Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    サクラ紀行
    −6−



       のどかに晴れている。春の空は、ぼんやりと明るい。
       いったいどのくらいこうしているのか、須崎はわかっていない。目についたベンチに腰を下ろしたら、そこから動けなくなっていた。
       何度も思い返している。今朝からのことを――何度も、繰り返し――そうして、その思いから抜け出せない。
       目覚めても海老沢は胸にいた。ぐっすりと眠る安らかな顔は、やはり、ひどく幼く見えた。
       幸福を噛み締めるより、胸が苦しくてならなかった。どうして――どうして、海老沢を抱いてしまったのか。こうなって――これから、どうなるというのか――。
       海老沢に蒲団を掛け直し、起こさないよう、そっと抜け出した。まだ早い時間だった。須崎は身支度を整えると、窓からの明かりを頼りに、古びた小さなテーブルに向かった。
       便箋を取り出す。昨日、市役所に向かう途中で目についた店で買っておいた。ペンを握ると、ため息が湧き上がった。由美子に宛てて、私物の処分の依頼を書き始める。捨てないでおいてほしいもの――「サクラ」の写真――たったの数行で、ペンが止まった。
       こんなことをしている自分が信じられない。こんなことをするくらいなら、どうして海老沢を抱いたのか。
       何もかも捨てる旅だった。捨てきれないものは、もう、なくなっていた。しかし海老沢に出会った――そして、抱いた。
      「うっ」
       須崎はうめき、便箋を破く。いたたまれなくなり、立ち上がったその足で、部屋を出た。
       海老沢は眠っていた――顔も見ずに出てきたけれど――海老沢は眠っていた、ぐっすりと、安らかに――満ち足りたように。
       宿を出れば、空はうららかに晴れていた。朝日に目を細め、迷いなく、ポストを探した。由美子に宛てた書簡は、封を残すだけだった。ポストの前で、書類が一通だけ入っているのを確かめると、その場で封をして投げ捨てるように投函した。
       それからの記憶は曖昧だ。この公園まで、どうやって来たのか――どうして、ここに来ようと思ったのか――わかっているけど、わかりたくない。
       須崎は肩を落とす。薄手のブルゾンのポケットで、またケータイが震えている。今朝から何度目だろう。切れるのをじっと待つ。
       大丈夫――困らせるようなことは何もない。
       宿の者は、朝早くの急な出立でも、嫌な顔を見せずに応じてくれた。連れはまだ眠っていると言っても、黙って頷いただけだ。宿泊費の支払いさえ済んでいれば、チェックアウトの時間まで、あとはどうでもよかったのだろう。
       また、ポケットでケータイが震えた。須崎は戸惑う。今までよりも、ずっと間隔が短い。怪訝に思え、のろのろと取り出した。開いて目を見張る。電話だ――由美子からだった。
      『あなた……』
       呼びかけておいて、由美子は沈黙した。須崎から話すことなど何もない。黙って待った。
      『メール……見たわ。いいの? 本当に――』
       由美子が何を言っているのか、わかって聞いていた。返せるのは、一言だけだ。
      「いいさ――」
      『でも……みんな捨てるなんて――』
      「いいんだ」
       ベンチに腰かけてすぐに送ったメールだ。何を書いたか、まだ鮮明に覚えている。
       離婚届書を郵送した、ほかに何も同封していない、マンションにあるものは捨ててくれ、何もかも、すべて――。
      『……どうするつもりなの』
       不安そうな女の声が耳に響いてくる。
      『会社、辞めたんでしょう? 私の口座に振り込んだの……退職金でしょう……?』
      「由美子」
      『その上、マンションは私に、って――あるものすべて捨てろ、って……それじゃ、あなた――』
      「由美子」
       強く、須崎は呼びかけた。
      『でも』
      「由美子、ありがとう。世話をかけて、すまない。だけど、もう他人だ」
      『――あなた』
      「俺のことは、もう何も考えなくていいんだ。きみはとっくに……」
       きみ自身が、ステイタスなのだから――。
       声が詰まる。思っても、口に出せない。
      『……わかったわ』
       遠く小さな声が聞こえた。
      『でも、これだけは言わせて――このあいだは、ひどいことを言ってごめんなさい。あなた、やさしすぎるのよ……わかっていたの。だから――ごめんなさい』
       須崎の胸は冷える。凍える声を出す。
      「――お別れだ、由美子。……さようなら」
      『あなた――』
       束の間、ケータイの向こうは静まった。改まった声が聞こえてくる。
