Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    サクラ紀行
    −1−



       一

       公園の小道は満開の桜のトンネルになって、行く先が薄桃色に染まって見える。眺める目を細め、しかし絢爛とはやはり違うなと須崎は思った。
       平日の昼間でも人出は多く、小道の外にはレジャーシートを広げて花見を楽しむ人々が見える。時折、笑いに湧く声が聞こえても、人声のさざめきは潮騒のようだ。須崎の耳に障るほどではない。
       ベンチが目に入り、おもむろに腰を下ろす。トレンチコートのポケットからタバコを取り出しかけ、やめた。背を丸めて桜を眺める。
       今年になって、何度目の満開を見ているのかを思う。数えればわかることでも、須崎はそうしたくない。頭をからっぽにして、咲き誇る桜をただ眺める。
       ザン、と風が吹き抜けた。どこからか人声が大きく上がる。須崎の前にも無数の花びらが雨のように落ちてくる。
       ……桜は儚いとか言われるけど、ほど遠いイメージだな。
       花は本来したたかだ。散り際でなければ嵐にも耐えるし、枝が折れても折れた枝で咲き続ける。桜にしても花期が短いだけで、ひとつの花を見れば、咲ききらずに散るようなことはないはずだ。
       須崎は口元を苦く歪める。この公園には、見ごろを過ぎかけて来たのを少し残念に思った。
       ひとしきり舞った花びらが、すっかり地面に落ちる頃には静けさが戻った。薄桃色のカーテンが消え、須崎はハッと目を見張る。
       また、アイツだ。
       今日も目立つ服装で、桜の幹に寄りかかって花を眺めている。かなり若く、少年と呼べなくもない男だ。片手には、あのくたびれたバッグをひとつ提げている。
       最初に気を引かれたのは宇都宮の祥雲寺でだった。その数日前に、小山の城山公園で見かけたように思えたのだ。それからは、矢板の御前原公園でも見たような気がするのだが、確かなのは昨日だった。
       『ベニシダレジゾウザクラ』は、この公園と同じ市内にあって、全国でも名木に数えられている。ひとつある桜なので、花見をするにも立ち止まって眺めるのがせいぜいで、昨日も人の数は思ったより少なかった。
       そんな場所では、男はなおさら目についた。須崎はまた見かけたことに驚いて、うっかり眺めてしまった。目が合って、男も驚いたような顔になったのが思い出される。
       今日も目にして、須崎は男が気になってくる。桜を見上げる横顔はなかなか整っていて、少年のようでもあるのに、服装が、なんともそぐわない。
       ブルゾンは作業着のようだし、ズボンは職人が穿くようなものだ。腿の部分がふくらんでいて、膝から下が細くなっている。しかも今日は紫色で、なおさら目につく。
       しかし髪は角刈りなどではなく、薄茶色で少年らしい平凡なスタイルだ。体つきも、ごついどころか、むしろほっそりと見える。
       背は須崎よりも低かった。それは昨日気づいていた。もっとも須崎は一八三センチあるので、自分よりも背の高い相手には、そうそう会わない。
       男を見つめて須崎は眉をひそめる。さまざまな土地の桜の名所で何度も見かけたのだから、暇を持て余した学生のように思えるのに、しかし服装がそれらしくない。
       アイツ……何なんだ?
       ふと、男が顔を向けた。ギョッとする須崎に目を止め、ニコッと笑いかけた。歩み寄ってくる。
       須崎は咄嗟に立ち去りたくなった。なのに、なぜか足が動かない。次に起こることが予測され、居心地が悪くなってくる。
      「また会ったな、オッサン!」
       案の定だ。気安く話しかけられて、途端に不愉快になる。
       俺に『オッサン』かよ――。
      「昨日の桜は八分咲きだったけど、ここのは満開でよかったよな」
       ムッとする須崎には少しも構わない様子で、男は話し続ける。
      「オッサンに会うの、何回目だ? 御前原公園、祥雲寺、城山公園……最初は大宮公園?」
       ――大宮公園?
