保健室、行かなかったんだ。――じゃなくて、『行けない』のか。 午後の授業が始まり、真野は何度も深大寺に目をやってしまう。窓際の自分の席からは斜め後ろ、深大寺の席は教壇の正面の列だ。 左手にタオルを持ち、頬杖をつくようにして、ずっと顔に当てている。それだけが普段と違い、あとはいつもと同じ冷めた表情で淡々とノートを取り続けている。 そんなふうにして隠さなければならないほど、ひどいことになっているのか。遠目にはわからないけど、タオルは濡らしてあるのか。もしかして、左頬ははれているのか。メガネのつるの下、左のこめかみには絆創膏が貼られている。 宮本……なのか? もしそうなら、許せない。ケンカの原因は昨日のことに違いなく、悪いのは宮本のはずなのに、深大寺をあんなふうにしたなんて。 この授業が終わったら宮本を見に行こう。宮本が相手かどうかは、顔を見ればわかる。宮本の顔なんて二度と見たくなかったけど、真野はそう心に決めた。 そして休み時間になり、真野はさっそく席を立つ。宮本はD組だ。後ろの戸口から出ていこうとして、不意に深大寺と目が合った。 「三月……」 大丈夫なのかと尋ねかけて止まってしまう。ツンと顔を背けられ、ズキッと胸が痛んだ。 ……なんで。 『――そういうことかよ』 階段の踊り場にいて降ってきた声が、脳裏に響いた。 『康史。おまえ、サイッテーだな!』 ……どうして。 深大寺の様子にすっかり気を取られていて、なじられたことを今の今まで忘れていた。 何を指して最低と言われたのか、まったくわからない。深大寺に訊きたいけど、今は答えてくれそうにない。やはり宮本が先だ。 深大寺の強張った背から目を引きはがし、真野はずかずかと教室を出ていく。休み時間は短い。宮本の次の授業が教室移動を伴うなら、早く行かないと無駄になる。 D組に来て、開いていた前の戸口から堂々と中を覗いた。とりあえず宮本の顔が見えればいいから、これが一番手っ取り早い。 「宮本!」 しかし、つい声が出てしまった。宮本は鋭く視線を投げてくる。左の頬がわずかに赤い。 やっぱ、宮本かよ! 自分と気づいて、痛そうに顔をしかめた。それがなおさら腹立たしく、カッとなるのだが、真野はどうしても足が動かない。 一度にさまざまな思いが湧いて、ひしめいていた。なぜ深大寺が宮本を相手に殴り合いのケンカをしたのか、宮本は何をして深大寺をそこまで怒らせたのか、深大寺をああまでしておいて自分を見てつらそうにする宮本がわからない、自分の知らないところで深大寺は何をしているのか、なぜ自分に話してくれないのか。 「――オレの、せいかよっ」 思わず吐き捨てた。背後から唐突に、肩をつかまれる。 「三月」 「いいから、来い!」 強引に連れ戻されかけるが、その手を真野は乱暴に払う。 「なんで、何も言ってくれないんだよ!」 「おまえがだろっ」 食ってかかったら、同じ勢いで返された。 「とにかく来い。宮本なんかと話すな」 「なんだよそれ!」 「うっせ! また悪目立ちしたいのかっ?」 真野は、ぐっと口をつぐむ。睨みつけてくる深大寺の頬には、いまだタオルが当てられていた。 「……それ、はれてんのか?」 おとなしく深大寺に従い、自分たちの教室へ戻り始めた。真野は、そっと横目で深大寺をうかがうが、正面を向いていて一言も返してくれない。 「なんで、宮本とケンカになったんだよ」 それにも答えてくれなかった。 「こんなの、初めてだろ? 殴るなんて……」 真野は溜め息が出る。歩くのも嫌になり、がっくりと肩が落ちる。 「オレがサイテーって、どうしてだよ――」 ぼそっと漏らした。 深大寺の足が止まる。ゆっくりと振り向いた。メガネの奥から冷たく見つめてくる。 「佐宗が好きだったくせに、なんで佐々木なんだ?」 言われたことが飲み込めるまで、たっぷり時間がかかった。 「――え?」 キツネにつままれたとは、こういうことか。 「なんで佐々木――?」 「俺が訊いてんだろ! 