六 「ジュン! いいかげんにしろ!」 ユースケが怒る。それが、うれしい。 もっと、ぼくを欲しがって。ぼくじゃないとダメなんだって、教えて。 男ばかりが集まる店に行きたいと言った。渋るユースケを連れて、無理にでも行った。ユースケに視線が集まる。ユースケはモテる。気分がいい。どう? カッコいいでしょ? でも、ぼくだけのものなんだよ? だから、ぼくも見てユースケ。ほら、ぼくもこんなにモテる。ほかの男の手が伸びてくる。ユースケは不機嫌そうな顔で見ている。なんで黙ってるの? いつまで黙ってるつもり? ぼく……キスされそうなんだけど。 「もう、カンベンしてくれ。あんなことして、何が楽しいんだ?」 「楽しいよ、すごく」 だって、ユースケが妬いてくれるんだもの。 「ユースケ、大好き!」 部屋に戻って、首に抱きつく。腕を絡めてキスをねだる。どんなに怒ってたって、ユースケはしてくれる。しょうがないよね、ぼくが欲しいんだから。 「は、んん……いい、ユースケ」 「……ジュン」 「こんなこと、ユースケだけだよ、ユースケじゃないと、ダメなんだ……ぼく」 「ジュン!」 「あ! ……いい……もっと!」 めちゃくちゃだとユースケは言う。こんなふうにしないと信じてもらえない自分が悲しいと言う。 なんで? ユースケだって、あんなに訊いたじゃない。俺が好きか、って。ぼくを抱きながら。 同じだよ。 だけど、ぼくは訊かない。訊かないよ。口は嘘をつくからね。感じられるものが真実。だから、もっと感じさせて。ぼくがどんなでも、ぼくが欲しいんだって――感じさせて。 そうしたら……許してあげる。キタムラのこと、まだ忘れてなくても。 「ジュン。おれは許さないからな」 いきなりカツミに言われた。 「セフレだなんて、嘘ついて」 渋谷でユースケといたときに、ばったり会って、ずいぶん日が経ってからだった。 みんな帰った、誰もいない教室――閉門の予鈴はまだだけど、もう暗くなっている。 「なあ、ジュン……わかるだろ?」 急にカツミは猫なで声になる。ぼくの頬に指先で触れる。 「男同士が本気でつきあうの、なんて言うか知ってるだろ?」 目を細くして、鋭い視線でぼくを見つめる。ゆっくりと、ぼくの頬を指先で撫で始める。でも、猫なで声は変わらない。 「同性愛って言うんだよ。禁忌じゃないか」 カツミは、ときどき、こんなことを言う。この学校に入るずっと前からクリスチャンだと言っていた。確かに礼拝はサボらない。 「禁忌は、犯しちゃいけないんだ」 ニンマリと、笑みさえ浮かべて見せる。 よく言うよ。クラブに入り浸って、女の子を喰い散らかしているのは誰だよ。 「ジュンのそういうとこ、好きだよ。頭いいくせに、ときどきバカなこと言う」 やめてほしい。ぼくは、学年十位を下らないんだよ? ――カツミだって、そうだけど。 「男と女はいいんだ。そういうふうに、できている。血がつながってさえいなければ、いくらでもヤっていい」 そんなこと、訊いてない。そんなの、ぼくには関係ない。 「だからね、ジュン。男と遊ぶのはいいけど、本気になっちゃいけないんだよ」 どういう理屈だよ。もう、聞きたくない。 ぼくの頬を撫でていた指が止まる。突然、カツミの声は低くなる。 「待てよ。自分だけシアワセそうにして、それでいいと思うのかよ」 硬く、冷たい響きになっていく。 「ジュンは小悪魔なんだから。シアワセになんか、なれるわけないだろ?」 ……どういう意味だよ、それ。 「頭いいくせに愚かで。幼くてインランで。アンバランスで――タイトロープの上を歩いているみたいで、ずっと、思ってた。そのうち、誰かに殺されるんじゃないか、って」 なに、言ってんの……カツミ? 「ダメだよ、おれをガッカリさせちゃ。ヘンな男につかまったら、ダメだ」 ヘンな男って……ユースケのこと? 