Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    プライスレス
    −2−



     二

    「おまえ、いくつだ?」
     その男は、最初にそう言った。この質問には、もう慣れていた。ジュンは男の横に立ったままカウンターに頬杖をつき、眉ひとつ動かさずに答える。
    「十九だよ。大学入ったばかり。四月生まれなんだ」
    「――見えないな」
     見えないのは当然だろう。四月生まれは本当だけど、あとは嘘だ。それに、実際の年齢にも「見えない」のをジュンは自覚している。
     むしろ、それが自分の売りだと思う。今日も鏡に向かって入念にチェックしてきた。
     長めのレイヤーの髪は、先週ヘアサロンでカラーリングしたばかりだ。思い通りの栗色に仕上がっていて、自分でもトリートメントを欠かさないから、サラサラで指通りもいい。耳にキラリと光るピアスがアクセントだ。
     大きな瞳が印象的とは、カツミにも言われたし、自分でもそう思う。眉はナチュラルに整えてある。いじりすぎるのはダサイ。肌のコンディションも抜群だし、いっそ唇にグロスを塗りたいくらいだったけど、そこまでやったら、やりすぎになる。
     女の子になりたいわけじゃないのだから。女の子だったら、こんなに楽しめない。それに、女の子はもう嫌いだ。イイ男と見れば、すぐに群がってくる。
     でも、今は余裕だった。この店はクラブではない。ゴールデンウィーク谷間の金曜日、今夜は男ばかりの『シングル・ナイト』だ。
     ジュンは、グロスなんか塗らなくたって十分魅力的と思う唇で、目の前の男を口説きにかかる。
    「歳なんて、どうでもいいじゃん」
     この男に気がついてから、目が離せなくなっていた。ずっとカウンターにひとりでいて、グラスを傾けるだけの様子が気になった。
     ヘンなの。
     最初は、そう思った。『シングル・ナイト』で、誰もが下心満載なのに、誰にも気のないそぶりとは、そうすることで逆に気を引くつもりなのか。自分から声をかけるのは悔しいようにも思えたが、どうしても気になって、興味に負けた。
    「よくないって。マジに十九なのか?」
    「硬いこと、言うんだね」
     こうして間近で見ると、かなりタイプだ。タバコを吸わないようなのも気に入った。人によるけど、体臭とタバコの匂いが混ざってサイアクだと一気に萎える。マイナス要素は少ないほうがいい。
    「面倒なのは、お断りだ」
    「面倒なのは、遊びって言わないでしょ?」
    「おまえ……」
     男はひたりと視線を合わせてきた。チャンスは逃さない。ジュンはじっと見つめ返す。
     とりわけ目を引くほどではないけど、はっきりとした目鼻立ちで男らしい印象だ。髪は黒く短く硬そうで、ラフにスタイリングされている。
     服装も悪くない。カジュアルを落ち着いた感じに着こなしていて、わりといいセンスをしている。長身でがっしりとした体格なのも気に入った。
     きっと、普段はサラリーマンか何かだろう。見た感じの年齢に期待できる。
     最後にはモノで帳消しにしたがる『オヤジ』も、がっついてやたらしつこい『ちょっと年上』も、抱きつくだけで何もできない『同級生』も、みんな、ウンザリだ。
     だから、今夜はここに来た。狙い目は最初から決まっていた。ずっと年上で、でも、オヤジではない男――この男は、ぴったりに思える。
    「カッコつけて強がってると、痛い目にあうぞ?」
    「わ、なにそれ?」
     大きな瞳を輝かせ、ジュンは男の隣の椅子を引く。こういうことはタイミングが大切だ。
    「ぼくに説教してくれるの?」
     ワクワクしてくる。どうせなら、ベッドでやさしく叱ってほしい。低く響くこの声で、蕩けさせてほしい。
    「説教って――おまえなあ」
     しかし、男は呆れたような声を出した。ちらっと視線を巡らせて、店内をざっと見渡す。
    「そういうことなら、ほかを当たれ。おまえに目をつけたヤツ、いくらでもいただろ?」
    「え……」
     ジュンは、一瞬ヒヤリとする。この男を気にしながらも、しばらくは、寄ってくるほかの男たちを適当にあしらっていたのだ。
     いつものことだった。モテるところをひけらかし、いっそう注目の的になる――。
     だが、今夜はもう、この男に決めたのだ。
    「ねえ」
     会話を変える。適当にあしらうのは好きだけど、適当にあしらわれるのは我慢ならない。
    「なんで、さっきからひとりなの?」
     尋ねて当然とも言える質問で、妥当だ。男は誰にも気のない様子で、ずっとカウンターにいるのだから。
    「――そんなの、どうでもいいだろ」
     だが、言い捨てて男は顔を背ける。それでもジュンは引かない。
    「ここに何しに来たわけ?」
    「忘れた」
     素っ気なくでも返してくるのだから、会話は成り立っている。しかし、どう続ければいいのか――空気が読みきれず、ジュンは自分らしくもなく戸惑うのを感じた。男の横顔を見つめる。
     精悍な顔立ちでも性格は温和なようだ。それが、かすかに眉を寄せて暗い表情をしているのが――気になってくる。
    「あなた……なんだか、とても淋しそう」
     不意に口をついた。それに驚いて、ジュンは男を見つめる目を大きく見張った。
     男も驚いたようにジュンを見つめ返してくる。その顔は――本当に、淋しそうだ。
     な、に……これ?
