下ろしたての綿の肌触りが、さらりと心地いい。 はやる気持ちで自室に戻ると、 「もう俺、ヤバくね?」 うっとりするほど似合っている。やはり黒ではなく白にして正解だった。すらりとした痩身が引き立ち、きゅっと帯の締まった細腰など、ひときわセクシーに目に映る。 「これなら 大学一年にもなって、浴衣が欲しいだの着付けてくれだの、臆面もなく母親にねだった甲斐があった。髪も数日前に美容院に行ってカラーしてトリートメントしたからサラツヤの栗色だし、肌も毎日の手入れを怠らないからコンディション抜群だ。 自然と笑みにほころび、そんな自分の顔にすら見とれる。もとからイケメンと呼ばれてやぶさかでない顔立ちだ。 「うん、絶対イケる」 鏡の中の自分に大きくうなずき、財布やらケータイやら、こまごまとしたものを巾着に入れる。普段はジーンズばかりだから今ひとつ腰回りが心もとなく感じられるが、そんなことは気にしていられない。 今夜こそ、決める。小学生のときから続く、幼馴染みで親友の関係から抜け出すのだ。どれほど康平が鈍感でも、これまでとはまったく違う自分を見たなら意識しないはずがない。 うん――だよな! 思わず拳を握り、うちわを慌ただしく帯の結び目に挿すと、圭太は足早に自室を出る。今年も一緒に花火を見に行こうと誘ったのに、当日はその花火大会でバイトだと、すげなく断った男のもとへ急いだ。 「マジ、なんなの、これー……」 しかし家を出たときの浮き立つ気分はどこへ、圭太はうんざりと溜め息をつく。会場の河川敷に着く前から、とんでもない混雑だ。一駅乗るだけの電車の中から混んでいて、嫌な予感はしたのだが、駅を降りてからは行列になっていて、ぜんぜん思うように進めない。西日がわずかに残る空にようやく土手が見えてきたものの、通行規制された車道まで人がいっぱいで、もはやもみくちゃ状態だ。 ただでさえ蒸し暑い真夏の夜に、人いきれで余計に汗が出る。うちわを使いたくても人にぶつかりそうで、片手に握るハンカチで顔を押さえるのがやっとで、せっかくの浴衣の襟が早くも湿り、だんだん苛立ってきた。 ったく、なんでこんなとこでバイトなんだよっ。 去年も一昨年も、その前の年も、この花火大会に康平とふたりで来た。だけど会場から離れた土手で見たから、こんな混雑は知らない。もっとも圭太は何度も会場に行きたいと言ったのだが、康平が頑として聞かなかった。 って、あいつ、こんな混むって知ってたな。 それが、今年はこの混雑の中でバイトだ。しかも一度は自分と約束したのに、バイトが入ったからと、三日前になって急に断ってきたのだから思い返すと腹立たしい。 『バイトと俺と、どっちが大事なんだよ!』 『バイト』 あっさり即答されたことまで思い出され、圭太は唇を噛む。おまえを特別な意味で振り向かせるために俺がこっそり計画してきたことはどうなるんだとは、こっそり計画していただけに言えなかった。 この春、大学に入ってから康平がすげなくなったように感じられてならない。学部が違うのだからサークルは同じところに入ろうと誘ったときも、どことなく気乗りしない様子だった。 なぜなのか訊きたかったが、結局は一緒のサークルに入ったから訊かずにいて、だけど康平はほとんど出てこなくて、自分に一言もないうちにバイトを始めていたと知ったのは夏休みの計画を持ちかけたときだったから、軽くショックだった。 『なんでー……ずっとバイトなんて――』 『しょうがないだろ。第一志望に落ちて私大に入ったんだから』 そんなふうに言われたら返せる言葉などなく、仕方なく口をつぐんだが、少しも納得できなかった。バイトを始めた理由はわかったが、こんなふうに知る前に康平から話してほしかった。 だから……ヤバイじゃん。 いくら小学生のときからのつきあいでも、家が近所の幼馴染みの親友でも、いつのまにか気持ちが離れていくこともあると気づかされた。どちらかが望んだにしても、どちらも望まなかったにしても。 ――ずっと一緒だったのに。 康平とは小学校の三年で初めて同じクラスになった。幼稚園も遊ぶ公園も別だったけど、家が近所と知って驚いた。何人も連れ立って下校しても最後はふたりになり、たくさん話してすぐに仲良くなった。 それでも親友と言えるまでになったのは、中学校に入ってからだと思う。ほかに親しい友人もいたし、グループで行動することも多かったが、康平とはいつも一緒だった。同じ部活をして、委員会に入るときも申し合わせて、特に約束もせずに互いの家を行き来した。卒業しても一緒にいたかったから、康平の第一志望校に受かるように三年の一年間は必死になって勉強した。 ただ、康平が好きだった。恋心なんてまだどこにもなくて、たぶんなくて、康平にカノジョができてもうらやましいだけだったと思う。高校の三年間も中学の三年間と同じように過ぎて、だけど大学は成績のいい康平とは別になると思っていた。 