「ジュンは小悪魔なんだから。小悪魔だけど、おれには天使なんだから。ずっと孤高の天使でいてくれなくちゃ――」 ……カツミ。何を――言ってる? 「誰にも捕まっちゃ、ダメだ」 わからないよ、カツミ。――恐いよ。 「おれがガッカリするよ? ――ジュンを嫌いになるから。シアワセになんか――なるな」 ぼくは逃げ出す。カツミから。 あんなカツミは知らない。あんな、カツミは――。 胸が苦しかった。走って息が乱れて、でも、それだけじゃなかった。 カツミの最後の声が、ずっと響いている。 『――ジュンを嫌いになるから』 どうして。なんで、ぼくを嫌いになる? ぼくのほうこそ、あんなカツミは嫌いだ。ぼくのことは、よくわかってるって、言ってたくせに――。 『シアワセになんか――なるな』 なんで、そんなこと、ぼくに言うんだよ! ――だけど、カツミ。 ぼくは、ちっともシアワセじゃない。楽しいけど苦しくて、引き裂かれるみたいだ。 ユースケを怒らせて、ふたりでめちゃくちゃになってヤって、そのときだけなんだから――ユースケがぼくを欲しがってる、って――感じられるのは……。 ねえ……そんなでも、シアワセって言うのかな。ユースケは、キタムラとも、こんなふうだったのかな……。 本気でつきあったのに、別れたんだって。とっくに終わっているんだって。 ズキン、と胸が痛んだ。 そうか……ユースケは、キタムラと別れたんだ。 カツミの声がエコーする。 『――ジュンを嫌いになるから』 そうだね――ぼくのこと嫌いになったら、ユースケは、ぼくとも別れるんだ。 七 すっかり冬になっていた。新しい年を迎え、一ヶ月経っても、何も変わらない。 「ジュン。これは、お願いなんだ。もう二度と、会社にまで来ないでくれ」 ユースケは肩を落として言う。コートも脱がずに、ベンチシートに座っている。 ふたりは、ユースケの働く会社近くのファミリーレストランにいる。テーブルをはさんで座るジュンは、ずっとうなだれている。 ファミレスのテーブルって、なんでこんなに広いんだろう……。 そんなことが頭に浮かんだ。目の前にいるのに、ユースケが遠い。 三学期も二月となれば、高校はもう、自由登校だ。付属の大学への進学は秋には決まっていて、時間はいくらでもあった。 会社にまで来たとユースケは言うけれど、実際には、社屋前の歩道にいただけだ。ビルから出てくる人をぼんやり眺めていた。夕方からそこにいて、キタムラってどの人だろうと、そのことだけを考えていた。 どうしても、自分の目で確かめてみたかった。どんな男なのか――外見は、外見から窺える内面は、そして――今はユースケと、どんなふうに親しいのか。 だから会わせてくれと何度も言ったのに、ユースケは会わせてくれないから。 どう紹介しろって言うんだ――ユースケは、その一点張りだ。そんなことは、どうでもよかった。キタムラの気持ちなんて、考えない。それよりも、自分の気持ちをもっとユースケに考えてほしかった。 不安でたまらない。ユースケはキタムラを忘れていない。先日、ついに言われてしまったのだ。 『おまえとつきあっていることを俺に後悔させないでくれ。おまえがそんなだと、キタムラと別れるんじゃなかったって――そんなことまで思ってしまうんだ』 ユースケの部屋にふたりきりのときだった。どうしてそんな会話になってしまったのか――ジュンは、ただ怯えるだけだった。 『……ぼくと……別れるの……?』 『そこまで言ってない』 震える声で言えば、強い口調でそう返された。戸惑うような目で見つめられて、苦しそうに言われた。 『別れるなら……とっくに別れていた』 不意に抱きしめられた。痛いほどで、息が苦しいほどで、でも、胸のほうが、もっと痛くて苦しくて――悲しかった。 ユースケと離れたくない。ユースケと会えなくなるなんて嫌だ。