    「わかったようなこと言うな。何も知らない――ガキのくせに」
     しかし、男は吐き捨てるように小さく言って、目をそらした。
    「ひど! ガキって、ぼくは――」
    「そうやってすぐわめくのはガキだ」
     う……。
     返す言葉に詰まり、ジュンは口をつぐむ。
     このぼくに、そんなこと言うなんて……。
     さっさと次に乗り換えるべきか。
    「――本気なんて知らないんだろ? 遊んでるだけなら、ただのガキだ」
     なんでこんなことまで言われるのだろうと思う。ムキになって言い返す自分も、ジュンは信じられない。
    「そうかな。口ばかりで、何もできないのがガキでしょ? ぼくは口だけじゃないよ」
     そうだ。言い寄ってくるくせに何もできない同級生と一緒になんかされたくない。
    「へえ……」
     男は目を細め、ジュンを見つめ直す。値踏みされている――悔しいけど、やっとだ。
    「ぼくが本気を知らないって言うなら、教えてくれればいいじゃない」
     言えば、フッと男は笑った。小バカにされたようにも思うのに、その笑顔は悪くない。
    「本気なんて、教えられるもんじゃない」
    「それなら、あなたの話を聞かせて」
     こんなまだるっこしい手続きは初めてだ。でも、おもしろい。男の表情が変わるのが。
    「そういうことを平気な顔で言う――のも、ガキだからか」
    「いいよ、ぼくはガキってことで」
     男はグラスを口に運ぶ。一口飲んで言う。
    「……失恋しただけだ」
     吐息と共につぶやいた男に、ジュンはやわらかく笑って見せた。ここで、一気にカタをつける。
    「ぼくが、慰めてあげる」
     グラスを放さない男の手に、手を重ねた。意外にも温かく、鼓動が一段跳ねた。
    「……イージーだな」
     男は、ぽつりと言った。
    「それ以外に何があるっての?」
     ぐっと鋭い視線で、男はジュンを冷ややかに見つめて返す。艶のある低い声で言う。
    「あとになって――泣くなよ」
     重ねてあった手を逆に取られた。その手を引かれ、ジュンは男と共にカウンターを離れる。抱き寄せられるのを待たずに、伸び上がって男の耳に吹き込んだ。
    「泣かせてよ……たくさん」
     胸が熱く高鳴る。待ちきれない予感に体中が震えそうに思えた。


     行くのはホテルだけだ。相手の自宅に誘われたら、そこで終わりだ。
     何番目の相手だったろう。オヤジ、オヤジ、オヤジと続いて、それから、ちょっと年上になって――そうだった、あの男も、ちょっと年上だった。
     部屋においでと誘われたのは初めてで、その言葉の持つスリルに惹かれた。
     あれは、とんでもなかった。いきなり両手首を縛られたときは、さすがにどうしようと思った。道具が取り出されるのを見て、初めて恐いと感じた。
     だけど、縛られたのは手首だけで、へとへとになるまで道具でいたぶられたけど、終わってみればそんなに悪くもなかった。
     でも、あんなのは一度で十分だ。楽しいからしていることなのに、少しも楽しめないのでは意味がない。
    「――あれだけ大きく出たのに口だけか?」
     店を出て連れて行かれたのは、こざっぱりとしたホテルだった。汚いところは嫌と言う必要もなく、手間取らずに済んでよかった。
     始める前に男がシャワーを使ったのもよかった。この男はイイ感じに慣れている。今日はヒットだと――思ったのだ。それなのに。
    「やっぱ、おまえガキだ」
     ジュンを組み敷き、喘がせて男は言った。
