Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    真野くん!
    ‐3‐

    =お遊び企画/読者参加型小説=




       も、やだ……気持ち悪い、ちんこまで硬くなっちゃうなんて、オレ、なんなの――。
       乳首をいじられ続けて背筋は痺れ、腕も手の先まで力が入らなくなっているけど、足は踏ん張れそうだった。
       とにかく宮本が興奮していくのが耳に吹きかかる息でよくわかり、それが最高に気持ち悪い。力を振り絞って肩で押し返し、股間を蹴り飛ばして逃げよう――そう決心がついたときだ。
      「何やってるんだ、見苦しいな」
       恐ろしく落ち着き払った声が降ってきた。背に被さる宮本がぐらっと揺れる。
      「佐々木も、いつまで惚けてるんだ。呆れる」
      「佐宗……」
       ――え?
       佐々木の呆然としたつぶやきを聞いて真野はそっと目を上げる。
       佐宗……!
       真横に立っていた。宮本の肩をつかんで。
      「っせえな、おまえにはカンケーねえだろ、真野ふったんだからさあ!」
       吐き捨てるように宮本が言い返した途端、きれいな弧を描く眉が跳ね上がった。
      「へえー……?」
       佐宗は驚くほど冷たい顔になる。宮本の肩をつかむ腕に筋が浮き上がり、ぎりっと力を込めたと見て取れた。
      「ってえな、何すんだよっ!」
      「真野から離れろ」
      「ふったくせに、なに言って――」
      「いいから、離れろ!」
      「んだとぉ?」
       ガタッと音を立てて宮本が立ち上がった。太い腕で佐宗の胸倉をつかむ。
      「やめ……っ」
      「やめろよ!」
       佐々木より先に真野が言い放つ。
      「宮本の、バカ! 佐宗に何すんだよっ! おまえなんか、大っ嫌いだ!」
       きっぱりと顔を上げ、涙の滲む目で宮本を思いきり睨みつけた。
      「え――」
       真野を見下ろして宮本の腕から力が抜ける。へなへなと佐宗の胸倉を放した。
      「真野――」
       佐宗も宮本の肩を放し、表情をやわらげて真野を見つめてくる。
       佐宗……オレのこと助けてくれて――なのに、オレ……勃っちゃってるなんて!
      「ごめん、佐宗……ごめん!」
      「ちょ、なんで――」
       思わず謝る真野に佐々木がうろたえた声を出した。真野はまた机に突っ伏しそうになるが、佐宗に腕を捕られる。
      「――おいで」
      「え……」
       佐宗は、穏やかながら真剣な顔だ。戸惑う真野をせかすように腕を引き、それに合わせて真野も立ち上がる。
      「……真野」
       唖然とした顔で佐々木が呼んだ。真野は、宮本には目もくれない。佐宗に腕を引かれるままに、少し前のめりになって教室を出た。
       渡り廊下を過ぎて隣の校舎に連れて行かれる。三階の地学室や物理室が並ぶ廊下に生徒の姿はなかった。部活動にはげむ運動部員の声が校庭から聞こえるだけだ。
      「佐宗――」
       毅然とした後ろ姿に真野は呼びかけた。
      「どうしちゃったの……?」
       立ち止まり、ゆっくりと佐宗が振り向く。困ったように眉をひそめ、そっと息をついた。
      「……大丈夫?」
      「え――う、うん」
      「トイレ……行かなくて平気?」
      「えっ」
       咄嗟に内股になり、真野は身をかがませた。つかまれていない手を前に回しそうになって、カッと頬が熱くなる。
       なんで、バレバレっ?
      「悪い――」
       目を泳がせて佐宗は顔を背ける。その頬も、ほんのり染まっていた。
      「佐宗……ぜんぶ見てたの――?」
       真野は居たたまれない。トイレは目の前だ。部活の生徒がいなくてほとんど無人だから、わざわざこちらの校舎に連れて来られたとわかって、いっそう顔が熱くなる。
       あんまりだよっ。オレは佐宗が好きなのに、宮本にあんなされたの、ぜんぶ見られちゃったなんて!
