Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    虹色花火
    ‐4‐




     バスを降りて夜気に触れ、息を吹き返したように感じたのも束の間で、先を行って待つそぶりを康平に見せられ、急いで隣に並んだら、もう何も考えられなくなった。
     康平に合わせて歩いて行きながら、じっと康平を見てしまう。そのことに康平も気づいているようで、横顔が照れくさそうに歪んでいる。
    「――親、田舎だから。彰浩も合宿」
     玄関を開けるときになって、ぼそっと康平が言った。圭太は、ビクッとして康平と目を合わせる。
     彰浩もいないって――。
     康平の弟だ。そんなことはわかっていて、そこまで言われた意味を考えてしまう。
    「だから――何も気にしないで飲めるから」
     康平がそう返してきたのは、わざとか。頬が染まるのが自分でもわかる。たまらず目をそらし、今になって浴衣の襟がじっとりと汗ばんでいると気づいた。
     康平は順に明かりをつけて、一階の和室に入っていく。もたもたと圭太も入ると、庭に面した窓を網戸にして扇風機をつけ、目も向けずに無言で出ていった。
     畳に座り、圭太は落ち着かない。座卓には、コンビニで買ったものが袋ごと置かれている。所在なく、手にあった巾着を座卓に置いた。
    「家に電話しておけよ」
     戻ってきて康平が言う。座布団を足に押しつけてくる。
    「う、ん……そうだな」
     さらりと答えたつもりが、上ずっていた。座布団に座り直し、ケータイを取り出す手が震えそうになる。
     家に電話しろなんて――。
     確かに、いまだ過保護な気味がある母親だが、まだ遅い時間ではないし、無断で外泊でもしない限り、それほど心配されはしない。
     ……お泊まりコースってこと?
     そんなことが浮かび、頭から振り払おうとするが、期待はふくれる一方だ。だけど康平の家に来るのも泊まるのも、ちっとも珍しくないし、少しも特別じゃない。
     電話しろなんて言うから。
     家にかけたら、すぐに母親が出た。康平の家にいると言えば、そう、とあっさり答える。
    『泊まるなら、ご迷惑かけないようにしてよ』
     毎度のセリフを聞かされた。
    「平気、みんな留守だから――」
     口にして、苦しいほど胸が高鳴る。
    『だったら、帰るとき、ちゃんと片づけするのよ』
    「わかってるよ」
     通話を切っても康平を見られない。閉じたケータイを目に映し、圭太は固まったようになる。
    「なんだって?」
     間があって、座卓の向こうから訊かれた。
    「べつに――ちゃんと片づけて帰れって」
    「そっか」
     それだけで会話は途切れ、静けさを感じる。顔を上げられない。
     ……なんで、この部屋なんだよ。リビングならテレビあるのに。
     ヒヤッと頬に缶が触れ、驚いて目を向けた。
    「飲もう。どれにする?」
    「――ん」
     コンビニの袋から、康平は次々と飲み物を取り出す。ふたり分には多すぎるほどの缶が並び、圭太はつい眉が寄った。
    「どれがいいのか迷って、こうなっちゃったんだよ。ビール、おまえダメだし」
    「ん」
     なんだか恐縮して、そろそろとチューハイの缶に手を伸ばし、土手で飲んだものと同じと気づいて隣のカクテルを取った。
     飲み始めるが、どうにも鼓動が静まらない。初めてふたりきりで飲むときがこんなふうになるなんて、思いもしなかった。話すことがぜんぜん出てこなくて、やたら喉が渇くようで、広げられた食べ物も口に運ぶが味なんてわからず、ただ飲んでしまう。
     マジ、酔いそう――。
     康平も、食べて飲むばかりだ。バスに乗るまでの饒舌が、嘘だったように思えてくる。サークルの飲み会のときとも、まったく違う。何度盗み見ようと、視線が合うこともない。
     ……アツイ。
     部屋にエアコンはあっても扇風機が回るだけだから、康平の額にも汗が浮かんでいる。
     て言うか、なんで黙ってんだよ。さっきも黙って出てったし――。
     いまだ顔が熱いのは、部屋の暑さよりも沈黙の息苦しさのせいだ。康平も緊張していると感じられてならない。
