「つか、なんで来たわけ? 来たってバイトなんだから無駄だって、わかってただろ?」 康平は目も向けずに次のかき氷を作り始め、圭太はますますムッとする。 そんな言い方はないだろう。浴衣姿の自分を見て、ほかに言うことがあるではないか。 「こら、康平。うちのお得意さんに、そんな口きくな」 奨がとりなすように言ったが笑い含みで、それにもカチンときた。 お得意さんって、また嫌味かよ。 事実、店に通い詰めているのだから奨にはお得意さんかもしれないが、康平にも『お得意さん』と言われたみたいだ。 つか、いつもアイスラテしか頼まないしー。 週に三回も四回も行くのだから、こづかい的にそれが限度だった。 「いいんですよ、こいつ甘ったれで、はっきり言ってやらないとわからないし」 客には聞こえない程度の声で康平が漏らす。やはり目も向けてこないで、かき氷にイチゴのシロップをかけながら。 「それはないだろ。な、圭太くん」 ほら、と奨が缶コーヒーを投げて寄越した。 「百五十円」 ムスッと康平が言い、またもや圭太は眉が寄る。 「わかってるし」 「なに言ってんの、お得意さんにサービス」 笑って奨に返され、それもまた 「これで機嫌直して、ね? 「え――」 「ドリンクだけなら、ひとりで十分」 にっこりと言って奨は飲み物を沈めた氷水の容器を離れ、康平の足元にある大型のクーラーボックスを開ける。 「うん、あと十個ないかな」 「じゃなくて――」 律に逃げられたから康平に代わりを頼んだと奨は言った。 ……あのクソガキ。 律には奨の店で何度か会っている。奨の甥だとかで、確か高校二年生だ。バイトをしているわけではなく、地元の有名私立校の制服で来ていたときもあった。たいがい夕方の早い時間で、友人たちと一緒だったり、ひとりだったり、とにかく康平にやたらベタベタして蕩けそうな笑顔を向けるのだから一番気に食わない。 ちょっとかわいいと思って、あいつ――。 最近は居合わせると必ずと言っていいほど、ふてぶてしい笑顔で視線を流してくる。康平との関係を知ったらしく、どうも自分を敵視しているようだ。 同じ男なら、俺のほうが絶対に負けてないけどな! 奨さんの身内だから、康平も気を遣ってるだけだし! 康平からそう聞いたわけではないが、まず間違いない。康平は、小学生のときから誰にでも親切なのだ。 ……それが一番問題なんだけど。 なぜ三日前になって急に約束を断ってきたのか、腑に落ちた。 俺よりバイトが大事なんて言って――。 やっぱり、奨も気に食わない。康平の性格を知った上で、無理を押したに決まっている。 「にしても圭太くん、その浴衣、すごくよく似合ってるね」 唐突に聞こえ、圭太はハッと顔を向ける。花火の音は続いていて、もう客はひとりだけだ。康平がかき氷を作っていて、奨が笑顔で近づいてくる。 「けど、ちょっと着崩れててもったいないな。襟を直さないと――」 すっと伸びた手が、圭太の浴衣の合わせに触れた。ギョッとする間もなく脇に滑り込んでくる。 「ここから手を入れて引っ張るんだった」 脇の開きから胸にもぐり込んできた。 「ちょ、奨さん!」 声を上ずらせて圭太はあたふたする。合わせの下の襟を引いたとわかるが、布越しにも胸がこすれ、ゾワッと肌がざわめいた。 「ん? どうかした?」 奨が覗き込んでくる。一瞬、圭太は自分の目を疑い、バクンと鼓動が跳ねた。 奨のこんな顔は知らない。客に見せる笑顔とは大きく異なり、瞳の色から揺らめきから、恐ろしくセクシーで圧倒される。 フッと口角を上げて奨は薄く笑う。ゴクッと喉を鳴らした圭太の耳に、唇を寄せてきた。 「感じちゃった? ――感じやすいんだ?」 圭太は目を丸くする。ねっとりと流れ込んだ低いささやきに、カッと頬が火照った。 な、な、なに言ってんの、この人! 