       須崎は軽く目を見張る。最初は大宮公園だったなんて――まったく気づいていなかった。だがそれも当然だ。男に最初に気を止めたのは、宇都宮の祥雲寺でなのだから。
      「オレさー、桜追っかけて旅してんだけど、もしかしなくても、オッサンもそう?」
       須崎は唸ってしまう。事実そのとおりだが、そんなことで親近感を抱かれてはかなわない。しかしこれで、男を何度も見かけた理由が少しはわかった。
      「けど、なんでスーツにコートなわけ? そんなナリで花見する人いないから、どこでもすぐにわかっちゃったよ」
      「……え」
      「だろ?」
       やっと声を出した須崎に、男はニッコリと言う。
      「リーマン? てわけでもないよな? 四月に仕事休んで旅行なんて、フツー、できねえもんな?」
       密かに痛いところを突かれ、須崎は顔をしかめた。男をまじまじと見る。無視して立ち去ればいいように思えるのに、つい言い返してしまう。
      「――俺に何が言いたい」
      「えー? 何って……そうなら、エライ人なのかなあ、って。社長さんとか?」
      「きみには関係ないだろう」
       くるりと背を向けた。須崎は歩き出す。やっとそうできたことに、心のどこかでホッとする。
       誰にも関わりたくない。特にこんな、どこの馬の骨とも知れない相手など願い下げだ。
      「待てよ、オッサン!」
       しかし男は駆け寄ってきて、須崎と肩を並べる。
      「怒んなくたっていいじゃん。なんつーか、ずっとひとりだから誰かと話したくてさ……オッサンもそうなんじゃねえの?」
       ピタッと須崎は足を止めた。冷ややかな目を男に向ける。
      「余計なお世話だ。話し相手がいなくて淋しくなるくらいなら、ひとりで旅行しなければいいだろう?」
       男は、須崎を見る目を丸くする。
      「だいたい、俺をとやかく言う前に、きみはどうなんだ? その歳で桜前線を追って旅行なんて、大した身分じゃないか」
       皮肉たっぷりに言い、フンと鼻先で笑った。男が何も返せないでいるのが、いい気味だ。
      「学校はどうしたんだ? サボリか? 俺は、そんな不良とは話したくない」
       言って、ギクッとした。これでは、自分も話し相手を欲しがっていると言ったようなものだ――。
      「は? 学校?」
       いきなり男はプッと吹き出し、ケラケラと笑う。
      「違う違う。オレ、学生じゃないし。つか、学生に見えるって?」
       間が悪かった。男は職人のような服装なのだ。苦い顔で須崎は答える。
      「……二十歳くらいだろう? 学生じゃないならフリーターか?」
       本当は職人だとしても、まっとうに働いていたら、こんなにも長く仕事を休めるはずがない。
      「それもハズレ。オレ、トビだから。一応、社会人?」
      「……トビ」
      「学生に見えるなんて、初めて言われちゃったよ。タカシにメールしとこ」
       男はケータイを取り出した。面食らう須崎の前で、親指だけを使って素早くメールを打つ。
      「――速いな」
      「でしょ?」
       目も上げずに答えられて、須崎はうっかり感想をもらしたと気づいた。それにしても、本当に操作が速い。
      「速さが命、なんちゃって」
       よし、と男は送信ボタンを押す。
      「メールが?」
       つい問い返せば、男はケータイをしまいながら返してくる。
      「メールは違うでしょ」
      「え――?」
      「は?」
       顔を上げた男と目が合う。互いにきょとんとしてしまい、須崎から口を開いた。
      「いや……だから、『メールは速さが命』――か?」
      「だから違うって……何の話だ?」
      「きみが言ったんだろう?」
      「だっけ?」
       あ、と声を上げ、男はニヤッとする。
      「速さが命なのは『売り』と『買い』だって」
      「え」
       『売り』と『買い』って――。
       須崎はハッと息を飲む。
      「株のこと。雨とかだと仕事ないから、ちょっとね」
       男はブルゾンのポケットに両手を突っ込み、肩をすくめて見せた。
      「前は先輩とパチンコとか競輪とかやってたんだけど、ああいうのは、やっぱなんつーか……今って、ケータイで株できるし。で、速さが命なわけ」
       男は照れくさそうに笑うのだが、須崎は押し黙ってしまう。聞かされるまでもなく、そんなことは知っていた。むしろ、男よりも知っているはずだ。
       男が須崎に話したのは、いわゆる『携帯トレーディング』のことだ。そのシステムを持つ証券会社に口座を開き、携帯電話を使って株の売買をする。手軽でメリットが高いように思えるが当然デメリットもあり、そのへんを熟知していないと、かえって損になる。
       こいつ――個人トレーダーか……。
       苦い思いが込み上げてきた。忘れかけていたことを思い出しそうになってしまう。
      「……オッサン?」
       これ以上、関わりたくない。須崎は無言で男から離れる。
      「なんだよ、急に。待ってよ! オッサン!」
      「ついてくるな」
       そんなすげない言葉でも、返してしまったのがいけなかったのか。
       須崎は足早に公園を出て、完全に無視して歩道を行くのに、男はついてくる。しかし須崎に並ぶようなことはなく、少し離れて後ろを歩いてくるのが余計に苛立たしかった。
       ……犬か?
