純一が目を覚ましたとき、室内はいくぶん薄暗くなっていた。それよりも頭がすっきりしていることが意外でならない。なんだか体も軽く感じられる。 ホストをしていた期間は短かったけれど、七月の中旬あたりから体が重くてならなかった。無理に酒を飲む日が続くと、飲んでいないときも酔っているような感覚が抜けなかった。それが、ほんの数時間の昼寝でかなり解消されている。 ま、よかった、つーか……。 理由なんてどうでもいい。そんなことまで純一は考えない。ベッドの上で大きく伸びをして起き上がった。じっとりと汗をかいた紫のシャツをその場で脱ぎ捨てる。畳の上のものを足でかき分けて押し入れを開けた。 この部屋を出たときは三月だったから、処分されてないなら茶箱の中に夏服があるはずだ。期待どおりに、高校生のときに着ていたTシャツやハーフパンツを見つけ、適当に着替える。湿っぽさもカビ臭さもなくて、さっぱりとした気分になった。 広縁に出れば夕暮れを前に既に網戸が閉められていて、それは佐伯がしたに違いなかった。隣の部屋は今も障子が開いていて、そっと覗くが誰もいない。 佐伯は父親と母屋にいるのだろうか。だとしても、そうでなくても、まだ母屋に入る気にはなれない。なんとはなしに置き捨ててあった荷物を取り上げたら、部屋の片づけが始まった。 こたつを広縁の突き当たりに立てかけ、畳の上にあったものもすべて広縁に出したはいいが、掃除道具は母屋にある。仕方なく、元は勝手口から中に入るが、台所には誰もいなくてホッとした。父親は風呂に入っているようで、その隙とばかりに、廊下をはさんだ風呂場の向かいの部屋から掃除機とはたきを取り出し、逃げるように離れに戻った。 父親はどの部屋を使おうと好きにしろと言ったが、母屋に住むなんて、純一には無理だった。 母屋は本当に古くて、六畳の四部屋がふすま続きに「田の字型」に並んだ昔ながらの間取りだ。補修は長年に渡って何度もされたようだが、大幅な改築は「離れ」を建てたときに風呂場と台所とトイレを新しくして、屋根を本瓦に 玄関を入るとまっすぐに廊下が伸びていて、その右側の手前から順に台所と風呂場がある。左側の手前は広縁で、南に面した二部屋の前を通って角を北に折れ、行き止まりはトイレだ。田の字型に並んだ四部屋は、玄関に一番近い部屋が仏間兼居間で、その西隣が客間で、さらにその客間に隣接した北側の部屋が元は両親の寝室で、今も父親が使っている。廊下をはさんで風呂場の向かいになる北西の一間は、祖父母がいた頃から納戸になっていた。 だから、万一にも純一が母屋に自室を持つなら、仏間兼居間の一室か、その隣の客間にするしかない。どちらを使ってもいいと父親が思っているにしても、純一にはやっぱり無理だ。 オヤジの隣なんて嫌だし、仏間には仏壇があるし――。 理由はそれだけではないとわかっているけれど、純一はあえて考えたくない。その二部屋のことを思うだけで胸が押し潰されそうなほど苦しくなる。 だって――しょうがねえじゃん。 いずれにしても、離れを使うほかないのだ。赤の他人の隣に住むほうが、母屋に暮らすよりずっといいと思えるのだから。 一度に片づけを済ませるつもりはなく、純一はひととおり掃除すると、こまごまとしたものは適当に部屋の隅に積んで終わりにした。こたつは冬まで広縁の突き当たりに置いておく。 狭苦しくも、広縁から入って正面の押し入れまで畳の上が空いて、すっきりした。隣の部屋に続くふすまの前にものを積み上げたから開けられなくなったけれど、むしろちょうどいい。 押し入れから出した布団はさすがに湿っぽさが感じられたけど明日にでも干せばいい。どうせ明日も晴天だ。きちんと整えたその上に、ごろんと横になってみる。 ……どうすっかなー。 天井を見上げて脱力してしまう。すぐ帰ってこいと言われたから帰ってきただけで、帰ってきてからのことなんて何も考えてなかった。どうせ畑の手伝いをさせられるんだろうと、その程度には少しは考えていたようにも思うが、帰ってみたら佐伯がいて、自分は必要なさそうなのだ。 とりあえずバイトするとか。 既に数万円しか手元にない。伸びすぎた髪を切りに行ったり、ちょっと買い物したりすれば、すぐになくなりそうだ。家にいて、畑も手伝わずに金も入れずに逆にもらいたいなんて、口にした途端に父親にまた怒鳴り飛ばされるに決まっている。 だから帰ってきたんだし……寝るところがあって食べられるだけましだよな――。 明日は仕事を探しに行こう、そう思うのだが、どうしようもなく気が重い。何もやる気になれなかった。部屋の掃除ができただけででも、自分で驚くほどだ。 オレ……どうなっちゃうんだろう。 ベッドに沈みそうな感覚に引きずられて目を閉じた。ブルンと低いエンジン音がする。純一には聞き覚えのない音だ。車ではなくバイク、それも新聞や郵便の配達の原付ではない。 ――え。 門を入ってきたと気づいて跳ね起きた。思わず広縁に出て目を向けた。 あれって――。 エンジンを止め、見事な体格の男がすらりとバイクから降りる。慣れた手つきでヘルメットを取った顔は佐伯だった。純一には気づかない様子で納屋の中にバイクを押していく。 やはりと言うか、なんでと言うべきか、納屋に見かけた黒光りのする大型のバイクが佐伯のものと知り、純一はぽかんと口が開いてしまった。あのバイクを乗りこなしているらしい佐伯と、就農を希望しているらしい佐伯が結びつかない。 納屋から出てきた佐伯と、網戸越しにぴたりと目が合った。近づいてくる。 「起きたか。すぐに夕飯だから」 手前まで来て、それだけを言って佐伯は玄関に向かった。 すぐに夕飯、って――。 まるで佐伯が用意するような口ぶりだ。あの男が台所に立つのか。いっそう混乱するようで、純一は軽く頭を振った。 しかし、しばらくして恐る恐る台所に顔を出したら、本当に佐伯が夕飯を用意していた。台所とは言え、ここも六畳くらいの広さはあって、四人掛けのテーブルが置かれている。その上には、既に茶碗や箸が並べられていた。ちゃんと三人分ある。 「来たか。どうした? なんで座らない?」 元は勝手口のドアから顔を出した純一に気づき、佐伯が声をかけてきた。穏やかな笑顔だ。 「えっ? あ、――うん」 しどろもどろしながら純一はテーブルに寄った。以前は夕飯に限って居間で食べていたのだが今は違うのかと思いつつ、ふとテーブルの上を見て、自分の席だった場所に、自分が使っていた茶碗と箸があることに目をむく。 そんな純一の様子には少しも気づかないのか、気づいていても気にしないのか、佐伯は料理を盛った器を次々と出してくる。枝豆に、漬け物に、イカの塩辛に、最後に肉じゃが。 夏なのに、肉じゃが――。 そう言えば母親も夏に肉じゃがをよく出していたと、純一は思い出す。唐突に胸が込み上げてきて、よろよろと椅子に腰を下ろした。 「おやっさん!」 佐伯は、開いていた戸口から声を張り上げて父親を呼ぶ。そうして茶碗にごはんを盛り始め、味噌汁を注ぎ、テーブルに並べた。そのタイミングで父親が現れる。 「それじゃあ、いただきますか」 佐伯も席に着き、いただきますと言って父親が箸を取った。純一は、隣に座った佐伯と斜め向かいの父親が黙々と食べ始めたのを見て、呆然とするばかりだ。 「どうした? なんで食べない? まだ食欲がないか?」 隣から顔を向けられて佐伯に言われ、ギョッとしてしまう。 「や、食べないってことは――」 またもやしどろもどろして、純一は枝豆を取った。こんな早い時間の夕食は家を出て以来だ。まだ七時にもなっていない。ぷちっと口の中に枝豆を弾けさせ、惰性で噛み砕く。 あ――。 それはもう、自分ではどうしようもなかった。目の奥がじわっとして無理やり我慢したら、鼻の奥がツンとした。聞かなくてもわかる、この枝豆は今朝採ったばかりのもの――。 うつむいて飲み込み、純一は箸を取る。肉じゃがの器から、皮をこすり落として丸ごと調理された小芋をひとつ口に入れた。それもまた懐かしい味だった。調味料の加減は母親が作ったものとは違ったけれど、芋そのものの味が涙を誘いそうになる。六月に採れた新じゃがの味だ。 「しじみなんて、あったか?」 味噌汁の椀を口にして、父親が怪訝そうに言った。 「さっき買ってきたんです。肝臓にいいって聞いたことがあったんで」 答えた佐伯に父親は軽く目を瞠り、しかしすぐにすっと目をそらした。あとは黙って味噌汁を飲む。 「純一くんは、しじみはダメか?」 佐伯に訊かれ、それが唐突に感じられて純一は面食らう。涙が滲んでいて目も上げられない。 「べつに。つか、好きかも」 なんとなく素直に答えなければ悪いように思えて、ぼそっとそう返した。 「そうか。なら、飲みな。食欲なくても、味噌汁くらい飲めるだろう?」 「飲めるけど」 よくわからない。さっきから気を遣われているように感じるが、思い違いか。とりあえず、味噌汁の椀を取り上げる。飲めば文句ないだろうと、少しばかりの反抗心もあって口にした。 ……やんなっちゃうな。 味噌もだしの素も、母親が使っていたものと同じだ。これもまた加減は違うのだが、一口でわかった。 純一は落ち着けない。真夏の夕暮れに、エアコンなどない台所は窓と戸口が開け放たれているだけで、うっすらと汗をかきながら男三人で食卓を囲んでいる。風は東に向いた窓から廊下に吹き抜けていくけれど、テーブルにビールが出ているでもなく、主菜は肉じゃがだ。 母親がいて三人だった頃は、居間でテレビをつけながら食べていたことを思った。だがすぐに、その思いは追いやる。もう父親と佐伯にも会話はなく、しんと静まり返ったような空気が重く感じられるが、それよりも父親が何も言ってこないことが気になり始めていた。 やはり食が進まない。