      「見てたよ。昨日のことがあったから、気になって、今日はずっと目が離せなかった」
      「……そうなの?」
       真野は目を丸くして佐宗の横顔を見つめる。まさか、そんな理由で佐宗に見られていたとは意外だった。今日一日、目が合いそうになるとそらされていたから、すっかり嫌われたと思っていたのだ。
      「ああいうの、許せなくて」
       声を低めて佐宗が言う。
      「ひとの弱みにつけこんで、ヤりたいだけで近づいて、真野の気持ち無視して、偶然でも何でも、教室であそこまでするなんて、目が腐る」
       忌々しそうに唇を引き結んだ。苦痛の滲むその表情で、目を戻してくる。
      「どうして早く帰らなかったんだ。深大寺に言われてただろう? 聞こえてたぞ?」
      「だって――」
      「早く帰ってれば、こんなことにならなかったのに」
       きれいな眉をぎゅっと寄せて佐宗が言う。
      「しょうがないだろっ、佐々木が――」
       真野は、つい言い返してしまう。そこまで言われたくなかった。身をもって思い知ったあとだ。
      「佐々木だって同じじゃないか」
      「え――」
       だけど、そう返ってくるとは思わなかった。
      「なに、それ……?」
       なかば呆然とつぶやく。
      「まさか、わかってなかったのか?」
       驚いたように佐宗が目を合わせてきた。
      「朝からずっとネタにされてたじゃないか。ぼくに抱いてくれなんて廊下で言ったから、それ知って、いろんなヤツが真野なら抱けるなんて話してた。女子とつきあうより面倒がなくていいかも、とか言って」
      「……ウソッ」
      「嘘じゃない。佐々木がそうだ」
       まったくわかってなかった。朝からやたら見られている気はしていたが、そういう理由だったなんてショックだ。
      「なんだよ、それ……ひど……」
       悔しくて涙が滲みそうになる。だがそれも、自分で招いたことだと言われたのも同然で、感情のはけ口が見つからずにうな垂れてしまう。
       困ったように佐宗が浅く息をついた。重そうに口を開く。
      「深大寺はわかってたと思うんだけどな。だから早く帰れって真野に言ったんだと思ったけど、違うのか?」
       わからない。真野は、ゆるゆると首を振る。
       ふうっと、佐宗は深い溜め息を落とした。暗くなった声で、やるせなく言う。
      「ぼくも、まさかこうなるとは思わなかった。きみに廊下であんなこと言われて、ヤバイって思ったからあの場ですぐに冗談にしたのに、かえって逆効果だったみたいで責任感じる」
       ……え?
       真野は、そろそろと顔を上げる。上目で、そっと佐宗をうかがった。横を向いて、肩を落としている。佐宗まで傷ついているように。
      「あれ……冗談って、わざと言ったの?」
       口を開いたら掠れた声が出た。佐宗が目を向けてくる。悲しそうな眼差しだ。
      「そうだよ。じゃないと、きみもぼくも困ることになると思って。でも読みが甘かった」
      「そんなっ、佐宗は何も悪くないじゃん……」
       責任を感じるとまで言われて、真野は落ち着かない。廊下で告白した自分が悪いと素直に思う。
      「けど、こんなことになっちゃったし。あのとき、もっと考えれば予測できたと思うんだ」
       ぽつりと漏らすように言って、佐宗は淋しくほほ笑んだ。
      「ごめん、冗談にしちゃって。本気の告白なのはわかってた。だけど、ぼくが男を抱くなんて無理だし。真野だからダメってわけじゃないんだ、そこはわかってほしい」
      「ううん! オレのほうこそ、わざと冗談って言ったなんてわからなくて……ごめん、あんなとこでコクって、オレ……やっぱバカだ」
