バスを降りて夜気に触れ、息を吹き返したように感じたのも束の間で、先を行って待つそぶりを康平に見せられ、急いで隣に並んだら、もう何も考えられなくなった。 康平に合わせて歩いて行きながら、じっと康平を見てしまう。そのことに康平も気づいているようで、横顔が照れくさそうに歪んでいる。 「――親、田舎だから。彰浩も合宿」 玄関を開けるときになって、ぼそっと康平が言った。圭太は、ビクッとして康平と目を合わせる。 彰浩もいないって――。 康平の弟だ。そんなことはわかっていて、そこまで言われた意味を考えてしまう。 「だから――何も気にしないで飲めるから」 康平がそう返してきたのは、わざとか。頬が染まるのが自分でもわかる。たまらず目をそらし、今になって浴衣の襟がじっとりと汗ばんでいると気づいた。 康平は順に明かりをつけて、一階の和室に入っていく。もたもたと圭太も入ると、庭に面した窓を網戸にして扇風機をつけ、目も向けずに無言で出ていった。 畳に座り、圭太は落ち着かない。座卓には、コンビニで買ったものが袋ごと置かれている。所在なく、手にあった巾着を座卓に置いた。 「家に電話しておけよ」 戻ってきて康平が言う。座布団を足に押しつけてくる。 「う、ん……そうだな」 さらりと答えたつもりが、上ずっていた。座布団に座り直し、ケータイを取り出す手が震えそうになる。 家に電話しろなんて――。 確かに、いまだ過保護な気味がある母親だが、まだ遅い時間ではないし、無断で外泊でもしない限り、それほど心配されはしない。 ……お泊まりコースってこと? そんなことが浮かび、頭から振り払おうとするが、期待はふくれる一方だ。だけど康平の家に来るのも泊まるのも、ちっとも珍しくないし、少しも特別じゃない。 電話しろなんて言うから。 家にかけたら、すぐに母親が出た。康平の家にいると言えば、そう、とあっさり答える。 『泊まるなら、ご迷惑かけないようにしてよ』 毎度のセリフを聞かされた。 「平気、みんな留守だから――」 口にして、苦しいほど胸が高鳴る。 『だったら、帰るとき、ちゃんと片づけするのよ』 「わかってるよ」 通話を切っても康平を見られない。閉じたケータイを目に映し、圭太は固まったようになる。 「なんだって?」 間があって、座卓の向こうから訊かれた。 「べつに――ちゃんと片づけて帰れって」 「そっか」 それだけで会話は途切れ、静けさを感じる。顔を上げられない。 ……なんで、この部屋なんだよ。リビングならテレビあるのに。 ヒヤッと頬に缶が触れ、驚いて目を向けた。 「飲もう。どれにする?」 「――ん」 コンビニの袋から、康平は次々と飲み物を取り出す。ふたり分には多すぎるほどの缶が並び、圭太はつい眉が寄った。 「どれがいいのか迷って、こうなっちゃったんだよ。ビール、おまえダメだし」 「ん」 なんだか恐縮して、そろそろとチューハイの缶に手を伸ばし、土手で飲んだものと同じと気づいて隣のカクテルを取った。 飲み始めるが、どうにも鼓動が静まらない。初めてふたりきりで飲むときがこんなふうになるなんて、思いもしなかった。話すことがぜんぜん出てこなくて、やたら喉が渇くようで、広げられた食べ物も口に運ぶが味なんてわからず、ただ飲んでしまう。 マジ、酔いそう――。 康平も、食べて飲むばかりだ。バスに乗るまでの饒舌が、嘘だったように思えてくる。サークルの飲み会のときとも、まったく違う。何度盗み見ようと、視線が合うこともない。 ……アツイ。 部屋にエアコンはあっても扇風機が回るだけだから、康平の額にも汗が浮かんでいる。 て言うか、なんで黙ってんだよ。