資料館は狭く、嫌になるくらい静かだ。須崎は気のない目で展示物を眺め、のろのろと進んでいく。ところどころで立ち止まり、展示物の説明書きに目を走らせるのだが、少しも頭に入ってこない。 朝食を不快なうちに終え、部屋に戻ると手早く荷物をまとめた。海老沢の戻るのを待たずに、すぐに出た。 自分の宿泊代は、ナイトテーブルに置いてきた。誰であろうと嫌でも目に入るはずだ。海老沢は間違いなく気づいて、それを持ってチェックアウトを済ませるだろう。 気にかけるほどのことじゃない――。 なのに、不安が漂う。置いてきた金に、もしも海老沢が気づかなかったら――しかもチェックアウトをしないで、ホテルを出てしまったら――。 そんなことはありえないと思うのに、やはり気になる。宿泊カードの自分の記載に虚偽はない。宿泊費未払いで自宅に電話されては困るし、警察に通報でもされたら面倒だ。 誰にも関わりたくないのに――。 まったくだ。海老沢に関わったりしたから、こんな嫌な思いをする。よほど、海老沢が部屋に戻るまで待てばよかったか。 ――気にしすぎだ、ちゃんとチェックアウトしただろう。 疑っても、海老沢を信じる気持ちのほうが強いことに気づき、須崎は暗く笑った。成り行きで、同じ部屋に一晩泊まっただけの相手なのに――。 ツインルームに割り勘で一緒に泊まろうとほのめかされたときも、海老沢をまったく疑わなかったわけではない。朝になったら姿を消していて、自分の所持金もすべて消えているかもしれないと、少しは考えた。 万一そうなっても構わないように思えた理由は――考えたくない。本当は、わかっている。認めるのが嫌なだけだ。 『話し相手がいなくて淋しくなるくらいなら、ひとりで旅行しなければいいだろう?』 あれは海老沢に言ったのだが、自問したようなものだと今になって思う。 誰にも関わりたくなかったのに――。 昨日まで、誰とも関わらずに旅を続けてきた。人と話しても事務的な会話ばかりだった。感情は旅を始めたときの凍りついたままで、動くようなことは何もなく、満開の桜を淡々と追い続けてきたにすぎない。 『桜って……あんなに淋しいなんて――知らなかった』 海老沢は言った。それを耳にしたとき、思わず海老沢の表情をうかがってしまったのは、自分も同じ思いを抱いていたからだ。 桜は淋しい――。 満開ばかりを見続けてきて、最後に思うのはそれだった。 空に向かって大きく枝を広げ、満開に咲き誇る姿は、儚さとはほど遠い。絢爛と形容するにはむしろ野性的で、いっそ無垢とたとえるのが一番のように思える。 桜はそこにあって、季節を迎え、花を咲かせているだけだ。 そう思うと、どうにもならない断絶を感じてならなかった。花見に興じる人々など、桜にしてみれば、いてもいなくても同じだ。 それなのに、自分は桜を追って旅を続けている――満開に咲き誇る姿を目にするたびに、慰められるようでもあるに――これでは、永遠に叶わない恋でもしているような気分になる。 桜は淋しい。 海老沢がそう感じるのも自分と同じようになのか――どうでもよかった。自分と同じ思いを桜に抱いていると知らされて、ただ、驚かされた。 あんなガキのくせに。 須崎は肩を落としてため息をつく。興味もないのに資料館にいる自分に、嫌気がさしてきた。 喫煙コーナーのベンチに座り、自販機で買った缶コーヒーを開ける。タバコを取り出して火をつけると、ぼんやりと窓の外を見た。 空は薄曇りだ。春の天気は変わりやすく、実際、東京を出てから何度か雨に降られた。 今年最初に見た満開の桜が思い出される。 オフィスで私物を片づけて、最後に「社内限」と記されたマニュアルやテキストの束をデスクから取り上げたときだった。