       言いながら落ち込んでしまった。廊下でなんか告白したから大好きな佐宗を困らせることになった。がっくりと真野はうな垂れる。
      「それ、深大寺がいたから伝わったと思ったんだけどな。そういうことは彼が教えてくれてるんじゃないの? いつも一緒だし」
       なおさらうな垂れて、ぼそぼそと答えた。
      「……三月もわからなかったみたい。冗談って言うなんてひどいって、言ってたし」
      「マジで?」
       意外そうに佐宗が声を上げた。それが真野には意外で、顔を上げる。
      「なら、今日は真野があんなふうに言われていて、かなり焦ったわけだ――」
       独り言のように漏らした。
      「――むしろ、ぼくがヤバイか」
      「えっ」
       ギョッとして声が出た。目を合わせてきた佐宗に、じっと見つめられる。
      「やっぱ真野は、自分のこともわかってない?」
      「な、なに?」
      「きみは小さくて華奢で、いつも元気で、女の子みたいに愛くるしい顔をしているんだけど、それがどういうことか、わかる?」
      「はぁっ?」
       思わず声が裏返った。
      「なにそれ、ひどっ! オレはチビかもしれないけど、ちゃんと男だぞ!」
       女の子みたいと言われては、たとえ佐宗が相手でも黙っていられる真野ではない。
      「どこが女子みたいだよっ? 愛くるしい顔ってなんだよ、髪だって短いし――」
      「かわいいよ、思いきり」
      「――え」
       にっこりとして、いきなり『かわいい』と言われ、真野は赤面する。
      「そんなふうに性格も素直だから、こんなことになっちゃったんだよな」
       表情を引き締めて佐宗は続けた。
      「どうする? さっきのヤツと佐々木だけじゃないと思うよ、きみを狙ってるの」
      「えー……それはないんじゃ――」
      「甘いな」
       呆れたように吐息を落とした。
      「教室であそこまでするようなのは、さっきのヤツくらいかもしれないけど、面倒なことになったよな。さっきのこと、深大寺は知らないし。でも、明日には知るか」
       それを聞いて真野は青ざめる。
      「ま、マジ? つか、そうだよな。――どうしよう!」
       宮本に絡まれたと深大寺に知られたら、どれほど怒られるだろう。明日から登校拒否になりそうな気分だ。
       すがりつくような目で佐宗を見てしまう。佐宗は困り果てたように顔をくずした。むしろ、哀れむような眼差しを注いでくる。
      「きみって……なんて言うか――」
       言いかけて言葉を飲み込んだ。疲れたように、深い吐息を落とす。
      「ぼくのことは、考えてくれないのかな」
      「えっ」
       何を言われたのか、真野はまったくわからない。深大寺に怒られると、それだけで頭がいっぱいになっていた。
      「昨日は、ひどい言い方できみをふったのに、今日は、さっきのヤツと佐々木からきみを取り返した。明日は、やっぱりつきあうことにしたんだって言われるだろうな」
      「……あ」
       真野の動揺には取り合わず、淡々と佐宗は続ける。
      「そんなこと、ぼくはどうでもいいけど、深大寺の機嫌を損ねるのは面倒だな。それより、きみがかわいそうだ。何度も言って悪いけど、ぼくがきみとつきあうなんて無理だし」
      「――ん」
       言われたことが胸に落ちて、痛い。でも、じんわりと温かくなった。トクトクと鼓動が速まり、真野はまっすぐに佐宗を見上げる。
      「やっぱ、カッコイイ」
       思ったことが、するりと口に出た。
      「佐宗に憧れる。オレ、迷惑かけただけなのに、やっぱやさしいし。佐宗、オレ――」
       だけど、そこまで言って、胸に込み上げたもので声が詰まった。