「浴衣……色っぽいね」 吐息が耳に吹きかかり、浴衣にもぐり込んだ手の指先が、すっと胸を掠めた。もう軽くパニックだ。まるっきり頭が働かない。 「――何してんですか、奨さん」 康平の声が低く響き、ビクッと肩が跳ねた。 「ん、ちょっと浴衣を直してあげてね」 「なっ……!」 澄ました顔で手を抜く奨に、ちげーだろっ、と叫びそうになったが声が出ない。なぜだか浮気の現場を見られたみたいで思いきり焦る。 や、俺、ぜんぜん悪くねーし! 「ほら、圭太」 すっと奨とのあいだに康平が段ボール箱を挿し入れてきた。潰して畳んだ側面に、でかでかと書かれた商品名に目が行く。 ストレートティー、無糖……って、何。 「これ、持ってけ」 「――え?」 ぽかんと康平を見れば、眉間にしわを寄せて怖い顔をしている。意味がわからずにいると、ほら、と手に押しつけてきた。 「花火見るのに、そんな白い浴衣じゃ土手に座れないだろ」 つっけんどんに持たされ、目がしばたいた。 「……え?」 「だから、これ敷いて座れって」 「はあっ?」 思わず声が裏返り、勢いで言い返す。 「こんなの持ってけるかよ、ダサすぎ!」 「そんなカッコで来たおまえが悪いんだろ」 素っ気なく言い返され、ついカッとなった。 「なにそれ! 俺が浴衣着ちゃ悪いかよ!」 「まあまあまあ」 苦笑いで奨が割って入ってきたから、余計に苛立った。 笑ってんじゃねーよ、エロオヤジ! どうでもいい奨にはセクハラまがいのことをされ、肝心の康平には悪し様に言われたのだから悔しいことこの上ない。 おかしいじゃん、絶対! 自分の浴衣姿を見ても、康平は汚れることしか思い浮かばないのか。 ……あんまりだよ。 「こんばんはー、奨さーん、康平くーん」 甘ったれたような女性の声がして、慌てて奨と康平が振り向く。圭太にも見覚えのある、奨のカフェの常連だ。露店の前からニコニコと話しかけてくる。 「暑いのに大変ですねー。でも今年も飲み物とかき氷だけって、つきあいで仕方なく出てるのバレバレですよー、奨さんらしいけど」 「うん、そこまで言っちゃってくれなくていいから、何にする?」 いつもの笑顔になって奨があっさり返した。 「かき氷、メロンで」 すぐに康平が作り始める。その横で、奨と客の女性はニコニコと話し続ける。 ……やっぱ、嫌。 無理やり持たされた段ボール箱に視線を落とし、圭太は小さく溜め息をつく。 つか、客と慣れ合いすぎだろ。 だから奨の店でバイトするなんて嫌なのだ。 康平――。 圭太には、いいように使われているように見えてならない。頭にタオルを巻いて働く姿は男くささが増してカッコいいけど、後ろ首を伝う汗が目につき、なんだか悲しくなる。 商店会のTシャツまで着せられてさ。黄色なんて康平に似合わないのに。 花火大会を理由にほかのバイトが逃げた穴を、どうして康平が埋めなければならないのか。自分との約束を破ってまで。 も、いいよ。 なにより、せっかく着て来た浴衣が康平にはまるで効果なかったことがショックだ。 ――帰る。 花火を見る気も失せて、テントを出ようとした。そうなってから、まだ段ボール箱が手にあると気づき、どこに置こうか一瞬迷った。 「圭太」 康平に呼ばれ、つい振り返る。 「去年の場所にいろよ」 メロンシロップを取り上げて康平は言う。 「かき氷、終わったら行くから」 トクンと心臓が鳴った。サッと頬が染まるのが自分でもわかり、慌てて顔を背ける。 「やだよ、ここから遠いじゃん――」 「どうせもう、このへんじゃ立って見るのも無理だって。少しくらい我慢して歩けよ」 どうしよう……うれしい。 だけど、この程度で喜んでは悔しい。康平は、奨が言ったことを繰り返したにすぎない。 「知らない、いるかどうか、わかんない」 「わがままばっか言ってんじゃねーぞ」 ヤバイ、ドキドキしてきた――。 