     なんか……も、ダメ。
     中座してトイレから戻っても状況は変わらず、ひとつ飲み終われば次の缶をすぐ取って開けた。飲むペースが速くなっていると自分でわかるが、喉で弾ける炭酸に気がまぎれる。
    「これも買ってきたんだ」
     おおかた食べ物が尽きた頃になって、不意に康平が口を開いた。掲げて見せたものに、圭太は軽く目を瞠る。花火だ。
    「やろう」
     返事をする間なく、飲みかけの缶ビールも持って康平は立ち上がった。網戸を開けて濡れ縁に出る。
    「おまえも飲んでるやつ持って、来いよ」
     呼ばれて圭太も腰を浮かすが、頭がクラッとした。座卓に手をついて立ち上がる。
     ヤバ……マジ、酔った。
     足元がふらつきながらも、言われたままに飲みかけのカクテルを持って康平の隣に来た。
    「大丈夫か? また寝るなよ」
     苦笑した顔を見せられ、いきなりムッとする。サークルの飲み会で寝てしまったことがあり、あのときは康平に家まで送られたのだ。
    「それ言うなら、あんな買ってくんな。まだ飲むとか言うし」
    「俺のせいか」
     くすっと笑って康平は庭に降りる。すぐ横の水道でバケツに水を入れる。
     古い住宅街の中で、庭の外も静かだ。家の前の道は昼間でも車が少なく、今は人通りもない。庭向こうの隣家は窓まで暗い。
     夏休みだもんな……みんな旅行とか、行くよな。
    「ほら」
     庭から、立ったまま康平が花火を手渡してきた。おとなしく受け取って濡れ縁に腰を下ろすと、ジーンズのポケットからライターを出して火をつける。
     さっき……ライター取りに行ったのか。
     つんと火薬の匂いが鼻をつき、鮮やかな炎が勢いよく噴き出した。庭の芝生をそこだけまぶしく照らす。
    「……一緒に、花火見たかったんだろ?」
     隣に腰を下ろしてきて康平が言う。
    「俺も見たかった」
     うつむいて花火を袋から出す。
    「……こんな花火じゃないもん」
    「知ってるし。でもバイトだったんだから」
    「わかってる……けど、今年じゃなきゃダメだったん――」
     シュワッと音を上げて、康平の花火も炎を噴き出した。しかし並べて見ていられたのは束の間で、圭太は燃えさしをバケツに入れると次の花火を自分で出す。康平からライターを取ろうとし、触れた手をハッと引っ込めた。
    「……わかりやすいんだから」
     横顔で康平は笑う。花火が終わるのを待ち、圭太とあわせて次の花火に火をつけた。
     ふたつ並んだ白っぽい炎が、庭の薄闇に柳のように流れて消える。また次に火をつけ、終わればまた次に火をつけ、炎は赤だったり、オレンジだったり、紫だったり、青だったり、それぞれに異なる色で芝生を照らした。
     なんだか、小さかった頃に戻ったみたいだ。そんなことを圭太は思う。康平とふたりで、ほかに誰かいたにしても、こんなふうに庭先で手持ち花火をしたのはいつが最後だろう。
     ……小学生のときだよな。中学生からは、花火するなら公園か土手だったし。打ち上げばっかで――。
     やっぱり最後は康平とふたりだったように思う。もしかしたら康平の弟の彰浩がいたかもしれないが、この濡れ縁だった。
    「……圭太」
     耳元で、康平のささやきが甘く聞こえた。
    「小学生のときから、ずっと一緒だったろ。それって、ぜんぜん軽いことじゃないって、思わないか?」
     圭太は答えられない。なぜかわからない、花火を見つめ、つっと頬を涙が伝った。あの頃のことを康平も思い出していると感じたからかもしれない。
    「……いつからなんだ?」
     何を問われたのか、すぐわかった。だけど、やっぱり答えられない。
    「いつからなんて……関係ないか。でも今は、そうなんだろ?」
     くっ、と声が漏れてしまう。涙を拭うのも悔しく思えて、手元のカクテルを取り上げてあおった。一気に飲み干す。
    「――圭太」
     心配そうに呼ぶ声も甘い。だが康平も、缶ビールをあおる。
    「俺はさ……今のままでいいかなって思ってた。ずっと自分じゃ気づいてなかったけど、俺って、かなり圭太を大事にしてきたよな?」
     きゅっと胸が締めつけられた。小さな吐息を圭太はこぼす。