さっきも黙って出てったし――。 いまだ顔が熱いのは、部屋の暑さよりも沈黙の息苦しさのせいだ。康平も緊張していると感じられてならない。 なんか……も、ダメ。 中座してトイレから戻っても状況は変わらず、ひとつ飲み終われば次の缶をすぐ取って開けた。飲むペースが速くなっていると自分でわかるが、喉で弾ける炭酸に気がまぎれる。 「これも買ってきたんだ」 おおかた食べ物が尽きた頃になって、不意に康平が口を開いた。掲げて見せたものに、圭太は軽く目を瞠る。花火だ。 「やろう」 返事をする間なく、飲みかけの缶ビールも持って康平は立ち上がった。網戸を開けて濡れ縁に出る。 「おまえも飲んでるやつ持って、来いよ」 呼ばれて圭太も腰を浮かすが、頭がクラッとした。座卓に手をついて立ち上がる。 ヤバ……マジ、酔った。 足元がふらつきながらも、言われたままに飲みかけのカクテルを持って康平の隣に来た。 「大丈夫か? また寝るなよ」 苦笑した顔を見せられ、いきなりムッとする。サークルの飲み会で寝てしまったことがあり、あのときは康平に家まで送られたのだ。 「それ言うなら、あんな買ってくんな。まだ飲むとか言うし」 「俺のせいか」 くすっと笑って康平は庭に降りる。すぐ横の水道でバケツに水を入れる。 古い住宅街の中で、庭の外も静かだ。家の前の道は昼間でも車が少なく、今は人通りもない。庭向こうの隣家は窓まで暗い。 夏休みだもんな……みんな旅行とか、行くよな。 「ほら」 庭から、立ったまま康平が花火を手渡してきた。おとなしく受け取って濡れ縁に腰を下ろすと、ジーンズのポケットからライターを出して火をつける。 さっき……ライター取りに行ったのか。 つんと火薬の匂いが鼻をつき、鮮やかな炎が勢いよく噴き出した。庭の芝生をそこだけまぶしく照らす。 「……一緒に、花火見たかったんだろ?」 隣に腰を下ろしてきて康平が言う。 「俺も見たかった」 うつむいて花火を袋から出す。 「……こんな花火じゃないもん」 「知ってるし。でもバイトだったんだから」 「わかってる……けど、今年じゃなきゃダメだったん――」 シュワッと音を上げて、康平の花火も炎を噴き出した。しかし並べて見ていられたのは束の間で、圭太は燃えさしをバケツに入れると次の花火を自分で出す。康平からライターを取ろうとし、触れた手をハッと引っ込めた。 「……わかりやすいんだから」 横顔で康平は笑う。花火が終わるのを待ち、圭太とあわせて次の花火に火をつけた。 ふたつ並んだ白っぽい炎が、庭の薄闇に柳のように流れて消える。また次に火をつけ、終わればまた次に火をつけ、炎は赤だったり、オレンジだったり、紫だったり、青だったり、それぞれに異なる色で芝生を照らした。 なんだか、小さかった頃に戻ったみたいだ。そんなことを圭太は思う。康平とふたりで、ほかに誰かいたにしても、こんなふうに庭先で手持ち花火をしたのはいつが最後だろう。 ……小学生のときだよな。中学生からは、花火するなら公園か土手だったし。打ち上げばっかで――。 やっぱり最後は康平とふたりだったように思う。もしかしたら康平の弟の彰浩がいたかもしれないが、この濡れ縁だった。 「……圭太」 耳元で、康平のささやきが甘く聞こえた。 「小学生のときから、ずっと一緒だったろ。それって、ぜんぜん軽いことじゃないって、思わないか?」 圭太は答えられない。なぜかわからない、花火を見つめ、つっと頬を涙が伝った。あの頃のことを康平も思い出していると感じたからかもしれない。 「……いつからなんだ?」 何を問われたのか、すぐわかった。だけど、やっぱり答えられない。 