Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    プライスレス
    −1−



     一

     中学から男子校だった。その頃から渋谷が遊び場になった。
     ジュンはちらりと左手首を見る。お気に入りの腕時計――中学受験の合格祝いに両親から贈られたものだけど、あのときは『タグ・ホイヤー』なんて、名前すら知らなかった。
     教室に低く長く射し込む西日にかざす。キラリとオレンジに光るカバーガラス、キュートでカッコいい『エクスクルーシヴ』――ため息が出る。なんて、似合うんだろう。
    「……ねえ、もういいでしょ?」
     きつく自分を抱きしめて、肩に顔をうずめる同級生に言う。
    「もうすぐ閉門の予鈴が鳴るよ?」
     そうしたら、全校生徒の下校を確認しに、当直の教師が各教室を回り始める。
    「腕が痛いんだけど――」
     さっきから、机に押し倒されそうな体を右腕だけで支えている。
     同級生は何も答えてこない。目をやっても、くせのある黒髪が間近に見えただけだ。
     やっぱ、何もしてこないんだから……。
     今度は呆れてため息が出た。
    「どいてよ。ぼく、帰るから」
    「……ジュン」
     せつなそうな声を聞かされたって、何も感じない。いや、うっとうしいだけだ。
    「ぼくのせいじゃないからね。きみが何もできないだけなんだから」
     恨めしそうな目を向けられても迷惑なだけだった。
    「ほら、どきなよ!」
     少し声を荒げればビクッとする。肩を軽く押しただけで、すんなり離れていった。
     しょせん、この程度のものなのだ、同級生なんて――。
     品行方正で勉強のできる、それだけの人間。欲望を覚えても戸惑うだけで、何もできない腰抜けばかり――。
     目の前に、うなだれて立ち尽くす彼を冷ややかに眺める。
    「ガッカリだよ」
     今日の相手はやたら熱心だったから、もしかしたらと少しは期待したのだ。大きな体のわりに印象が華奢なのは、いまひとつだったけど――。
     もう、オヤジは嫌だった。ちょっと年上も嫌だった。だけど、校内のやつらは、こんなのばかりだ。
    「また明日」
     あっさりと言い捨て、ジュンはカバンを取る。振り向きもせずに教室を出た。
    「どうだった?」
     礼拝堂の前まで来ると、ベンチからカツミが立ち上がった。
    「いつもと同じ」
     横に並んだカツミに、ため息混じりに答える。
    「なんだ、今日は遅かったから、ちょっとは楽しんだのかと思った」
    「ありえないよ、ダメだね、やっぱ」
     ふふ、と小さく笑うカツミに目を向ける。
     特にスポーツをしているわけでもないのに、いい体をしている。制服の紺のブレザーでも似合って見える。センスがいいからだ。
     今日のシャツは淡いブルーのピンストライプで、タイはしていない。ラフな着こなしのようでも、スラックスはきちんとプレスされている。
     校則違反ギリギリの髪の色は明るく、彫りの深い顔立ちで、たれ気味の目と厚みのある唇が、とりわけセクシーだとジュンは思う。
    「……カツミが遊んでくれればいいのに」
     思わず言ってしまった。今までにも何度か言ったことだ。
    「だからおれ、男はダメだって。ジュンでも」
    「ちぇ」
     つぶやいて顔を伏せてみる。すると、カツミの手がぽんと頭に乗った。
    「ジュンはかわいいけど……そうやって、わざと気を引こうとしたりしてさ。女だって、ここまであからさまなのは、めったにいない」
     見透かされたと知って、カツミをにらむ。
    「いいね、その顔。おれはむしろ、こっちのほうがそそられる」
    「なら――」
    「ムリなんだってば。おれは女が好き」
     もうそれには答えなかった。校門を出て、車の行き交う大通りを並んで歩く。
    「どうする? 帰る? 直に行く?」
    「直」
     答えれば、カツミはタクシーを止めた。先に乗り込みながら、思いついたように言う。
    「ジュンみたいなの、小悪魔って言うんだよ」
    「……オヤジくさ」
    「いいじゃん、小悪魔」
    「センス悪」
     ドライバーに『道玄坂上』と告げる。ムッとした顔を向けられても少しも気にならない。目的地までワンメーターで着く。
    「……いいな、これ」
     カツミが手を伸ばしてきた。ジュンのタイを取り、裏を返す。
    「ハンティング・ワールドか。いつの?」
    「知らない、父のだから」
    「なんだ、やっぱオヤジくさいのは、ジュンじゃない。オヤジ専門だし」
     それには本気でムッとした。乱暴にタイを取り返し、わざとらしく整える。
     タイは、校則でまったくの自由だ。ジュンが今日選んだのは『ハンティング・ワールド』のベリー柄――クリーム色の地にブルーベリーのプリントが鮮やかで、気に入っている。
    「……これ、一番好きなんだ」
     つぶやいて、車窓の外に目を向けた。カツミの声が追いかけてくる。
    「だろうな。朝から目についた」
    「あげないよ」
    「いらないって。自分で買うし」
     もう、どこにも売ってないよ、きっと――。
     思っても、言わなかった。
     このタイは、ジュンがまだ幼いとき、パリに出張した父親が自分で買ってきたものだ。とてもきれいだったから欲しいとねだった。
     大きくなったらね――。
     そう言ったくせに忘れている。父親のクローゼットから無断で失敬したのに、何も言われない。今朝も目にしたはずなのに。
     このタイを自分のものにしたのは、高校に進学した春だった。両親は、何もくれなかったから――。
     ジュンは、腕時計を車窓に寄せて見る。西日を受けて、カバーガラスがオレンジに光る。
     きっと、この『エクスクルーシヴ』が最後なんだ――。
     唐突に、中学受験までのことが思い出された。なんだかもう、遠い過去のようだ。
     何年ものあいだ、勉強につきっきりでうるさかった母親は、合格と同時に消えた。何も言っていないのに小遣いは年々増え、自由になったのはジュンだけでなく、父親も母親もそうだ。
     今は学期末に成績表を見せるだけで、すべてが足りる。両親を満足させる成績を収めるなど、ジュンには、とても簡単なことだ。
     次の春には高校を卒業し、付属の大学に進学する。それからのことなんて、知らない。
     そっと、目を閉じた。細く、息を吐き出した。胸に広がる気持ちが何であるのか――わかりたいとも思わなかった。
     タクシーを降りたらカツミのマンションで着替えてクラブに直行だ。退屈でくだらない喧騒が思い浮かび――また、ため息が出た。