      「今さらだけど……さっきは助けてくれて、ありがとう。余計に困ることになるって、佐宗はわかってたのに――。オレ……もう迷惑かけないから――自分で、どうにかするから」
      「真野……」
       佐宗を見上げて、目が潤んでしまう。
      「オレ……好きになったの、佐宗でよかった」
       こらえきれず、涙がこぼれた。佐宗に見られたくなくて、慌てて目をこする。
      「真野」
       やわらかい声と共に、そっと手が伸びてきた。まるで壊れ物のように、真野はやさしく佐宗の胸に包まれる。
      「ごめん。真野の気持ちに応えられなくて。昨日は、あんなふうに言うしかできなくて――ごめん」
      「いいんだ、そんなの。佐宗は何も悪くない、謝らないで――」
       佐宗の胸にすがり、真野は頬を寄せた。夏物の薄いシャツを隔てて、佐宗の鼓動が耳に伝わった。温かな響きに胸が熱くなる。
       いいんだ……本当に。
       ふられてしまったけど、決して無下にされたわけではないとわかって、安心するような思いだった。
       佐宗は、自分が思ったとおりの男だった。
       ほうっと、熱い吐息が唇から溢れたときだ。離れがたくなっていた真野の背に、低く張りのある声が響いた。
      「そこで何をしている?」
       ビクッとして振り向く。すがりつく佐宗にも緊張が走ったとわかった。
      「織田先生――?」
       どれほどマズイ現場を押さえられたのか、真野にもわかる。男同士で抱き合っているのだ。それも、たった今まで無人だった廊下で。
       織田は呼びかけたきり何も言わない。隙のないスーツ姿で仁王立ちになり、睨みつける視線をふたりに向けているだけだ。
       ……じゃなくて、佐宗に?
      「佐宗、来なさい。話がある」
      「――はい」
       すっと佐宗は離れた。真野に目をくれることもなく、先に歩き出した織田についていく。
      「せ、先生! オレはっ?」
       思わず言い放っていた。威圧的な後ろ姿が立ち止まり、面倒そうに振り向く。
      「帰りなさい」
       ぴしゃりと返された。真野はうろたえる。
       なんで……?
       見つめる先で、背の高いふたりは物理科準備室に消えた。物理担当の織田の居城だ。真野も、呼び出しを食らうといつもそこに行く。
       どうしよう……なんで佐宗だけ?
       佐宗のやさしさを身にしみて知った今、真野はじっとしていられない。織田に何を言われるのか、何を理由に連れて行かれたのか、どうしても気になる。
       頃合を計り、再び廊下が無人になったことを確かめ、真野は足を忍ばせて物理科準備室の前まで行った。身をかがませて、ぴたりと閉ざされたドアに耳を押し当てる。
       ……? ヘンだな。
       話し声どころか物音ひとつ聞こえなかった。こっそり伸び上がって、ドアの小窓から中を覗く。しかし、片づいていない机と、その向こうの窓に広がる青空が見えただけだ。
       なんで?
       織田に呼び出されると、織田は今見えた机に着き、その前の椅子に自分を座らせるのが常だ。物理科の教師らしく無駄なことはいっさい口にせず、いつも端的に話を終わらせる。
       佐宗と何してるんだろう……。
       間違いなく、ふたりはここに入った。だが姿が見えない。そんなのは変だ。
       どうしても気になり、隣の物理室に忍び込む。黒板の横のドアで準備室と続いていることを思い出したのだ。
       あのドアにも窓あったよな――。
       がらんとした教室の前を横切り、また足を忍ばせてドアに近づく。運動部員の声が遠く聞こえた。右手の窓の外は校庭だ。
       先ほどと同じく、身を低くしてから、伸び上がってドアの小窓に顔を近づける。今度もまた片づいていない机が見え、その向こうの壁に並ぶキャビネットが目に映っただけだ。
       ……どこにいるんだ?