    「本気どころか、本当のセックスも知らない」
    「なに、それ。こんな、ことに……本当も、何も……ない、でしょ?」
     どうしてこんなにも感じてしまうのか。
     素肌をくまなく撫でられ、舌でも辿られ、一回りどころか、二回りは自分よりも大きい男の下で、ジュンは快感に震える。
     顔は最初から気に入っていた。あの店にいて、ギラギラしていなかったのも気に入った理由だ。気のなさそうな男ほど、落としたときの満足は大きい。
     だが、裸体を見せられて、いっそう気に入った。脱ぐとスゴイとは、こういう男を言うのかと思ったくらいだ。
     厚みのある胸に、いつのまにか湿った吐息を落としている。これだけたくましいのに体毛が薄いのもいい。素肌の触れ合う、なめらかな感触が、たまらなくそそる――。
    「そうだったな――俺が教えるんだった」
    「あ……はっ!」
     いきなり強く握られて声が出た。ジュンは焦って男を見る。曇りのない目が、ひたりと自分を見据えている。
     まさか、ハズレ――?
     一瞬、この男が恐いと感じた。変わったことをされたわけでもないのに。
     急にドキドキしてきて胸が苦しい。どうしようもなく気持ちいいのに……苦しい。
     男はジュンを見下ろす顔をニヤリとさせる。胸と胸とを合わせてきて、耳元でささやく。
    「セックスは、ふたりでするもんだ」
     何を言い出すんだろう――。
     こうして、ふたりでしているじゃないか。ふたりいなければ、できないじゃないか。もっと何人かでするヤツはいるだろうけど、ひとりでするのは、セックスとは言わない。
    「よくしてやって、よくしてもらって、それが、いいんだ」
     じゃ、なに? ぼくにも奉仕しろって?
     しかし、男の手は、絶妙な動きでジュンを追い立てていく。息が上がってたまらない。胸が、ますます苦しくなる。
     熱い、熱いよ、とても――。
    「おまえ、こんなんじゃ、ただの人形だ。タッチセンサーで反応する――」
    「な、に、それ!」
     思わず叫んでしまったのは、なぜだろう。
    「――これが、欲しいんだろ?」
     冷たく言って、男はジュンの内腿にこすりつけてくる。その硬さに、ジュンはカッと頬を熱くした。
    「ほら、な?」
     これでは嘲笑されたのと同じだ。ジュンはムッとして顔を背ける。
    「いらないなら、今すぐやめるぞ?」
     この余裕――こんなに硬くしているのに。
    「ぼくが、いらないの?」
     きつく返したのに、声が震えたようだったのが悔しい。
    「それは俺が訊いてんだろ?」
     そう言って、男は握る力を強める。
    「ここは早くどうにかしてくれって、さっきから泣いてるぜ?」
     ジュンの目を覗き込み、フフンと鼻先で笑った。
    「……いじわるだ」
     そんなことを言うつもりなんて少しもなかったはずなのに――口に出してしまっていた。
     悔しくて涙が滲みそうになる。どうして、こんなことになっているのだろう。いつものように楽しみたかっただけなのに。
    「……かわいいな」
     ハッとして男と目を合わせた。男はやわらかな笑顔に変わっている。
     驚いた。容姿を言われるのはいつものことだけど、今、自分をかわいいと男が言ったのは――。
    「この調子で、もっと……盛り上げてくれ」
     どこか淋しそうな響きで男はつぶやき、チュッと軽く、ジュンの額にキスをした。
     ジュンは、さらに大きく目を見張る。
     なに……これ?