そっと康平に目を向ければ、でき上がったかき氷をさっきの客に渡している。そのまま奨と一緒になって客と話し始めた。 ……バカ。 それでも段ボール箱は置かずに外に出た。ドーンと、夜空に大きく広がる花火が目に飛び込む。きゅんと胸が締めつけられ、小さく息をついた。一歩を踏み出し、歩き始める。 マジ、待ってたら一緒に見れんのかな……。 去年はときめいてたまらなかった。一昨年も、その前の年も康平とふたりで花火を見たが、それまでとはぜんぜん違っていた。 ただ好きなわけじゃないって、わかったから――。 土手に並んで座り、普段と変わらないふりでいるのが大変だった。どちらもTシャツにジーンズで、汚れを気にするなんてなくて、康平はずっと笑顔で花火を見上げていて――。 ……きれいだった。 花火も、康平の横顔も。 『おい、今のすげーな! って、どこ見てんだよ』 いきなり振り向いたりするから、あたふたとコーラをあおってむせたりした。 『何やってんだって』 笑いながらも背をさすってくれて、答えるなんてできなかった。ドキドキしっぱなしで、顔が熱くて、康平の手が熱くて。 『……圭太』 『おまえが急にこっち向くからだろっ』 やさしく呼ばれ、何を言い返しているのか自分でもわからなかった。 『俺のせいかよ』 ――そうだよ。 怒ったように言っても笑っていたから。 花火に照らされ、康平のやわらかな表情は胸にまでしみてよく見えた。 マジ、カッコいいんだよな――。 小学生のときは似たような背格好だったのが嘘のように思える。でも当時は外見を意識するなんてなくて、気が合って、一緒にいて楽しいから好きだった。 中学生になっても細かった自分とは違って、康平はめきめき大人っぽくなった。気づいたときには背も頭半分を越え、腕や肩の肉づきも自分より格段にたくましくなっていた。 そういうことには女の子のほうが目ざとい。康平といるとなんとなく視線を感じるようになり、何組の誰それが康平を好きらしいなどという噂も流れて、あの頃は無邪気に康平をからかったりした。 でも、その頃にはもう、康平がカッコいいことに気づいていた。学年の中でも背が高く、引き締まった体格で、成績もよくて誰にでも親切で、きりっと整った顔立ちで――。 誘い合って陸上部に入っていたが、康平は二年でも三年でも地区の駅伝大会の選手に選ばれた。自分は短距離の選手だったのもあるが論外で、大会当日は沿道で康平を応援した。 あのときもまだ、康平に恋をしているなんて気づいていなかった。それでも、目の前を駆け抜けていった康平に胸がときめいてならなかった。 高校に入ってからは、康平がモテることは嫌になるくらいわかったし、そういうことに康平が鈍感なことも同じくらいよくわかった。 それでもまだ康平を好きな気持ちが恋とは気づいてなくて、放課後に何人かでぶらついたり、どちらかの家でゲームをしたり、試験前に勉強を教えてもらったり、たまには休日に遠くまで出かけたり、そんな毎日だった。 そのあいだに康平には何人かカノジョができて、康平にそのつもりがなくてもまわりにはそう見えて、一緒にいられる時間が減って淋しいように感じ、自分もさりげに何度か告白されたりもして、だけど誰ともつきあう気になれなかった。 そんな気持ちは自分にも説明がつかなかった。ただ、カノジョといる康平を見ると胸がざわついてならなくなった。 本当に、あのときまで、単にうらやましいだけと思い込んでいたのだ。康平と並んでいるカノジョよりも、康平にばかり目が行っていたのに――。 高校二年の終わりだった。もうすぐ卒業式で、学校中がなんとなく浮ついていたときだ。二年では康平とクラスが別だったから、放課後になって一緒に帰ろうと、いつものように康平の教室に行った。 だけど康平はいなくて、それなのに鞄は机にあって、ケータイを鳴らしたら鞄の中から音が聞こえた。 