       知らず、躍起になっていた。あきらめるということを真野は思いつかない。
       準備室の中を思い出し、廊下の小窓からも物理室の小窓からも姿が見えないとなると、左奥の隅にいるはずだと見当をつける。
       なら、ドア開けてもわからないな。
       膝を床につけて、真野はそろそろと引き戸の左側を開ける。滑りがよく、音がしなかったことにホッとして、すぐ左のキャビネットの陰まで膝で進んだ。そっと顔を出してみる。
       片づいていない机の脚の向こうに、いつも座らされる椅子が見えて、その先にスーツの背を捉えた。織田だ。廊下側の壁に沿って置かれたキャビネットの右横、思ったとおりに部屋の隅にいたが、なぜかしゃがんでいる。
       少し目を上げたら佐宗の姿が映り、真野は危うく声を上げそうになった。咄嗟に右手で口をふさぎ、どうにかこらえるものの、暴発したように心臓がバクバクと鳴り出す。
       佐宗は、部屋の隅の作業机に浅く腰かけるようにしていた。こちらを向いているのだが、夏服のシャツの前がしどけなく開いている。
       そこに織田の右手が伸びていた。何度見直そうとも、佐宗の素肌の胸をまさぐっている。
       ……マジッ?
       真野は佐宗の顔に目が釘づけになる。顎を軽く突き出し、唇を薄く開き、目をうっとりと閉じて、頬を紅潮させていた。両手は織田の頭にあって、短い髪をもどかしく乱している。よく見れば、胸もそらしているようだ。
       ど、ど、どうしよう――。
       必死に口を押さえて、心臓が飛び出さないかと焦りが止まらない。しかし、目は佐宗の姿にすっかり捕らわれている。
      「ん……あ」
       佐宗の漏らしたあえかな声を耳が拾った。ドクンと心臓が飛び上がり、じわっと股間が熱くなる。
       形のいい唇から溢れる吐息が見えたほどに感じられ、佐宗の体感が自分に襲いかかる。胸をまさぐられ、乳首をこねられて生まれる快感だ。
       佐宗の前にしゃがんで、織田はいったい何をしているかまで考えられなかった。織田の頭をはさんで開いた佐宗の脚は夏服のズボンに包まれているが、腰までそうなのかは見て取れない。そもそも織田は佐宗の股間に顔をうずめているようなのだ。
       ま、まさかね……?
       何がどうまさかなのか、真野は考えたくない。エロ話で聞きかじった程度のことが、今ナマで行われているとは思いたくなかった。
       だ、だって、先生と生徒だし――。
       そんな思いが浮かび、きゃーっ、と言ってしまいそうになる。心臓はいっそうバクバクとうるさく、もう耐えられそうにない。
      「ね、せんせ……ほしい――」
       とんでもないタイミングで佐宗が声を漏らした。真野を痺れさせるほどの甘い響きだ。
      「駄目だ」
       織田が低くささやく。
      「も……イっちゃう」
      「それも駄目だ」
      「はっ、ん!」
       胸を突き出し、佐宗は仰け反る。せつなく顔を歪め、織田の頭をぎゅっとつかんだ。
      「せんせ……っ」
       薄目で織田を見下ろし、唇を震わせる。
      「――お仕置きだと言ったはずだ」
      「はぁ……っ!」
       肩を丸め、身を縮ませて佐宗が何に耐えているのか、真野にもおおよそ想像がついた。コクッと喉が鳴ってしまい、サッと血の気が引く。
       この位置まで進んできたときと同じように、慎重に後ずさりした。元どおりにドアを閉めることを忘れず、あとは駆け出したくなる衝動をひたすらに抑えて物理室を出た。
      「はぁーっ……」
       いまだ廊下に誰もいなかったことに、心底ホッとする。文字どおり胸を撫で下ろし、真野は深呼吸を繰り返した。
       何より先に、この場を去ることだ。教室に戻る足が自然と速くなる。しかし頭には今しがた見た光景が焼きついていて、そのことばかりを考えてしまう。
       佐宗、男とはつきあえないって言ったのに。
       そう言われて自分はふられたのだ。
      『真野だからダメってわけじゃないんだ』
       うん――だよな。そう言ったし。
       だが、そこでハッとした。うっかり足が止まりそうになる。
      『ぼくが男を抱くなんて無理だし』
       そう……、そう言ったんだ!