    「おまえ、かわいいよ、もっとかわいい声が聞きたい、早くおまえの中に入りたい――」
     男は耳元で熱くささやく。湿った息を吹き込んでくる。
    「――ほら。どうなんだ? おまえは?」
     これは、こういうプレイなのだろうか。それとも男が言うように、こういうのが、本当の――セックス?
    「言って……いいの?」
     どうしてそんなことを尋ねてしまうのか。どうして、こんな男に許しを求めるのか――。
    「違うだろ。言えって、言ってるんだよ」
     少し苛立ったように聞こえた声に、ギクッとした。この男の気を損ねたくない――なぜか、そう思ってしまう。
    「欲しい、あなたの……」
     だが、そこまでしか声にできなかった。こんなにも頬が熱くなる理由を聞かせてほしい。
    「俺の――なに?」
     やっぱり、いじわるだ。
     目をそらし、だが、ジュンは言葉の代わりに男のものを握る。
    「……や、だ」
     熱く、硬く、太く――長い。
     ドクンと鼓動が大きく響いた。手の中のものが、ピクッと脈打ったように感じた。
     胸が、苦しい。頬が、熱い。体中が震えてしまいそう――。
     どうして。
     これが欲しい、早く入れてほしくて、どうしようもないほどになっているのが――この男には、バレている。
    「へえ……」
     呆れたようにも、満足したようにも聞こえた声に、いっそう胸が高鳴る。
     どうしよう……。
     自分からしたことなんて一度もない。そんなのは屈辱だ。
     しかし男は、握っていた手を放すと、ごくあたりまえのようにシーツの上に座り込んだ。ジュンを冷ややかに見下ろす。
     このぼくが、跪くなんて――。
     でも、体の奥のうずきは本当に耐えがたく、それをどうにかしてほしくて、それだけのために、ジュンは――男の前にひれ伏した。
    「は、あ……」
     熱い吐息が湧き上がる。差し出した自分の舌先が目に映る。
     屈辱だけど、屈辱じゃない。ものすごく嫌だけど、ぜんぜん嫌じゃない――。
     こんな気持ち、初めて……。
    「うん――いい子だ」
     落ちてきた声に、うっとりした。
     目を閉じて、頬張りきれないものを舐めてみる。舌触りは悪くない。つい、熱心になる。そうして、すっかり夢中になった。
     これをちょうだい――早く入れて、もっと硬くしてあげるから――。
    「ん、ダメ」
     口を離し、喘いで言った。男の指がジュンの後ろを探り始めていた。
    「おまえは先にイっちゃえ」
     男は、指まで長い。すぐに、ジュンのいいところを探り当てる。
    「はっ」
     ビクッと、背が反り返る。男の手が、前にも伸びてくる。また、握られる。
     こんなふうに、前も後ろも同時に攻められるのでは、もう、耐えられない。
    「あ……」
     男は何も言わずに口を近づけてきた。自分のものをすっぽりと熱い粘膜に包まれ、ジュンは上体を跳ね起こす。
    「い、いや……」
     そんな簡単に得られる快感は欲しくなかった。本当に欲しい快感は、別にある。
     男の肩をつかみ、思わず腰を引く。体の中を探る指が、もっと奥まで届いた。
     ジュンは大きく息を吸って、喉を鳴らす。声にならない声を上げ、達しても緊張が解けない。中を探る指は、まだ執拗に動いている。
    「や、だ……」
    「なら、どうしてほしいのか、言えよ」
     ジュンをぐっと引き寄せ、抱き合うようにして男は耳元で言う。息づかいが荒い。
    「俺は、さっき言っただろ? どうしてほしい? ん?」
     そんなことをまだ言われるのではたまらない。ジュンは、パタッと男の肩に額を乗せる。
    「入れて……早く、欲しい、ちょうだい……ください――」
     うわごとのような自分の声が耳に響いた。
    「なら……おまえから来い」
     ひどい――。