      『さようなら。お願いだから、元気でいて』
       プツリと通話が切れた。須崎も切る。背を丸め、手の中のケータイを見つめた。
       ステイタス――か。
       口にできなかった言葉が浮かび、虚しくてたまらなくなった。ステイタスなど、他人から付与されるものだ――あるいは、単なる自己満足にすぎないか――。
       ……どっちにしたって、同じか。
       そんなものに、自分の存在価値を頼るなら。
      『あなたのような人と結婚できるなんて、夢みたいだわ』
       五年前、由美子にそう言われたとき、ときめいたのを須崎は思い出す。須崎も同じことを思っていた。美しく聡明な、きみのような女性と結婚できるのは幸福だ――。
       どうしようもないな……。
       ケータイの電源を切れないでいた自分を笑った。まさか、由美子から電話があるとは思いもしなかった。今朝から何度もかかってきていたのは、海老沢からだ。かかってきても出ないくせに、きっと、心のどこかでは待っていた。ポケットでケータイが震えるたびに、胸も震えていた。
       でも――これで、何もかも終わりだ。
       今一度、由美子と話せた。海老沢を残して宿を出たのは――間違いではない――はずだ。
       海老沢には帰る場所がある。海老沢の帰りを待つ人たちがいる。同じ未来は見られない。
       須崎は、ため息をつく。海老沢は、須崎の過去も今の状況も、何も知らないのだ。いきなり須崎に抱かれ、一言もなく宿に置き去りにされ、どうしてなのかを思っても――何もわからないだろう。
       アイツ……俺に何も訊かなかったな――。
       涙が滲む。昨夜の海老沢の声がよみがえる。
      『……あんたが――欲しいんだ』
      『こんなんで、あんたが、オレのもんになるなら!』
       ……バカだ。
       何もわかっちゃいないくせに。男の自分に抱かれてまで、自分を欲しがるなんて。何もない、自分を――。
       海老沢を思うと、やるせなくてたまらない。海老沢には帰る場所があるのだから、戻してやらなくてはいけないと思うのに――手放したくなくなる。愛しさがあふれ、自分だけのものでいてほしくなる。
       なんて、傲慢な……!
       須崎は立ち上がった。ベンチを離れた途端、足が速くなる。自分を偽れない。どうしたって、海老沢を失いたくない。
       あの黒く大きな瞳――吸い込まれそうなほど澄んだ瞳――なんの先入観も打算もなく、自分を見つめてきた。
       こんな俺が欲しいって言うなら――くれてやる!
       そばにいたい、放したくない、せめて見守り、愛し続けてみたい――たとえ、同じ未来を見られる日は、来ないのだとしても。
       俺は、とっくに、みんな失ったのだから……これから、何を失っても!
      「どこ行く気だよ、オッサン!」
       聞き慣れた声に止められた。須崎は驚いて目を向ける。
      「また、逃げんのかよ」
      「勝太……」
       海老沢は、そこにいた。
      「ふざけんじゃねえぞ! ケータイかけても無視するし! オレが、どんだけ探したか、わかれよ!」
       ベンチから少し離れた桜の下に立っていた。ゆっくりと歩み寄ってくる。
      「福島なんかでバックレんじゃねえっての。路線ふたつあって、山形行ったんだか、仙台行ったんだか、一瞬、考えちまったじゃねえか!」
      「どうして……ここに……」
      「ちょっと頭冷やせば、楽勝なんだよ。あんた、桜見る気なんて、もうないんだから。そしたら、ここしかねえじゃん。一昨日、オレと話しただろ? 『信夫山公園』の桜は終わりだって――どうよ、バッチリじゃん」
       須崎の目の前まで来て、いっそ誇らしげに笑う。
      「オレのスゴさに感心しろ」
       須崎は呆然としかけ、だが、かすれた声を絞り出した。
      「……とっくに――感心してる」
      「マジで言ってんだろうな? オレは犬じゃねえからな! ちょっとかわいがってポイだなんて、許さねえぞ! つか、犬だってんなら、最後まで責任もって面倒見ろよ!」
      「――勝太!」
       叫び、須崎は海老沢を抱きしめる。泣き出してしまいそうになるのを堪え、うめくように言う。
      「おまえは……おまえは、そういうヤツなんだよな――」
      「亮平……」
      「本当に、いいのか? 俺で――」
       海老沢の頭を抱え、髪に頬をすり寄せた。海老沢の匂いで胸をいっぱいにし、海老沢のぬくもりを全身で感じる。
      「俺には何もないんだぞ? 嫌気がさしたくらいで会社辞めて、愛想尽かされて離婚して、かわいがってた犬も死なせた、そんな……しょうもない、男だ――」
       自分で言って、情けなかった。本当に、自分には何もない、希望さえ――それなのに、海老沢が欲しくてたまらない。