適当に探しに行ったことに他意はなかった。もとから待つのが嫌いだ。だけど、まさかの体育館裏に康平の後ろ姿を見つけ、思わず足が止まった。 なにこれ、告白? ベタ過ぎー。 康平が戻ってきたら、からかってやるつもりだった。だがそんな気持ちは、相手の顔が見えた瞬間に吹き飛んだ。 『男に告白されたんじゃ、気持ち悪いよね』 小声ながらもはっきりと耳に届き、心臓を握り潰されたような衝撃を受けた。 『そんなことは、ぜんぜん――断ったんじゃ、説得力ないかもですけど……』 真摯に答えた康平の声もはっきり聞こえ、その場から一ミリも動けなくなった。 相手の顔は知っていた。康平と同じ委員会にいた三年の男だ。メガネをかけた、きれいな面立ちで、でもまさか特別な意味で康平を好きだったなんて、一度として思うはずもなかった。 『――すみません。男だとか言う前に、先輩のことは先輩としか思えなくて、でも先輩として好きでした』 少しの間のあと、しょげたような康平の声がして、すぐに相手が返した。 『いいよ、謝らないで。真剣に聞いてくれただけで、もう――』 それ以上立ち聞きするには耐えられなくて、息を詰まらせたまま、どうにか足を動かしてその場から離れた。 あの日は康平と帰るなんてできなかった。いろんな思いが胸にひしめいて、だけど最後に、自分もあの先輩と同じに、特別な意味で康平が好きなんだと気づいた。そして、康平は男に告白されても真摯に受け止めるとわかり、どうにも気持ちが止まらなくなった。 だから……あのあと、すぐ告白しちゃえばよかったんだ。 あの現場を盗み見たことを康平は知らない。翌日から態度が変わってはならないと思った。だけど、そう思ったことで最大のチャンスを逃してしまったのだ。日が経つほどに告白しづらくなり、今日まで告白できそうな雰囲気に一度もなれなかった。 バカだよな、俺。 ただ必死になって、康平と同じ大学に行くことだけを考え、そのために自分でも本当に涙ぐましい努力をした。 思いきりズレてた、って言うか――。 念願叶って同じ大学に入れたのに、大学に入ってから、康平はどこか冷たくなっているのだから。 もー、どうしていいか……。 浴衣でドキッとさせる計画も失敗に終わり、次の手立てを考える気力も湧かない。むしろ、心の底にはずっと不安が巣食っている。思い切って告白したなら、あの先輩と同じようなことを言われるのではないか。 『ごめん、おまえのことは幼馴染みの親友としか思えない』 すっと背筋が冷えた。ピタッと足が止まる。ドーンと、花火の上がる音がとどろく。 顔を上げた先に信号が見えた。交通規制はそこまでのようで、T字路を曲がって去っていく車のテールランプが赤く目に焼きつく。 露店の並びからずいぶん離れて、あたりは暗い。距離をおいて点々と立つ街灯と、近くの家々の明かりがほのかに照らすだけだ。 改めて土手の上に目をやれば、花火を見る人が黒いシルエットになって、ところどころ固まっている。 もう、このへんでいいよな。 康平は来るのか来ないのか、待っていろと言われた場所はまだ先だが土手に登った。 ……きれい。 花火は対岸で打ち上げられ、次々と夜空に咲いて散る。その短いあいだに、黒々とした川面も鮮やかに染まった。 あたりに人は少ないけれど、思い思いに夏草に腰を下ろして眺めていたり、立ったまま見ていたり、さやさやとそよぐ夜風が小さな話し声も運んで、誰もが花火を楽しんでいる雰囲気に包まれる。 そうして、しばらくぼんやりと花火を見ていたら、唐突に話しかけられた。 「あのー、すみません」 びっくりして顔を向ければ、浴衣姿の若い女性がふたり立っていた。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |