これって、すごくヤバイかも――。 また佐宗が目に入り、顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかった。真野は、朝からずっとこんな調子だ。 ホームルームのときには担任の織田にすら顔を赤くしていた。見つからないように必死に顔をうつむけていたのだが、果たしてバレずに済んだかどうか、うつむいていただけに不明だ。 深大寺には、しっかりバレている。自分を見る目が、とてつもなく疑わしい。二時間目が終わった時点でこうなのだから、昼休みには何を言われるか知れたものではない。 次、芸術でよかった――。 深大寺の目からも、佐宗の姿からも逃げるように、真野はひとりで書道室に向かう。いつもは一緒に行く友人がいるが、今日はあえてひとりで行くことにした。 昨日の放課後のことはまだ噂になっていないようだが、今後も噂になるほどのことではないかもしれないが、自分の迂闊さは、もう嫌というほど思い知った。誰かと話しているうちに、うっかりなことをいつ口走るとも限らない。自分から火種をまくことになったら大変だ。 なにしろ、とんでもない秘密を抱え込んでしまったのだ。佐宗と織田はつきあっていて深い仲らしいなんて、誰にも絶対に言えないと思うほどに、誰かに話してしまいたい衝動に駆られる。 ないないない! それだけは、絶対ダメ! しかし佐宗のみならず、織田を目にしてまで顔を赤くする理由を、きっと深大寺は問い詰めてくるだろう。そうなったら、織田と佐宗がエロいことしているのを見てしまったから、ふたりを目にすると顔が赤くなってしまうのだと、正直に話してしまいそうで怖い。 たとえ話してしまっても、相手が深大寺なら秘密を分け合うことになり、むしろ気持ちが軽くなるようにも思えるのだが、そうなると、なぜそんな秘密を知ることになったのかも話さないわけにはいかなくなる。 だよね。昨日、宮本が来てたことが三月にバレるだけでも、すっげーヤバイ。 どうか深大寺には何も知られませんようにと、ひたすらに願う。しかし次の時間、深大寺は美術だ。少々の私語なら注意されるなんてなくて、手を休めずに絵を描いていればいいだけだから気楽だと、普段から言っている。 ……もしかしなくても、次が一番ヤバイ? 書道が終わったら早退してしまおうかと、本気で思った。だがそれも、かえって逆効果だ。そうしたら今度は、早退の理由を深大寺に問い詰められる。 こういうの、なんて言うんだっけ? 八方ふさがり? そうそう、そうだったなんて、のほほんとした気分になったのも束の間、書道室に一番に入って、真野はぐったりと席に着いた。 オレ……なにやってんだろ――。 すっかり何がなんだかわからない。ずっと秘めていた思いを佐宗に告白して、その場で断られて、それなら再度チャレンジしようと思っていたのに、そうする前にこうなった。 佐宗に抱いてくれなんて人前で言ったから、佐宗が断ったのを知って、ほかの男が自分を抱きたいと言い出したそうだ。 マジ、ひどい……。 ただの冗談じゃなくて現に佐々木には告白され、宮本にはセクハラされた。さらには、どんな偶然なのか、佐宗と織田のあんな現場まで見てしまったのだ。 オレ、どうしたらいいの? 深大寺にも相談できない状況にもなりうるなんて、考えたことすらなかった。これまで自分で持て余す悩みは、すべて深大寺に相談して乗り切ってきたのだ。 自分でどうにかするって佐宗に言ったのにさ……オレ、何もできないじゃん。 もう迷惑はかけないと、宣言したのだ。なのに、佐宗が目に入るだけで赤面しているのだから、きっちり迷惑になっている。 三月……佐宗と何かあったって、思ってるよな。 当然だろう。佐宗を眺めてはさんざんうっとりしてきたが、今日みたいに顔を赤くするなんてことは一度もなかった。深大寺でなくても、気づいた者は佐宗と何かあったと思うに違いない。 やっぱ、すっげーヤバイじゃん……。 これに関しては、見たことを忘れるほかない。だけど衝撃が強すぎて、ちっとも忘れられそうにない。それどころか、あのときの佐宗の姿があまりに艶かしく頭にこびりついていて、つい繰り返し思い出してしまうのだ。 だって……すっげー、エロかったんだもん。 