Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −1−


       一

       リビングに入るとすぐに、窓いっぱいの青空が葵[あおい]の目に飛び込んだ。カーテンを取りつける前の今にだけ見られる光景だ。家具など何ひとつ置かれていない部屋は実に広く感じられ、こげ茶色の真新しいフローリングの床が降り注ぐ五月の陽射しを鈍く反射している。
      「葵、窓開けて!」
       背後で忙しなく母親が言うが、耳に届く前に葵はそうしていた。開いた窓からベランダに出る。思いのほか強い風に薄茶色の髪を散らされ、長身をかがめて手すりから顔を出すと、目線よりはるか下に町並みが遠くまで広がって見え、その先には霞に煙るような海が横たわっている。
       あー、やっぱこっち側にすればよかった。
       今さらながら、玄関脇の部屋を自室に選んだことを少し後悔した。何かと家族の目を避けたい自分には最適に思えたのだが、この開放感たっぷりの眺望は捨てがたい。
      「葵、何してるの! ほかの部屋も全部よ!」
      「はいはい」
       六階建ての分譲マンションは四月に完成したばかりで、最寄り駅からのなだらかな坂を延々と登った先にある。ゴールデンウィークに一斉入居となり、憲法記念日の今日、葵たち家族も最上階の新居に引っ越してきた。
       家財を積み込んだトラックが到着するまでの時間、葵と母親のふたりでざっと掃除をする。兄の翠[みどり]と父親はトラックに積みきれなかった小物を運び出しに車に戻って行った。
      「やっぱ新築っていいかも」
       次々と窓を開けて回り、母親から渡されたドライモップを手に自室に入ると、かすかに塗料の匂いが感じられた。ルーフバルコニーに通じるガラス戸も開けて床を拭き始めるが、自然と鼻歌が出てくる。
       高校三年にもなって同じ市内で引っ越すなんて、面倒にしか思えていなかった。どうせ数年のうちに自分は出て行くのだから、親の住む家が新しくなろうと関係ないと思った。
       マジ、荷造りとかタルかったけど――。
       広さは以前と変わらないけれど、真新しいぴかぴかの自室に満足する。高校へは徒歩で通えるほど近くなったし、眺望は悪くても玄関脇の部屋はやはり自分には好都合だ。何しろリビングからも親の寝室からも離れている。
      「おーい、トラック着いたぞ」
       父親の声がして、兄の翠が顔を覗かせた。
      「おまえも荷物運ぶんだよ、さっさと行きな」
       名前の可憐さとは裏腹に兄はいつも高圧的だ。この春に社会人になってから余計にそう思える。
       ったく、出てきゃよかったのに。
       この引っ越しに乗じて独立するかと思ったが当てがはずれた。依然として、家族四人でここに暮らす。
       はー……。
       溜め息を落とし、葵は渋々と玄関を出る。家は新しくなっても家族環境は変わらない。最近つきあい始めたカノジョが引っ越したら遊びに来たいと言っていたが、母親が専業主婦では難しい話だ。母親に会わせてしまうことよりも、それをべらべら話されて、あとから翠に嫌味を言われるのがうっとうしい。
       かかとの潰れたスニーカーをひっかけ、気の早い半袖Tシャツの背を丸めてハーフパンツのポケットに両手を突っ込み、葵はエレベーターに向かう。そんな、力仕事に合わせた服装でいても、首には黒い革紐のチョーカーをしている。気に入って、自分で買ったものだ。薄茶色にカラーした髪は強めにウェーブをかけているからスタイリングが欠かせないし、もちろん今日も忘れていない。目にかかる先と肩で、やわらかく揺れている。
      「タリィ」
       父親と翠を待たずにエレベーターに乗り込み、段ボールで保護された壁に寄りかかった。一階に着いて外に出ると、トラックが三台連なって停まっていることに目をむく。他の家の引っ越しと、かち合ってしまったようだ。
       これではいっそう急かされるに違いなく、小言を聞かされる前に自発的に動くことにした。自分の家のトラックは最後尾だ。
      「あ」
       その手前のトラックの陰から出てきた人とぶつかりそうになって声が出た。
      「あ!」
       再び声を上げた葵に慌てたように、相手も咄嗟に立ち止まる。視線が同じ高さで合い、互いに開いた口がふさがらなくなった。
       マジッ? なんで? つか、ありえねえ!
       驚きに目を見開いて、メガネ越しに自分を凝視する相手は高梨克巳[たかなしかつみ]だ。同じ高校の同じ三年生、クラスは一度も一緒になったことがないが、全校生徒で彼を知らない者はいない。生徒会長ということだけでなく、自分とは対極にあるような清潔感溢れる容姿と怜悧な頭脳で、多くの生徒の関心を集めている。
       今も着ているポロシャツは第一ボタンまできちんと留められているし、耳を隠す程度の黒髪にも少しも乱れがない。ただ、動揺をあらわにした表情が、普段からかけ離れていた。
      「坂月[さかづき]……」
       呆然としたようにつぶやき、しかし途端にツンと顔をそむけた。段ボール箱を抱えて葵の横をすり抜けていく。
      「ちょ、おま……!」
       言いかけて葵は口をつぐむ。おまえもここに住むのかなど、わざわざ尋ねるまでもない。
       ちくしょー、嘘だろっ。
       残念ながら事実のようだ。トラックの前方から回り込んで出てきた中年の男性は克巳によく似た面立ちで、克巳を呼び止めて並んでマンションに入っていく。さらりと揺れた克巳の後ろ髪がエントランスに消えるのを見て、葵はげっそりと肩を落とした。
       ……どうするよ。
       どうするも何もない。明らかに父親にしか見えない男性と共に、引っ越しの荷物を運んでいるのだから克巳もここの住人になるのだ。
      「……あーあ」
       思わず声が出た。高校へ徒歩で通える新築のマンション、そのことを思えば同じ高校の生徒が何人住むことになってもおかしくないだろう。たった今までその可能性すらまったく考えなかった自分に腹が立つ。
       つか、なんで、よりによって高梨なんだよ。
       たとえ同学年全員と同じマンションの住人になろうとも、たったひとり克巳さえいなければ百万倍はマシに思える。
       最悪――。
       先に知っていたなら全力で転居に反対したし、代わりになる物件を自力で探し出してもみせたし、それで駄目だったら通学に二時間かかろうとも頼み込んで祖母の家に居候したほうがまだよかったと思えるくらいだ。
       マジ、今からでも言ってみるか?
       無理だ。言えない。理由を訊かれたら答えられない。大嫌いなヤツが住人にいるからなんて正直に打ち明けたら、両親に呆れられる以上に翠に思いきりバカにされる。
      『ガーキ。だからおまえはガキなんだよっ』
      「くっそぅ……」
       自分を見下した翠の顔と声が浮かんで、むしゃくしゃした。生まれてこの方十七年間、ずっと目の上のたんこぶだった。両親には、どこに出しても恥ずかしくない自慢の長男だ。だからと言って自分がないがしろにされた記憶はひとつもないし、兄弟ともども分け隔てなく接せられてきたと思うのだが、当の翠が「できた兄」の立場から徹底して自分を見下してきた。しかも成長につれて、両親にはそれと知られない態度でそうするようになったのだから、腹黒い。
       性格が歪んでんだよ。
       自分はこんなに素直なのに、同じ家庭に育って、どうして翠は性悪なのかと思う。
       けど、どうでもいいし。翠が出て行かないなら、その前にオレが出て行くし。
       克巳にも同じことが言える。もう高校三年生なのだ。ヤツの進路希望など知るわけもないが、自分が卒業と同時に、両親を納得させられる理由でここを出ていけばいい。一年の辛抱だ。
       ……逃げるみたいでムカつくけど。
      「こら、ボサッとしてんな!」
      「って!」
       ぱこんと背後から頭をはたかれた。翠だ。
      「さっさと運べって言っただろ。さっきからエレベーターの取り合いになってんだから」
       引っ越しがかち合っていると知ってたなら、先に言ってくれてたっていいじゃないかと葵は思う。
      「ほら、これ運んで」
       ずっしりと重い段ボール箱を渡され、腰がよろけそうになった。
      「情けないな。背ばっかり伸びて、鍛え方が足りないんだよ」
       うるせーバカ、と内心で毒づく。生徒会長やって、テニス部でインターハイ行ったことあっても、オレよりチビじゃねえか。