キタムラと別れなければよかったなんて――二度と言われたくない。 ぼくよりもキタムラのほうがいいなんて。 どんな男なのか――とっくに終わっていると口では言いながらも、本当には忘れていない男とは――余計に会ってみたくなった。 社屋前の歩道にいるところをビルから出てきたユースケに見つかった。きつく、その場で叱られた。ユースケがキタムラに会わせてくれないから、そこにいたのに。 とにかく落ち着いて話そうと言われ、このファミリーレストランに連れてこられた。 偶然、キタムラがいた。今つきあっている男と――。 「これでもう、気が済んだだろ? キタムラに会ったんだから。俺の言ったとおりだったじゃないか――あいつにはもう、新しい恋人がいるんだ」 今、ジュンの目の前でユースケは言う。その口調が、なんだか残念そうな響きに聞こえて、ジュンは苛立つ。 「もう新しい恋人がいるって、たった今、わかったんじゃない」 ついさっき、ユースケはキタムラに向かって言ったのだ。続いてるなんて意外だった――と。 「いるのは前から知ってたんだ。あいつら遠距離だし、続くとは思えなくて――」 ムッとした声でユースケは言った。 「なんで? イイ感じだったじゃん。カレシ、カッコいいし、キタムラは――」 言いかけて止まった。キタムラは、落ち着いた印象の、顔立ちのきれいな男だった。 ぼくと、ぜんぜん違うタイプだ……。 ショックだった。 「どっちにしたって、もう、俺とキタムラは、どうなるもんでもないんだ」 その言い方にカチンとする。 「残念だったね」 つい、言ってしまう。 「ジュン――」 ため息混じりの声が返ってきた。ため息をつきたいのは、ジュンのほうだ。 ユースケは、キタムラといた男をキタムラの新しい「恋人」と言った。 恋人……か。 「ねえ、ユースケ」 小声になって呼びかけた。 「なんだ」 また、ムッとした声で返された。 「……いい。なんでもない」 やっぱり訊けない。 それならぼくは、ユースケの「恋人」……? 「――帰るから」 「え?」 ユースケは伝票を持って立ち上がりかける。ジュンは慌てて、その手をつかんだ。 「待って。まだ……何も飲んでないよ」 どう引き止めればいいのかわからなかったにしても、あまりにも場違いなことを言ったとわかる。 「――いらない」 冷たく返されてしまった。手を払われる。 「何か飲みたければ、おまえは飲んでから帰ればいい」 ドリンクバーをオーダーしたきり、取りにも行っていなかった。 「なんかもう……疲れた」 言い残してユースケは行ってしまう。ジュンは――追えなかった。 自由登校になってから、学校へは行っていない。そうなる前から、カツミとは会わなくなっていた。 顔を合わせてはいた。同じクラスなのだから、避けようがない。 でも、あの日以来、カツミは怒っている。ジュンも怒っている。 今までは、ジュンが何をしようとカツミが干渉するようなことはなかった。その裏で、ジュンの行動を冷めた目で見ていたとは、ジュンは少しも思っていなかった。 思い出すと腹が立つ。 『――ずっと、思ってた。そのうち、誰かに殺されるんじゃないか、って』 カツミが怒っている理由は、ジュンにはわからない。勝手だとしか思えない。ユースケとどうだろうと、カツミには関係ないはずだ。 そうだよ。ユースケのことセフレだって言ったのは、カツミじゃないか。 言われたとき、どこか違うように感じた。でも、言われて、そうかもしれないと思った。 それで、ユースケと旅行で海に行ったあの日、あんなことになってしまったのだ。ユースケを怒らせて、淋しい夜を過ごして、ユースケの寝ぼけた声を――聞いた。 『ジュン。おれは許さないからな』 カツミはそう言ったけど、許さないのは自分だとジュンは思う。 『シアワセになんか――なるな』 もう、カツミなんていらない。