     熱くて、苦しくて、くらくらする。どうにか膝を立てて腰を落としていっても、まだ、男の指は出ていかない。
     でも……スゴイ……。
     こんなにも感じるのは初めてだと――それを思ってしまう。屈辱に思えてならないのに。
     直前で、やっと男の指は出ていった。すぐに別のもので満たされる。待ち焦がれていたもので、体の中が、いっぱいになる――。
    「……動いて」
     そんなことまで言わなくてはならないのか。
    「自分でやれ」
    「くっ――」
     歯を食いしばった。咄嗟に、男をにらんだ。
    「早く、ぼくの中に、入りたいって、言ったくせに!」
     男は驚いたように目を見張り、それから――笑った。声を上げて、楽しそうに。
    「は、あ!」
     男の笑う振動で、感じてしまう。小刻みに揺さぶられて――。
    「わかったよ、ほら!」
     いきなり突き上げられて声が出ない。律動は続く。たくましい腕が、ぎゅっと強くジュンを抱きしめる。熱く湿った肌がこすれ合う。
    「いいぜ、おまえ――すごく」
    「あ、は、あ、ああ――」
     きつく抱きしめられているのに体が跳ねる。男の動きに合わせて、勝手に動く。
    「むちゃくちゃ感じるだろ?」
     うん――。
    「そんな、締めんなって」
     ……だって。
    「ん? まだ余裕か?」
    「ち、がう!」
     頭を振って顔を上げ、ジュンは男を見る。
     あ……。
     そんな顔をしているとは予測すらしなかった。まさか、こんな、情欲にまみれながらも淋しそうな顔をしているなんて――。
    「……生意気だ」
     ちらっと視線を投げて寄越し、男はつぶやいた。より激しくジュンを攻め立てる。
    「ん! は、あ……」
     大きく反り返って背後に倒れそうになっても、ジュンは男の腕に支えられている。
    「……気持ち、いい……こんなの、スゴ――」
     自分の声が甘いささやきになって聞こえる。
    「……俺もいい」
     ジュンは男の胸にすがった。少しのためらいもなく――。
    「もう、ダメ……イく……」
    「ああ、いくらでもイっちゃえ」
     どうしてだろう――。
     もっとやさしい声を聞かせてほしい。体はこんなにも熱く、今にも達してしまいそうなのに。
    「いい……もっと、ねえ」
     いっそう男の胸にすがりつき、ジュンは湿った吐息を落とす。体中がさざめく。頭の芯までしびれている。
    「もっと、欲しい……もっと」
     こんなにも感じているのに。もっと欲しい。まだ足りない。
     ……何が?
    「マジにかわいいよ、おまえ……」
     耳元で響いた低い声にゾクリとした。胸がきゅっと締めつけられる。思わず顔を上げた。
    「――キス、して……」
     自分で言ったことに、うろたえた。途端に、じわっと涙腺がゆるんだ。
     慌てて顔を伏せようとしても、男の唇が追ってくる。むしゃぶりつくようなキスをされる。ねっとりと絡みついてくる肉厚の舌に、自分からも絡めていく。
     ……これ。
     頭がぐらりとして、急激に昂ぶる。つ、と頬が濡れる。達していた。


     時計の音が耳元近くで聞こえた。ムーヴメントの刻む、かすかな音――。
     ぼくの……『エクスクルーシヴ』。
     ジュンは、うっすらと目を開く。室内は薄暗い。フロアライトがぼんやりと灯っているだけだ。
     ヘッドボードの棚に置いたはずなのに、『エクスクルーシヴ』は枕元に落ちていた。ジュンは毛布の下から手を出して、それを取ろうとする。しかし腕は重く、指が思うように動かない。どうにか取り上げ、文字盤を見る。明け方近い時刻だ。
     ぼうっとしていた頭が次第にハッキリしてくる。まだ自分が裸であること、同じベッドで眠る男の存在に、ようやく気づく。
     ゆっくりと寝返りを打った。間近に眠る顔を見て――どうしてだろう、ホッとするような思いが胸に広がっていく。