「いつからなんて……関係ないか。でも今は、そうなんだろ?」 くっ、と声が漏れてしまう。涙を拭うのも悔しく思えて、手元のカクテルを取り上げてあおった。一気に飲み干す。 「――圭太」 心配そうに呼ぶ声も甘い。だが康平も、缶ビールをあおる。 「俺はさ……今のままでいいかなって思ってた。ずっと自分じゃ気づいてなかったけど、俺って、かなり圭太を大事にしてきたよな?」 きゅっと胸が締めつけられた。小さな吐息を圭太はこぼす。 「知ってる。でも、俺が我慢できないんだ。もう、康平にカノジョできるの、見たくない」 「圭太……」 康平は燃えさしをバケツに入れる。圭太はうつむいて、終わった花火を放せない。 「だからー……カノジョいたことなんて、ないって。前も言ったけど、カノジョじゃなくて友だちだから」 呆れたようでもなく、康平は深い溜め息をつく。それでも圭太は顔を上げられない。 「友だちなら、買い物も映画もフツーに行くだろ。真面目にコクられたら真面目に断ってきたし。おまえと同じだって」 「けど、ふたりで出かけたりしてたじゃん。中学のときも、高校のときも、安田とか相沢とか木原とか――」 「おまえだって、してただろ」 「女子とふたりなんて、なかったもん。三人はあったけど」 「小田や三芳や長谷川はどうなんだよ」 「――って! みんな男じゃん!」 つい、康平を見た。うっと息を飲む。 「わかって言ってる? 男とつきあうって、そういうことだろ?」 康平は、真剣だ。ごまかしているわけでも、からかっているわけでもない。 手を伸ばしてきて燃えさしを取り、黙ってバケツに入れた。その姿勢のまま、静かに口を開く。 「俺は小学生のときから、圭太のお母さん、知っててさ。おばさんも俺を知ってるわけで、そういうの考えると、やっぱ悩むよ」 「そんなの……俺だって同じじゃん――」 言ってはみたが、声に詰まった。これまで考えないでいようとしてきたことだ。 「――いいのか?」 顔を向けてきて康平は言う。まっすぐに目を見つめてくる。 「だって――」 言いかけて、圭太はまた声に詰まる。胸が締めつけられて苦しい。今は考えたくない。できるなら、これからもずっと――。 「少しは悩めよ」 「だって!」 フッと、康平は口元で笑った。やわらかく目を細め、すっと上げた手で圭太の頬を包む。 「……バカだな。せっかく受かった大学まで捨てて――」 「そんなの!」 必死になって圭太は言う。また涙がこぼれてきそうで、ぐっと歯を食いしばった。 「そんな、怖い顔するなよ――」 ひそやかな声を聞かせ、康平がかぶさってきた。頬を包む手とは別に、肩に手がかかる。 「なっ……」 しっとりと唇が重なり、小さく抗った声は消えた。舌が滑り込んできて、ゾクッと身が震える。 う、そ――。 生々しい感触が甘い痺れとなって指の先にまで伝う。一瞬で体が火照った。息が苦しくて、でも唇はいっそうふさがれて、どうしていいかわからない。 頬を包む手がやさしく肌を撫で、ぎこちなく耳をくすぐる。肩にあった手が背に降りてきて、そこを何度もさすった。 「……ん」 かすかに喉を鳴らし、圭太は胸を上ずらせる。肌が、どこもざわめいてならない。舌で熱っぽく口中をまさぐられる感触に耐えられなくなる。 あ……。 軽く舌を吸われた。クラッとして喉が反る。くっきりと股間が反応した。背がしなるほど強く腰を引き寄せられ、焼けそうなほど頬が熱くなる。 「や……」 興奮を知られる恥ずかしさから康平を押し離そうとした。 「――圭太」 戸惑うような声が耳に流れ込んでくる。 「違っ、ちょ……待って」 気持ちが追いつけない。