       先に立って歩き出した翠の黒髪が目線より下に見える。サラリーマンらしい、さっぱりとしたスタイルだ。
       ポロシャツなんか着てんじゃねえよ。オヤジくさ。まだ二十二歳なんだからさー。
       別の誰かの姿が脳裏をよぎり、心底うんざりした。翠との違いは、自分と同じくらいに背が高いことだ。


      「あー、タリィ」
      「どうしちゃったのよ、朝からそんなじゃん」
      「んー?」
       ゴールデンウィークが明けての初日、登校して葵は朝からたそがれていた。理由は明白、なんと克巳の家が同じ六階だったからだ。それも南東角部屋の自宅からエレベーターに行くあいだにあって、偶然でも克巳とたびたび顔を合わせることになりそうだと引っ越しの最中に気づき、いっそう気が重くなった。
       しかしそんなことは一番仲のいい相原にも言えず、葵は曖昧に答える。
      「三日に引っ越したからさ。昨日までずっと荷物の整理やらされてた」
      「そりゃ、『オツ』だな」
      「でしょー?」
       机に突っ伏したまま、前の席に座った相原を見上げる。からっとした明るい笑顔でねぎらわれて、少し気分が上向いた。
      「んで、課題なんてやってらんなかった?」
      「まさか」
       次の時間は数学だ。連休に入る前に、たんまりプリントを渡されている。
      「二枚目の問五。できた?」
      「ん」
       葵はごそごそと学校指定の鞄の中を探り、取り出して相原に渡す。サンキュと言って、相原はさっそく目を通した。
      「にしても、やっぱ『葵クン』は抜かりないね。忙しくても、やることはやるんだから。今度の中間は十位以内狙っちゃう?」
      「死ねよ相原」
      「ごめん、生きてる」
       にっこりとした顔でプリントを返してくる。
      「かわいい顔してえげつないって、どうよ」
       思わず愚痴れば、いっそうにっこりとした。
      「俺のこと? だったら、つきあっちゃう?」
      「ワリィ、今カノジョいるから」
      「それ、もらったとか?」
       すかさず鎖骨のあたりを指で差してくる。ルーズにタイのゆるんだ襟の合間に、あの黒い革紐のチョーカーが覗いていた。
      「自分で買ったの。オレ、女からはモノもらわない主義だから」
      「へえ、知らなかったな。後腐れないように? モテる人は言うことが違うね」
      「誠意の表れじゃん。オレがあげてんだよ」
      「どこで買ったの?」
      「元町の――」
       授業開始のチャイムが鳴り、葵の声をかき消した。今度連れてってよと言い残して相原は自分の席に戻る。ほかの生徒も次々と席に着いた。良くも悪くも、男女そろって根は真面目な公立の進学校だ。葵は軽く息をついた。
       なんかなー……。
       授業が始まり、教室は水を打ったように静かになる。だが私語がないだけのことで、誰もが集中しているわけではない。斜め前の席の女子が机の陰で塾のテキストらしき本を開くのが目に入り、葵は眉をひそめて窓の外に視線を移した。
       このところ、何をしてもおもしろくない。翠の母校に入学して、見返したような、安堵したような気持ちを味わったのは一年の最初のうちだけだった。あてつけのように入ったテニス部も翠がいたときほどの厳しさがなく、期待はずれですぐに熱が冷めてやめた。それからはカノジョが途絶えることがなく、真剣につきあっているつもりでいても、どういうわけか、ひとりとは数ヶ月ともたなかった。今つきあっている美由[みゆ]は何人目になるのか。
       んー……げ。――八人目だ。
       自分で数え上げてげんなりした。
       けど、まだ一週間……じゃなくて二週間か。
       四月の終わり頃に向こうからつきあいたいと言ってきたのだ。同じ学年で、これまでの自分の素行を知らないはずがないのだから、今度こそ長く続くかもしれない。
       そんなふうに思っても葵は心許ない。これまでのどのケースも同じだった。自分から好きになってつきあい始めるのではなく、相手から言われて始まった。
       モテる男はツライって?