そんなことは言い訳にもならない。そもそも佐宗に失礼だ。 オレに、やさしくしてくれたのにな……。 結局、何が最大の問題で、どこから対処すればいいのか、真野はまったく見当がつかなかった。 しかし事態は急転する。書道が終わって、教室に戻る廊下で深大寺に見つけられ、真野はいきなり隅に押しやられた。 「なんで昨日、すぐ帰らなかったんだ!」 「……ごめん」 深大寺の顔が真剣すぎて、真野はそれしか言えない。ああやっぱり美術の時間に知られちゃったのかと、私語を注意しない美術教師を逆恨みしたくなる。 「あんなに言ったのに! おまえ、ぜんぜんわかってなかったけど、宮本は一年のときから、おまえ狙ってんだぞ!」 「――え」 意外すぎて、怯えながらも深大寺と目を合わせた。いっそう真剣になった眼差しで、メガネの奥からきつく睨まれてしまう。 「噛み砕いて言わなきゃ、おまえはわからないか。一年のときはそうでもなかったんだ。おまえに勃つなんて宮本が言うから、バカかって言えば引いてた。けど、おまえが佐宗に抱いてくれなんて言ったから、それもアリになっちゃったんだよっ」 やっぱ、オレのせいか――。 深大寺から改めて言葉にして聞かされ、真野は泣きたくなる。好きな人に好きと言って何が悪いと、突っ返したい気持ちがせり上がるが、今の深大寺にそれは言えない。 「ごめん、三月――」 「俺に謝ったって、しょうがないだろっ」 うな垂れる真野に、深大寺は言葉を吐き捨てる。だが次の瞬間、ハッとして下から覗き込んできた。 「まさか、おまえ……宮本に何かされたか?」 ギクッとして、真野の肩が揺れた。深大寺はまだそこまで知ってなかったと、今の問いかけで飲み込めた。 「――されたんだな?」 怒気を込めて、深大寺が問い詰めてくる。 「う、ううん! 何も!」 慌てて取り繕ったが、もう遅い。目を上げた先で、深大寺は怒りとも悔しさともつかない表情に、大きく顔を歪めた。 「……三月」 恐る恐る声が出たが、くるりと背を向けて深大寺は行ってしまう。頑なな後ろ姿を追う勇気は湧いてこなかった。 三月……怒らせちゃった――。 これまでにも深大寺に怒られることは何度もあったけど、こんなふうに拒絶されたのは初めてかもしれない。いや――初めてだ。 ……どうしよう。 男なんだから、うじうじせずに、何もかも潔く深大寺に打ち明けるべきだろう。だけど、それができない。 佐々木にコクられて帰るの遅くなったなんて……三月に言ったら、どうなるんだろう。 それもまだ知らないようだった。知っていたら、ほかにもっと言われたはずだ。 深大寺がどこまで知ったのか、すべて知られたらどうなるのか、考えて真野は胸が痛む。 なんで――三月に隠し事しなくちゃならないんだよっ。 中学生のときからずっと一緒だった。一年で同じクラスになって、はっちゃけすぎて浮き気味だった自分に、深大寺から話しかけてくれたのが始まりだ。 やたら怒って鬱陶しく感じたときもあったけど、嘘を言わないとわかってからは、心から深大寺を信頼するようになった。 そう――深大寺は、どんなに怒っても何も偽らない。本音をむき出しにするから怒っているように見えるけど、本当には怒っているのと違う。 ……心配してくれてるんだよな。 わかっているから、なおさら胸が痛くなる。それが隠し事をしてなのだから、余計に苦しくなる。 オレ……三月を心配させたくないのに。なんで心配させちゃうんだろ――。 ひたすらに悲しかった。とぼとぼと教室に戻り始め、真野は深い溜め息を落とす。 ……ぶっちゃけるしか、ないよね。 とんでもなく怒られるに違いないが、人づてに知られるよりいいに決まっている。自分で話せば、事実が曲がって伝わることもない。 それから昼休みになるまで、いつも以上に授業が耳に入らなかった。深大寺に潔く怒られようと、そのことばかりを何度も自分に言い聞かせ、すっかり重い気分になっていた。 しかし、昼休みになって真野は途方に暮れる。授業が終わってもしばらく顔をうつむけ、深大寺に怒られる覚悟をどうにか固め、そうしてからこっそり目を向けたのだが、深大寺が席にいないのだ。 なんで――。 ほかの生徒たちは、もう教室内を動き始めている。