       本当に犬のようだ。うっかり餌を与えたばかりに懐かれて家までついてくる犬――。
       宿泊先のホテルに入っても、男はついてきていた。そうなっても須崎は無視を決め、まっすぐにフロントに向かいかけ――ふと、足を止めた。
       この調子で部屋までついてこられては、かなわない。ため息をひとつ落とし、男に振り向く。
      「きみ」
       呼ばれて男は顔を向けた。それまで、男は壁のポスターを眺めていたと知って、須崎は脱力しそうになった。
       声なんか、かけるんじゃなかった……。
       男にあとをつけられて、緊張していたのは須崎ばかりだったようだ。男は、のんびりと須崎に話しかけてくる。
      「なあ、オッサン。相談なんだけど」
       しかし声は、やけにしおらしくなっていた。
      「この『春満開さくら散策ツインルームプラン』ての……安くね?」
       壁のポスターを指して言う。
      「何が言いたいんだ」
      「だから……」
       言いかけて口を閉じた。須崎から目を逸らし、それから改めて向き直ると、かしこまった顔になる。
      「オレさー、あんま金ないわけ。昨日は駅前のビジネスホテルに泊まったんだけど、やっぱ、ツインにふたりで泊まるほうがシングルより安くてさ……」
      「それで?」
       須崎は次第にいじわるな気分になってくる。さんざん自分を「オッサン」呼ばわりして、なんだかんだと気安く話しかけてきていたのが、今はこのざまだ。
       本当に犬だな。
       もしも男に犬のような耳があるなら、くたっと折れていることだろう。尻尾があるなら、股に隠しているところだ。
       男は黙り込んで、須崎をじっと見ている。今にもクゥンと鼻を鳴らしそうだ。
       そんなことを思って見つめ返すからなのか、須崎は男の瞳が大きいと気づく。潤んだように黒々と光っていて、とても澄んで見える。
       まるっきり犬だな。
       主人に忠誠を尽くし、邪気のかけらもない犬――。
       迂闊にも須崎は思い出してしまった。
       ――サクラ。
       とてもかわいがっていたのに、呆気なく逝ってしまったチワワ――名前がいけなかったのか。
      「……俺はオッサンじゃない」
       自分の声を聞き、須崎は戸惑った。それなのに続けてしまう。
      「――須崎だ」
      「わかった! オレ、記憶力だけはいいから!」
       パッと明るい顔になって、男は弾むような声で答えた。
      「オレは、海老沢勝太」
      「えびさわ……かつた?」
       須崎は眉をひそめる。
      「みんなは、エビちゃんって呼んでる」
       頭痛がしそうだ――そう思うのに、もう、引っ込みがつかない。
      「サンキュ、須崎さん! ここだったら、きっと部屋からも桜が見えるよね!」
       そんなことは聞きたくない――それ以前に、昨夜の部屋からは公園の角さえ見えなかった。
       フロントに駆け出した後ろ姿を追う。やはり今は犬にしか見えない。
      「待て」
       思わず言っていた。言ってから、これで十分だと思った。
       おまえなんか、犬扱いだ。
      「申し訳ないが、部屋を変えたい――」
       海老沢よりも先にフロントマンに話しかけたのに、当の海老沢にさえぎられる。
      「あ! あれ見て! 『カップルプラン』のほうが安い! 角部屋だって!」
       もう、気のせいではない。須崎は本当に頭が痛くなってきた。目に映るフロントマンが、顔を曇らせている。
       そんなことでいいのか、フロントマンが!
       気まずさは無言の八つ当たりで紛らわせた。平静を努め、須崎は続ける。
      「――そのプランに変更したいのだが」
       果たして男同士でも『カップルプラン』が利用できるのか、そんなことは確かめる気にもならなかった。須崎の気持ちなどよそに、海老沢の思いどおりになる。
       昨日の一泊分の清算が済み、宿泊カードが新たにされる。須崎は、自分のあとに記入する海老沢を見ていた。ためらいなく走るペンは、虚偽など記していないと思わせる。
       『かつた』って――『勝太』って書くのか。
       ふと、そんなことが頭に浮かんだ。
      「うっわー。やった、この部屋サイコー」
       部屋に入ると同時に海老沢が叫んだ。その後ろで須崎も同じことを思う。最上階の角部屋は見晴らしがよく、一角を薄桃色に染める公園も見える。
      「マジ、サンキュ! 『亮平』!」
       海老沢は振り向き、輝く笑顔で言った。しかし須崎は唸り声を放つ。
      「俺は三十六だぞ! 二度と『亮平』言うな!」
      「えー……」
       やはり踏み間違えたのだ。海老沢にほだされるようにしてこうなってしまったが、この眺望に免じて不問にしようと思ったのに――海老沢は、怒鳴りつけられた今も、少しも動じていない。
       くっそー……何が『カップルプラン』だ!