一緒に遊ぶのも飽きた。一ヶ月もしないうちに卒業だ。 『ジュン。機嫌、直してくれよ。このまま卒業なんて、嫌だよ』 最初はメールが来た。何度か無視したら、ケータイに電話がかかってきた。 『お願いだよ、ジュン』 甘えた声でカツミは言う。 『おれが悪かった。なんかさ……淋しかったって言うか――ジュン、つきあい悪くなってただろ? ずっとクラブにも行ってないじゃん?』 そうまで言われると、気持ちが揺らいだ。つきあいでクラブに行くくらい、いいかな、と思う。ユースケとは、ずっとおかしな感じになっていて、気晴らしにはちょうどいいようにも思えた。 『今夜、行かないか? その前に、またおれのとこ寄ってさ――』 クラブで落ち合えばいいじゃないか、と返した。だが、カツミは食い下がってくる。 『あげたいものがあるんだ。お詫びって言うか――なんか、照れるな』 その声が、くすぐったく耳に響いた。拗ねた声で、それなら行くよ、とジュンは答える。 『サンキュ! 来るまで待ってるからな!』 そんなに喜ばれるとは思わなかった。悪い気はしない。 その日、金曜日の夜、ジュンはカツミのマンションに行く。オートロックのインターフォンに答えたカツミの声は、本当にうれしそうだった。面倒でも、来てよかったのかな、とジュンは思う。 「ずっと待ってたんだよ」 玄関のドアを開けて、カツミはジュンを招き入れる。肩を押して、奥まで連れて行く。 カツミのマンションは1Kの間取りだ。ひとりで住んでいる。通いの家政婦がいるので、不便はないと言っていた。 「ちょっと……カツミ!」 ベッドに知らない男が座っていた。二十歳そこそこで、派手な服装だ。ジュンを見て、ニヤリと笑う。 「どういうこと、これ!」 ほかに誰かがいるなんて、聞いていない。 「やだな、ジュン。言ったじゃん? あげたいものがあるって――」 「……え?」 言われた意味が飲み込めない。知らない男がジュンの背後まで歩み寄ってきている。 「この人さ……ジュンのこと話したら、ジュンのセフレになってもいいって言ってくれてさ。後腐れなく、遊びでつきあってくれるんだって」 「ちょ、なにすんだよ!」 いきなりベッドに押し倒された。男は、のしかかってくる。 「いい眺めだね、ジュン」 フローリングの床にしゃがんで、カツミは膝に頬杖をつく。ジュンと目を合わせてきた。 「本当なら、おれがしたほうがいいんだろうけど、おれ、女しかダメじゃん?」 「な、なに言ってんだよ、カツミ!」 「あー、ダメダメ。暴れたら、乱暴にしてもいいって、この人に言ってあるから」 「カツミ!」 肩を押さえつけられる。ベルトをはずされる。ジーンズを半分下ろされ、下着に手をかけられる。 「なんで!」 そう言うのが精一杯だった。混乱して、頭が働かない。どうして、カツミにこんな目に合わされるのか――。 「しょうがないじゃない、ジュン」 悲しそうな声でカツミは言う。 「おれの言うこと、少しも聞いてくれないんだから」 「な、なに、言って……!」 「ジュンは、誰のものにもなっちゃいけないんだよ」 「だから、それって、何!」 どうにか抵抗する。腰を引いて、男の手から逃れる。追われて、壁に腰を押しつける。それで、伸びてくる男の手を阻止する。 「ずっと、おれといてよ、ジュン。ジュンは、おれと同じだったんだから」 「だから、それって、なに!」 「ひどいな、ジュン……」 ちょっとだけ待って、とカツミは男に言う。ベッドに手をついて、ジュンの上に身を乗り出してくる。 「もう忘れた? て言うか、自分に都合の悪いことは、何も考えないんだよね、ジュンは」 冷たい微笑だった。悲しい目で、カツミはジュンを見据える。 「おれがここにひとりで住む理由、話したはずだけど」 言われても、凍りついてジュンは何も考えられない。 