キンと耳を突き刺した。
    『学生でもないのに、仕送りする親がどこにいる!』
     ちくしょう、と思っても、ほかに頼れる相手などなかった。ホストになってから親しくなれた者などひとりもなく、井村とは一緒に受けた面接で会ったきりで、メールの返事すら来なくなっていた。
    『いいよな、顔がきれいなヤツはさ……』
     それが井村から聞いた最後の一言だ。じっとりと向けられた眼差しも脳裏に焼きついている。
    「はー……」
     思い出して気が滅入る。友だちだったはずの井村にまで、顔を理由に疎まれたか。
     こんな顔で、いいことなんてなんもねえのに。
     井村と臨んだ面接で自分だけがホストに採用されたのがこの顔のおかげにしても、そのせいで家に帰ることになったのだから。美人と評判が高かった母親似の顔は、むしろ地元では幼い頃からからかいの対象だったことを思わずにはいられない。
     ……なんだかな。
     農業に、顔なんて関係ないのに。母親だって、ちゃんと農業していた。お嬢様育ちで、丈夫とは言えない体だったのに、近所の嫁に引けを取らないようにと励みすぎて早世してしまった。
     うまくいかねえこと、ばっか。
     家に近づいてきて、いっそう重い気分になる。農家のひとり息子に生まれたのに農業なんてやりたくないと、強引に就職して飛び出したのだ。帰りたくなんかなかった。
     純一の目に、青々とした水田が映る。風が吹くたびに、真夏の日差しを受けてきらきらと波立つようにそよぐ。この景色を美しいと思える人は幸福だと思う。農業に従事している人でも、そうでない人でも、この景色を目にして一番に美しいと思えるなら幸福だ。
    「あー……やってらんね」
     乗客もまばらな、ひなびたバスの後部座席にいて、思わず声にしてつぶやいた。


     バスを降りた国道から折れると、景色は一転して、ただただ畑が広がる。このあたりは稲作から転作した地域で、舗装された道も農道にほかならず、ところどころに建つ家はどれも畑作を営む農家だ。
     ほんっと、なんも変わってない。
     遠く雑木林にさえぎられるまで視界いっぱいが畑で、目につくものはビニールハウスくらいしかない。車がやっとすれ違える程度の道はガードレールなどなく、路肩のすぐ脇は小川だ。
     だらだらと純一は歩き出すも、真夏の炎天下にどこにも人影はなく、一台の車とも会わずに家に着いた。しかし門を前に足が止まり、二年余り離れていた生家をどんよりと眺める。
     この土地では典型的な農家のたたずまいだ。農道に面して塀はあるが、隣家とは離れているからか、左右の空き地との仕切りはない。門扉もなく、竹林を背に建つ平屋を奥に、右手には昔ながらの納屋[なや]が、左手には自家用の狭い畑と育苗[いくびょう]用の小さなビニールハウスがあって、それらに囲まれた中央部分はむき出しの地面だ。家のトラクターや軽トラックに限らず、新聞や郵便の配達のバイクも気軽に乗り入れてくる。
     当然、郵便受けは玄関にあって、表札もその上に出ていて、門からはかろうじて「鈴木」と読める。築何十年になるのか父親の欣司ですら覚えてないような家だが、本瓦葺[ほんがわらぶ]きの屋根と、右手の納屋に半分隠れた増築部分は比較的新しい。
     どうすっかな。
     納屋に、トラクターに並んで軽トラックがあるのを見て純一は溜め息をついた。広縁のすべての窓が開いているのを見ても、父親の欣司は間違いなく家にいる。
     ま、開けっ放しで出かけるなんて、しょっちゅうだけどな。軽トラがあるんじゃ――。
     ここでいつまでも二の足を踏んでいては、そのうち見つけられてしまうだろう。そうなって余計に気まずい思いはしたくない。
     今ひとつ大きな溜め息を落とし、純一は門の中に入っていく。じりじりと照りつける太陽と、うるさいほどのアブラゼミの声に、頭がのぼせるようだった。
    「はー……」
     ますます気は重く、知らずと繰り返し溜め息が出る。玄関の前に立つが、どうしても引き戸を開ける勇気が湧いてこない。いったいどんな顔で父親に会えばいいのか。まさに、どのツラ下げて帰ってきた、と言われそうな状況だ。
     やっぱ、やめよ。
     がっくりと肩を落とし、玄関を離れた。右手の増築部分に向かう。
     家族のあいだでは「離れ」と呼んでいたが、ふすま続きの六畳の和室がふたつあって、母屋の元は勝手口だったところに広縁から廊下で繋がっていて、その途中にトイレもある。純一の両親が結婚したときに建てたそうで親子三人で住んでいたが、純一が中学生のときに祖父母が相次いで他界してからは、両親は母屋に移り、離れは二間とも純一の自室になった。
     だから今も、父親の欣司はいても母屋のはずで、しかし離れの広縁の窓もすべて開いている。それを特に気にすることもなく、むしろちょうどよかったと、純一は広縁から上がり込もうとした。そのとき、ふと大型のバイクが目に入った。納屋のトラクターの陰に停められている。
     ……なんで?