だからそう言ったのに、康平は耳に唇を触れさせてささやいてくる。 「奨さんに、どこさわられた――?」 「あ……っ」 聞かされたことよりも、吹き込まれた低い響きにゾクッとした。 「――ここ?」 そっと脇腹を撫でられる。 「ちょ、……や、んっ!」 奨に触れられたときとは、ぜんぜん違う。思いきり感じて、身がよじれてしまう。 「まさか――こっちも?」 「あっ」 親指の先が、浴衣の上から乳首に触れた。ピリッと走った確かな快感に目を瞠る。 そんな……俺――。 「圭太――」 自分を見つめる康平の眼差しが熱い。捕らえられ、ひたすらに見つめ返し、涙が滲んでくる。 ……マジ、なの? ひたりと合った目は、一抹の揺らぎもない。 「こう、へい――」 喘いで呼ぶ声は頼りなく消え、たまらずに圭太は康平の首にかじりついた。自身の重みで背後に倒れていく。 「――圭太」 康平も甘ったるく呼ぶから、限界だった。 「好き――ずっと、ずっと好きだった……!」 気持ちが声になって溢れ、それを言い終えるまで待っていたかのように、また唇をふさがれた。少しのためらいも見せずに康平は体を重ねてくる。 ……うれしい。 たっぷりと唇を貪られ、夢中になって自分からも求めた。舌を絡ませ合い、濡れた音が恥ずかしく耳につく。熱くてならない。真夏の夜気に包まれ、康平の体温に包まれ、どろどろに溶けていくように感じる。 こんな……なるなんて――。 どれほど願ったか知れない。自分で願ったことだ。今日こそは決めようと、康平を振り向かせようと、でも、今日のうちにここまで叶うとは思ってもいなかった。 思ってもいなかった――本当に。幼馴染みの親友でしかないはずだったから。少しずつでも特別な意味で意識してほしいと、願いはまだ小さかったから、大きすぎる現実に追いつくのでやっとだ。 けど……いい、よね――? 興奮は隠しようもなく、はっきり康平に知れた。重なる体にもこすれ、素直に硬さを増している。内腿には康平の硬い感触もあって、歓びでいっぱいになった。 汗に湿り、吐息に濡れる。キスのもたらす高揚に溺れ、頭がかすんでくる。 「……あっ」 唇が離れ、小さく声が漏れた。康平は耳を舐め、顎にも喉にもキスを散らす。鎖骨にも舌を這わせ、浴衣の上から肩や胸をまさぐり始めた。 「奨さんがしたより、もっとするから――」 え……。 艶めいたささやきを落とし、浴衣の合わせから手を忍ばせてきた。片肌がはだけ、あらわになった胸に顔をうずめる。 「あっ……あ!」 仰け反って圭太は悶える。背筋がゾクゾクして止まらない。乳首を舌でなぶられ、初めて知る快感に突き落とされる。 「や、……んっ、康平!」 きつく呼んで止めたつもりが、喘ぎ声にしかならなかった。ちゅくっと軽く歯を立てて吸われ、ビクンと背が跳ねる。 「は……あん!」 甘ったるい声がこぼれ、指が食い込むほど強く康平の肩をつかんだ。 そうなって、康平はいっそう熱心に乳首をねぶる。浴衣の裾からも手を挿し入れ、腿にゆったりと這わせた。 「あ、あ、……んっ」 抑えても切れ切れに声が漏れ、圭太は腰をうごめかせてしまう。恥ずかしくてならないのに、はち切れそうな欲望を康平にこすりつけていた。 も……ダメ。マジ、イきそう――。 「……知ってんの?」 康平の声がくぐもって聞こえた。耳に唇を寄せてくる。 「男同士って、どうやってやんのか――」 吐息交じりに吹き込まれ、ゾクッとした。そのことを思い浮かべ、クラクラする。 「康平は……知ってんの――?」 たまらず問い返した。 「当然」 短く即答され、頭が沸騰したようになる。なぜ知ったのかとは訊けない。 