       今度は駆け出しそうになり、真野は無理にも抑える。
       なら、そういうことっ? 抱くのは無理でも、逆なら――。
       また、きゃーっ、と声が上がりそうになる。足をもつれさせそうになりながら、両手で口をふさいだ。自分で驚くほど顔が熱くなっている。
       でもでも! ――だよね? 佐宗、織田先生とつきあってるから、オレをふったんだ!
       うわー、どうしよう、どうしようと、慌てふためく。自分ひとりでは抱えきれない秘密を知ってしまった。
       それに、佐宗だけが織田に呼ばれた理由もわかった気がする。
       お仕置き、って――もしかして、お、オレにジェラっちゃったわけっ?
       教師が。生徒に。
       ありえない〜っ。
       結局は駆け込む勢いで教室に入り、ようやく人心地つくかと思っても、鳴り響く鼓動は少しも鎮まっていなかった。
       マジ、口から心臓が出そう。
       とにかく帰らなくてはと思う。万一にも、委員会が終わった深大寺と顔を合わせる羽目になったら大変だ。
       そのときになって自分の席に目を向け、ギクッとした。佐々木がいた。ほかには誰もいない教室の、自分の前の席に。佐宗に連れられて、自分が出て行ったときと同様に。
      「――真野」
       呼びかけてくる。ひどく弱々しい声だ。
      「佐々木……」
       真野には何も応える用意がない。まったく予測していなかった事態に、ただうろたえる。
       立ち止まってもいられず、席まで戻った。顔を伏せて目を合わせようとしない佐々木に、どうしたらいいか戸惑う。
      「真野……怒ってるんだろ?」
       鞄を手にすると、佐々木は後ろめたそうに目を上げてきた。
      「あんなこと言ったくせに、おれ、何もできなかった」
       どのことを言われたのか、真野にもわかる。宮本を止められなかったことを佐々木は悔いているのだ。
       しかし、どう答えたらいいのか真野はわからない。今度こそすぐに帰らなくてはいけないと思うのに、鞄を手にして止まってしまう。
      「……今まで佐宗といたのか?」
       それにも答えられなかった。ずっと一緒にいたわけではないという思いが湧き、盗み見た佐宗の艶かしい姿が頭に浮かんで、また顔が熱くなってしまう。
      「そうなんだ――」
       佐々木の硬い声を聞いてハッとした。誤解されたとわかったが、やはり返す言葉がない。
      「おれ……なんだったんだろうなっ」
       苦々しく言い放ち、佐々木はサッと立ち上がる。自分の席まで駆けて行き、鞄を取ると、その勢いのまま教室を出ていった。
      「佐々木……」
       思わず声になる。佐々木の苦しそうな顔、自分から逃げるように姿を消したことが頭を占めた。
       何かが変だ――佐宗は、佐々木も自分を抱きたいだけで近づいてきたと言った。だけど、自分に向けられた笑顔、熱心に話しかけてきた素振り、友だちから始めてもいいと言ってくれたこと――どこにも偽りは見当たらない。
       けど……。
       ただひとつ、宮本を止めてくれなかった。それだけが引っかかる。
       でも、それだって――。
       ひどく悔いているようだった。自分が戻るまで教室に残っていて。
       これまでの時間、教室にひとりになるまで、佐々木はどうしていたのかと思う。あのとき教室にはまだ何人か生徒がいて、佐宗に連れられて自分が出ていったことも見ていたはずだ。そのあとの佐々木はどんな目で見られていたのか。
       ……本気?
       もう一度、信じてもいいように思えてくる。一瞬でも佐々木とつきあってもいいと自分は思ったのだ。
       佐宗とは、もうどうにもならないんだし。
       失恋したから佐々木に乗り換えると思えば、ずいぶんと自分は汚いように感じる。しかし、佐々木の気持ちが本当なら、ないがしろにはできない。佐宗が自分にそうだったように。


      つづく


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