    「知ってる。でも、俺が我慢できないんだ。もう、康平にカノジョできるの、見たくない」
    「圭太……」
     康平は燃えさしをバケツに入れる。圭太はうつむいて、終わった花火を放せない。
    「だからー……カノジョいたことなんて、ないって。前も言ったけど、カノジョじゃなくて友だちだから」
     呆れたようでもなく、康平は深い溜め息をつく。それでも圭太は顔を上げられない。
    「友だちなら、買い物も映画もフツーに行くだろ。真面目にコクられたら真面目に断ってきたし。おまえと同じだって」
    「けど、ふたりで出かけたりしてたじゃん。中学のときも、高校のときも、安田とか相沢とか木原とか――」
    「おまえだって、してただろ」
    「女子とふたりなんて、なかったもん。三人はあったけど」
    「小田や三芳や長谷川はどうなんだよ」
    「――って! みんな男じゃん!」
     つい、康平を見た。うっと息を飲む。
    「わかって言ってる? 男とつきあうって、そういうことだろ?」
     康平は、真剣だ。ごまかしているわけでも、からかっているわけでもない。
     手を伸ばしてきて燃えさしを取り、黙ってバケツに入れた。その姿勢のまま、静かに口を開く。
    「俺は小学生のときから、圭太のお母さん、知っててさ。おばさんも俺を知ってるわけで、そういうの考えると、やっぱ悩むよ」
    「そんなの……俺だって同じじゃん――」
     言ってはみたが、声に詰まった。これまで考えないでいようとしてきたことだ。
    「――いいのか?」
     顔を向けてきて康平は言う。まっすぐに目を見つめてくる。
    「だって――」
     言いかけて、圭太はまた声に詰まる。胸が締めつけられて苦しい。今は考えたくない。できるなら、これからもずっと――。
    「少しは悩めよ」
    「だって!」
     フッと、康平は口元で笑った。やわらかく目を細め、すっと上げた手で圭太の頬を包む。
    「……バカだな。せっかく受かった大学まで捨てて――」
    「そんなの!」
     必死になって圭太は言う。また涙がこぼれてきそうで、ぐっと歯を食いしばった。
    「そんな、怖い顔するなよ――」
     ひそやかな声を聞かせ、康平がかぶさってきた。頬を包む手とは別に、肩に手がかかる。
    「なっ……」
     しっとりと唇が重なり、小さく抗った声は消えた。舌が滑り込んできて、ゾクッと身が震える。
     う、そ――。
     生々しい感触が甘い痺れとなって指の先にまで伝う。一瞬で体が火照った。息が苦しくて、でも唇はいっそうふさがれて、どうしていいかわからない。
     頬を包む手がやさしく肌を撫で、ぎこちなく耳をくすぐる。肩にあった手が背に降りてきて、そこを何度もさすった。
    「……ん」
     かすかに喉を鳴らし、圭太は胸を上ずらせる。肌が、どこもざわめいてならない。舌で熱っぽく口中をまさぐられる感触に耐えられなくなる。
     あ……。
     軽く舌を吸われた。クラッとして喉が反る。くっきりと股間が反応した。背がしなるほど強く腰を引き寄せられ、焼けそうなほど頬が熱くなる。
    「や……」
     興奮を知られる恥ずかしさから康平を押し離そうとした。
    「――圭太」
     戸惑うような声が耳に流れ込んでくる。
    「違っ、ちょ……待って」
     気持ちが追いつけない。だからそう言ったのに、康平は耳に唇を触れさせてささやいてくる。
    「奨さんに、どこさわられた――?」
    「あ……っ」
     聞かされたことよりも、吹き込まれた低い響きにゾクッとした。
    「――ここ?」
     そっと脇腹を撫でられる。
    「ちょ、……や、んっ!」
     奨に触れられたときとは、ぜんぜん違う。思いきり感じて、身がよじれてしまう。
    「まさか――こっちも?」
    「あっ」
     親指の先が、浴衣の上から乳首に触れた。ピリッと走った確かな快感に目を瞠る。
     そんな……俺――。
    「圭太――」
     自分を見つめる康平の眼差しが熱い。捕らえられ、ひたすらに見つめ返し、涙が滲んでくる。
     ……マジ、なの?