     ヘンなヤツ――。
     昨夜のことが、おぼろげに浮かんでくる。あんなふうに男としたのは初めてだ。
     ものすごく……よかった。
     しかし、思えばいたぶられたのと同じだ。したくもないことをさせられて、言いたくもないことを言わされて、絶頂の間際で漂わされ続け、ずっと胸が苦しくて――なのに、とても気持ちよかった。
     先に帰ったんじゃなかったのか。
     なんとなく、思う。いつ眠り込んでしまったかも覚えてないくらいなのに、どうして、この男はまだ一緒にベッドにいるのか。
     ヘンな……ヤツ。
     名前すら知らない。二度と会うこともないだろう。そう思えば淋しいように感じるのは――どうしてだろう。
     今までのほとんどの男がそうだった。もう一度会いたいなんて、ジュンはもう言わない。初めての男で幻滅した。
     何度か続いた相手でも、会いたいと向こうから言ってきたからそうなっただけだ。それにしたって限られている。相手が気に入らなければ連絡先を教えないのは当然だ。
     みんな、ぼくを欲しがればいいんだ……。
     ため息が出る。静かに目を閉じる。
    「あ」
     手の中の腕時計を取られた。驚いて目を向ければ、薄暗い中、男はそれを見ている。
     いつ、起きて――。
    「まだ、こんな時間か」
     つぶやいて、ジュンに目を移した。
    「『タグ・ホイヤー』なんて、いい時計してるじゃないか。『エクスクルーシヴ』は十万ぐらいするだろ? どうやって手に入れた?」
     その言われ方にムッとした。ジュンは腕時計をひったくると、すぐに左手首にはめる。
    「誰かにねだったのか? それとも――」
    「これは両親からの合格祝いだ」
    「合格祝い? 大学の?」
    「違う! 中学受験のときのだ!」
     言ってしまってから焦った。こんなふうに自分のことを聞かせるつもりなど、まったくなかったのに――。
     ぼくの『エクスクルーシヴ』をそんなふうに言うからだ。
    「悪かった」
     男は謝ってくる。
    「大切なものだったんだな。妙に勘ぐって、悪かったよ。男に貢がせたか、ウリでもして買ったのかと思った」
    「ひど……!」
    「だから、悪かったって言ってるじゃないか」
     謝られても収まらない。そこまでハッキリ言わなくたっていいと思う。
     過去に、体と引き換えのようにモノを渡されたり、金を握らされたりした事実があるのが、余計に腹立たしかった。
     でも、ぼくが要求したんじゃない、勝手に押しつけてきたんだ!
     受け取ったのは、断ることすら面倒だったからにすぎない。十分すぎるほどの小遣いがあるのだから、どれもいらなかった。
     言い返すわけにもいかず、ジュンは黙ってベッドから降りようとする。さっさと帰るべきだった。今日も学校があるのだから。
    「おい、平気か?」
     しかし、降りようとしたのが落ちそうになって、肩をつかまれた。その勢いで、男はジュンを胸に引き寄せる。
    「な、なにすんだよ!」
    「そう怒るなって。もう少し休んだほうが、よさそうじゃないか。今日は土曜日なんだから、大学は休みだろ?」
     すっぽりと男の胸に包まれ、ジュンは身動きできない。今さら高校生だと明かす気にはなれないし、そうとなれば、私立高校だから今日も学校があるとは到底言えない。
     ……どっちにしたって、体がこんなんじゃ行けないか。
     しかし無断欠席はできない。こんなことで面倒になっては、あまりにも不本意だ。
    「腕、どかして」
     男に言ってみる。
    「なんで」
    「な、なんでって――」
     けろりとした声で返され、戸惑った。
    「色気がないな。ガキじゃ、しょうがないか」
    「――え?」
    「余韻を楽しむ余裕もないのかって、言ってんだよ」
     余韻を楽しむって……オヤジかよ!