部長席の背後、大きな窓の外に、薄桃色の影が見えたのだ。あのときの空も薄曇りだった。 そこに桜の木があるなんて、丸一年、忘れていた。オフィスにいて窓の外を見るなど、ほとんどない日々を送ってきた。 デスクをはさんで部長と向かい合い、辞職の挨拶をしている最中も、心の目は窓の外の桜を見ていた。 定時に会社を出られたのは、あの日が初めてのようにさえ思える。まっすぐ銀行に行き、振り込まれていた金額の半分を別の口座に移すと、何も思い浮かばないうちに馴染みのない路線の列車に乗った。 タバコが煙って、須崎は目を細める。鍵のかかっていた喫煙コーナーの窓を少し開ける。ベンチに座り直して缶コーヒーを飲んだ。視線を落とすと、いまだスーツを着ている自分の姿が目に入る。 昨日、海老沢に笑われた。本当は、自分でもスーツ姿で花見はおかしいと思う。 今は、どこのホテルも備品が充実していて、会社帰りにふらりと泊まっても困りはしない。最初に降りた駅は大宮で、近くに見つけたビジネスホテルに泊まったが、そこでも困るようなことは何もなかった。 結局、今日まで同じ服装だ。さすがに着たきりではないが、靴下と肌着とYシャツ以外は何も買い求めていない。 自分でも、どうしてなのかわからない。スーツなんて、すぐにでも脱ぎ捨ててしまいたかったのに――。 アイツ……大宮公園でも俺を見たって、言ってたな――。 本当にそうなら、最初から一緒だったとなる。立ち寄った先はまったく同じではないだろうけど、同じ路線を使って、満開の桜を追って北に向かっているのは間違いないだろう。 ……なんだかなあ。 今、資料館にいて、喫煙コーナーでタバコをくゆらす自分が、やるせなくなる。満開の桜に囲まれていれば夢の世界にいるのも同じだが、こんな時間に、こんな場所にいると、自分の置かれた現実が、嫌でも迫ってくる。 桜を追っての旅と決めたのなら、今日も桜を見に行けばよかったのだ。 そろそろ正午だった。空腹を覚えるのも苛立たしい。須崎は荒っぽくタバコをもみ消すと、桜を見に行けなかった自分をあざ笑って、資料館を後にした。 「おい、いつからそこにいる」 海老沢は弾かれたように顔を上げ、目を丸くして須崎を見つめる。 「まさか、朝からだなんて言うんじゃないだろうな?」 須崎が鼻先で笑えば、顔をしかめて横に向けた。 ……マジかよ。 ロビーに一歩入ると同時に、須崎は海老沢を見つけたのだ。昼食を取るつもりで資料館を出たのが、歩いているうちにホテルに戻っていた。どうしてそうなってしまったのか――チェックアウトが気がかりだったのかどうなのか――自分でも、はっきりしない。 ただわけもなく、こうならなくても、また海老沢に会う予感があったように思う。だが、こうしてロビーの隅のソファに海老沢がいたのには、本当に驚かされた。 須崎は黙って海老沢を見下ろす。海老沢は顔を横に向けたまま、ピクリとも動かない。手にはケータイが開かれていて、今しがたまで何をしていたのかと思わされる。 「おまえ――」 須崎は硬い声で言い渡す。 「しばらく株はやめろ」 「……え」 小さな声と共に、海老沢の目が戻ってきた。きょとんと須崎を見つめる。 コイツ……本当に犬だ。 澄んで、大きな瞳――潤んだように黒々と光って見える。 朝からここにいるなんて。 まるっきり「忠犬」ではないか。いつ帰るとも知れない主人を待ち続ける――。 「……負けたよ」 つぶやいても海老沢はきょとんとしたままだ。須崎は肩を落として深い息を吐く。 「おまえの勝ちだ、名前どおりだな」 「え?」 「ただし、俺といるときは株はやめろ。それが条件だ」 海老沢は、すぐには何も返してこなかった。真剣な目になって須崎をじっと見つめ、唇を噛む。