       もう遅い。今日は、この部屋で海老沢と夜を明かさなくてはならない。


      「俺は少しも納得してないぞ」
      「なんでー」
       翌日の朝になって、ふたりは朝食のレストランで口論のようになる。
      『同じ部屋に泊まるだけだ』
       須崎はきっぱり海老沢に言い渡し、昨夜はそれで押し切った。食事のつかない宿泊プランを内心ありがたく思い、当然、夕食は別々に取った。大浴場に誘われても冷たく断るだけでなく、本当は入りたいのをあきらめて、部屋で入浴を済ませた。
       話しかけられれば素っ気なく返し、そのたびに海老沢に悲しそうな顔をされるのが苛立たしかった。これでは悪いことをしているような気分になってしまう――海老沢にそんなふうに思う義理など、どこにもないのに。
       ホテルの浴衣に着替えたら、早々にベッドに入った。海老沢に背を向けて固く目を閉じれば、部屋の明かりはすぐに落とされた。
       そうなっても、なかなか寝付けなかった。赤の他人と、しかも初対面の相手と同じ部屋に寝るのだ。泊まり込みの研修以来ではないか――そうなら十年ぶり以上になる。
       なんで、こんなことになったんだ……。
       カーテンの隙間に夜空を垣間見て、須崎は思った。春の夜空なのに、やけに冷え冷えと目に映る。
       あの冷たい日々が思い出された。ひとつのベッドに眠っても、互いに背を向け、おやすみの一言もなかった夜は、どのくらい続いただろう。耐えられなくなったのは、本当はどちらだったのか。寝室を分けてホッとしたのは、どちらのほうが強かったのか――犬の「サクラ」は、寝室を分けるための口実でしかありえなかったのか。
       気がふさがれるのは、旅愁からだと自分に言い聞かせた。海老沢など、いないと思えばいい。ぎゅっと目を閉じて夜空を遮断した。すると、安らかな寝息が耳に入ってきた。
       ……さっさと寝たか。いい気なもんだな。
       そう思っても、ゆるやかで規則正しい寝息は、須崎の耳に穏やかに響いた。ささくれだっていた気持ちをじんわりと溶かしていった。
       誘われて、あくびが出た。鼻の奥がツンとする。涙の滲んだ目尻をこすり、須崎は寝返りを打った。
       ナイトテーブルをはさんで並ぶベッドに、こんもりと丸いシルエットが見える。海老沢は目深まで上掛けを引き寄せ、ぐっすりと眠っていた。
       薄茶色の洗いざらしの髪が枕に乱れ、あらわになった額が、なぜか聡明に感じられた。薄闇に慣れ、須崎の目は長いまつげを捉えた。すっきりと通った鼻筋は、半分は隠れて見えなかった。
       海老沢の寝顔は、ひどく幼いように目に映った。いまだ母親にまつわりついても、少しもおかしくないほどに思えてきた。
       ……これじゃ、仕方ないか。
       須崎は、ふうっと大きく息を吐いた。こんな夜を過ごすことになった理由が、やっと得られたように思った。少なくとも、あの冷たい夜とは違う――海老沢は望んで、ここに眠っている――。
       温かく満たされるような気分になった。誰にも関わりたくなくて始まったはずの旅行なのに――思いかけても、深い眠りに引き込まれていった。
       しかし朝になって、宿泊費とは別に料金を払ってまで海老沢とホテルのレストランに入ったのは、早まったとしか須崎には思えない。
      「いい気になるな」
       小さく吐き捨てるように言って、しかし海老沢のペースは今に始まったわけではないと思い直す。
      「俺は少しも納得してないんだ。部屋に戻って荷物まとめたら、金を置いて、さっさと出て行け」
       冗談ではなかった。一晩だと思ったから渋々とでも応じられたのだ。それを今夜も繰り返されては、たまらない。
      「そんな、冷たく言わなくたっていいじゃん」
       海老沢は、隣の席から須崎を肩越しに見る。そもそも一緒に食事をするのに、どうして並んで座るのか、そこからして須崎は気に入らなかった。
      「オレだって、満開の『ベニシダレジゾウザクラ』見たいよ」
       拗ねたように顔を伏せ、海老沢は舌を噛みそうな桜の名称をするりと聞かせる。須崎は苛立ちが増すのを抑えられない。自分で撒いた種だ。
       食事を始めてしばらくは和やかでいられた。須崎の今後の予定を訊く海老沢はごく自然で、それで須崎は思うところを話して聞かせた。
      『まだ満開じゃなかったからな――ここにもう一泊して、明日、また見に行こうと思う』
       もう二度と来られないだろうから――それは口にしなかったが、返ってきた声に苦くなった。