佐々木なんて今まで話にも出てこなかったのに、佐宗にふられたから佐々木にするって、ヤれれば誰でもいいのはおまえじゃん!」 「ひどっ! いくら三月でも許さ――」 「許してくれなくて結構! 今後いっさい、おまえとはもう関わらない」 浴びせられた言葉に真野は全身が凍りつく。 「俺がバカだった。勝手にしろ」 苦々しく吐き捨て、深大寺は先に行ってしまう。三月、と呼び止めかけた声は喉の奥で消えた。 真野は動けない。背を向けられる一瞬前に見た深大寺の顔が胸を押し潰すようだった。初めてだった。あそこまで嫌悪をあらわにして、自分をさげすむ顔を見たのは――。 ……三月。 今まで、どれほどバカと言われたか知れないが、こんなことはなかった。深大寺の言う『バカ』は、声音が冷たくても胸に温かかった。とことん呆れたようでいても、言外に『しょうがないな』と言われるようだった。 三月がバカなんて……あるかよ。 涙が滲み出てきて視界が歪む。すれ違う生徒が訝しげな目を向けてくるが、真野はどうでもよかった。 三月がバカなんて、なんで、そんなこと言うんだよ! バカは、オレじゃん! もうダメだ、きっとダメだ、三月に本気で嫌われた――その元となったことを思い返しもせず、誤解されたと思い当たることもできないまま、絶交を言い渡されたのも同然の状況が、ただ悲しくてならない。 中学生のときからずっと一緒だった。深大寺が自分から離れてしまうなんて、どんなことなのか想像もつかない。今も同じクラスで、これからも近くにいるのに。 次の時間で今日の授業は終わりだが、真野は教室に戻れなかった。涙が止まらなくて、トイレの個室にこもって泣いた。 『今後いっさい、おまえとはもう関わらない』 その言葉が胸に突き刺さり、その意味よりも、そう言われた事実に深く傷ついた。 『勝手にしろ』 そこまで深大寺に言われたことがショックで、佐宗に完全にふられたときとも比べようもないくらい、胸が痛んで苦しい。 オレ……マジ、バカだ。 こうなって、深大寺の大きさを思い知る。つまらないことで笑い合い、くだらない話で盛り上がり、何度も本気で怒られて、それが当然に感じられていたほど、深大寺は自分にとても大切だった。 なのに、悲しいだけで、この状況をどうにかしたいと願う気持ちは湧いてこない。 オレ……三月を心配させてばっかだもんな。 いいかげん愛想が尽きたと言われても仕方ないと納得してしまう。 だよな……ヤれれば誰でもいいとかまで、言われちゃうし。 涙が引いてきて、疲れた溜め息が出る。 誰でもよくなんか、ないよ。ヤれるとか、そんなのなくて、三月がいなくちゃ嫌だ。オレには三月が一番だよ――。 今さらだと思った。そういうことは、佐宗に告白する前に気づくべきだった。 佐宗にOKをもらえていたら、自分はどうするつもりだったのだろう。胸は冷たく凍りついたままで、考えても何も出てこなかった。 六時間目が終わるチャイムを聞いて、真野は重い腰を上げて教室に戻る。本当は帰ってしまいたかったけど、テキストもノートも鞄も机に置いたままだったし、もしかしてまた深大寺が心配してくれているかもしれないと思ったら、そうするほかなかった。 教室はざわついていて、さりげなく入ったらあまり目立たなかった。近くの席の数人から、どうしたんだと尋ねられたが、腹が痛くてトイレにこもっていたと咄嗟に答えたら、それで目が赤いのかと笑って返された。自分なんて、その程度のものなのだと思う。 深大寺が気になるが、どうしても目を向けられない。目が赤くなっているなら見られたくないし、それがなくても、授業をサボった理由を見透かされているに違いなく、合わせる顔がなかった。 なんて――オレ、やっぱバカだな。『勝手にしろ』って言われたのにさ……。 もう、深大寺は自分のことなど気にかけないだろう。きっぱりとした性格なのだ。また悲しくなってくる。 織田が教室に入ってきてホームルームが始まる。真野は早く帰りたい一心で、何も耳に入らなかった。