それから口を開いた。 「あんたが嫌がってるのは、わかってるけど――」 須崎をまっすぐに見つめたまま、言葉を選ぶようにして話す。 「オレ、そんな、株やってばっかじゃない。あんたがどう思ってるか知らないけど、オレ、売り買いで稼いでるわけじゃない。たまにはするけど……堅いところを買っておけば、配当金がいいだろ? そっちがメインで……売り買いで稼ぐんじゃケータイ離せないし、手数料だってバカ高いし――」 「貸してみろ」 「あ!」 須崎は海老沢の手からケータイを奪った。開かれていた画面を見る。 「おまえ……これ」 言いかけて、吹き出してしまった。くすくすと笑いながら海老沢を見れば、口を尖らせている。 「……だから、株ばっかじゃないって言ったのに」 恨めしそうな目を上目づかいに向けてくる。 「他人のメール、読むんじゃねえよ」 「これ、昨日の返事か? 『タカシ』――今ごろ送ってきたのか」 途端にしゅんとして、ポツリともらす。 「……怒った?」 「いや?」 「けど――」 「笑える。笑っただろう?」 「――うん」 海老沢が気まずそうに顔を伏せるのが、須崎は好ましい。いたずらを見つけられた犬のようだと思う。フッと笑い、メールを読み上げる。 「テメーが学生に見えるわけねえだろ。ソイツ、バカなんじゃね?」 「わ!」 慌ててケータイを取り戻そうとする海老沢をよけ、続きを読む。 「そんなの相手にすんな。ひとりなんだから気をつけろ」 「返せよ!」 「ほら」 ぽんと海老沢に渡してやり、須崎は薄く笑みを浮かべた。 「タカシ、いいヤツじゃないか」 しかし海老沢は何も言わない。ムッとした様子でケータイをズボンのポケットにしまう。 「タカシの忠告を聞くつもりはないのか?」 ハッと顔を上げた。すぐにコクリと頷いて見せる。 「なんでだろうな――」 つぶやいて、須崎は胸が温かくなってくるのを不思議に思った。笑ったのは久しぶりと気づいて、ふと、かすかな淋しさが胸を過ぎる。 「……いいのか? 俺で」 どうしてそんなことを口走ったのか、少しもわからない。どうして海老沢が力強く頷いて返すのか――わからない。 しかし、須崎は海老沢に向かって、笑顔を作って言う。 「メシ、まだだろう? 食いに行くか?」 パッと顔を明るくして、即座に海老沢は立ち上がった。須崎は驚きかけ、しかし、今度は心からの笑みが満面に広がるのを感じる。 「近くに温泉があったぞ? あれだ、健康ランドみたいなやつ」 「マジ?」 「メシのあと、寄ってみるか?」 「うん!」 チェックアウトはしていない――もう、訊かなくてもわかる。それを海老沢に咎めるどころか、むしろ安堵するような自分を須崎は認めるしかなかった。 コイツ――本当に、トビなんだな。 湯船の縁に腕を組み、そこに顎を乗せる海老沢の後ろ姿を須崎は眺める。ほっそりと見えた体は、服を脱げば、決してやせてはいなかった。 均整が取れていて、無駄な肉など少しも見当たらない。背中は引き締まり、しかも見るからにしなやかだ。肩や腕の肉づきは大したものだが、太いと感じるほどではない。 濡れた髪からしずくが滴り、海老沢の後ろ首を伝い落ちていく。肌に弾かれ、細かな水滴がいくつもできて、なめらかな肩で光って見える。 ……きれいだ。 胸にふと湧いて出た感想に、須崎は焦った。いくら海老沢が若く瑞々しく見えても、男に向ける感想ではない。 ――アスリートみたいだ。 自分に言い訳するように、内心で付け足した。 「やっぱ、温泉はいいよなあ」 独り言のように海老沢がもらした。ちゃぷりと湯を波立たせ、体を返す。胸を開いて両肘を背後の縁に乗せると、天井に向かって、ふうっと息を吐いた。 須崎は咄嗟に横を向く。