「やっぱ、圭太も知ってんだ……それで、こんななって――エロいな」 「ち、違っ……! 康平が、するから――」 「すごく感じる?」 目を覗き込んで言われ、大きく息を飲んだ。 エロい、って――康平じゃん……。 こんな色っぽい顔にもなるなんて、知らなかった。自分を見つめて眼差しは鋭いのに、瞳はうっとりと蕩けている。唇は濡れて薄く開き、そこに覗く舌先に背筋が妖しくざわめいた。 息が詰まる。康平は体を浮かせているのに、鼓動が激しくて胸が潰れそうだ。 「……いいよ」 喘いで、つぶやいていた。 康平はやわらかく笑い、チュッと軽くキスする。指先でやさしく頬をくすぐる。 体中のどこからも力が抜けた。熱く湿った吐息が唇から溢れ、目が潤んでいく。 やっぱ、溶けそう……。 康平にされるすべてが愛しさに満ちて感じられる。再び腿をそろりと撫でられ、細い声を上げた。すぐにも硬い欲望に触れられそうで、思うだけで先が濡れてきた。そうなったら、その瞬間に放ってしまいそうだ。 ……ど、どうしよう。 「こう、へい……」 消え入りそうな声で呼んだ。 「よ……汚しちゃう――」 イきそうとは言えなくて、そうささやいた。 「――ごめん」 何を思ったのか、康平は謝ってくる。 「初めてが、ここじゃな――」 顔を上げてきて、すまなそうにつぶやいた。 圭太は真っ赤になる。言われた意味がすんなり飲み込め、本当に頭がクラクラした。 こ、ここって……外――。 「……俺の部屋に行こう?」 康平が手を差し出してきたことにも気づけず、よたよたと這うように室内に戻った。 「ちょっと、待ってて。先にエアコンつけてくるから」 照れくさそうに口早に言って、康平は部屋を出ていく。それを呆然と見送り、はーっと深い溜め息が出た。ぐったりと畳に突っ伏す。 ……俺、どうなっちゃうの。 自分がこんなふうになるなんて、信じられないと言う前に驚くばかりだ。 マジ、俺……エロすぎなんじゃねーの……。 外にいることも忘れて、康平にされることがどれも気持ちよくて、何も考えることなく快感に溺れた。 したい、って……したいけどさ。 まだ体中が熱くてならない。股間の昂りも収まらない。汗を拭うのも、はだけた浴衣を直すのも億劫に思えるほど、指の先まで甘く痺れている。 キスだって、今日が初めてだったのに――。 まさか、今日キスされるとは思わなかった。本当に本当のキスだ。舌を絡ませ合う感触が思い出され、ゾクッと背筋が震える。 ……やっぱ、康平のほうがエロいじゃん。 あのまま何も言わないでいたら、外でどうなっていただろう。汚すと言ったのを浴衣のことと思ったのは間違いなく、康平らしいと笑ってしまう。 エアコンつけてくるなんて言って――。 まだ戻ってこないのだから、本当には何をしているか疑わしい。それもまた康平らしく、愛しさがいっそう湧いて自分で呆れる。 て言うか、アツイ……。 既にへとへとだ。飲みすぎたせいもあるのは明らかで、無性に眠くなってくる。 ヤバイって。寝るなって言われたのに……そっか。昨日、眠れなかったから――。 浴衣で康平をドキッとさせるんだと、妙に意気込んでいたから。 ……もっと……すごいことになっちゃった。 幸せな気持ちでいっぱいだ。うれしくて、たまらない。このあとどうなろうと、康平に何をされようと、自分が何をしてしまおうと、この幸せな気持ちは変わらない。 好き。すごく、好き。……自分でもわかんないくらい、好き。 温かい涙が滲んできて、ぎゅっと目を閉じた。それがいけなかったのか。今ここで眠るわけにはいかないと、繰り返し思っていたときには、とっくに夢心地だった。 康平の低い声が、やわらかく自分を呼ぶ。