     男を覚えたのは偶然だった。その頃にはもう、女の子には嫌気がさしていた。
     一年以上前になる。クラブには、とっくに飽き飽きしていた。だから、その日もカツミを残して先に出て、制服を取りにカツミのマンションに戻るところだった。
     タクシーをつかまえるのも面倒で、渋谷駅前から続く道玄坂をぶらぶらと歩いて上った。途中で足が止まったのは、自分でもなぜだかわからない。
     そのカフェが、どういう店なのかは知っていた。以前から気になっていたようにも思う。しかし、客層の年齢が高めなのも知っていて、そこにあえて入るのは躊躇されて――それよりも、入る理由が見つけられなくて――。
     バカみたい。
     そんな場所で立ち止まってしまった自分に呆れた。ガードレールに腰を下ろしたらため息が出て、思わず空を見上げた。
     都心の夜空は薄明るい。星など見つけられるはずもなく、初夏の風が肌に生ぬるく感じられただけだった。
    「――え?」
     声をかけられたと気づくまで間があいた。それで、最初の一言は聞き逃していた。
     目を向ければ、どう見てもサラリーマンの男が立っていた。女の子に声をかけられるのはよくあるけど、男になんて初めてだった。メガネをかけた細面で、微笑を浮かべている。
     ――オヤジ。
     無視しようとしたのだ。だが、上質のスーツを着ているのに目が止まって気が変わった。
    「それって、ぼくを抱きたいってこと?」
     わざとあからさまに尋ねた。どう答えるか、どんな顔で答えるか――考えると刺激的だ。急にワクワクしてきた。
     気に入らない態度を少しでも見せたら、そこで終わりのつもりだった。だが、その男はホテルの部屋に入るまで紳士だった。
     抱かれて、その男が気に入った。ことに及ぶ前にこれが初めてと聞かせたのは、もちろん相当に扱わせるためだったが、結果は予想以上だった。
     こちらからの奉仕は何も要求されず、一方的に満たされる行為――女の子とでは、考えられない。
     だから、言ったのだ。
    「また、遊んで」
     しかし、男はスーツ姿に戻ると、にこやかな笑顔で財布を取り出した。
     一瞬、呆気に取られそうになり、それから笑いが止まらなくなった。
     自分は、いったい何をさせられたのか――。
     人間としての尊厳とか、人権とか、そんなものは教科書でさんざん学んだ。愛とか、言葉で語るのは簡単だ。
     それなら、クラブで群がってくる女の子たちは、どうなのか。それを喜んで受け入れるカツミは、どうなのか。好きだとささやいて自分を抱きしめても何もできない同級生は、受験校に入学してしまえば自分に見向きもしなくなった両親は――。
     どれも、同じじゃないか。
     目に見えないもの、手で触れられないもの、肌で感じられないものは、存在しないのと同じだ。
     だけど。
     奉仕されるばかりで、一方的に満たされて、快感にくらむ行為――これは、とてもわかりやすい。しかも代価を払ってまで求められることだなんて――病みつきになる。
     みんな、ぼくに跪けばいい。みんな、ぼくが欲しいだろう?

    つづく


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    素材:若奥様工房