     ひたりと合った目は、一抹の揺らぎもない。
    「こう、へい――」
     喘いで呼ぶ声は頼りなく消え、たまらずに圭太は康平の首にかじりついた。自身の重みで背後に倒れていく。
    「――圭太」
     康平も甘ったるく呼ぶから、限界だった。
    「好き――ずっと、ずっと好きだった……!」
     気持ちが声になって溢れ、それを言い終えるまで待っていたかのように、また唇をふさがれた。少しのためらいも見せずに康平は体を重ねてくる。
     ……うれしい。
     たっぷりと唇を貪られ、夢中になって自分からも求めた。舌を絡ませ合い、濡れた音が恥ずかしく耳につく。熱くてならない。真夏の夜気に包まれ、康平の体温に包まれ、どろどろに溶けていくように感じる。
     こんな……なるなんて――。
     どれほど願ったか知れない。自分で願ったことだ。今日こそは決めようと、康平を振り向かせようと、でも、今日のうちにここまで叶うとは思ってもいなかった。
     思ってもいなかった――本当に。幼馴染みの親友でしかないはずだったから。少しずつでも特別な意味で意識してほしいと、願いはまだ小さかったから、大きすぎる現実に追いつくのでやっとだ。
     けど……いい、よね――?
     興奮は隠しようもなく、はっきり康平に知れた。重なる体にもこすれ、素直に硬さを増している。内腿には康平の硬い感触もあって、歓びでいっぱいになった。
     汗に湿り、吐息に濡れる。キスのもたらす高揚に溺れ、頭がかすんでくる。
    「……あっ」
     唇が離れ、小さく声が漏れた。康平は耳を舐め、顎にも喉にもキスを散らす。鎖骨にも舌を這わせ、浴衣の上から肩や胸をまさぐり始めた。
    「奨さんがしたより、もっとするから――」
     え……。
     艶めいたささやきを落とし、浴衣の合わせから手を忍ばせてきた。片肌がはだけ、あらわになった胸に顔をうずめる。
    「あっ……あ!」
     仰け反って圭太は悶える。背筋がゾクゾクして止まらない。乳首を舌でなぶられ、初めて知る快感に突き落とされる。
    「や、……んっ、康平!」
     きつく呼んで止めたつもりが、喘ぎ声にしかならなかった。ちゅくっと軽く歯を立てて吸われ、ビクンと背が跳ねる。
    「は……あん!」
     甘ったるい声がこぼれ、指が食い込むほど強く康平の肩をつかんだ。
     そうなって、康平はいっそう熱心に乳首をねぶる。浴衣の裾からも手を挿し入れ、腿にゆったりと這わせた。
    「あ、あ、……んっ」
     抑えても切れ切れに声が漏れ、圭太は腰をうごめかせてしまう。恥ずかしくてならないのに、はち切れそうな欲望を康平にこすりつけていた。
     も……ダメ。マジ、イきそう――。
    「……知ってんの?」
     康平の声がくぐもって聞こえた。耳に唇を寄せてくる。
    「男同士って、どうやってやんのか――」
     吐息交じりに吹き込まれ、ゾクッとした。そのことを思い浮かべ、クラクラする。
    「康平は……知ってんの――?」
     たまらず問い返した。
    「当然」
     短く即答され、頭が沸騰したようになる。なぜ知ったのかとは訊けない。
    「やっぱ、圭太も知ってんだ……それで、こんななって――エロいな」
    「ち、違っ……! 康平が、するから――」
    「すごく感じる?」
     目を覗き込んで言われ、大きく息を飲んだ。
     エロい、って――康平じゃん……。
     こんな色っぽい顔にもなるなんて、知らなかった。自分を見つめて眼差しは鋭いのに、瞳はうっとりと蕩けている。唇は濡れて薄く開き、そこに覗く舌先に背筋が妖しくざわめいた。
     息が詰まる。康平は体を浮かせているのに、鼓動が激しくて胸が潰れそうだ。
    「……いいよ」