大きな手が、やさしく頬を撫で、唇をなぞる。熱くて気持ちよくて、いまだ康平に抱かれているようで、安心と満足の溜め息が溢れた。 そうして、どのくらい時間が経ったのか。ひんやりと流れる空気を頬に感じ、パチッと目が開いた。 ……なんで、客間で寝てんだろ。 ぼんやりと視線を巡らせ、ギョッとする。 ――って。ここ、うちの客間じゃねーし! ガバッと跳ね起き、はらりと落ちたタオルケットの下に目が行き、叫びそうになる。 ななな、なんでっ、裸っ? くしゅっ、とくしゃみが出た。落ち着け落ち着けと胸のうちで繰り返し、タオルケットを引き寄せ、ぎゅっと抱きつく。 エアコン……康平がつけたのか? そうだ、昨日は花火大会から帰って、この部屋で康平と飲んで――。 ……え。 さーっと記憶がよみがえり、頭の芯が熱くなる。胸までドキドキしてきた。 ちょ、待てって。花火やって、ああなって、康平の部屋に行く――って。 だめだ、そこから思い出せない。でもここで寝ていたのだから、康平の部屋には行かなかったということか。 なら、なんで裸っ? 下着一枚つけていない。しかも布団にいる。タオルケットをかけたのも、たぶん康平で――そうだった。康平に呼ばれて頬や唇を撫でられた。あれが夢でないなら。 うそ……しちゃった? ザッと、庭で水の音がした。ビクッとして圭太は窓に向く。今は内障子が閉められていて、だけど外は明るい。 ……康平? ほかに誰もいないのだから違いなく、そろそろと障子を開けた。 「わっ!」 途端にガラス窓がびしょ濡れになる。流れ落ちる水滴の向こうに、ホースを持って芝生に立つ康平が見えた。思いきり笑っている。 「康平!」 何に慌てるのか、圭太は急いでガラス窓を開けた。 「ねえ! 俺、しちゃったのっ?」 まったく考えずに言い放っていた。 「……は?」 庭木にホースの水を向け、康平はぽかんとした顔になる。 「なんで俺、裸なわけっ?」 「知らねーよ! 自分で脱いだんだろ、いちいち訊くな、バカ」 ふいと、そっぽを向いた。 「ちょ、ないだろ、それ!」 「昨日も言ったし。『俺にキスした?』、なんてさ」 口まねして返され、カーッと頬が熱くなる。 「い、いいじゃん。そんな、いじわる言わなくたって……」 「言いたくもなるって。鈍感」 「ちょっ……!」 チラッと横目で冷たく睨まれ、言い返そうとした言葉が喉で詰まった。 鈍感、って。康平だろ! 無言で吐き出すが、ギクッとする。昨日のことを思えば康平は鈍感どころか、ずっと前から自分の気持ちに気づいていたようだ。 ――あ。 「浴衣、自分じゃ着れないんだろ? 着替え出してあるから、シャワー浴びて――」 やれやれといった調子で言いながら、康平は歩み寄ってくる。 「俺、まだ好きって言われてない!」 「え」 手前で足を止めた。大きく目を瞠る。 間があいた。早朝の薄青い夏空の下、圭太は必死の思いで康平を見つめ、康平は唖然と見つめ返してくる。ジョボジョボと、ホースから落ちる水が芝生を濡らした。 「……はーっ」 あからさまに康平は溜め息をつく。ドサッと、圭太の前の濡れ縁に腰を下ろした。 「言わなきゃわかんねーのかよ、鈍感」 ふてぶてしく笑って顔を突きつけてくる。あんまりだ。康平は小学生のときから誰にでも親切なのに、自分にはこうだ。 「なんで、俺にはいじわる言うわけっ?」 涙目になりかけて、圭太は噛みついた。 「マジ、鈍感だな」 ふわりと、やわらかな笑顔になって康平は唇を寄せてくる。 ……なんだよ。 思っても圭太は抗えない。とてもやさしいキスだ。唇を何度も触れ合わせ、ぺろっと舐められ、舌を絡めるよりひどくドキドキする。 あ――。 