    「ぼくは、ケータイを取りたいだけだ」
     ムッとした声で、すかさず返した。
    「どこにある?」
    「え?」
    「だから、どこにあるんだよ、ケータイ」
     どうして、そんなことを訊かれるのかわからない。ただ、答えた。
    「……ジーンズの、バックポケット――」
    「わかった」
     男は裸の上半身を起こし、ジュンを越えて長い腕を伸ばす。近くの椅子にあったジュンのジーンズを引き寄せ、ケータイを取り出す。
    「ほら」
     気安く手渡され、ジュンは面食らう。だが、すぐに男に背を向けてケータイを開いた。
     メールを打つ。送信先はカツミだ。風邪で欠席と担任に伝えてくれ――。
    「誰にメールだ?」
     肩越しに覗き込まれてギクッとした。
    「俺とベッドにいるのに、見上げた根性だな」
    「――相手が親でも?」
     パタッとフラップを閉じ、言ってから親にもメールしたほうがよかったかと思いかけ、やはりその必要はないだろうと思い直す。
    「大学生になっても無断外泊禁止、って? 大したお坊ちゃんだ。中学の入学祝が『エクスクルーシヴ』じゃ、当然か」
     どうしてこうも、バカにするようなことを平然と言うのだろう。
     ジュンは、くるりと男に向き直った。
    「あなた、さっきから失礼だよ」
    「そうか?」
    「最初から、ぼくのこと甘く見てるでしょ」
     プッ、と男は小さく吹き出した。
    「ほら、それ!」
     ギッとにらんでも、男は笑いながら言う。
    「悪い」
    「悪いって言ったって、笑ってるじゃん!」
    「しょうがないじゃないか」
    「もっと、やさしくしたっていいだろ!」
     言って、慌てた。急いで寝返りを打つ。男に背を向けて丸くなる。
     何を言ってるんだ、ぼくは――。
     悔しい。みんな、自分に跪けばいいと思っていた。みんな、自分を欲しがればいいと思っていた。
     これじゃ、ぼくが欲しがってるみたいだ。
    「おまえ、わかりやすいな」
     男の手が伸びてくる。背後から抱かれる。ジュンは、全身で男の体温を感じる。
    「つきあってるわけでもないのに、やさしくしろって――本当にガキだな」
     言いながら、男はジュンの腕を撫でる。
    「俺は、本気の相手にしかやさしくしない。遊びと本気は別物だ」
     やけに熱い声で、ジュンの耳元でささやく。
    「やさしくされたいか?」
     腕を撫でる手が止まった。ジュンは答えられない。
    「本気を知らないうちは、誰の恋人にもなれないぞ?」
    「こ、恋人だなんて!」
     言い捨てて、振り向いた。男と目が合う。男は、温かな微笑を浮かべている。
    「――貸せよ」
    「や、なにすんだよ!」
     ジュンの腕にあった手が、ケータイを奪った。取り戻そうとしても、男はもう、勝手に何かしている。
    「俺のアドレス入れんだよ」
    「なにそれ!」
    「そうしないと会えないだろ?」
    「はぁっ?」
    「次も、やさしくないかもしれないけどな」
     ニヤリと笑った。
     な……な、なに言ってんだよ、コイツ!
    「それなら、あなたのケータイ出してよ!」
    「ん?」
     にらみつけても、男は涼しい顔だ。
    「早く!」
    「……ガキは、しょうがねえなあ」
     笑いながら言う。再びジュンを越えて腕を伸ばすと、自分のケータイを取り出した。
    「ほら」
     ジュンは無言で受け取り、男のケータイを開く。カツミのものと同じ機種だ。手早く、このケータイの電話番号を表示させる。
    「おい、余計なことすんな」
    「ぼくのとは違うから」
     咄嗟に嘘が口をつく。
    「そういうことなら早く言え」
     肩越しに伸びてきた手が、メールアドレスの登録画面を表示させる。ジュンが登録する様子を男はじっと見ている。
    「おまえ、ジュン、っていうのか」
     耳元で言われてゾクッとした。名前を呼ばれただけなのに――。
    「俺はこれだ」
     ジュンの目の前で開いて見せた。
    「――ユースケ?」
    「そう」
     男はふたつのケータイをまとめて枕元に置いた。ジュンを抱き直す。厚みのある胸に、ジュンを背後からすっぽりと包む。
     ……え?
     ドクン、と高く、ジュンの鼓動は跳ねる。こんなことをされる理由がわからない。
     もう、帰るんじゃなかったの――?
    「……放して」
     か細い声で言ってしまった。だが男は、しっかりとジュンを抱きしめてくる。
    「俺はこのほうがよく眠れる」
     息が、一瞬、止まったかと思った。
    「おまえも、もう少し眠ったほうがいい」
     ……な、に、言って――。
     思っても声にならなかった。男の息づかいを頬に感じる。穏やかで、温かい――。
     ジュンは目を閉じる。仕方ないからだ。
     ふと、こんなふうに誰かに抱かれて眠るのは初めてと、気づいた。

    つづく


    ◆NEXT   ◆BACK   ◆作品一覧に戻る

    素材:若奥様工房