      「――亮平」
       須崎の肩で、海老沢は深い吐息を落とした。
      「そんなの、オレにはどうでもいいんだよ。だって、あんたは……オレに、何も言わなかったじゃん」
      「勝太……?」
       須崎は、そっと海老沢をうかがう。静かな横顔が目に入る。
      「だからさ……あんたはオレに、こうする代わりに何かしろとか――そういうこと、言わなかったじゃん」
       海老沢は、伏せていた目を上げ、須崎に向けてくる。
      「あんたがオレに言ったのって、株やめろって、それだけだろ? それだって、どうってことないんだ。あんたがいてくれるなら、株なんて、意味ないし」
       あの瞳で須崎をじっと見つめる。黒く大きな、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳――。
      「オレ、あんたといるとホッとする。だから……株なんて、ぜんぜん意味ない」
      「勝太……」
      「それに、ほら」
       フッと顔をほころばせる。照れたように笑って見せる。
      「離婚してなかったら不倫になっちゃうし」
      「――勝太」
      「仕事してたらオレといられないし、それと、オレ、犬じゃないから言いたいこと言えるし、自分の面倒自分で見られるし、当分――死にそうにないし」
      「勝太!」
       たまらなかった。須崎は、いっそう強く海老沢を抱きしめる。絶対に放さない――心に強く誓う。
      「――おまえを迎えに行くところだった。待ってくれているとは思えなかったけど――俺は、おまえを置き去りにしたんだし――なのに……おまえから、来てくれた」
      「……亮平」
      「放さない。俺でいいなら、くれてやる」
      「亮平……オレ、最初から、あんたがいいって言ってた」
      「バカだよ、おまえ……俺なんかが、いいなんて――」
      「バカじゃないよ」
       顔を離し、海老沢は須崎を覗き見る。鼻先が触れるほどの距離で言う。
      「あんた――何もないって言うなら、オレのヒモになればいい」
      「……勝太」
      「あんたが一緒にいてくれるなら、トビだって何だって、オレ、張り切ってできちゃう。がんばって稼ぐから。だから――オレと帰ろう?」
       もう、須崎は堪えきれない。目を涙で潤ませ、震える声を出す。
      「……ものすごい、プロポーズだな」
      「え?」
      「違うか……? 身ひとつで嫁に来いって、言われたのと同じだ」
      「嫁って……あんたは嫁じゃないだろ――」
       頬を染めて顔を背けるのが愛しい。離れていく唇を追って、須崎は海老沢にキスをした。
      「……亮平」
      「おまえを愛したいよ、もっと――」
       海老沢の甘いささやきに、須崎も甘くささやいて返す。
      「これからいくらでも、もっと、ずっと、たくさん、おまえをかわいがりたい――」
      「それじゃ、夢みたいだ――」
      「夢じゃない――行こう」
       うっとりと言った海老沢の手を取って、須崎は歩き出す。
      「え? 行くって、どこへ?」
      「決まってるだろう? 俺は、おまえのヒモなんだから」
      「――亮平?」
      「夢じゃないって、教えてやる」
      「亮、平……」
      「いや……もっと夢心地にしてやる」
      「……オッサンだ」
       自分でも呆れている。照れくさくて、手を引く海老沢に振り向けもしなかった。呆れた声を出しても、海老沢がおとなしく従ってくるのが――たまらなく、うれしかった。


       俺と恋をしよう、勝太――。
       部屋に入るとすぐに海老沢を抱きしめ、須崎はささやいた。
       恋をしよう、俺と――。
       自分のささやきに自ら酔い、海老沢がどう返してくれたか――須崎は、聞き逃してしまったかもしれない。
       恋をしよう――そばにいてくれるだけでいい。愛しく思う気持ちを海老沢が受け取ってくれるなら、それだけで満たされる――。
      「かわいくて、たまらないよ――」
       海老沢をぎゅっと抱きしめ、須崎は吐息をもらす。
       日は高い。まだ昼だ。そんな時間に、海老沢を引き連れてラブホテルに入った。
       照れは確かにあった。自分に呆れていたし、こんな場所に男ふたりで入る後ろめたさもあった。しかし、いっそわかりやすいようにも思え、こうできた自分が、少しだけ頼もしいように感じられた。
       感情の昂ぶりに任せて突っ走るようなまねをするなんて――そんなことが自分にできるなんて――考えたこともない。
       これじゃ、俺のほうが夢心地だ……。