     よく磨かれて黒光りするボディは、どう考えても還暦を過ぎた父親のものではない。それに、あのようなバイクに乗る人物が父親を訪ねてきているというのも考えにくい。
     ――ま、いっか。
     今はとにかく自室に入って少しでも休みたかった。真夏の日中に都心から二時間近くかけてここまで来て、何より気持ちが疲れていた。父親と対面するのも小言を聞かされるのも、そのあとだ。
    「よいしょっと」
     思わず声に漏らし、靴を脱ぎ捨て、純一は広縁に上がる。ドサッと、両手に持っていた荷物が音を立てた。寝室にしていた東側の奥の和室は目の前で、閉まっていた障子を開ける。
    「――え」
     中を見て愕然とした。二年と数ヶ月前に出たときとは様子が違い、雑然としたありさまだ。隣の西側の部屋に置いてあったものが運び込まれている。
    「なんで〜……」
     まるで納戸だ。布団を片づけられたベッドはマットレスがむき出しで、その横には隣の部屋で使っていたこたつが立てかけられている。ほかにも畳にさまざまなものが置かれ、机の上にも積まれている。
     あんまりだと思った。この部屋まで掃除されているとは少しも思ってなかったが、これでは自分は二度と帰ってこないと思われていたようなものだ。
     純一自身がそう思っていたはずなのに、ひどくショックだった。
     すぐ帰ってこいって言ったから帰ってきたのに――。
     歓待されないまでも、いくら小言を聞かされようとも、もう少しまともに迎えてもらえると思っていた。なんだか涙が滲みそうになる。
    「――おい。おまえ、どこから来た?」
     だが突然、凄みのある低い声で呼びかけられ、ビクッと身がすくんだ。驚いて顔を向ければ、見ず知らずの男が広縁に立っている。
    「誰だ? ひとの家に勝手に上がり込んで――」
     そこまで言われてカッとなった。誰がどう思っていようと、ここは自分の家だ。
    「うっせ! 自分ち上がって悪いかよっ」
    「――え」
     男は目を丸くする。純一の顔を食い入るように見て、怪訝そうに眉をひそめた。
    「自分の家?」
    「そうだよ! オレは鈴木純一だ! そっちこそ、なんでここにいるんだよっ」
     毛を逆立てた猫のように純一は言い放つが、男は一瞬ぽかんとして、それから納得がいったように深くうなずいた。
    「そうか。あんたが純一くんか。へぇ――」
     少し呆れたような目になって、頭の先から足の先まで、純一を眺め回すように見る。
    「へぇ、って、なんだよ、へぇって!」
     純一はすこぶる気に入らない。赤の他人に違いない男がいきなり家にいて、さもここの住人のように振る舞い、しかも自分を知っているようなのだ。
     なんなんだよ、コイツ!
     率直なところ、気後れしそうだ。やたら体格がいい。半袖の白いTシャツに農作業に向いたワークパンツという服装で、がっしりとした腕も厚い胸板も十分に見て取れる。自分より軽く十センチは背が高く、ということは百八十センチを超えているわけで、嫌でも見上げることになる。しかもその顔は、この土地の者にはない雰囲気を漂わせていた。ムカつきながらも男前と認めるしかない顔立ちながら、背筋がヒヤッとするような気迫が感じられるのだ。
     これ……この感じって――。
     純一には覚えがあった。一ヶ月にも満たない期間ではあったが、働いていたホストクラブの界隈でたまに見かけた、ダークスーツに身を包んだ男たちの独特の雰囲気にすごく似ている。
     あいつらって、ヤ――。
     頭に浮かびかけた思いを大急ぎで打ち消す。彼らはそうだったにしても、そんな人物がここにいるはずがない。ここは都心から電車とバスを乗り継いで二時間近くもかかる場所だ。
     でも、おっさんが何かして――。
     自分がいなかった二年余りのあいだに父親に何かあったのだろうか。だからすぐ帰ってこいと自分を呼び寄せたのか。
     冗談じゃねえぞ!
