Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    プライスレス
    −7−



     八

     メールを出しても返事はない。ケータイに電話をかけても出ない。
     拒否られてる……?
     考えるまでもないのだろう。ユースケは、本当に終わりだと、きっぱり言ったのだから。
     がらんとした家にひとりの週末――いつもと変わらない。母親は買い付けだと言って、先日からロンドンに行っている。父親は仕事なのか接待なのか、昨夜は深夜に帰宅したのに今朝は早くに出かけていった。
     どうでもよかった――そんなことは。中学の頃からそうなのだから、とっくに慣れた。
     思うのは、ただひとつ――本当に、ユースケとは終わってしまったのか――。
     ……嫌だ。
     ほかに何も思い浮かばない。終わってしまうのは嫌だと、それだけだ。どうすればいいかなんてわからない。本当に終わりだと、ユースケが、言うのだから。
     ユースケ……。
     ベッドから抜け出せない。体を丸め、自分を抱くようにして、じっと耐える。
     昨日の夜が最後だったなんて――最後に、あんなキスをするなんて――。
     唇にそっと触れる。かすめるように指先でなぞる。ユースケとのキスの感触が、鮮やかによみがえる。
     欲しい、欲しいよ、ユースケ……。
     昨夜から泣き続けて、もう一滴も涙は出ないと思えるのに、それでも目は潤み、しずくが頬を伝う。
     会いに行こうか、会いたいのだから。ユースケのマンションまで。でも、拒絶されたらどうしたらいいのか――自分が何をしてしまうのか――考えると恐かった。
     これ以上嫌われては、たまらない。違う、ユースケは自分を嫌ったわけじゃない。最後のキスが伝えていた、ユースケは、まだ自分を好きなのだと――。
     言ってほしかったな……。
     たとえ一度だけでもよかった。何も言わなくても、ユースケの口からジュンが大好きだと聞かせてほしかった。
     ぼくは、あんなに言ったのに――。
     どうして聞かせてくれなかったのだろうと思う。聞かせてくれたのは――。
    『かわいいよ、ジュン』
    『ジュン、たまらない』
     ユースケの甘い声が脳裏に響く。こらえきれない。涙はとめどなくあふれ出る。声を上げて、ジュンは泣く。
     もっと欲しがってもらいたかった。欲しがられていると実感したかった。
     しょうがないじゃない、ぼくは、わからなかったんだから!
     そうだ……すべてキタムラのせいだ。ユースケと別れて、今は新しい恋人がいるのに、まだユースケの心にいる。
     きっと、それでユースケは言ってくれなかったのだ、ジュンが大好きだ――と。言えない後ろめたさがあったから――本当は、言いたかったに違いない。
     だって、ぼくは、あれだけ言ったんだから!
     ユースケの目のつくところに、いつまでもキタムラがいるのがいけない。キタムラに消えてもらおう――そうなればユースケを信じられる、そうなれば、ユースケは戻ってくる。


     月曜日の夕方、ジュンはユースケの勤務先の社屋前に立つ。キタムラの顔は覚えている。ガードレールに腰を下ろし、キタムラが出てくるのを待った。
     何時間待っても構わない。どうしても言ってやりたい。会社を辞めろと。
     三月に入って、日暮れは遅くなっていた。すっかり暗くなってもジュンはそこにいた。
     キタムラは現れた。ビルから出てきたのではなく、駅からの道をとぼとぼと歩いてきた。
     呼んで、ジュンは立ち上がる。キタムラは驚いてジュンを見る。
    「会社、辞めてよ」
     いきなり投げつけた。言いたいことは、それだけだ。
     しかし、キタムラは耳を貸さない。無視して会社に戻ろうとするのをジュンは引きとめる。押し問答になって、ジュンの本音が出た。
    「消えてもらいたいんだよ、ユースケの前から! そうじゃなくちゃ、ユースケ、あんたを忘れない!」
     愕然としたのはジュンだけではなく、キタムラもそうだった。キタムラに尋ねられるままに、ジュンはユースケとのすべてを話す。
     キタムラは言った。