       海老沢は裸になって須崎の下にいる。昼でもラブホテルの部屋は真っ暗だ。枕もとのライトが灯っているだけで、ほのかな光に照らされ、海老沢はひどく悩ましく目に映る。
      「かわいいし……すごく、きれいだ」
       熱く湿った吐息と共に、須崎はささやき続ける。そうして、海老沢の素肌を指先で辿る。
       アスリートのように引き締まった体――瑞々しく、張りのある肌――濡れたように光って見える、黒く大きな瞳――そそられる。
      「オレ……なんか、ものすごくハズイんだけど……」
       頬を染めて海老沢が戸惑うのが、かわいい。須崎は笑ってキスをする。耳に、頬に、唇に――。
      「……ん」
       海老沢の腕が首に絡みついてきて、なめらかにこすれる感触にも、須崎はときめいた。欲しがられている実感――そんなことをひとつひとつ認めている余裕など、なくなる。
      「は、あ……亮平……」
       海老沢の胸を舐め回し、手のひらで素肌の感触を味わう。応えるように、海老沢が身じろぐのがうれしい。
       もっと感じてほしい。自分が、どれほど海老沢を求めているのか――海老沢から飛び込んできてくれたのを、どれだけうれしく思っているのか――。
       もっと、かわいがりたい。あられもない姿にして、海老沢を心まで裸にしてしまいたい。もっと生で、もっと純な、そんな自分たちになりたい――。
       そうだ……俺は、こんな恋がしたかった――。
       きっとそれは、海老沢も同じだから。
      「大切にする」
      「ん、は!」
       海老沢の昂ぶりを手にし、いっそう喘がせて須崎はささやく。
      「ずっと、大事にする」
      「あ、ダメ……」
       髪を振り乱し、海老沢は激しく悶える。
      「俺といてくれるだけでいい」
      「んん! も、オレ!」
      「もう、放さないから!」
      「あ、あ……!」
       達して、弱々しく波打つ体を見つめた。須崎は濡れた手を海老沢の後ろに回し、もうひとつの手で海老沢の湿った肌を撫で上げる。
       火照った頬を手のひらに包んだ。潤みきった目が、じっと自分を見上げている。頼りなく眉を寄せた顔は、本当にいじらしくて――胸がいっぱいになる。
      「……とても好きだ、口で言えないくらい」
       ささやいて唇を寄せた。開いて迎え入れる唇と深く合わせた。背中を這い上がってきた手に、艶めかしく髪を乱される。そうしている間に、海老沢の中を探った。
      「……ふ……ん」
       吐息がもれて、しずくがあふれる。
      「ん……ふ、あ」
       キスが解けても、須崎は唇を吸い上げ、顎に吸いつく。なだらかな首筋をねっとりと舌で辿っていく。
      「あ、ん……」
       海老沢のもらす声は、とても甘い。須崎も息が上がる。より熱心に、舌で桜色の粒をなぶる。
      「や、だ……」
       海老沢の悶えは止まらない。中を探る須崎の指は、もう奥まで届いている。
      「はぁっ!」
       小さく叫び、海老沢の体が跳ねた。
      「や、なん、で――」
       ガッと須崎の肩を掴んでくる。
      「やだっ、亮平、そこ……!」
       グッと海老沢のものが起ち上がった。腹に当たる硬い感触に、須崎は満たされる。
       腰が引けそうになる海老沢を押さえ込む。海老沢を喘がせるポイントをより強く刺激する。
      「やめ、や、め……て!」
      「――やめない」
      「や、だ……そんなん――」
       涙目で訴えられては、たまらない。限界だ。
      「……かわいい」
       つぶやいて須崎は指を引き抜く。海老沢をあやすように、額に軽くキスをする。代わりに、滾りきったもので海老沢を貫いた。
      「あ……」
       一声上げたきり、海老沢は息を飲んだ。目を大きく開き、涙をあふれさせて須崎を見る。
      「く、ぅ」
       須崎はうめく。海老沢の顔に、目が釘づけになる。崩れて、体を重ねた。しっとりと絡み合う感触に、熱い吐息をあふれさせた。
      「勝太……」
       抱きしめて、ささやく。
      「たまらないよ……勝太」
      「亮、平……」
      「好きだ、とても……好きで――たまらない」
      「オレ、も――」
       須崎の背中に絡んだ腕は、かすかに震えていた。律動が激しくなるにつれ、強くしがみついてきた。
      「あ、あ、亮、平……い、すご……は、あん!」
       海老沢は身をくねらせる。須崎の背中を熱っぽくまさぐる。喘ぎ、顎をのけぞらせ、唇を薄く開き、声にならない叫びを上げ続ける。
      「勝太……!」
       壮絶に、きれいだった。どんなに乱れても、きれいだ。