     ホストをしていたあいだ、細心の注意を払って、そのような人たちとは絶対にかかわらないようにしていたのだ。それが家に帰った途端、かかわることになったとあっては――。
    「おい! 大丈夫か?」
     急に目の前がくらっとした純一を男は慌てて腕に抱く。明らかにうろたえた顔で覗いてくるが、そうなって純一はいっそう気が遠くなりそうだ。
    「俊哉[としや]、どうした?」
     別の男の声がして、父親と純一は気づき、ハッとなった。男を押しのけるようにして自分の足でしっかりと立ち、父親と対面する。
    「……純一」
     父親は真顔で大きく目を瞠り、まっすぐに純一を見つめてきた。その眼差しの強さも、短く刈り込んだ白髪交じりの髪も、日焼けのしみついた肌も、中背で無駄な肉づきのない体格も、農作業の服装でいることも、二年前に戻ったかと思えるほど何も変わっていなかった。
    「そんな……痩せて――」
     だが、掠れて聞こえた声に純一は耳を疑う。まさか真っ先にそう言われるとは思わなかった。その気持ちが顔に出る。父親にも見て取れたに違いなく、一瞬で表情を硬くした。
    「玄関から入れなくてこっちに来たか。情けない」
     バスの中で予想したとおりの言葉を浴びせられ、純一はカチンとしてしまう。
    「おっさんこそ、なんだよ! すぐ帰ってこいとか言って、オレの部屋、物置じゃねえか!」
    「なに言ってんだ。帰るかどうかも聞いてなかったんだぞ」
     相変わらずの落ち着き払った声で返され、余計に苛立ってくる。
    「すぐ帰ってこい言うから、すぐ帰ってきたのに!」
    「なら、駅に着いたときに、なんで電話しなかった。バスで来たのか?」
    「決まってんだろっ。 電話したら迎えに来たのかよ? どうせ畑だったんじゃねえの?」
     父親はムッと口を閉じ、顔をしかめる。それを見て、純一の勢いは止まらない。
    「やっぱな! だいたい誰だよコイツ! うちに住んでるみたいだし、こんなヤツがいるならオレなんて――」
    「純一くん!」
     それまで黙っていた男にきつく呼ばれ、キッと純一は男を見据える。
    「俺は鈴木さんのご厚意で、ここで農業を教わっているだけだ。ただの居候だ」
     じっと目を合わせてきて低く静かに言われ、猛っていた気がそがれた。その眼差しはまるで、勢いに任せて言いすぎるんじゃない、と諭すようだった。
    「純一。この人は、佐伯俊哉さんだ。五月からうちにいる」
    「住み込みで働かせてもらう都合で、こっちの離れを使わせてもらっているんだ。きみの部屋だったそうで申し訳ないが、これからもよろしく頼みます」
     父親と男とに、立て続けに冷静に言われ、純一は返す言葉もない。深々と自分に頭を下げた、どう見ても十歳は年上の男をムスッと見下ろす。
     さっきはオレを「おまえ」とか「あんた」とか呼んだくせに、こういうときは「きみ」かよ。
     ツンと顔を背けそうになったところへ、父親が言う。
    「おまえも挨拶しなさい」
    「は? なんて? つか、さっきしたし。て言うか、コイツいつまでいるわけ? オレの部屋、使えねえじゃん」
    「純一!」
     怒声を浴びた。刷り込まれた反射で、ビクッと背筋が伸びる。
    「どうしておまえはそうなんだ。二年も家を出て外で働いてきても変わらないか。佐伯さんは、目上だぞ。まだ当分うちにいる。心得とけ」
     きっぱりと父親に言われ、冷水を浴びたように感じた。そんなつもりはないのに、言い返す声が上ずる。
    「だったら――だったら、オレはどうすればいいんだよ?」
     すがるように父親を見てしまった。
    「好きにしたらいい。おまえのものは、そっちの部屋に全部ある」
    「こんなヤツの隣に住むのかよ? ふすましかないのに」
    「母屋でもどこでも、好きにしろと言ったんだ。二十歳にもなって、いちいち親を頼るな」
     言い捨てるようにして、父親はくるりと背を向けた。純一は焦って呼び止める。
    「ちょ、待てよ、おっさん! 好きにしろって――」
     母屋の部屋を使うなんて、できない。父親はわかって言っているのか。
    「俺は畑に行く。あとは自分で決めろ」
     しかし父親はまるで取り合わず、すたすたと母屋に戻っていく。それを男が追っていった。
    「おやっさん、俺もすぐ行きます。先に風呂をやってきますんで――」
    「ああ、急がなくていい。きゅうりを見てくるだけだ。なんだったら俊哉は――」
    「いや、行きますよ。気がつかないことがまだ多いし――」
     そんなことを話しながら、ふたりして広縁の先に消えた。見送るともなしに見送り、純一はなんとも言いようのない気分になる。