顔を上げることもできなくて、ずっとうつむいていた。やがて帰りの挨拶が済み、誰もが席を立ち始めて、織田が教壇を降りてきた。 まっすぐ自分に歩み寄ってくると気づき、真野はギクッとする。 「真野。このあと、すぐ来なさい」 ――え。 今しがたの授業をサボったことがもう知れたのか。 「……はい」 ほかに思い当たることがなく、異様なほどドギマギした。理由を尋ねられたら、どう答えればいいか。腹痛でトイレにこもっていたなんて、織田には通用しない。なぜ保健室に行かなかったと逆に問い詰められる。 織田は先に教室を出ていった。真野は机を片づけて鞄を手にする。顔を上げたら佐宗と目が合った。戸惑った顔で自分を見ている。 しかし今の真野には特に意味も持たず、真野は後ろの戸口から出ていこうとする。今度は深大寺と目が合い、ギクッとした。タオルをまだ頬に当てていて、佐宗と同じように、戸惑った表情を浮かべている。 なんで? 尋ねてもいいのだろうか。だが、フイと顔を背けられ、ぎゅっと胸が締めつけられた。 ……『勝手にしろ』、だったな。 なんだか、すべてがもうどうでもいいように思える。立て続けにいろんなことが起こって、とっくに限界を超えていた。どれもこれも、なるようになればいい。自分ひとりでは、どうせまともに対処できないのだ。 なかば開き直って真野は教室を出る。帰宅や部活に行く生徒でやかましい廊下を過ぎて、渡り廊下から隣の校舎に入ると、別世界に思えるほど静かだった。 物理科準備室のドアをノックして、返事を受けて中に入る。毎度のことだが、織田は机に着いていた。ギロッと睨み上げてくる。 「――どうした? 目が赤いぞ?」 今まで気づかれずにいたことに真野は驚く。 そっか。オレ、ずっと下向いてたし。 「べつに。なんでもありません」 気まずく目を伏せた。呆れたような溜め息が聞こえた。 「そういうことも含めて、最近のきみは目に余るな。クラスが落ち着かない」 返す言葉はなく、真野は黙っている。座れと言われてないから、立ったままだ。 「夏休みが目前で浮つくにしても、ろくでもない話まで耳に入ってくる」 真野は眉をひそめ、そろそろと織田に目を戻した。 さっきの授業、サボったことじゃないのか。 なんとなく拍子抜けしたような、余計に面倒になりそうな気がしてくる。 「佐宗に抱いてくれと、よりによって廊下で言ったそうじゃないか」 一瞬で青ざめた。まさか教師にまで知られているとは考えてもみなかった。 ……じゃなくて、織田先生だから? 佐宗が話したなら、ありえる。佐宗は織田とつきあっているから。 思った途端、急に顔が熱くなってくる。今は絶対にマズイとわかるのに、昨日盗み見た光景が脳裏に広がってしまう。 「――真野」 やけに低く呼ばれた。織田は立ち上がって目の前まで来る。 「そっちに行きなさい」 能面のように無表情な織田を見上げ、真野は顔が真っ赤になるのを抑えられない。指し示された場所は、佐宗が昨日いたところだ。手から鞄が滑り落ちる。 「聞こえないか?」 頭の中が真っ白になり、ふらふらと作業机の前まで行った。それを背にして織田に向き直る。自分では気づかず、昨日の佐宗と同じ体勢を取っていた。 「――なるほどな」 眼前に立ち、織田は苦々しく顔を歪める。 「なんてことをしてくれたんだ」 冷ややかにつぶやいた。 真野は、やたらと胸がドキドキして止まらない。織田の渋くて威圧的な容貌に目が釘づけになる。ほどほどに冷房の効いた室内にいて、隙のないスーツ姿だ。 しかし、ぐっと眉を寄せると、ネクタイに指をかけてゆるめた。目を細めて見下ろしてくる。 真野は、ドクンと大きく心臓が跳ねた。口が開き、喘ぐような呼吸を繰り返す。 織田の眼差しが一段と訝しげに変わった。 な、なんで何も言わないんだよっ! この状況に耐えられない。ただでさえ威圧的な織田が前に立ちふさがり、後ろは机と壁だ。昨日の佐宗に自分が重なり、こんな状況で織田にあんなことをされたのかと思ったら、とんでもなく胸が苦しくなってきた。 