そのひとりひとりに目を走らせるが、深大寺はいない。トイレにでも行ったのかと最初は思った。すぐに戻ってくるだろう、そうしたら怒られるんだと、弁当の包みも開けずに緊張して深大寺を待った。 だが、それから十五分を過ぎても深大寺は現れない。昼休みは過ぎていく一方で、うろたえて教室を見回す真野の目には、既に昼食を終えた生徒が何人も映る。 どこ行っちゃったんだよ、三月……。 これは、もしかしなくても、自分と弁当を食べるのも嫌ということか。そこまで深大寺は怒っているのか。 ――そうかも。先に用があっても、弁当はいつもオレのとこに置いてくし……。 ふと、佐宗と目が合った。訝しそうな眼差しを受けて、ギクッとしてそらす。また赤くなってしまった顔を伏せれば、弁当の包みが目に入った。仕方なく、食べることにする。 ひとりで食べる弁当は味気なく、すぐに平らげてしまった。それを片づけながら、深大寺が戻っていないか、ちらちらと視線を投げて教室中をうかがうが、やはりいない。 また佐宗と視線が勝ち合い、また顔が赤くなって慌ててそらす。そうしたら、今度は佐々木と目が合ってしまった。 ――え。 苦しそうに顔を歪め、佐々木が先にそらした。おもむろに立ち上がると、何気ないふうに教室を出ていく。そうなってから気づいた。佐々木は、今まで自分の席にひとりでいたようだ。普段は席を移って、何人かで食べているのに。 ほとんど反射で真野は席を立つ。小走りになって佐々木を追った。 「佐々木!」 C組の前の階段を上った踊り場で追いついた。その先は屋上に続いている。 佐々木は何も言わず、ゆっくりと振り向いた。悲しそうな目で真野を見つめてくる。 「佐々木、あの……っ!」 勢い込んで真野は何か言おうとするが、言葉が出てこない。なぜ佐々木を追ってきたのか、自分でわかってなかった。 「えっと、だから、その……」 「もういいよ」 素っ気なく佐々木がつぶやく。 「なかったことにしてくれて」 「……え?」 意外なことを言われた気がした。何も予想してなかったのだから意外もないのだが、真野はなかば唖然として佐々木を見つめる。 「忘れてくれていい、って言ってる。忘れてくれとまでは、まだ言えないけど」 苦しそうに佐々木は漏らして、床に視線を落とした。長めの髪がさらりと頬に流れる。 真野は言われていることがわからない。とりあえず昨日のことだとはわかるが、それを忘れてくれていいとか、忘れてくれとか、そこに違いがあるのかさえ、見当がつかない。 「――ごめん、よくわからない。昨日オレに言ったことは取り消す、って意味?」 仕方なく、正直に尋ね返した。佐々木は視線を下げたまま、ぼそっとつぶやく。 「わからないなら、いいよ、それで」 「――佐々木」 これでは困ってしまう。自分を見ようともしない佐々木はやはり苦しそうに感じられ、佐々木が口を閉ざすほどに、かえって真野は引き下がれなくなる。 「あのさ。昨日、オレに……その、いきなりコクってくれたのって――やっぱ、オレが佐宗にコクってふられたから?」 思い切って、自分から訊いてみた。 「えと、だから、オレが男に抱いてくれなんて言ったから、抱けるならオレでもいいみたいな……女子より面倒なくて、女子の代わりになるとか――」 佐宗から聞いたとおりのことを口にするが、だんだんみじめになってきた。知らず知らず真野はうつむいてしまう。 「あんまりだ。そんなふうに聞いてたの?」 しかし、思いがけずきっぱりとした声を聞いて、驚いて顔を上げる。 「そんなこと言うヤツもいたけど、おれは違う。友だちから始めてもいいって言った。佐宗にあきらめつくまで待てるって――言ったのに……」 佐々木は真野の目をまっすぐに見つめ、しかし最後は口ごもって、暗く表情を曇らせた。 「ごめん、佐々木。オレが悪かった」 佐々木は本気だったんだ――声を上ずらせて真野は謝る。 「いいよ、もう。真野が佐宗にコクってふられたから、コクる気になったのは本当だし」 「え?」 きょとんとする真野に、佐々木はつらそうに説明を加える。 「そこでまた誤解しないで。