     オレは、まるっきり無視かよ。
     佐伯と聞いた男と並んで、父親がずいぶん小さく目に映った。四十二歳も離れた自分よりも、三十歳を超えてそうな佐伯のほうが、いっそ息子のように見える。
     ……なんだよ。「おやっさん」とか「俊哉」とか呼び合っちゃってさ。キモイっての。
     だが実際のところ、今の父親には、自分よりも佐伯のほうがよほど息子のように感じられるのではないか。自分が家を出てから父親はひとりで農業を営んできたわけで、そこに代わりのように佐伯が現れ、しかも当時は高校も卒業してなくて渋々手伝っていた自分とは違い、佐伯は大人の男で農業がやりたくて住み込みまでしているのだから、あの父親でも頼りに思い始めているのかもしれない。
     ……いいじゃん、それで。やりたいヤツがやればいいんだ、農業なんて。
     就農支援については、純一でもおおよそ知っていた。自治体だかJAだかが、未経験の就農希望者を募って、受け入れ先の熟練の農業者を「里親」として紹介する制度だ。ただ、このあたりでは「里親」になった農家なんて聞いたことがなかったし、それに「里親」とは言っても、就農希望者が住み込みで働くケースはかなり珍しいはずだ。あくまで独立営農を目指しているのだから、「里親」のもとで農業を学ぶにしても通いで十分で、わざわざ住み込む必要はない。
     そのことを思い、純一はどんよりとした気分になる。何より、あの父親が「里親」になったらしいことが信じられない。父親はこの家に生まれて稲作も畑作も経験して、ずっと農業に従事してきたのだから確かに熟練者だが、進んで他人を指導するような性格には少しも思えていなかった。しかも佐伯は住み込みだ。ありえないとしか言いようがない。
     でも、マジに住み込んでいるわけだし――。
     就農希望者を受け入れる先は、農業法人などを除いては、だいたいが後継者のいない農家と聞いた。それは単に人手が欲しいからかもしれないが、自分は農業が嫌で家を出ていたわけで、つまり父親は後継者をなくしていたわけで、だから佐伯を受け入れたのかと思えてしまう。
     この家は古くからの農家で、家自体が築何十年かもわからない代物で、それだけに代々受け継がれてきた広い農地がある。川が近くて、もともとは水田だったのを祖父母が畑地に変えたらしく、父親はそういったことも見てきたわけで、手放す気などまったくないことは、幼い頃から骨身にしみて感じていた。自分が継がないなら、別の誰かを考えてもきっとおかしくない。
     なら……なんでオレに帰ってこいなんて言ったんだよ。
     もう、自分はいらないのではないか。部屋は納戸のようになっていた。
     けど……ほかに行くとこなんて、ないし。
     純一はのろのろと物置同然の奥の部屋に戻ろうとする。隣の部屋の障子が開け放たれていて中が見えた。ここに佐伯が暮らしている現実を突きつけられたようで、思わず目を背ける。
     ――あ。
     視界を掠めたテレビに目を戻した。家を出るまで自分が使っていたものだ。
     なんだよ、もう! オレのものは全部移したって言ったくせに!
     急に腹が立ち、奥の部屋の障子を荒っぽく両側に開いた。畳の上のものを足で押しのけ、こたつの脇からベッドに倒れ込む。
    「あー、も、やってらんね」
     目を閉じるが、室内がムッとしていてかなわない。上体を起こして、右側の東の窓の雨戸を開けて網戸にした。そうして再び仰向けになり、ぎゅっと目を閉じ、強引に眠ろうとする。
     どのくらいそうしていただろう。さまざまな思いが巡り、一向に眠れそうにない顔の上を風が過ぎるのを感じた。
     ……あ。
     すっと胸の底が軽くなる。風は広縁の窓から吹いてきて、ベッド脇の東の窓から抜けていく。かすかに髪も揺らされるようで、その心地に眉間から力が抜けていった。
     帰ってきたんだな――。
     なんの雑念もなく、そんな思いが突き上げた。胸が大きくふくらみ、しかし吸い込んだ空気に埃っぽさは少しもなく、むしろ記憶の彼方によどんでいた匂いが嗅ぎ取れて、震えそうな唇から細く長い吐息が溢れ出た。
     泣けそうになるのを純一は抑えられない。かつて何度となく過ごした夏の日の記憶に重なる。うるさいほどのアブラゼミの声と、畑を渡ってきた風の土と緑の匂い。どこにも憂いのない、幸福を幸福とも気づかない、暑い午後にまどろむ記憶だった。
     ……お母さん。
     ゆっくりと眠りに引き込まれていく意識の中で浮かんだ。だがそれは、純一にも気づけない。誰を呼んだのか、誰かを呼んだのか、それすらわからずに目尻が濡れた。


    つづく


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