ホストになってから、ずっとそうだった。それでも味噌汁は飲み干し、肉じゃがは芋だけ食べて、あとは佐伯がおかわりする横で枝豆をつまむ。 ふと視線を感じて、前に垂れた髪の陰からチラッと佐伯に目をやった。気のせいではなく、枝豆をつまむ自分の手を佐伯が見ているとわかり、驚いて目を戻した。 なんで? 「純一」 父親に呼ばれてビクッとする。慌てて顔を向けた。 「その髪は、どうにかしろ」 どんなつもりで言われたかわかるから、純一はムッとしてしまう。この髪では近所で目立ちすぎる。そういうことだ。 「わかったよ」 純一だって、そんなふうには目立ちたくない。家を出たのに帰ってきたと知れたら、明日にも近所の話の種になる。それはわかっていたから、せめて髪だけはどうにかするつもりだった。そうする前に父親に言われてしまったことが悔しい。 まだ何か言われるかと純一は身構えるが、食事を終えた父親は、ごちそうさんと言って席を立った。使った食器を流しに運んで手早く洗う。その下から一升瓶を取り出すと、コップに注いで台所を出ていった。 食後の日本酒一杯は、以前から父親の楽しみだった。変わってないな、と純一は思う。 「何か飲むか?」 佐伯に訊かれて、また焦って純一は振り向いた。 「つっても、お茶とか麦茶とかな? 麦茶なら冷蔵庫に入ってるが――」 「麦茶でいい、て言うか、飲みたきゃ自分で飲むから」 佐伯は片眉を跳ね上げ、おどけたような顔になって見つめてくる。 「な、なんだよ」 「いや。何も?」 言って、ごちそうさまと立ち上がった。やはり、使った食器を流しに運んでいく。今はそういうルールになっているのかと、純一も同様にするのだが、ごはんを茶碗に少しだけ残してしまっている。ラップは流しの上の棚にあるはずで、それを取ろうとした。 「なんだ?」 「何って、ラップ――」 大柄な佐伯の隣に立つと、座っているときよりも一段と威圧感が強く、純一は変に緊張する。 「ラップなら、こっちだ。でも、なんで」 言いながら佐伯は流しの下の扉を開けて、純一の手にある茶碗が目に入ったようだ。 「なんだ、たったこれだけ」 その姿勢からいきなり茶碗に手を入れてきて、残っていたごはんをぽいと口に放り込んだ。 「えっ」 純一は目が丸くなってしまう。佐伯とは今日が初対面の、赤の他人同士だ。 「食い物を捨てないのは、いい心がけだよな。やっぱり農家だと思うよ」 言われたことはわかるが、唖然としてならない。佐伯は姿勢を直して笑顔で見下ろしてくる。 コイツ、なにっ? 長身で頑丈な体をしていて、歌舞伎町界隈でたまに見かけた男のような独特の気迫があって、でも誰もが認めるだろう男前で、なのに、農業をやりたくて住み込みまでしていて、自ら台所に立って料理もして、だけど黒光りする大型のバイクに乗っていて――。 オレの食べ残し、食った。 純一は混乱する思いだ。佐伯のイメージがふらふらと移り変わる。どんな人物か見当がつかない。どう対処したらいいか、まったくわからない。 「先に風呂入れよ。洗いものは、鍋もあるし俺がするから」 答えられないでいる純一の目を覗き込んでくる。 「ん? どうした? 食ってすぐに入れないなら、あとでもいいぞ?」 そういうことではないと純一は言いたい。だが佐伯は、まったく構わない様子だ。 「そうだった。テレビ見たかったら、俺の部屋で見ていいからな。おまえのテレビだったんだし。離れはあの部屋にしか配線がないからってんで、動かさなかったんだ」 さっそく洗いものを始めて、こともなげに言った。 「……はぁ?」 やっとの思いで、純一はそんな声が出た。 「はぁ、って。言ったとおりだが、わからないか?」 佐伯は苦笑した顔を向けてくる。 「わからないって――わからないのは、あんただよ」 思わず純一は言っていた。先に風呂に入れだとか、洗いものはやっておくだとか、テレビが見たいなら見ていいだとか、おまえはオレのなんなんだと、喉の先まで出かかっている。 だが佐伯は声を上げて笑った。 「そりゃそうだ。まだ会ったばかりだし。そのうちわかるようになるだろ。俺もな」 笑い声を引っ込め、くすっとした笑顔になって、純一をじっと見つめてくる。その眼差しの温かく穏やかな感じと、こんな笑顔だとやけに人懐こそうに感じられることに純一は驚く。 「そ、そんなこと!」 口走り、どういうことか、カッと顔が熱くなった。 「まだわからないんだからな!」 自分でも何を言ったかわからない。どうせ何もしなくていいんだし、と逃げるように離れに戻った。自室に入っても、なんだか胸がドキドキしていて、いっそうわけがわからなかった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
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