       愚かなことを繰り返しているようにも思う。何をするでもなく、ただそこにいるだけで女の子に放っておかれない容姿に生まれたことには感謝するが、それだけのような気がする。
       美由も含め、カノジョだった女の子はみんなかわいくて、つきあっていて楽しかったし、自分も好きになっていたと思うのだ。浮気なんてしたことがないし、カノジョがいる時期にほかの女の子からアプローチされたなら丁重にお断りしてきた。なのに、どれも本物の恋にはならなかった。いつのまにか終わりを迎えていたり、はっきりフラれたり、自分のほうが重荷に感じるようになったり、理由は違ってもどれも短い期間についえた。
       今では誰からもすっかり軽い男に見られている。それで避けられるなら納得もいくが、そうではないのだから女の子の考えることは謎だらけだ。
       だからかもしれない。美由とつきあい始めたのに、まだ実感が湧かない。遊びに行ったりしているが、ふたりきりということだけが特別で中身は友人同士と変わらない。
       いっそ、もうキスしちゃうとか? それだって盛り上がらなきゃ無理だし――。
       ずいぶんと自分が薄汚れたように感じる。ひととおり経験し、それも一度や二度ではないからか、性的な興味に流されることもなくなった。進学校にも、積極的な女の子は存外いるのだ。
       はあー……。
       何かにワクワクできないものかと思う。この歳で自分はもう枯れてしまったのか。
       美由、家に呼んでやるかな――。
       校庭を見下ろすと、どこかのクラスが体育をやっていた。百メートル走のタイムを計測しているようだ。授業は男女別だが、場所を離してそれぞれ同じことをしている。
       ――あ。
       スタートラインに着く男子の中に克巳を見つけた。頭半分飛び抜けた長身と、黒いセルフレームのメガネをかけた横顔でわかった。
       位置に着く。スタートを切った。誰よりも前に飛び出す。ゴールまでぶっちぎりだった。
       それを眺めていた女子の一群が、遠目にも騒いでいるのがわかる。教師に注意されて、のろのろと列に戻っていく。
       ……嫌味なヤツ。
       克巳は一年のときから生徒会にいて部活とは縁がなく、今は生徒会長だ。優等生を絵に描いたように成績は常に学年上位で、当然ながら品行方正で、普段は落ち着いて穏やかな性格でもある。怜悧な顔を見せるのは生徒会行事を仕切るときくらいで、それさえ人気の理由になっていた。
       せめて運動はダメとか、そのくらい可愛げ見せろよ。
       完璧な人間なんてどこにもいないようで、実はいるものだと葵は思う。しかも同学年でカノジョいない歴が自分に並ぶ男はヤツぐらいだ。つまり克巳も一年のときからカノジョが途絶えたことがない。もっとも、ヤツがつきあった相手は片手で足りるはずだけど。
       ……アホくさ。
       つまらない思いから醒めて、葵は教科書に向き合う。それを見計らったように教師に当てられて、課題に出たプリントの二枚目、第五問を難なく答えた。髪を薄茶色にカラーしていても教師から何も言われないゆえんだ。  


      つづく


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      素材:君に、