       須崎は、再び思い知る。
       海老沢は、強くしなやかで美しい。体だけでなく、心も――。
      「……オレ! も、ダメ!」
      「ん!」
       絶頂の波にふたりで飲まれた。快感の高みから、一息で崩れ落ちる。息の静まらない体を重ね、須崎は満ち足りた思いに酔う。
       頬を重ねてきて、海老沢は甘くつぶやいた。
      「なんかオレ……マジにダメみたい……あんたにされるの……本気で気持ちいい――オレ……とっくに、あんたに恋してる――」
       須崎は言葉もなく、今一度、ぎゅっと抱きしめた。
       ずっと、大切にする。海老沢を大切にできる自分になる――いつまでも共にいたいから――いつまでも海老沢を愛せる自分であるように――心から、願った。


       福島駅から東京へ向かう新幹線に乗ったのは、その日の夕刻だった。ふたり並んでシートに座り、須崎は暮れなずむ春の空を車窓から眺める。
       海老沢は眠っている。須崎の肩にもたれ、列車の心地よい振動に身を任せている。
      『――オレ、思ったんだけど』
       ほんの数時間前、ベッドで聞いた海老沢の声が思い出された。
      『あの公園で、あんたを見つけて――でも、なんか恐くて、声かけられなくて――オレ、置いてかれたくせに追っかけてきちゃったわけだし――ずっと、あんたを見てたんだ』
       うつ伏せになって枕に顎を乗せて、海老沢は遠くを見るような目で話していた。
      『あんたは誰かとケータイで話してて、ムカついて、やっぱ、なんかもうダメかなって思ってさ……公園、出ようとしたんだけど』
       よいしょ、と須崎に顔を向けてきて、やけに真剣な目になって続きを話した。
      『あそこの桜、もう終わってたじゃん? それ知ってて、あそこ行ったんだけどさ。あれ、って思ったんだ』
       ひっそりと息を継いで、須崎に問いかけるようになる。
      『桜って……なんか淋しくて、最後の桜が散るとこなんか見たくないって思ってたけど……桜って、花が終わる頃には葉っぱが出てるのな』
       目を合わせてきて、須崎を覗き込むようにした。
      『そんなの知ってたはずなのに、自分で気がついたら、感動っていうか、そんな気持ちになってさ……』
       急に困ったような顔になって、ぼそっとつぶやくように言った。
      『だから……うまく言えないけど、花が終わっても終わりじゃないっつーか、そういうことでさ。あんたも……そう思わね?』
       須崎は、すぐには何も返せなかった。衝撃に打たれたのも同じで、すっかり声を失ってしまっていた。
       自分もそう思うとだけでも、どうにか返せてよかったと振り返る。列車に揺られている今は、真っ青な夏の空に青葉を茂らせる桜を思い浮かべることさえできる。
       須崎は、肩で眠る海老沢に視線を流した。ありったけの思いを込め、胸のうちでささやく。
       おまえは……本当に、強くてきれいだよ――。
       温かな思いが広がった。満たされて、吐息が湧き上がる。海老沢との未来を思い描きたくなる。
       須崎は呆れ、幸福に酔いながらも、自分を笑った。
       本当は、まだ何もきちんと終わっていない。マンションの登記の書き換えは、由美子ひとりではできないはずだ。離婚の手続きにしても、自分がすべきだと思う。マンションにある自分の物の処分も――。
      『オレのヒモになればいい』
       だが、海老沢の一言を思い出し、あれは本当にものすごいプロポーズだと、須崎はうれしくなる。
       身ひとつで来いと言ってくれるなら、きれいな身になって行きたいと強く思った。それに――。
       いつまでもコイツに甘えるんじゃ、俺が情けない――。
       自分の住処を得て、職も得て、新しい生活をスタートさせて、そうして、自分が海老沢を迎えたい。
       俺だって、同じなんだよ――おまえがいてくれるなら、張り切って稼いでやる。
       それは、どんな未来なのか――思い描き、須崎はプッと吹き出した。
      「……ん、なに?」
       海老沢が寝ぼけた声を出す。
      「なんでもない、寝てろ」
      「ん――」
       こてんと肩にもたれる海老沢がかわいい。抱き寄せて、そっと額にキスをする。
       ありがとう……。
       あの日、海老沢が声をかけてくれなかったら――考えかけて、やめた。
       須崎は車窓の外を見る。夕暮れに染まり始めた広々とした景色に心が洗われる。今はこうして、海老沢とふたりで東京に向かっている――その先にあるものに思いを馳せ、いっそう胸が温かくなり、須崎は満ち足りた吐息をついた。

      了


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