そっと開いた目の先で、あさっての方に向いたホースが霧のような水を噴き出していた。康平がきつく握っているからで、ようやく顔を出した太陽にキラキラと照らされている。 そこに、うっすらと七色の弧が見えた。 「ね、虹!」 「え……あ、ホントだ」 振り向いて、康平も目を向ける。ホースの握りを変えて、もっと細かい霧を出す。 ……きれい。 水に濡れて緑を増した庭木を背景に、目にくっきりと見えた。半円にはほど遠い、小さな、小さな虹だ。生まれたての太陽と、真夏の早朝の大気と、青々とした芝生と庭木と、パステルカラーに近い虹――。 「圭太」 頬を寄せてきて康平は言った。 「来年は、ふたりで花火見よう」 「――ん」 胸がじんとした。来年の夏も康平と一緒だ。 「そのとき、また浴衣着ろよ。家から歩いて土手に行って、誰にも見せんな」 「え?」 きょとんと目を合わせた。 「――似合いすぎなんだよ」 言っていることがむちゃくちゃだ。誰にも見せないで土手に行くなんて絶対に無理で、そんなことは康平もわかっているはずで――。 胸が熱くなる。うれしくて、じっとしていられなくなる。 畳にぺたんと座った体勢から、圭太は伸び上がって康平にキスした。タオルケットを胸に引き寄せていた手がだらりと下がる。 「……圭太」 唇を離し、康平は困ったように言う。 「俺、昨日ぜんぜん眠れなかったんだけど」 「――え?」 なんの話になったのかと、圭太は目を合わせた。 「今から俺の部屋に来る?」 「えっ!」 照れくさそうに康平が言うから、たまらなかった。あとずさり、圭太は真っ赤になって言う。 「む、無理! もう朝だし!」 「え?」 康平は、またぽかんとした。だが眉を寄せ、黙って立ち上がる。投げやりな手つきで芝生に水をまき始める。 「……康平?」 部屋の中から、恐る恐る圭太は呼んだ。 「水まき。誰もいないから必ずやれって、親に言われたし」 とんちんかんな返事が聞こえた。 「じゃなくて……」 もごもごと圭太は口ごもる。 「その……ごめん」 聞こえたのか、聞こえなかったのか、康平は濡れ縁の横に消えた。キュッと水道の蛇口を閉める音が小さく聞こえた。 いきなり濡れ縁から身を乗り出してくる。 「ばーか」 笑って康平は言った。 「飲み過ぎなんだよ。起こしても、ぜんぜん起きないし。暑いとか言って寝ながら脱ごうとするから、帯ほどいてやったら全部脱ぐし」 その様子が頭に浮かんで、圭太は思いきり縮こまる。 「だから……ごめん」 「だからバカだって言うんだよ。俺が飲ませたんだろ?」 「けど――」 康平は耳に素早く口を寄せ、また今度な、と言った。ドクン、と心臓が跳ね上がる。 「早く服着て来いよ。シャワー浴びても浴びなくてもいいからさ。俺の目の毒」 「わ、わかった!」 おたおたとタオルケットを体に巻きつけ、圭太は立ち上がる。 「そうそう。おまえのパンツ、水につけて風呂場にあるから。巾着はそこ。浴衣と帯は、適当に畳んで袋に入れておいた」 「なんで!」 戸口まで来て、思わず振り向いて叫んだ。 「なんで、って。……そうしたほうがいいと思ったから?」 絶対に、完全に、とぼけている。そうとわかっても、顔が熱くなるのは止められない。 「いじわる!」 言い捨てて圭太は部屋を出る。背後で笑い声が上がる。かわいすぎるだろ、と聞こえたが聞き間違いではない。 やっとわかった気がした。どうして康平がいじわるを言うのか。 胸が熱くなるから、ドキドキしてならないから、シャワーを浴びて着替えたら、さっさと帰ってやろうと思った。生まれて初めての朝帰りだ。 おわり ◆BACK ◆作品一覧に戻る |