「このマンションは、ジュンのエクスクルーシヴと同じだな、って言ったじゃん」 しゃがんで、ベッドの上に腕を組んだ。そこに顎を乗せて、ジュンの目線と高さを合わせる。 「なのにジュンは、エクスクルーシヴなくしちゃってさ――Gショックなんか買って」 すっと目を細めた。ゾッとする声で言う。 「許さないよ。おれたちに、代わりなんてないんだから。ジュンだけ抜けるなんて、許さない」 立ち上がり、男に言う。 「ヤっちゃって」 離れて、向こうのソファに深々と座る。 「おれは気にしなくていいから。感じちゃったら、いくらでも泣いてよ!」 ククッと低く笑った。 「だな。どうせなら、楽しもうぜ?」 目の前の男に甘ったるく言われ、ジュンはハッとする。 ふ、ざ、けんな! 胸のうちで吐き捨てた。あとはもう、めちゃくちゃに暴れた。 カツミには誰かに殺されるかもなんて言われたけど、そうならなかっただけの理由は、ちゃんとある。 男を蹴り飛ばし、ベッドから飛び降りる。半端に下ろされたジーンズに足を取られた。そうしている間に、カツミに玄関へのルートをふさがれる。 カツミに捕まったら、男に渡される。男に捕まったら、ベッドに戻される。 落ちそうになるジーンズを引き上げ、ジュンはトイレに駆け込んだ。すぐにロックする。 「ジューン!」 カツミの声が聞こえる。 「そんなことしても無駄だ!」 言われなくてもわかる。ドアのほかに出口はない。 「お願いだ、ジュン。――手間取らせんな!」 叫んで、カツミはドアを蹴った。 「おれにドアを壊させんな!」 どうしよう……。 落ち着いて考えろと自分に言い聞かせても何も出てこない。 ユースケ……! 思い浮かぶのはそれだけだ。どうしようもなく、ジーンズのバックポケットを探る。ケータイは、まだそこにあった。 「……ユースケ!」 出てくれたとわかった瞬間に叫んだ。 「お願い、助けて!」 息もつかずに状況を説明する。必死になって、ただ繰り返す。 「だから、お願い、ぼくを助けて!」 『……それを、俺に言うのか』 淋しく響いた声に絶望した。ドアを叩くカツミの声を耳が拾う。 「どこに電話したって無駄だぞ! いいとこ和姦なんだから!」 『ジュン!』 ケータイから呼ばれてハッとする。 『――待ってろ』 そこで切れた。 それからの時間は、途方もなく長く感じられた。カツミは本当にドアを壊すんじゃないか、そうなる前にユースケは来てくれるのか、来てくれてもオートロックだからマンションにも入れないんじゃないか、そんな都合よく、出入りする人はいないんじゃないか――。 そんなことよりも、玄関のドアは開けられないんじゃないか。 それじゃ、ユースケが来てくれてもダメじゃん――。 いったい何が悪かったのだろう。どうして、カツミはこんなことをする気になったのだろう。考えてもわからない、わかりたくない。 そのとき、ドアの向こうで大きな音がした。激しく言い争う声が聞こえてくる。物が倒れる音、荒々しい足音、近づいてくる――。 「ジュン!」 「……ユースケ!」 聞き違いではない、ジュンはドアを開ける、伸びてきた手に腕をつかまれる、あとは、力強く引かれるままに走り続ける。 マンションの前に停めてあった車に駆け込んだ。ユースケは、すぐに発進させる。 しばらく息が静まらなかった。あの場から逃げ出せたと実感できるまで、時間がかかった。 「家、どこだ? ――送るから」 聞こえてきた声に、ジュンはそろそろとユースケに顔を向ける。硬い表情の横顔が目に入った。 「……靴がないんだし、電車は乗れないだろ」 「――うん」 思っていたのは別のことだった。ユースケに自宅を教えてなかったと――気づいて、後ろめたい気持ちになっていた。 そうだった……ユースケに隠していることは、まだ、ある。 