     喘いで、つぶやいていた。
     康平はやわらかく笑い、チュッと軽くキスする。指先でやさしく頬をくすぐる。
     体中のどこからも力が抜けた。熱く湿った吐息が唇から溢れ、目が潤んでいく。
     やっぱ、溶けそう……。
     康平にされるすべてが愛しさに満ちて感じられる。再び腿をそろりと撫でられ、細い声を上げた。すぐにも硬い欲望に触れられそうで、思うだけで先が濡れてきた。そうなったら、その瞬間に放ってしまいそうだ。
     ……ど、どうしよう。
    「こう、へい……」
     消え入りそうな声で呼んだ。
    「よ……汚しちゃう――」
     イきそうとは言えなくて、そうささやいた。
    「――ごめん」
     何を思ったのか、康平は謝ってくる。
    「初めてが、ここじゃな――」
     顔を上げてきて、すまなそうにつぶやいた。
     圭太は真っ赤になる。言われた意味がすんなり飲み込め、本当に頭がクラクラした。
     こ、ここって……外――。
    「……俺の部屋に行こう?」
     康平が手を差し出してきたことにも気づけず、よたよたと這うように室内に戻った。
    「ちょっと、待ってて。先にエアコンつけてくるから」
     照れくさそうに口早に言って、康平は部屋を出ていく。それを呆然と見送り、はーっと深い溜め息が出た。ぐったりと畳に突っ伏す。
     ……俺、どうなっちゃうの。
     自分がこんなふうになるなんて、信じられないと言う前に驚くばかりだ。
     マジ、俺……エロすぎなんじゃねーの……。
     外にいることも忘れて、康平にされることがどれも気持ちよくて、何も考えることなく快感に溺れた。
     したい、って……したいけどさ。
     まだ体中が熱くてならない。股間の昂りも収まらない。汗を拭うのも、はだけた浴衣を直すのも億劫に思えるほど、指の先まで甘く痺れている。
     キスだって、今日が初めてだったのに――。
     まさか、今日キスされるとは思わなかった。本当に本当のキスだ。舌を絡ませ合う感触が思い出され、ゾクッと背筋が震える。
     ……やっぱ、康平のほうがエロいじゃん。
     あのまま何も言わないでいたら、外でどうなっていただろう。汚すと言ったのを浴衣のことと思ったのは間違いなく、康平らしいと笑ってしまう。
     エアコンつけてくるなんて言って――。
     まだ戻ってこないのだから、本当には何をしているか疑わしい。それもまた康平らしく、愛しさがいっそう湧いて自分で呆れる。
     て言うか、アツイ……。
     既にへとへとだ。飲みすぎたせいもあるのは明らかで、無性に眠くなってくる。
     ヤバイって。寝るなって言われたのに……そっか。昨日、眠れなかったから――。
     浴衣で康平をドキッとさせるんだと、妙に意気込んでいたから。
     ……もっと……すごいことになっちゃった。
     幸せな気持ちでいっぱいだ。うれしくて、たまらない。このあとどうなろうと、康平に何をされようと、自分が何をしてしまおうと、この幸せな気持ちは変わらない。
     好き。すごく、好き。……自分でもわかんないくらい、好き。
     温かい涙が滲んできて、ぎゅっと目を閉じた。それがいけなかったのか。今ここで眠るわけにはいかないと、繰り返し思っていたときには、とっくに夢心地だった。
     康平の低い声が、やわらかく自分を呼ぶ。大きな手が、やさしく頬を撫で、唇をなぞる。熱くて気持ちよくて、いまだ康平に抱かれているようで、安心と満足の溜め息が溢れた。
     そうして、どのくらい時間が経ったのか。ひんやりと流れる空気を頬に感じ、パチッと目が開いた。
     ……なんで、客間で寝てんだろ。
     ぼんやりと視線を巡らせ、ギョッとする。
     ――って。ここ、うちの客間じゃねーし!