「ったく、ケツの青いガキが」 忌々しそうに織田は舌打ちする。 「そんなふうじゃなきゃ、呼び出さなかったものを」 織田の豹変ぶりに真野は震え上がる。目の前の織田は、もはや教師とは思えず、大人の男にしか見えない。 さ、佐宗を……あんなにして! 「考えてることが顔に出てるんだよ。口で言わなくても、顔が全部しゃべってんだよ。それだけ、おまえには刺激が強かったにしてもだな! ったく、ガキのくせに」 「な、なに――?」 しらばっくれようと思った。昨日、自分は見つからなかったはずだ。だからこそ、あそこまで見てしまったわけで――。 「あのなあ。俺の話、聞いてるか? おまえは隠してるつもりでも、全部バレてんだよ。昨日、ここを覗いたあと、そこのドアの前でデカイ溜め息ついただろう?」 「……は?」 頭をフル回転させて、昨日の自分の行動を思い返す。 そ、そうだった……かな? 「んなのは、どうでもいい。今日になって、佐宗と俺を見る目がぜんぜん違ってんだよ。いちいち顔赤くしやがって、あと二日で夏休みだって言うのに見過ごせなくなったじゃないか」 「そ、そんな……言われたって」 「だから! おまえは何も話さなくても顔が全部しゃべってんだよっ」 ええ〜……っ? 今にもつかみかかられそうな勢いで言われ、思いきり腰が引けた。ガタッと机にぶつかり、咄嗟にその端に両手でつかまる。 あ、このカッコ――。 しどろもどろして織田を見上げた。思わず、自分で言ってしまう。 「オレも、お仕置き……?」 「はあっ?」 織田の眉が跳ね上がる。口をぽかんと開け、その顔で固まった。 真野はびくびくして、ひたすらに織田から目を離さなかった。次に何が起こるかわからない。織田が怖い。 「――そういうことなのか?」 やがて、ぽつんと織田が漏らした。冷ややかな顔に戻り、じっくりと真野を見下ろしてくる。おもむろに手を伸ばしてきた。真野は顎を捕らわれる。 「ケツの青いガキが。興味だけはいっぱしか。佐宗に抱いてくれと言うくらいだからな」 「や、やだ!」 「やだじゃないだろう? 佐宗の代わりに抱いてやるか? そうしたら、俺や佐宗を見て顔を赤くしてもいられなくなるな?」 「へ、平気! もう平気だから!」 「嘘言うな」 顎をつかむ手にぎゅっと力を入れられ、ぱかっと口が開いた。 「なら、なんで今も顔赤くしてんだよ。期待で頭がのぼせそうか?」 ふるふると首を横に振った。 「――じゃなくても、昨日見たことだけで俺は許せないぞ」 え――。 ギラギラするような織田の形相が間近に迫り、真野はゴクッと喉を鳴らす。緊張で、カラカラに渇ききっていた。織田と視線が絡み、心臓がバクバクとうるさい。 フッと、織田の眼差しがゆるんだ。シュッと片手で器用にネクタイを解く。 真野は何がなんだかわからない。どうしたことか両腕を後ろに回され、ネクタイで縛られていた。 顎を解放されたと言うのに、もう声も出ない。少し離れて自分を検分するように見つめてくる織田をただ呆然と見つめ返す。 「女子みたいにかわいい顔、か」 つぶやいて、クスッと織田は笑った。 「佐宗が言うが、俺の趣味じゃないな」 また顔が熱くなる。悔しいのか恥ずかしいのか、真野は激しくうろたえた。 「ま、きたないよりはいいけどな」 つっと織田の指先が頬をなぞる。ゾクッと背筋が震える。 「へえ。感度はいいか。意外だな」 きゃー、と叫びたくなるも、どうしようもなく声が出なかった。 織田は指先を頬から下ろしてきて、掠めるように首筋を辿る。かつて一度として経験したことのない感触に、真野は喉を鳴らした。意思とは関係のない声が漏れそうで、ぐっと歯を食いしばる。言いたいことは声にならないのに、なぜと泣きたくなる。 織田の指先は止まらない。今度は首筋を撫で上げてきて、くすぐるように耳のあたりに触れた。そうかと思えば、開いた襟元に覗く鎖骨をそっと撫でてくる。 いたずらな動きに真野は身を震わせる。気持ちを裏切って、息が上がっていく。織田の指先は薄いシャツの上から胸を這い始めていて、いつ乳首に触れられるかとびくびくした。 円を描いて近づいてくる動きが、あまりに卑猥だ。近づいても、触れずに離れていく。何度繰り返されるのかと思った。やめろと、たった一言が叫べない。自分が情けなくなる。 オレ……宮本にさわられても感じちゃったんだよな――。 果てしなく自分が信じられなかった。織田でも自分は感じるのか。涙が滲みそうになる。いつ終わるとも知れない、これは苦行だ。 それなのに吐息は熱く湿っていく。もぞもぞと腰は勝手に揺れ始め、織田のもどかしい指先の動きに、身をよじって自分から合わせてしまいそうになる。 ダメ……それだけは、絶対! そんなことをしたら、深大寺に言われたとおりになってしまう。 ヤれれば、誰でもいいなんて! 「あ、ふん」 しかし、突拍子もない声が鼻に抜けた。離れたはずの織田の指先に、乳首がやわらかくもまれている。甘い感覚が全身に走った。 「へえ。いい声出るじゃないか。これは、よく我慢できたご褒美だ」 「ああっ」 いきなり双方の乳首をもまれた。それも乱暴ではなく、やはり指先でやわらかく。 背がしなって、ひくひくと肩が震えてしまう。もう織田を見られない。顔を横に向けて、ぎゅっと目を閉じた。だけど開いた唇から声は漏れてしまう。 「あ、は、――んっ」 「どうしようもない淫乱だな。未経験なんだろう? ――自分でしているのか」 「ち、違……っ」 必死に言葉にするが、織田はくすりと笑う。 「呆れるな。おまえは顔が全部しゃべると、何度言えばわかるんだ? すぐ嘘とわかる」 「はっ、あん!」 きゅっと軽くつままれた。ふたつ同時に。 背筋から腰にかけて甘く痺れる。乳首は双方ともじんじんしていて、そこからも快感が広がっていた。 やだ……もうっ。 いっそ泣きたい。こんな自分は大嫌いだ。 「真野、どうしようか」 顔を近づけてきて、織田が耳元でささやく。 「佐宗のいい顔を見た罰だ。俺に、おまえのいやらしい顔を見せるか?」 「い、いやっ」 「なら、昨日のことはさっぱり忘れろ。俺や佐宗を見ても動揺するな」 コクコクと真野は頷く。 「ま、こんなことがあったんじゃ、赤くなるどころか青ざめるか」 もう一度、真野はコクコクと頷いた。 「いや――そうでもないか。俺を見たら、また感じさせてほしくなるか?」 それには、ぶんぶんと頭を横に振る。目をしっかりと開き、織田を見上げた。 「よし。いい子だな」 ぽんと頭に手を置かれた。信じられないほど穏やかな表情を織田は見せる。 「だが、それはどうする?」 視線で股間を示され、真野は驚いて身を縮ませる。ぴったりと膝を合わせた。 「へ、平気! こんなの――」 これ以上何かされてはたまらない。体中が火照るようで、背筋はまだゾクゾクしている。 「それより――」 早く腕を解いてほしいと言いかけた。だが突然、背後の壁越しに声が聞こえる。 「待てよ、深大寺!」 「もう待てない!」 「わかったから! でもぼくが行くほうが、本当にいいんだってば!」 「だからなんでだって、さっきから訊いてるのに、そっちが答えないんだろっ」 「言わなくても同じじゃないか!」 真野は硬直した。深大寺と佐宗だ。 織田も慌てたらしく、真野を抱え込むようにして背後でネクタイを解くのだが、真野が悶えたから結び目が固くなってしまったようで、なかなか離れていかない。 ガラッと廊下側のドアが勢いよく開く音がした。変な物音が上がり、佐宗が顔を出す。 「先生……!」 呼びかけて、端整な顔を見る間に強張らせた。すらりとした長身から一瞬で力が抜けたのが、見た目にもわかった。 「って、乱暴だな! ――どうした?」 佐宗の背後から深大寺が出てくる。途端に、とんでもなく怒った顔になる。 「何してんですかっ!」 ずかずかと歩み寄ってきた。ネクタイは寸前で解け、するりと織田の右手に隠れる。しかし織田は真野から離れてなくて、その肩に深大寺は手をかけた。 「あんた……教師のくせに、生徒に何したんだよ!」 「三月!」 誰よりも先に真野が深大寺に飛びついた。全身で止めにかかる。 「何もないから! 話してただけだから!」 「それが、何もないって顔かよ!」 ゾッと身がすくんだ。口で話さなくても顔が全部しゃべる――つい今まで織田に何度も言われたことだ。 「教師でも、許せねえ!」 深大寺は拳を振り上げる。それを背後からのしかかって佐宗が止めた。 「やめてくれ、深大寺!」 「放せ! こいつ、教師なんだぞ! 康史に何かしたなんて――」 「してないってば!」 咄嗟に言い返し、ハッとして真野は深大寺を再び止めるが、冷たく突き放された。 「おまえの嘘なんか、すぐわかるんだよっ」 あんまりだと思った。本当に嘘にしても、深大寺は耳を貸そうともしてくれない。左頬は赤くなっていてケンカをしたと一目瞭然なのに、その上ここで教師を殴ったらどうなるか、らしくもなく頭から抜け落ちている。 「オレはヤれれば誰でもいいんだって、三月が言ったんじゃないか!」 思わず、投げやりになって叫んだ。 「――え」 真野は、正面から深大寺を睨み上げる。 「勝手にしろって言ったくせに、なんで来てんだよ!」 「康史……」 深大寺はうろたえる。真野を見つめて目をしばたたかせた。 「三月はバカだ、本当にバカだ! 帰れ!」 精一杯の思いで、真野は言い放った。 「ちょ、真野?」 愕然とする深大寺の肩越しに、佐宗が顔を覗かせる。 「そこまで言っちゃダメだ。深大寺は真野が心配で――」 「わかった。帰る」 横柄に腕を振って、深大寺は佐宗を払う。もう真野を見もせずにドアに足を向けた。 「待ちなさい、深大寺」 だがそれを織田が止める。小さく舌打ちして、深大寺は面倒そうに振り向いた。 「その顔、どうしたんだ? 隠してたな?」 真野と佐宗は、そろってギョッとした。この流れでそこに話がいくとは意外すぎる。 ムスッとして深大寺は答えない。鋭く織田を見つめ返す。 これ、ヤバすぎなんじゃ……? 自分の身に降りかかったことなど忘れて、深大寺のことで真野は頭がいっぱいだ。普段からすぐに手が出る深大寺だが、そんなのは小突き合い程度で、とにかく、こんな跡が残るほどのケンカは今回が初めてなのだ。 成績がよくて素行もまずまずなのに、態度が生意気だから教師の評判はさほどよくない。殴り合いのケンカをしたとなれば、どう考えてもマズイだろう。 自分が原因と思えば真野は居たたまれない。本当なら、深大寺はこんなケンカをしないでいられたのだ。それを織田にわかってほしい。 しかし、今の深大寺の機嫌は最悪だ。何を言い出すかわからない。 「質問を変えよう。相手は誰だ?」 無言を貫く深大寺に、織田は平然と尋ねる。やはり深大寺は答えない。どこかにぶつけたなど嘘は通用しないと見切っているのだろう。 このままではいけないと真野は焦る。ハラハラして、震える声を漏らしてしまう。 「宮本です、D組の――」 「康史!」 ぴしゃりと深大寺にさえぎられた。恐ろしい目で睨まれてしまう。 「なるほど」 織田は、チラッと佐宗に目をやった。そうしてから、真野にも視線を投げてくる。 ……え? 「すぐに帰宅して、よく冷やしなさい」 「言うことは、それだけですか?」 三月〜! どうしてここで口答えするのかと、食ってかかりたかった。その前によく考えるんだと、どうにか自分に言い聞かせる。迂闊な言動も空回りも得意中の得意、だが今は厳重注意だ。 今しがたの織田のアイコンタクトは、何を意味するのか。 ……知ってる、とか? 宮本とケンカならしょうがないって……佐宗が話したのか! そうに違いない。昨日、佐宗は自分を抱きしめたから織田に『お仕置き』されたわけで、そうなった経緯も説明させられたはずだ。 なんて……違ってたらどうしよう――。 そっと佐宗に視線を流せば、こっそり目が合った。そうだよ、と無言で返される。 なら、やっぱすぐに帰れば――。 「そうだな。おまえの誤解を言ってやろうか」 しかし深大寺との睨み合いの緊張を解いて、織田が悠長に口を開いた。 「おまえに言われるまでもなく、教師が生徒に手を出せば問題になることくらいわかっている。暴力でも、まったく別のことでもな。逆を言えば、生徒に手を出すなら教師生命を賭ける覚悟あってだ」 真野の視界の隅で、サッと佐宗の頬が赤らんだ。ギクッとしてさりげなく目を移せば、織田を見つめてうっとりしている。 そっか。今の話、佐宗のことなんだ……。 真野がドキドキしてしまった。深大寺も気づいたんじゃないかと焦るが、深大寺は織田を睨んでいて佐宗が目に入るはずもない。それどころか、織田とは正反対に怒気のこもった声を吐く。 「康史をバカにするんですか?」 えーっ? なんで、ここでオレ? 一転してびくびくと真野は織田を見るが、顔色ひとつ変えていない。気づいて目を向けてきて、にやりと笑った。 「してないぞ? 真野は納得している」 お、オレ、納得したことになってんのっ? さっき織田にされたことを言われたのはわかる。だが、自分は納得したか。 えーと、佐宗のいい顔を見た罰、って――。 いや、納得できないだろう。盗み見したことは素直に悪かったと思っているが、織田があんなことを自分にしたと佐宗が知ったら、佐宗が悲しむのではないか。 「そうだな? 真野」 くっそ〜! うまいこと口封じされたといきり立つが、ギリギリの努力で平静を保った。 「はい」 やけくそで、にっこり笑い返してやる。佐宗のためだ。 「へー……」 不服そうに深大寺が漏らした。呆れ返った目で真野をちらりと見る。 「なら、言われたとおり、俺は帰ります」 「せっかく来たんだから、引き取っていけ」 「え!」 不意に、織田に突き飛ばされた。よろけて、深大寺の胸に真野はぶつかる。 あ……。 「みっともないな、深大寺。ガキの虚勢で、痴話喧嘩にほかの人間巻き込むか。そんな顔になって、いちゃつくならふたりでやれ」 背中で織田の笑い含みの声を聞き、カーッと一気に顔が熱くなった。 「……ったく」 だが深大寺は低く唸る。 「こっちはおとなしく帰ろうとしてんのに、あんたって人は!」 「ダメだって、三月!」 また織田に食ってかかりそうな深大寺を止めようとして押し返され、真野は派手に転ぶ。左足が勢いよく織田にぶつかった。 「せ、先生!」 佐宗が駆け寄った。 「いってー……」 真野は頭を抱えて織田を見る。ギョッとした。苦しそうに身を縮ませていて、どうも自分は股間を蹴り飛ばしてしまったようだ。 「なんてことするんだよ、真野!」 織田を支え、佐宗が怒鳴りつけてきた。 「わーっ、佐宗ごめん! でも先生、これでチャラな!」 慌てて立ち上がり、唖然としていた深大寺の手を取って駆け出しそうになるが、気づいて鞄を拾い、とりあえず『さようなら〜』と言い放って物理科準備室のドアをぴしゃりと閉じた。一目散にその場を離れる。 「ちょ、康史! 待てって」 手をつないだまま小走りになって、深大寺が小声で叫んでくる。 「今の! チャラって、どういうことだよ? やっぱ、織田に何かされたんだろっ」 「蹴り一発で気が済んだから、無問題!」 真野は笑えてならない。織田の苦しみようも、佐宗の取り乱しようも、なんだかおかしかった。それに今深大寺に言ったとおりに、わざとじゃないけど織田の股間に蹴りを入れられてスッキリした気分だ。 「って、おまえ――」 プッと深大寺も吹き出す。 「尻餅ついて回し蹴りって、ないって。思い出したら、すっげー笑える」 「だろ?」 くすくすと笑い合うが、それもすぐに消えた。どちらからともなく歩調がゆるむ。手をつないでいることが息苦しくなってきて、しかし放すタイミングをつかめない。 渡り廊下の終わりに差しかかり、向かう先の校舎の廊下を数人の生徒が過ぎていくのが見えた。 「三月」 真野は、うつむいてしまいそうになるのをこらえ、そっと深大寺を見上げた。