ぼそっとした声で、自宅への道順を伝える。ユースケは、それでわかったようだった。 車の中は静寂に包まれた。互いに目を合わせようもなく、ただ、黙っていた。 自宅近くになってから、ジュンは口を開く。案内をする。自宅の門の前で停まっても、明かりのない自分の家が見えただけだった。 「……ごめんなさい」 降りられなくて、ジュンは言った。 「本当に、ごめんなさい」 重ねて言って、涙が滲む。こらえきれなくて、両手で顔をおおった。 ユースケのもらした深い吐息が耳に響いた。今、ここで、何を言われても仕方ないと思える。こうして助けに来てもらえたことさえ、奇跡のように思える。 ユースケは車のエンジンを止めた。しんと静かになった車内に、低い声が流れる。 「たぶん、次は、ないと思うから」 意味が飲み込めないまま、ジュンは聞く。 「加減したから折れちゃいないと思うけど――本当はマズいんだ、俺、空手やってたから」 それを聞いて、なおさら泣けた。ユースケは、ジュンの今後を心配してくれている。 「自分も悪かったって、思ってるならいい」 「……うん」 かすれた声でジュンは答えた。 「だけど――俺は、もう、疲れた」 ……え? 「これ……返すから」 腕に当たった物に目を向けた。 ぼくの、『エクスクルーシヴ』……。 「――なんで?」 思わず言っていた。ユースケの顔が滲んで見える。 「俺はもう、持っていられない」 「……それって」 「終わりにしたい。振り回されるのは、俺が耐えられない」 「……ユースケ」 「わかってるんだ……俺が不甲斐ないから、おまえを受け止めきれなかった」 「そ、そんな、こと……!」 「じゃなかったら、おまえは、あんなに遊んだり、浮気したり、しなかったはずだ!」 叫ぶように言われ、身がすくんだ。大きなため息を落とし、ユースケは静かに言う。 「けど――おまえは大丈夫だ。もう、本気を知っただろ?」 「ユースケ……」 ぼろぼろと涙がこぼれる。 「あとは、相手を信じるだけだ。おまえに信じてもらえなかったのは――俺のせいだ」 「違うよ、ユースケ!」 叫んで抱きついた。 「ほら、ちゃんと持て」 手に『エクスクルーシヴ』を握らされる。その手を大きな手が包んだ。 「大切なものは大切にしろ。絶対、放すな」 「嫌だ、ユースケ!」 いらなかった、『エクスクルーシヴ』なんて。放してしまいたいのに、ユースケが許してくれない。自由の利く片腕で、ユースケにすがりつく。 「お願い……終わりになんてしないで。もっと、ちゃんとするから。何でも言うこと聞くから」 「言うなよ、そんなこと……惨めになる」 「でも――あっ」 温かく、やわらかな唇に口をふさがれた。絡みつく舌のないキス――ジュンは胸を熱く焦がす。 今になって、やっとわかる。これは、気持ちを伝えるためだけのキス――あの夏の日の、海鳴りが耳によみがえる、なまこ壁に背を預け、海風に吹かれながら、初めてこのキスを受けた――。 ちっともセフレなんかじゃなかった――それなのに、あの日の夜、ぼくはユースケに何を言った? 「……これで本当に終わりだ」 離れていく唇が、そう言った。 「泣くな。もう――泣かさないから」 「……ユースケ」 「降りてくれ。――早く、降りろ!」 ビクッとジュンは震える。恐る恐るユースケを見る。 ユースケは硬い表情でキーを回した。エンジンがかかる。フロントガラスをにらんで言う。 「……降りてくれ。俺に、ドアを開けさせないでくれ」 「……うん」 これ以上、ユースケを困らせたくなかった。これ以上、嫌われるのでは――耐えられない。 ジュンはおとなしく車を降りる。遠ざかっていく赤いテールランプが、夜道にいつまでも見えるように思えた。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:若奥様工房