     ガバッと跳ね起き、はらりと落ちたタオルケットの下に目が行き、叫びそうになる。
     ななな、なんでっ、裸っ?
     くしゅっ、とくしゃみが出た。落ち着け落ち着けと胸のうちで繰り返し、タオルケットを引き寄せ、ぎゅっと抱きつく。
     エアコン……康平がつけたのか?
     そうだ、昨日は花火大会から帰って、この部屋で康平と飲んで――。
     ……え。
     さーっと記憶がよみがえり、頭の芯が熱くなる。胸までドキドキしてきた。
     ちょ、待てって。花火やって、ああなって、康平の部屋に行く――って。
     だめだ、そこから思い出せない。でもここで寝ていたのだから、康平の部屋には行かなかったということか。
     なら、なんで裸っ?
     下着一枚つけていない。しかも布団にいる。タオルケットをかけたのも、たぶん康平で――そうだった。康平に呼ばれて頬や唇を撫でられた。あれが夢でないなら。
     うそ……しちゃった?
     ザッと、庭で水の音がした。ビクッとして圭太は窓に向く。今は内障子が閉められていて、だけど外は明るい。
     ……康平?
     ほかに誰もいないのだから違いなく、そろそろと障子を開けた。
    「わっ!」
     途端にガラス窓がびしょ濡れになる。流れ落ちる水滴の向こうに、ホースを持って芝生に立つ康平が見えた。思いきり笑っている。
    「康平!」
     何に慌てるのか、圭太は急いでガラス窓を開けた。
    「ねえ! 俺、しちゃったのっ?」
     まったく考えずに言い放っていた。
    「……は?」
     庭木にホースの水を向け、康平はぽかんとした顔になる。
    「なんで俺、裸なわけっ?」
    「知らねーよ! 自分で脱いだんだろ、いちいち訊くな、バカ」
     ふいと、そっぽを向いた。
    「ちょ、ないだろ、それ!」
    「昨日も言ったし。『俺にキスした?』、なんてさ」
     口まねして返され、カーッと頬が熱くなる。
    「い、いいじゃん。そんな、いじわる言わなくたって……」
    「言いたくもなるって。鈍感」
    「ちょっ……!」
     チラッと横目で冷たく睨まれ、言い返そうとした言葉が喉で詰まった。
     鈍感、って。康平だろ!
     無言で吐き出すが、ギクッとする。昨日のことを思えば康平は鈍感どころか、ずっと前から自分の気持ちに気づいていたようだ。
     ――あ。
    「浴衣、自分じゃ着れないんだろ? 着替え出してあるから、シャワー浴びて――」
     やれやれといった調子で言いながら、康平は歩み寄ってくる。
    「俺、まだ好きって言われてない!」
    「え」
     手前で足を止めた。大きく目を瞠る。
     間があいた。早朝の薄青い夏空の下、圭太は必死の思いで康平を見つめ、康平は唖然と見つめ返してくる。ジョボジョボと、ホースから落ちる水が芝生を濡らした。
    「……はーっ」
     あからさまに康平は溜め息をつく。ドサッと、圭太の前の濡れ縁に腰を下ろした。
    「言わなきゃわかんねーのかよ、鈍感」
     ふてぶてしく笑って顔を突きつけてくる。あんまりだ。康平は小学生のときから誰にでも親切なのに、自分にはこうだ。
    「なんで、俺にはいじわる言うわけっ?」
     涙目になりかけて、圭太は噛みついた。
    「マジ、鈍感だな」
     ふわりと、やわらかな笑顔になって康平は唇を寄せてくる。
     ……なんだよ。
     思っても圭太は抗えない。とてもやさしいキスだ。唇を何度も触れ合わせ、ぺろっと舐められ、舌を絡めるよりひどくドキドキする。
     あ――。
     そっと開いた目の先で、あさっての方に向いたホースが霧のような水を噴き出していた。康平がきつく握っているからで、ようやく顔を出した太陽にキラキラと照らされている。
     そこに、うっすらと七色の弧が見えた。