大学まで一緒になれたのは、康平が好きな気持ちが恋心だと気づいたからだ。自分でも涙ぐましい努力をしたと思う。 なのに、大学に入ってからの康平はどこか冷たい。学部が違うから教室で会うなんてなくて、昼食を一緒にしたのも始めの頃だけで、家に行っても留守のことが増えて、メールか電話で約束しないと顔も見られなくなった。 あんなバイトなんか始めるから――。 違うだろう。わかっている。自分は、康平には幼馴染みで、親友で、それ以上でも以下でもない。 だから、変わろうと思った。特別な意味で好きなんだと言ってしまえば話は早いだろうけど、玉砕したくない。中学や高校のときの自分たちならまだしも、康平が冷たく感じられる今は無理だ。 まずは、意識させる。これまでの関係とは違って、自分に振り向かせる。康平から告白してもらえるまでになるなら、大成功だ。 ――そうなりたいんだよ。 「いてっ!」 不意に素足の小指を踏まれ、思わずつんのめった。前にいた女の子にかぶさってしまい、ものすごい顔で睨まれる。 「ご、ごめん!」 咄嗟に謝るが、ツンとそっぽを向かれた。 わざとじゃないのにー……。 なんだか傷つく。自分は誰にも謝られずに、この仕打ちだ。踏まれた小指はじんじん痛むし、かがんでさすることもできない。 なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだよ! この混雑が悪い。ここに来なければならなくなった、きっかけを作った康平が悪い。 ったく、マジ、なんでこんなとこでバイトなんだよー……。 理由は聞いた。ちゃんと理解した。それでも一度は自分と約束したのだから、そっちを優先してほしかった。 今までは俺と約束してたら、ほかは断ってただろ。カノジョに言われてもさ! カノジョよりも自分よりも、バイトのほうが大事ということか。 知るかよ。 なんにせよ、康平に呼びつけられて来たわけではないのが、かえって だって……今日じゃなきゃダメなんだ――。 この浴衣姿を見せるのだから。 のろのろとしか進まない人混みにげんなりしながらも、どうにか土手まで来た。会場の河川敷に向かう人波とは別の流れに乗って、やはり車両通行止めになっている土手沿いの道に出る。 暮れなずんでいた空は既に暗く、ずらりと並んだ露店がまぶしく目に映る。地元商店会の出店と康平から聞いた。このせいで、その商店会に入っているカフェでバイトする康平も、今日は売り子をすることになったのだ。 「ったくもー、どこなんだよ、康平はー」 周囲の人の声がやたら楽しそうに耳につく中、圭太は康平を探し始める。ひとつひとつテントを覗いて進むから、人波に押されて肩や背を何度か小突かれた。 うー……ムカつく。 しかしながら、焼きイカやお好み焼きの匂いが鼻をくすぐり、呼び込みの声が威勢よく耳に飛び込んでくる。知らずと祭らしい雰囲気に浸り、少しは気分が上向いたときだった。 「うへっ」 思わず変な声が出て止まりそうになった。そろりと尻を撫でられたように思うが、気のせいか。 「ちょ、また!」 焦って振り向くが、若い女性と目が合い、ムッと眉をひそめられた。気づけば自分とのあいだに小さな女の子がいる。 「す、すみません」 つい謝って顔を前に戻すものの、納得がいかない。尻を撫でた手は、間違いなく子どものものではなかった。 ……くっそー。 浴衣を着た自分はそんなに色気ぷんぷんかとも思うが、康平にだけ効果があればいいのであって、とんだとばっちりだ。 もー、康平はどこだよ! 前もって聞いておけたなら手間はかからなかったが、サプライズなのだから仕方ない。 ……けど、やっぱこれなら康平もドキッとするよな。痴漢されたくらいだし! なんだか頬が熱くなる。浴衣姿の自分に、康平はどんなリアクションを見せるだろう。何を言ってくれるか。まさか、康平まで痴漢まがいのことをしてくるなんてことは――。 「あ」 ドーンと、腹の底に響く音がとどろいた。まわり中の人が、いっせいに夜空を見上げる。パッと、目を瞠るほど大きな花火が開いた。 始まった! 周囲の騒々しさが一段と増し、誰もが足早になる。露店を離れて土手を登り始める人が次々と続いた。 土手の上は見る間に人垣でこぼれそうになり、河川敷の会場にはもう入れないとわかるが、圭太までそわそわしてくる。こんなにも近くで花火を見るのは初めてだ。 なんで康平はバイトなんだよ! 何度目になるとも知れない理不尽な問いを繰り返し、ごっそり人の減った道を小走りになって先を急ぐ。いくら近くで花火を見られても、康平がいなければ意味がない。 ――いた! よりによって、露店の並びの最後だった。まだ何人か浴衣姿の女の子が群がる向こうで、頭にタオルを巻いてかき氷を作っている。 ……くっそぅ、また女子ばっかかよ! 