     別れを告げられたのは、自分自身に問題があるのではないのか――。
     落ち着いたキタムラの声にジュンは涙をこらえきれない。ハンカチを差し出されて、思い知った。この男をユースケが忘れられないのは当然だ――こんな理不尽な会話の中でも相手を思いやれるほど、やさしい。
     あきらめるしかないのか。こんなことをしても何にもならない。こんな自分では、本当にユースケに嫌われてしまう――。
    「ジュン!」
     唐突に呼ばれて、驚いて顔を上げた。
    「何やってんだ、こんなところで!」
     目の前までやってきたユースケに怒鳴りつけられ、ジュンはヒクッと首をすくめる。
     ユースケに何も説明できない。声を出せないでいると、黙っていられなくなったようにキタムラが口を開いた。
     ふたりは口論のようになる。キタムラに辞職を迫ったことがユースケに知られてしまう。ユースケに呆れられてしまう。
    「ホント、不甲斐ないよ。こんなガキにワガママ言わせて、浮気されて、それなのに半年以上もずるずるつきあって――おまえと別れなければよかったって、何度思ったか」
     ユースケはキタムラに言った。それを聞いてジュンは凍りつく。しかしキタムラは、どういう意味だとユースケに詰め寄った。
     ユースケは決まりきったことのように言う。
    「おまえと別れてなかったら、俺はジュンとつきあってなかっただろ? そうしたら、こんなヤツに振り回されたりしなかったんだ」
     ジュンは呆然としかけたのに、キタムラはいきなり笑い出した。
     笑いながらユースケに言う。
     おまえもこの子にベタ惚れってことじゃないか――。
     ユースケは、それに照れたように叫んだ。
    「キタムラ! おい!」
     キタムラは笑っている。ユースケは複雑な表情になっている。ジュンは目を丸くして、ふたりを見ている。
     ……そうなの? 本当に?
    「ユースケ……」
     口をついた声は、甘えた響きだった。ためらう間もなく、ユースケにしがみつく。よかったな、とキタムラの声が背後から聞こえた。
    「ユースケ……ごめんなさい」
     言えるのはそれだけだ。また、ユースケを困らせた。もう、困らせるつもりなどなかったのに。
     ずっと胸にわだかまっていた思いをジュンは吐き出す。それをしなかったから、こんなことになったのだと、今ならわかる。
    「ユースケに欲しがってもらいたくて、わざと妬かせるようなことばかりした」
     そうだ――気持ちは、目に見えないから。
    「ぼく……ものすごく嫌なヤツだね」
     そんなことをしなくてもユースケの気持ちはわかっていたはずなのに。
    「信じるのが恐かった……」
     気持ちは目に見えないから――目に見えない物を信じて裏切られるのが恐かった。
     うるさいほどだった両親は、『エクスクルーシヴ』をジュンに渡して消えた。でも、『エクスクルーシヴ』は目に見えた、触れられた、肌で感じられた――。
     ユースケの腕が背に回ってくる。ぎゅっと強く抱きしめられる。
    「そんなこと、わかってた」
     ジュンの耳をくすぐる声が落ちてくる。
    「最初から、わかってた。おまえは、どうしようもなくガキなんだから」
     ユースケの頬が髪に押し当てられる。ユースケの吐息を耳元に感じる。
    「丸ごと、おまえを受け止めたいと思った」
     ユースケは息を詰め、深い吐息をついた。
    「本当の俺は……強引なんだ。キタムラと別れたのはそのせいだったから、次につきあうヤツとはそうなりたくなかった」
     ユースケはジュンの目を覗き込んでくる。
    「とことんかわいがって、甘やかしたかった。けど……どこかで間違ったんだな」
    「違う! ぼくが、ぼくが……」
     涙があふれ、声が続かない。ジュンは、ユースケの胸にすがる。
     そっと左手首を取られた。
    「まだ……『Gショック』か」
    「……あたりまえじゃん」
    「そうか――」
     フッとユースケは口元で笑う。コートのポケットからケータイを取り出す。開いて操作すると、表示画面をジュンに見せた。
    「強がって無視するのは、かなり大変だった。俺も、まだガキだ」
     拒否られてなかった――。