      『オレもそうしようっと。今夜もよろしく、須崎さん』
       ニッコリと言われたのがきっかけで、今、こうなっている。
      「昨日……あんた、言ったじゃん」
       ぼそっとこぼし、海老沢は顔を上げた。須崎をじっと見つめてくる。
      「オレ……今になって、マジ淋しくなってる」
       また、あの顔だ。今にもクゥンと鼻を鳴らしそうな――。
      「――なら、帰ればいいだろう?」
       すげなく返しても海老沢は怯まない。
      「須崎さんは? 帰んないんでしょ? ――そんなの、ズルイ」
       どういう脈絡だと問いただしたくなる。押し黙れば、ふうっと海老沢はため息をついた。
      「なんかもう、みんなヤになっちゃってさ……何か変わるような気がしてたのに――」
       頬杖をつき、窓の外に目を向ける。そうしたところで、ロビー脇のレストランからは車の行き交う大通りしか見えない。
      「あんたの言うとおりだよ……話し相手がいなくて淋しくなるくらいなら、ひとりで旅行なんかしなければよかった」
       目を伏せて、フォークを握り直した。
      「桜って……あんなに淋しいなんて――知らなかった」
       須崎はそっと海老沢の横顔をうかがう。長いまつげに目が止まった。
      「――株なんか、やってるからだ」
      「え?」
       海老沢が顔を向けてくる。須崎は逸らし、食事に戻って、苦々しく言い捨てた。
      「違うか? 自分では何もしないで、体も動かさずにキーを叩くだけで、金を転がして稼いで――虚しくならずに、いられるか」
      「そんなの、わかってる」
       海老沢の声に、フォークが止まった。口に運びかけていたのを皿に戻す。ゆっくりと顔を向け、まじまじと海老沢を見る。
      「あんなの、あぶく銭だ。パチンコや競輪と同じだ」
      「なら、なんでやってる」
       須崎は厳しくなるのを止められない。海老沢もきっぱりと返してくる。
      「オレはトビしかできないから」
      「つながらないぞ?」
      「カラダひとつなんだよ。資格とっても、親方になれても、いつまで続けられるかわからない。その前に仕事取れなくなったら、そこで終わりだ」
       ふと目を逸らし、小声になる。
      「不安なんだよ……しょうがねえじゃん、ほかでも稼ぐしか――」
      「だからって、株か?」
      「どこでもできるし……株なんて、ゲームみたいなもんだし。競輪なんかより、ずっと簡単で、ちゃんと稼げる」
      「……言ってくれるな」
       須崎は苦笑をもらす。胸の奥が、すっと冷えるのを感じる。
      「おまえにとっちゃゲームでも、それが仕事で、それで生活してるヤツラもいるんだぞ」
      「そんなの、ソイツらの勝手だ」
      「あぶく銭で気ままな一人旅か? それで淋しくなって俺に一緒に泊まってくれなんて、笑えるな」
       フンと須崎は鼻を鳴らした。パンを口に放り込むと、まずそうにコーヒーで流す。
      「……バカにすんなよ」
      「何が」
       もう、海老沢が何を言っても聞く気などなかった。淡々と食事を続ける。
      「オレは、がんばって働いて休みもらって、カラダ使って稼いだ金で、旅行してんだ」
      「へえ?」
      「あんたと違って、金なんか、ぜんぜんないんだから」
      「株で稼いでるのに?」
      「だからそれは貯めてるって、今、言ったじゃん!」
      「そうだったな」
      「あんた、なんだよ! リーマンだからって、いばんなよ! 会社で働いてんのが、そんなにエライかよ!」
       須崎は黙ってフォークを置いた。周囲を見なくても視線を集めているのはわかっていたが、どうでもよかった。海老沢と目を合わせ、冷ややかに言い捨てる。
      「いつ、俺が会社員だと、おまえに言った?」
      「……え」
       海老沢は息を飲み、まじまじと見つめ返してきた。
      「――言った覚えはないが」
      「違うのか……?」
       探るような目になって、つぶやいた。構わずに須崎は席を立つ。
      「じゃ、あんた――何なんだよ?」
       答えなかった。テーブルを離れ、その足で部屋に戻った。

      つづく


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