「こーへー」 ここに来るまでの暑さと気疲れで、ほとんど喘ぐようになって圭太は呼ぶが、チラッと康平は視線を寄越しただけだ。 なんでー……。 「お、圭太くん。こんなとこまで来たんだ?」 康平の横から、中年に手の届きそうな男が笑顔を向けてきた。康平がバイトするカフェのオーナー、 ……相変わらず嫌味。 笑顔を返すなんて到底できなくて、圭太はプイと顔を背けた。このオーナーのせいで、余計に面倒なことになっているのだ。 イケメンカフェだなんて――。 奨の店の客は圧倒的に女性が多い。しかも、いつ行っても席の大半が埋まっている。この川の近くで、駅から離れているにもかかわらずだ。自分など康平がバイトしなければ一生気づきもしなかったと思う。 住宅街との境の公園の隣で、窓際の席には緑の影が差し、それなりにおしゃれな雰囲気ではあるが、どう考えても従業員人気で繁盛しているとしか思えない。 あんな店だって知ってたら反対したのに。 思ったところで、知らないうちにバイトを始めたのだから反対のしようがなかったが、康平が来てから一段と女性客が増えたなどと奨に聞かされては心穏やかにいられない。 そもそも奨からして、はっきりイケメンだ。康平のバイトを知った直後、こっそり店を見に行き、初めて会って一目でそう思った。 今は芸能人の抱かれたい男ランキングにも四十代が食い込んでいるが、奨をたとえるなら、ちょうどそんな感じだ。実際に何歳かは知らないが、三十代後半以降なのは間違いない。表情にも物腰にも、しっとりと落ち着いた大人の男の色気が感じられる。なにしろ、店に来る女性の視線がそう言っている。 マジ、ムカつくんだよな。あんな店で康平がバイトしてるなんて。 康平のほかにもあたりまえにバイトはいて、みんな男で、やはりイケメンぞろいらしいが会ったことはない。康平が店にいるときは、いつも奨とふたりだ。康平が気になって奨の店に行くのだから、ほかのバイトに会うはずもなかった。 つーか、も、気が気じゃないんだけど! いくら接客業でも、康平が客に見せる笑顔は最高で悔しくなる。露店で働く今でさえ、そうだ。自分にもいつもそんな笑顔見せてくれよと思うほどなのに、最近は客として店にいても自分には無愛想で、なおさら気をもんでいる。 康平には、中学生のときからいつのまにかカノジョができていた。なんとなくグループでつるんでいた女子とふたりきりで出かけるようになったりして、康平に言わせれば特にカノジョのつもりはないそうだが、はた目にはカノジョにしか見えず、当の女子からは邪魔しないでと言われたことが何度もある。 それもこれも康平といつも一緒にいたからで、だけど当時の自分に邪魔する気はべつになくて、康平に自覚がないのが問題と思って言えば康平は別れてしまうのだから、結局はまた自分がとばっちりを受けることになり、高校の途中からは口を出さないようにした。 でも今は違う。康平を好きな気持ちが恋心と自覚した以上、進んで邪魔したいくらいだ。 だから、今日も『こんなとこ』まで来たんだよ! いつ、康平を横取りされるかわからない。康平にカノジョのつもりがなくても、映画だろうと何だろうと、誘われて断る理由がないなら気安く応じそうで、近くで見ていられるならそうしないと心配でならないのだ。 大学では無理とあきらめたが、奨の店には康平のバイトに合わせて可能な限り行くようになった。一緒に働けたならよかったのだが、奨に呆れ笑いで断られた。 『悪いね、圭太くんみたいなタイプも欲しいんだけど、今は人手が足りてるし、康平と別シフトじゃ意味ないんでしょ?』 見透かされていると思った。だから何かにつけ茶化すようなことを言ってくると思えるのに、肝心の康平はさっぱりだ。 『ウザがられてんだろ。俺のシフトのときは必ずってくらい来て、ドリンクだけで居座るんだから』 そんなことを平然と言ってくれるのだから、やきもきさせられっぱなしだ。 もー、かき氷なんか、ここまで来なくても買えただろ! 康平からかき氷を手渡され、ふわっと頬を染める女の子が目に映り、フンと圭太は鼻を鳴らす。おもしろくない。女の子がかなりかわいいのも、浴衣が似合っているのも、康平がとびきりの笑顔なのも、全部気に入らない。 俺だって浴衣着て、がんばって来たのに。つか、俺のほうが似合ってるしー。 圭太の険悪な視線に気づいてか、その隣にいる女の子がこちらを向いた。圭太はギクッとするが、女の子のほうはハッと目を瞠り、照れたように首をひっこめた。 ――え? 「圭太くん、康平に用なら中に入る?」 「そこに突っ立ってられちゃ営業妨害だって気づけよ」 奨と康平に立て続けに言われ、ムッと眉が寄った。言い返せることはなく、おとなしくテントの脇に回って中に入る。狭いながらも整然とした隅に、居心地悪く立った。 つづく ◆NEXT ◆作品一覧に戻る |