のけぞった海老沢の首筋、鎖骨のあたり、ほどよく筋肉のついた胸――一瞬で目に焼きついてしまったのは――本当にアスリートのような体つきだからだ。誰だって賞賛したくなる。 平日の昼下がり、公共の温泉施設に客は少なかった。湯船は広く、向こうの隅に人影がいくつかあるだけだ。須崎は大きな窓に顔を向ける。見えるのは、目隠しの生垣だけだった。 「オレ、本当はこんなに長く旅行するつもりじゃなかったんだ。ちょうど仕事が終わって、次のが決まってなかったから、休みもらって出てきたんだけどさ――」 海老沢が唐突に話し出した。目を向けると、顔を横にして肩に顎を乗せている。 「なんつーか……旅行してるうちに先が見えちゃった、って言うか――桜追っかけるなんてもうできねえよな、とか思って――なら、どこまで行けるかやってみよう、ってなって」 須崎に向き直ると、眉を寄せて笑う。 「トビってさ。みんな、スゲェんだよ。マジ、職人っつーか……オレなんか、まだぜんぜんでさ――」 須崎はかすかに頷く。 「けど、カラダ命で、歳食ってもできるような仕事じゃなくて――って、朝、話したか」 口をつぐみ、海老沢は決まり悪そうに目を伏せた。ひっそりと言う。 「昨日、あそこに、またあんたがいて、なんかうれしかった。こんな旅行してんの、オレだけじゃないって――」 言いかけて、そろそろと目を戻してくる。 「なあ、須崎さん。あんた、なんでこんな旅行してんだ?」 急に問われて、須崎は返事に詰まる。訊かれたくなかった。今も、これからも――。 「……金と時間ができたからだ」 とりあえず、嘘ではない。ふうんと海老沢はつぶやいて、気のない顔になる。 「どこまで行くつもり?」 それも答えたくない問いだ。むしろ、答えられない問いだ。 「……やっぱ、最後は北海道だよな。けど、最後まで行っちゃうと、どうなるんだろうな」 ポツリと言って、海老沢は湯を見つめる。 「オレ――そういうの、恐くなってさ。なら、帰ればいいって思うんだけどさ。もっと北で、まだ桜は咲くわけで、それ思っちゃうと帰れなくて……これって、かなりヤバイよな」 海老沢の声が消え、沈黙が降りた。かすかに耳に届くのは、湯船に注ぎ落ちる湯の音だ。 「――仕事着なんかで、旅行してるからだ」 低く、須崎は声を出した。 「今朝、おまえ言ったじゃないか――何かが変わるような気がしてたんだろう?」 海老沢は、眉をひそめて須崎を見る。 「花見するのに仕事着なんか着るな。ほかに持ってないのか?」 「ないよ」 ぶすっと答えた。 「なら、買ってやる」 「え!」 「俺もスーツはやめだ。おまえもそうしろ」 「マジ? マジで言ってんの?」 「よく言うだろう? 『形から入れ』って」 「親方は、『訊くんじゃねえ、見て覚えろ』って言うけどな――」 「同じだ。トビだって、仕事着からじゃなかったか?」 「……まあな」 海老沢は、困った顔になって黙る。 「嫌なのか?」 「え?」 「俺が買うんじゃ」 素っ気なく須崎は言った。 「そうじゃなくて――」 つぶやいて、海老沢はうっすらと頬を染める。照れくさそうな声をもらす。 「誰かに服買ってもらうなんて……ずっとなかったから」 それに須崎が返せる言葉は、何もなかった。 「……とりあえず、形からだ」 「――うん」 「おまえと俺が今の服で、ふたりで花見していると、すごく変だろうしな」 「うん――」 頷いて、海老沢はプッと吹き出した。屈託のない笑顔を向けられ、須崎も笑う。しかし海老沢の笑顔は、須崎にはどことなく淋しそうに見えた。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:NeckDoll