真野が男に抱かれたいタイプだなんて、佐宗にコクったからわかったわけで、真野のこといいと思ってても普通に女子が好きかもしれないし、いつも深大寺と一緒だし、簡単にはコクれなかった」 「そ、そうなんだ……」 そこまで言われて飲み込めたものの、深大寺も関係あるのかと真野は首を傾げる。 「ホント、こういうことまで言わないと真野はわからないんだね」 フッと笑みを浮かべ、困った顔で佐々木は見つめてくる。 「そういうとこ、好きなんだけど……佐宗とつきあうことになったんじゃ、おれがあきらめるしかないか」 「え!」 真野は目を丸くする。まじまじと佐々木を見つめ返す。 「なんでっ? どうしてっ? オレ、佐宗とつきあうなんて、ないけど!」 「――え」 佐々木の目も丸くなった。一瞬の沈黙に包まれる。 「けど昨日、佐宗と教室出ていって、顔赤くして帰ってきたから――」 「違う違う!」 「って、今日も佐宗見て赤くなってたし――」 「だから違うって! 赤くなるのは――」 うっかり本当の理由を口走りそうになり、真野は慌てて口をふさぐ。 「いいじゃん、どうだって!」 咄嗟にそう言い放った。 「うん、まあ……そうだね。つきあってないなら――」 もそもそと口の中で言い、佐々木は気まずそうに茶色い髪をかき上げる。すっと視線を流してきて、うっすらと頬を染めた。 ――う。 ドキン、としてしまったのは仕方ないと真野は思う。佐々木がやけにかわいく目に映る。 「つっても、やっぱ、おれもごめん。アイツ――宮本から助けられなかった。教室であんなことするなんてありえないって言うか……助けてって真野は言ったのに……おれ、動けなかった」 言うなり、佐々木は悔しそうに顔を背ける。 「こんなんじゃ、おれ、やっぱ無理かも」 そんなことまで言うのも、やはり佐々木が本気だからなのだと真野は思う。目の前にいて助けてもらえなかったショックはあるけど、そのことで佐々木を責める気にはなれない。 だって、オレも男なんだし。 自分の身は自分で守れて当然なわけで、助けてもらえなかったことよりも、本気で好かれていることのほうが大きいと思う。それに、咄嗟に動けなかったと言う佐々木の気持ちも、わからないでもない。 「気にすんなよ」 だから、そう言った。佐々木はそろそろと顔を戻してくる。安堵とも困惑ともつかない表情に歪んでいた。 「オレ、佐々木に好きって言ってもらえて、うれしかったし」 「……マジ?」 佐々木の顔が赤くなる。つられて、真野まで赤くなった。 「――そういうことかよ」 いきなり、地を這うような声が降ってきて、驚いて顔を向ける。 「康史。おまえ、サイッテーだな!」 いつからそこにいたのか、踊り場から屋上に続く階段の途中に深大寺が立っていた。 「三月!」 言われたことを飲み込むより先に、真野は大声を上げる。 「それ、どうしたの!」 深大寺は、見るからによれよれだった。しかし足早に降りてきて、真野と佐々木の横をすり抜けて行ってしまう。 「ちょ、三月!」 追いかけようとするが、佐々木に腕を引かれた。振り向けば、険しい顔を横に振る。 「騒いだら、深大寺が困ることになる」 ハッとして真野は佐々木を見る。 「あれ、たぶんケンカだ」 大きく目を瞠り、ゆっくりと頷いて返した。 髪も制服も乱れていた。メガネのつるの下、左のこめかみが切れていたように思う。 「でも、なんで三月が――」 中学一年のときからのつきあいだが、深大寺がケンカであんなふうになるなんて初めてだ。軽い言い争いから手が出たのとは違う。 「まさか、相手って」 佐々木がギョッとしたような声を出す。 「昨日の――宮本?」 真野は大きく息を飲む。もう何も言えない。 そうとも思うし、違っていてほしいとも思う。だけど深大寺が殴られるようなケンカをするなら、相手は宮本しか考えられない。 どうしてだよ……三月! 知ってしまったのか。昨日、宮本が自分に何をしたか。誰から、どんなふうに聞いたのか。もしかしなくても、宮本から――? 恐れとも焦燥ともつかない感情に捕らわれ、真野は足がすくんで動けなくなる。佐々木ともども、その場にしばらく呆然と突っ立っていた。 つづく ◆NEXT ◆作品一覧に戻る この回で実施したアンケートです |
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