Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −2−


      「ホント? うれしいなあ」
       引っ越して一週間が過ぎ、新居もようやく落ち着いて、以前から父親の稼ぎにあぐらをかいて遊びまくっていた母親は本領発揮といったところで、今日は友人と観劇とかで夜まで留守にすると登校前に言っていた。
       それで美由を家に連れて帰る気になった。友人以上恋人未満の状況に何らかの変化が生じて、ドキドキワクワクの日々が訪れるなら葵の願うところだ。
      「かなり歩くよ」
      「平気」
       くりっとした大きな瞳で見上げてきて、美由はにっこりと笑う。かわいいと思う。去年クラスが同じだったときは、おとなしい印象しかなかった。普通に会話するくらいだったから、三年になってクラスが別になってからつきあいたいと言われて驚いた。
      『だって坂月って、カノジョいるときは誰がコクってもOKしないでしょ?』
       前のカノジョと別れるのを待っていたかのような言い方だった。そんなにも前から自分を好きでいてくれたのかと思えて、かなり浮かれた。ひとは見かけではわからないものだ。
       並んで正門を出て、取り留めのない話をしながら歩いていく。こんなときにも他の生徒の視線が感じられるのだから、自分の認知度も大概だと思う。せいぜい、またカノジョ替えたのかよとか、その程度の好奇心から投げかけられる視線とわかってはいるのだが。
       でも、自分の隣にいて美由は楽しそうだ。「あの坂月の八番目のカノジョ」と見られても気にならないのかもしれない。それほどまでに自分を好きでいてくれるならうれしいと、葵は素直に思う。
       通学の道のりは、駅からとは違ってそれほど高低差がない。高台に沿って続き、建ち並ぶ家々や木立がなければ海が望めるはずだ。
       この一週間、どこかに海が望めるポイントがないか、思い出すと探すようにして歩いてきたが見つけられなかった。高校からは校舎の屋上の端に行けば、かろうじて切れ端のような海が見えるだけだ。
       そのことに気づいたとき、心が躍った。なぜかなんて自分でもわからない。日常に紛れ込んだ非日常のように感じたのかもしれない。それまで普段の生活の中で海が見えたことはなかった。今は家からも見えるが、まだ新鮮に感じている。
      「この道、バス走ってるんだ」
       半分が過ぎた頃になって美由が言った。
      「でも、坂月は歩いて通ってるんだ」
      「疲れた?」
      「ちょっとね。あー、でも平気。駅から学校行くほうがずっと上り坂できついし」
       ニコッとした顔で見上げてくる。かわいいなと、また思った。
       自然と口元がほころび、葵は自分でもわかるほどやわらかく美由に笑いかける。目が合って、美由の頬が淡く染まった。
       やがてマンションが視界に入ると、美由ははしゃいだようにステキと立て続けに言い、葵の肘に手をかけた。ここに来てそうされたことに少しばかり戸惑いながらも、葵は美由を連れてエントランスに入っていく。
       エレベーターが開いても、住人の誰とも出くわさなかったことに少なからずホッとした。美由と乗り込み、ドアを閉じるボタンを押す。だが奥のほうへ移った途端、途中まで閉じていたドアがゆっくりと開いた。
      「……あ」
       美由が小さく声を上げた。それにつられたように、乗り込んできた男がこちらに顔を向ける。自分たちと同じ、ブレザーの制服姿。葵は溜め息が出そうになった。克巳だ。
       ……ここまで見かけなかったのに。
       しかし、そんな素振りは少しも見せずに葵は壁にもたれる。自分に隠れるようにして、美由が妙にうろたえているのが気になったが、克巳も自分と同じように無関心な様子でいた。六階に着くまでどの階にも止まらずに、押し黙った静けさで時間が流れる。
       ドアが開いて、克巳が先に降りた。葵は美由の手をそっと引いて降りる。克巳は心なしか足を速めたようで、もう自宅の玄関の前で鍵を取り出している。その背後を葵は澄まして通り過ぎようとした。しかし、握っていた美由の手が、緊張したようにぎゅっと強く握り返してきた。
       え――?
       ふと視線を後ろに流す。美由は顔をうつむけて、探るように克巳を見やっていた。克巳もまた、肩越しに冷ややかな目を美由に向けていた。
       葵はぐいと美由の手を引く。正面に向き直る視界の端に、美由の驚く顔と、玄関の中に消えていく克巳の呆れたような顔が映った。
      「わあ、坂月の家って角部屋なんだー」
       玄関の鍵をあける葵の横で美由が浮かれた声を上げたが、葵には空々しく聞こえた。
       ともあれ、葵は美由を中に通す。すぐに自室へは入れずに、リビングへのドアを開いた。
      「広いね。テレビ大きい」
       やけにはしゃいで、美由はソファに跳ねるようにして座った。好奇心いっぱいの目で室内を見回す。葵はカウンターを回ってキッチンに入り、美由の様子を見ながらグラスをふたつ取り出し、ペットボトルのアイスティーを注いだ。片方のグラスにだけストローを挿し、両手に持って美由の隣に行く。
      「なんか、モデルルームみたい。坂月のお母さんって、センスいいね」
       そんなふうに言われて、ストローを挿したグラスを当然のように受け取られても葵には返す言葉がない。普段ならこんなことはないのだが、なぜか何も出てこなかった。
      「坂月……」
       敏感に察知して美由が戸惑った目を向けてくる。ソファに並んで座り、葵は一口飲んだアイスティーのグラスをテーブルに置いた。
      「どうして教えてくれなかったの」
       美由は暗くつぶやく。
      「高梨が同じマンションだなんて……階まで同じなんて」
      「どうして、って」
       美由にだけではなく、相原にも誰にも話していない。わざわざ触れ回るようなことではないと思ったから話さなかっただけだ。
       確かに、男の家に行く現場を同学年の者に目撃されたら女の子は恥ずかしいだろうとは思うが、克巳と出くわしたときの美由の反応は、それだけの理由ではないように感じる。
      「だって――」
       言いよどみ、美由はすっと視線をそらした。
      「あの人、大嫌いなんだもん」
       自分も高梨は嫌いだが、美由がそれを口にしたのは意外だった。誰の悪口も言わなさそうな、おとなしい印象が強かったのに、実際はそうではないのか。
      「まあ、オレも好きじゃないけど」
       何も応えないではいられないように思え、つい口を滑らせた。
      「だよね。同じマンションになっちゃったなんて、坂月かわいそう。あの人、意地悪だし」
      「――意地悪?」
       気まずい思いからグラスを取り上げるが、手が止まった。何か引っかかる。
      「そう、ひどいんだよ。やさしくしてても、ひとのこと冷静に分析してたりするんだから。あー、思い出したらムカついてきちゃった。きみは、つきあっている相手でも上っ面しか見てないんだね、なんて言って」
       ……え?
       葵はグラスを唇につけるが、横目で美由を捉える。美由は怒ったように片手でグラスをつかんで、ストローで勢いよくアイスティーを飲んでいる。自分が訝しげに見られていることにも気づかない。
      「ひとを傷つけるようなことを平気で言うなんて、サイテー。さっきだって、バカにしたみたいに見てきて」
       それって、オレになんじゃ――。
       てっきりそうだと思った。またカノジョ替えたのかよ、家に連れ込むのかよ、親は留守か、そんなふうに受け取れた。
       違ったのか? だから美由は、高梨をあんなふうに見て――。
      「みんな、坂月と高梨のどっちがいいかなんて話してるけど、ゼッタイ坂月だよね。私、坂月とつきあえてよか……坂月?」
       やっと葵の視線に気づいたのか、顔を向けてきた。葵を見つめて、大きな瞳が不安そうに揺れる。
      「坂月――?」
       葵は制服のズボンのポケットからケータイを取り出す。無造作に開いた。
      「なに? メール?」
      「――うん」
       本当は何も着信していない。咄嗟の嘘が、なめらかに口から出てくる。
      「ワリィ。親からだわ。もうすぐ帰るって」
      「えー」
       ひどく残念そうな声が返ってきた。
      「だからワリィって。オレ、グラス洗わないとだからさ。中からは暗証番号ナシで出られるから、ここからでもひとりで帰れるな?」
       思いきり人のいい笑顔を作って向ける。
      「そんなあ」
      「だから謝ってんじゃん。ごめんな」
       とびきりのやさしい声でささやく。
      「――うん」
       のろのろと美由は立ち上がった。後ろ髪を引かれるようにして玄関を出て行った。
       ……ったく。
       口先にうっすらとピンク色がついたストローをゴミ箱に投げ捨てる。忘れないうちに、グラスをふたつとも洗って片づけた。
       自室に入って、葵はベッドに身を投げ出す。まさか美由が克巳の元カノだなんて、知らなかった。それに、あんなふうに、あることないことべらべら話す女の子だったなんて、思いもしなかった。
       なんだよ……オレと高梨のどっちがいいか、なんてさ。
       ひそかにそう言われていることは知っていたが、面と向かって聞かされると腹が立つ。どっちがいいかなんて、そんなことを考えてつきあう相手を決めるのかと、問いただしたくなる。
       つきあっている相手でも上っ面しか見てない、か――。
       克巳が本当に美由にそう言ったのか定かではないが、ヤツならありえそうだと思った。克巳は気に食わないが、今は自分も同意見だ。
       美由にそう言って別れたのかな、アイツ。いつ頃つきあってたんだろ……。
       自分と違って克巳は表立って女の子とつきあったりしない。隠れてこそこそしているようなのが、克巳が気に食わない理由のひとつでもある。あえて優等生ぶっているように見えるからだ。つきあったり別れたり、校内で繰り返せば波風も立つし嫌な噂もされるけど、後ろめたいことがないなら堂々としていればいいのにと思う。
       ……後ろめたいこと、あったりして。
       ああ見えてカノジョの途絶えない克巳だ。ひとりと長くつきあっているならなおさら、もしかしたら自分より経験豊富かもしれない。
       ま、どうでもいいけど。
       美由と、どう別れようかと思う。克巳の元カノと知ったから別れようと思うのではない。そんなことは少しも関係ない。たった今垣間見た、美由の意外な一面が受けつけられないのだ。自分もまた、表面しか見てなかった。
      「はー……」
       白く真新しい天井を見上げて溜め息が出る。美由は、ずいぶんと前から自分を好きでいてくれたのではなかったのか。克巳よりも自分のほうがいいように思えて、つきあいたいと言い出したのか。
       オレにカノジョいるときはコクっても無駄、てさ。マジ、そうだけど――。
       まるで順番待ちのようだと思った。実際、そうなのかもしれない。
       オレって。
       もうカノジョはいらないと、そこまで思った。自分に女の子とつきあう資格などないだろう。自分から好きになったわけではなく、言われてつきあうようではダメだ。
       退屈な毎日でいい。相原たちとふざけているので十分だ。普通に、楽しい高校生活じゃないか。
       ……マジ、家出たいなら、真剣に受験勉強しなくちゃだな。
       いっそ九州大学でも受けてみようかと思う。そこまで遠ければ、有無を言わせず家を出られる。何しろ国立大学だ。自分の通う高校は進学校ではあるけど、国立大学に進学する者は毎年ひとにぎりしかいない。
       なーんて……今の実力じゃ無理か――。
       また溜め息が出た。ここで翠が頭に浮かんだ自分にげんなりだ。できた兄がいると弟はつらい。


      つづく


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