     うれしいような、恥ずかしいような気持ちになる。たったの二日間でこんなにもと、自分からの着信履歴を見てジュンは思う。
    「ジュン」
     甘い声で呼ばれた。胸がいっぱいになる。
    「かわいいよ、たまらない――」
     ゆっくりとユースケの唇が近づいてくる。触れる間際でささやいた。
    「好きだ……ジュン」
     じわっと目が潤む。触れそうな唇を引いて、ジュンはつぶやく。
    「……ぼくで、いいの?」
    「バカだな」
     ぐいと頭を抱き寄せられた。唇が重なる。胸がときめく。あとはもう、ユースケの大きな体にすっぽりと包まれて、すべてを委ねた。


     感じる――ユースケの気持ちが感じられる。
    「……あ」
     ほんの少し触れられるだけで、体がピクッとした。温かく大きな手で、やさしく撫でられれば、熱く湿った吐息が唇からあふれた。
    「ん――」
     声を抑え切れない。声を上げるのが、こんなにも恥ずかしい。今までは、なんのためらいもなく、感じるままに、いくらでも出せたのに。
    「……はぁ……っ」
     ユースケの唇が滑り降りていく。たっぷりと耳の後ろを舐め回してから、首筋を伝って、鎖骨のくぼみへと、胸の――いちばん感じるところへと。
    「ん!」
     腰が跳ねる、無理にでも声を抑える。顔を背け、体をくねらせ、ユースケの頭を抱え込む。指を潜らせて、整えられていた髪を乱す。
    「ジュン……色っぽい」
     かすれた声が耳をくすぐる。全身が火照る。
    「好きだ――どうしようもないくらい」
    「は!」
     息が上がる、胸が苦しくなる――。
     大胆にも路上でキスを交わしたあと、ユースケの止めたタクシーに腰を抱かれて乗った。タクシーの中ではユースケの肩にずっともたれていて、ここに着くまでも、夢の中にいるようだった。
     ふたりで和み、穏やかな時を過ごした部屋――まるで狂騒のように激しく体を貪り合った部屋――ユースケの、部屋。
     薄明かりの中で抱かれているベッドは、ユースケの匂いがする。ここで、またこんなふうに、ひたすらにやさしく、大切に扱われて、熱く溶けていけるなんて――泣けてくる。
    「なんで……泣く?」
     耳元でユースケがささやく。ジュンは、軽く頭を振る。さまざまなことが思い出されて、胸がいっぱいで、何も話せない。
     ユースケは、ジュンの体中にキスの雨を降らせ続ける。体が火照るだけじゃない――胸の奥が、温かく満たされていくのをジュンは感じていた。
    「好き……」
     自然と、声になる。何度でも言いたい、聞いてほしい。言い尽くせないほどの気持ちを。
    「――ジュン」
    「あ」
     すっかり起ち上がっていたものを大きな手に包まれた。ゆっくりとした動きに過敏に反応してしまう。
    「……いや」
     そんなことは、してくれなくていい。自分よりも、ユースケによくなってもらいたい。
     肘をついて上体を起こし、ジュンはユースケの股間に顔を近づけていく。そうなる前に、肩をつかまれ、止められた。
    「……ダメだって。とっくにヤバイんだから」
     艶っぽい声がひっそりと言った。
     起き上がったユースケと、シーツの上に座り込んで抱き合う。全身を預け、胸と胸とをぴたりと合わせ、ジュンはユースケの鼓動を感じた。
     ユースケの肩に額をすり寄せる。湿った吐息と共にささやく。
    「……好きにして。ぼくはユースケのものだから――みんな、あげる」
     ユースケが息を飲むのを感じた。ぎゅっと強く抱きしめられる。
    「は……っ」
     快感の波が全身をさざめかせた。喉をそらせ、ジュンは喘ぐ。
    「もう……溶けちゃうよ……」
    「バカだな……」
     くすっと耳元で笑われた。ユースケの手が、背骨に沿って下りてくる。谷間に入った。
    「――ん」
    「……いいよ、もっと、溶けな」
    「ん!」
     じっくりと丁寧にほぐされた。じわじわとした動きに鋭い刺激はないけれど、それは、ジュンの深いところまでゆるませる。これでは、本当に溶けてしまいそうだ。みんな、流れ出てしまう。
     唇を唇で探られた。深く合わさってきて、熱い舌がジュンの口の中を荒らす。それにも応えられない――本当に、もう、溶けている。
     ユースケにすがるしか、できない。
     腰を持ち上げられ、体をつなげられる。また、じっくりとした動きで、ジュンはどうしようもない。
     でも、それでいい。ユースケに、みんな、あげたのだから――。
     熱のかたまりは、体の奥で、うねるようにして大きくなっていく。
    「は、は、あっ、んん、は……」
     自分のせわしない息づかいが、どこか遠くから聞こえるように感じられる。頬を撫でるユースケの吐息も熱く、せわしない。
     もう、声なんか、出ない。重なって聞こえる、湿った吐息に包まれているだけだ。
     熱くて、心地よくて、やがて全身が震えるほどになって――熱のかたまりを迸らせたのにも気づけなかった。
    「……好き」
     まぶたが落ちていく中、かすかな声でささやいたら、やさしいキスをもらえたのは覚えている。次にジュンが目を開いたときには、部屋の明かりがついていて、蒲団の中でユースケに抱かれていた。
    「……平気か?」
     耳元で聞こえたユースケの声に目を向ける。ニッコリと笑って応えた。チュッと軽く、額にキスをされる。満ち足りた気持ちが、あふれそうになった。
     ジュンは戸惑う。こんなときに打ち明けるのは、ずるいかと思う。でも、もう、話さなくてはならない。ユースケに、みんな、あげたのだから――本当の自分を知ってほしい。
    「ユースケ……」
     絞り出した声はかすれている。くじけそうな思いを奮い立てる。
    「お願いがあるんだけど……」
    「ん?」
     ほほ笑んで自分を見つめる目が、胸にしみる。この眼差しを何度、裏切ったことだろう。
    「……ごめん」
    「なに謝ってんだよ」
     ほがらかに言われて、いっそう胸が痛む。涙が滲みそうになる。
    「あの……」
    「なんだよ、言ってみろよ」
     ジュンに向き直って、ユースケは頬杖をつく。やわらかな笑顔で見つめてくる。
    「今度の日曜日――」
     言いかけて、すっと大きく息を吸い込んだ。細く吐き出して、ひっそりと言う。
    「……卒業式なんだ。来てくれないかな……って」
     間があいた。ジュンは目を伏せてしまう。
    「――え?」
     だが、きょとんとしたユースケの声を聞いても、思い切って続けた。
    「だから……伝統とかで……三月の第二日曜日が、ぼくの卒業式で――」
    「えええーっ!」
     ユースケは跳ね起きた。目を丸くして、ジュンを見下ろす。思わず、ジュンは枕に突っ伏してしまう。くぐもった声で続けた。
    「だから、ごめんなさい! ずっと、言わなくちゃならないって思ってたんだけど、もう、言えなくなっちゃって――」
    「なら、おまえいくつだよ!」
     呆れきった声が上から降ってくる。
    「十八! だけど高校生じゃ、あんな店とか入れないから、それでずっと十九って――」
    「通してきたってのか!」
    「本当に、ごめんなさい!」
     それからすぐには何も返ってこなくて、途方もなく長い時間が流れるようにジュンは感じた。だがユースケは、バタッと力が抜けたように倒れてくると、ジュンの横に仰向けになって、大きなため息をついた。
    「……ずっと黙ってて、ごめん――」
     どんなに怒っているかと思うと、ユースケに目を向けられない。顔をうずめている枕が湿っていく。
    「……ったく」
     つぶやきと同時に、大きな手がぽんと頭に落ちてきた。ぐりぐりと撫でられる。
    「ほかにまだ何かあるなんて言わないよな」
    「――ん」
    「ほら」
     抱き寄せられて、顔を上げさせられる。手のひらで涙を拭い去られる。
    「十八って聞かされたって信じらんねえよ。俺のジュンは本当にガキで、手がかかる」
     荒っぽく言われ、首がすくむ。困ったように笑われて、ジュンのほうが困ってしまう。
    「――で、何時なんだ?」
    「……え」
     驚いて目を合わせた。心からの笑顔で言われる。
    「行くよ。おまえの卒業式」
    「ユースケ……」
    「早く大人になれ。それまで、ゆっくり待ってやるから」
    「それって――」
     言いかけて、ハッと口をつぐんだ。
    「なんだ?」
     黙っていては気まずくなりそうで、言ってしまう。
    「矛盾してる。早く大人になれって言ったのに、ゆっくり待つって――」
    「バーカ」
     声を上げて笑い、ユースケはジュンを抱きしめる。
    「ヘンなとこばっか頭よくたってダメだぞ? おまえがどんなに早く大人になっても、俺はゆっくり待たなくちゃならないんだよ」
    「ひど」
     拗ねた声でつぶやいて、ユースケの胸にすり寄る。見上げたら、やさしいキスが落ちてきた。
     早く大人になろう……でも、それまでは、たっぷり甘えさせてくれる――。
    「――ユースケでよかった」
     うっとりと見つめ合い、ささやいた。自分の声を聞いてから、そのとおりだとジュンはしみじみ思う。
     初めて本気になれた相手が、ユースケでよかった――。
    「あ」
    「なんだよ、さっきから」
     ユースケをまっすぐに見つめ、思う。思ったことを言ってみる。
    「違った」
    「え?」
     ギョッとしたような顔になったユースケの首に腕を絡ませる。笑顔で頬を重ねる。
    「ユースケだから、ぼくは本気になれたんだ」
    「はあ?」
    「だから、ユースケが大好きってこと!」
     そう言って、もう一度キスをする。深く舌を差し入れて、絡める。また、体が熱くなる。
     きりがないから、もうおまえ帰れ、俺は明日も会社だ――と言われるまで、ずっとベッドでユースケに甘えた。
     追い出されるように玄関を出ても、互いに笑顔だったのがうれしかった。ドアが閉じる直前に頬にキスしたから、ユースケは顔をはさんだかもしれない。怒ったような声が聞こえても、湧き上がる笑みは止まらなかった。


     三月の第二日曜日――空は晴れて、どこかぼんやりと暖かいように見える。
     卒業式が終わって校門まで出てきても、ユースケはいなかった。晴れやかな雰囲気の中、ジュンは悲しくなる。
     だが、隣には父親がいた。来てくれるとは思っていなかった。中学の卒業式も、高校の入学式も、両親は来なかったから。
     母親はまだロンドンだ。父親も、このあと所用があると言う。校門を出たところで、ジュンは父親を見送った。遠ざかっていく背中が、以前よりも小さく見えた。
     そうなると、悲しさが増した。卒業生と親たちが、連れ立って次々と去っていく中、ジュンはひとり立ち尽くしていた。あたりを見回す。やはり、ユースケを見つけられない。
     約束してくれたのに来なかったのかと、肩を落として歩道を行く。ふと、足が止まった。
    「ジューン!」
     自分を呼ぶ声が聞こえる。あたりに目を走らせる。
    「ジューン!」
     また、聞こえた。振り向く。
    「ジュン!」
    「ユースケ!」
     横断歩道を渡って、ユースケが駆けてくる。ジュンも駆け出した。
    「ジュン!」
    「ユースケ!」
     歩道の片隅で抱きとめられた。思いっきり、ユースケの胸に頬をすり寄せる。
    「来てくれなかったのかと思った」
     安堵して、声になる。しかし、ムッとして、ユースケは答えた。
    「言われた時間に、ちゃんと来たんだぞ? けど、入れなかった」
    「え?」
    「俺は不審者扱いだ。向かいの喫茶店で時間つぶしてた」
    「……ごめん」
     よく考えもしないで、また先走ってしまった。ジュンは、ガックリとうなだれる。
    「でも、ま、よかったよ、会えて」
    「うん……ありがと」
     ぐりぐりと頭を撫でられる。
    「ほら、笑えよ。おまえの卒業式だったんだからさ」
    「――うん」
     ユースケを見上げる。青い空も目に映って、ユースケの笑顔が眩しく見える。
    「なにか、お祝いしなきゃな。何が欲しい?」
    「いいよ、そんなの。何もいらない」
     ユースケが来てくれただけで十分だ。モノなんて、もう、何もいらない。
    「じゃ、どこか行くか」
    「ユースケの部屋」
    「え?」
     焦ったように見つめられ、くすっと笑ってしまう。
    「欲しいもの、ひとつだけあった」
    「……おまえ」
     照れたように、ユースケがうろたえるのが楽しい。
    「ケーキ」
    「は?」
    「ずっと誰とも食べてないんだ。一緒にお祝いしてくれる人とケーキが食べたい」
    「ジュン――」
     ユースケの笑顔が少し淋しそうになる。ジュンは、いっそう明るく笑って言う。
    「さっきまで父が一緒だった」
    「ええ!」
     それには、ユースケは本当に焦ったようだ。ヤベエ、考えてなかった、と低くつぶやく。
    「用事があるって帰っちゃったから、大丈夫だよ。ユースケの部屋で、のんびりできる」
     明るく言ったのに、ユースケはため息を落とした。気にせずに、ユースケの腕を引っぱって、ジュンは歩き出す。
    「行こうよ、ケーキ買いに」
    「はいはい」
     呆れた声で返されて、もっとウキウキしてくる。天気はいいし、風は穏やかだ。
    「ケーキはユースケが買ってね。ランチは、ぼくが作るから」
    「え?」
     ユースケの足が止まった。ジュンも立ち止まり、向かい合って言う。
    「これでも、ぼく、料理はウマイんだよ。なんてったって、年季が入ってるから」
    「ジュン――」
    「なんで、そんな顔すんの? もっと知ってほしいんだ、もっとよく見てほしい。本当のぼくを」
     軽く目を見張って、ユースケはまじまじとジュンを見つめる。そして満面の笑みになる。
    「ありがとう、ユースケ」
     すっと一歩寄って、ジュンはユースケの手を取った。
    「今日、来てくれて本当にうれしい。会えて――ユースケもよかったね」
    「なに言い出すんだか――俺なんか、日曜なのにスーツ着せられたんだぞ? それをもう帰って脱ぐなんてさ――」
     ぶつぶつと照れくさそうに言うのを聞いて、くすっと笑う。伸び上がって耳元でささやく。
    「だって、今日が最後だよ? ぼくの制服――脱がせられるの」
    「バッ、な、なにをっ」
     さあっと、ユースケの頬が染まる。ジュンは笑顔で見上げる。
    「鼻血、出ちゃう?」
    「そんな、うれしそうに言うな!」
     口に手を持っていき、顔を真っ赤にしてユースケが見つめてくれるのが本当にうれしい。
    「ぼくのほうが鼻血出ちゃうかも――今日のユースケ……なんか、いつもよりカッコいい」
    「だから、からかうなっての!」
    「だって本当だもん。これが本当のぼくだよ」
    「いい気になってんじゃない!」
     笑い合って、ふたりで歩き出す。ジュンは、そっとユースケと指を絡める。
    「ユースケ、大好き」
     つぶやけば、照れくさそうな声が、すぐに返ってくる。
    「今日のおまえもかわいいよ――制服、似合ってる。マジ……見られてよかった」
     フッと顔がほころぶ。声が弾む。
    「ケーキ、何にしようかな」
    「ケーキより、おまえのほうが甘そうだな」
     とぼけた声を聞いて見上げた。ユースケの横顔は、吹き出しそうになるのをこらえている。だから言ってやった。
    「クサすぎ」
    「こいつ……」
     横目でにらんできても、ユースケは笑っている。胸が温かくなる。
    「そうだね――きっと、ケーキより甘く溶けちゃう」
    「泣かされたいのか?」
    「うん! 泣かせて、たくさん!」
    「バーカ」
     ユースケとは、こんなふうに言いたいことを言い合える。そうして笑顔でいられる。
     ホッとするんだ――。
     スーツ姿の広い肩に、そっと頬をすり寄せた。さりげなく腰に回ってきた手に押されて、ふたりで歩いていく。
    「今日は、本当に天気がいいよね」
    「卒業式には絶好だったな」
    「うん――」
     早く大人になるから。いつまでも、一緒に歩いていけるようになるから。
     大好きだよ、ユースケ――。
     目を向ければ、やわらかな眼差しが応えた。

    おわり


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    素材:若奥様工房




        ★この話は、『スノーホワイトの気持ちで』(BasiLノベルズ)のサイドストーリーでもあります。