勇気がほしくて、つないだ手を体の陰でぎゅっと握る。 「オレ、三月がいい」 驚いて深大寺が見下ろしてくる。しかし、つないだ手は解かれない。 「三月がいてくれるなら誰もいらない。つきあうとかじゃなくても、三月が一番いい」 「康史――」 ふたりして足が止まった。窓の外から運動部の声が流れてくる。ファイト、ファイト、という掛け声が耳につき、真野はそれが自分を応援するように聞こえた。 「佐宗が好きだったけど、やっぱ三月のほうがいいって言うのもダメなの?」 一歩踏み出し、深大寺の胸に近づいて真野はまっすぐ見上げる。 「オレ、わかってなかったんだ。一緒にいるのがあたりまえに思えるほど、三月はいつもオレといてくれたから。佐宗が好きだったのとは、ちょっと違うみたいな――」 「そんなのわかってた。おまえの佐宗が好きは、あこがれだ。だからコクったって、うまくいかないのもわかってた」 「三月……」 期待とは違う返事に、かすかにうろたえた。 「俺、ひどいだろ? 佐宗には、どうせふられるって思ってたんだ。気が済むまで好きにすればいいって思ってた」 メガネの奥で、深大寺は痛そうに目を細める。小さく息をついた。 「けどおまえ、コクるとき抱いてくれなんて言うし。それで宮本がその気になっちゃうし。昨日は放課後も絡まれたのに、おまえ俺に言わないし。宮本問い詰めたら、おまえの胸さわって感じてたなんて言うし。ムカついて殴ったらやり返されて、なのに、おまえ今日は朝から佐宗見て顔赤くしてたくせに、昼は佐々木といい雰囲気で、なんだよって思った」 「ごめん!」 真野はつないでいる深大寺の手をもう片方の手でぎゅっと握る。胸がキリキリ痛んで、泣きたくなるのをぐっとこらえた。 「佐々木なんて、いつ出てきたんだよ。あいつ、マジだし。俺、そんなの知らなくて宮本殴ったりして、バカすぎじゃん」 「でも、ないから! 佐々木には悪いけど、オレ、ちゃんと断るから!」 クッと喉を鳴らし、深大寺はうんざりした顔を背ける。つないでいる手を引こうとした。 「やだ、三月――こっち見て!」 真野は、両手でつかんだ手を揺さぶった。しかし深大寺は目を戻してこない。 「わかってよ! オレは三月がいいんだ!」 「けど、つきあうとかじゃないんだろ?」 「だって、三月が言ったんだもん! オレはヤれれば誰でもいいんだって! 三月とつきあいたいなんて、言えないじゃん!」 「康史……!」 ハッとして深大寺が見つめてきた。しかし、今度は真野が目を背けてしまう。 「誰でもいいなんて、ないよ。やだよ……もう嫌われたくない。勝手にしろなんて、無理! オレ、三月がいないとダメなのに……三月が一番いい……」 言い終わらないうちに、ぎゅっと深大寺に抱きしめられた。真野は息を飲んで目を瞠る。 「ごめん! あんなこと言って、ごめん! ぜんぜん思ってない、佐々木に取られそうで俺が焦っただけだ。いきなり出てきたヤツに負けたと思ったんだ」 「三月――」 真野は胸が高鳴る。今までにも肩を抱かれたりしたことは何度もあるが、こんなふうに抱きしめられるのは初めてだ。 肩に顔をうずめてきて、深大寺は苦しそうに漏らす。 「康史がいいなら、俺が康史を抱きたい。そのくらい好きだ、ずっと好きだったんだ」 三月……。 すぐに答えたいのに声が出てこなかった。深大寺がそんなふうに思ってくれていたなんて、たった今も心配して物理科準備室にまで押しかけてきてくれたのだからわかりそうなものを、言われるまでわかっていなかった。 じんと胸が痺れる。ホッとして、全身から力が抜けた。深大寺の吐息が首筋を熱く湿らせる。そこから体が溶けていくようだった。 「三月――」 真野は喘いで言う。 「抱いて。三月がしたいなら、オレを抱いて」 「知らないぞ? マジで抱くからな」 そっと顔を離して、目を覗きこんできて深大寺が言う。 「――うん」 蕩けたような目を見つめて、真野も蕩けた声で答えた。 つづく ◆NEXT ◆作品一覧に戻る |
素材:君に、