    「ね、虹!」
    「え……あ、ホントだ」
     振り向いて、康平も目を向ける。ホースの握りを変えて、もっと細かい霧を出す。
     ……きれい。
     水に濡れて緑を増した庭木を背景に、目にくっきりと見えた。半円にはほど遠い、小さな、小さな虹だ。生まれたての太陽と、真夏の早朝の大気と、青々とした芝生と庭木と、パステルカラーに近い虹――。
    「圭太」
     頬を寄せてきて康平は言った。
    「来年は、ふたりで花火見よう」
    「――ん」
     胸がじんとした。来年の夏も康平と一緒だ。
    「そのとき、また浴衣着ろよ。家から歩いて土手に行って、誰にも見せんな」
    「え?」
     きょとんと目を合わせた。
    「――似合いすぎなんだよ」
     言っていることがむちゃくちゃだ。誰にも見せないで土手に行くなんて絶対に無理で、そんなことは康平もわかっているはずで――。
     胸が熱くなる。うれしくて、じっとしていられなくなる。
     畳にぺたんと座った体勢から、圭太は伸び上がって康平にキスした。タオルケットを胸に引き寄せていた手がだらりと下がる。
    「……圭太」
     唇を離し、康平は困ったように言う。
    「俺、昨日ぜんぜん眠れなかったんだけど」
    「――え?」
     なんの話になったのかと、圭太は目を合わせた。
    「今から俺の部屋に来る?」
    「えっ!」
     照れくさそうに康平が言うから、たまらなかった。あとずさり、圭太は真っ赤になって言う。
    「む、無理! もう朝だし!」
    「え?」
     康平は、またぽかんとした。だが眉を寄せ、黙って立ち上がる。投げやりな手つきで芝生に水をまき始める。
    「……康平?」
     部屋の中から、恐る恐る圭太は呼んだ。
    「水まき。誰もいないから必ずやれって、親に言われたし」
     とんちんかんな返事が聞こえた。
    「じゃなくて……」
     もごもごと圭太は口ごもる。
    「その……ごめん」
     聞こえたのか、聞こえなかったのか、康平は濡れ縁の横に消えた。キュッと水道の蛇口を閉める音が小さく聞こえた。
     いきなり濡れ縁から身を乗り出してくる。
    「ばーか」
     笑って康平は言った。
    「飲み過ぎなんだよ。起こしても、ぜんぜん起きないし。暑いとか言って寝ながら脱ごうとするから、帯ほどいてやったら全部脱ぐし」
     その様子が頭に浮かんで、圭太は思いきり縮こまる。
    「だから……ごめん」
    「だからバカだって言うんだよ。俺が飲ませたんだろ?」
    「けど――」
     康平は耳に素早く口を寄せ、また今度な、と言った。ドクン、と心臓が跳ね上がる。
    「早く服着て来いよ。シャワー浴びても浴びなくてもいいからさ。俺の目の毒」
    「わ、わかった!」
     おたおたとタオルケットを体に巻きつけ、圭太は立ち上がる。
    「そうそう。おまえのパンツ、水につけて風呂場にあるから。巾着はそこ。浴衣と帯は、適当に畳んで袋に入れておいた」
    「なんで!」
     戸口まで来て、思わず振り向いて叫んだ。
    「なんで、って。……そうしたほうがいいと思ったから?」
     絶対に、完全に、とぼけている。そうとわかっても、顔が熱くなるのは止められない。
    「いじわる!」
     言い捨てて圭太は部屋を出る。背後で笑い声が上がる。かわいすぎるだろ、と聞こえたが聞き間違いではない。
     やっとわかった気がした。どうして康平がいじわるを言うのか。
     胸が熱くなるから、ドキドキしてならないから、シャワーを浴びて着替えたら、さっさと帰ってやろうと思った。生まれて初めての朝帰りだ。


    おわり


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