毎年、どの学年にもひとりは、目を引いて離さない生徒がいる。それは絶対的な色気と言ってもいい。本人には自覚がないにしても、ともすれば惑わされそうになる。 教員のほとんどがそう感じていることは互いに暗黙のうちに知れていて、口にされることはまずなかったのに、昼休みの今、教員室にいながら近くからひそひそと聞こえてくる会話に、 「へえ。今年の一年はC組の藤原ね」 唐突に耳元で響いた声に振り向けば、西沢だった。おもしろがる顔で充流を見下ろしている。 「納得だな。男子なら誰だ?」 充流は苦笑するに留め、食べ終えた仕出し弁当の箱を持って立ち上がる。同じく弁当の箱を手にした西沢と連れ立って、出入り口の脇に置かれたケースに戻し、その足で生物科準備室に向かった。 四月も半ばを過ぎて、校舎は教室から響いてくる生徒たちの声でざわめいている。廊下の窓は開け放たれ、風が心地よく渡っていく。爽やかな季節を感じながら、同時に憂鬱な気分になって、充流は深い溜め息をこぼした。 「暗いな」 隣を行く西沢が笑い混じりに呟いた。 「暗くもなる。いきなり三年の担任になったのはともかく、あのクラスじゃ」 「穂高か」 充流は黙って頷き、西沢に目を向けた。 西沢は校内において充流の唯一の理解者と言える。教員室と英語科準備室が禁煙なのを理由に、昼食後はこうして生物科準備室まで喫煙しに来るが、それだけの仲ではなかった。 充流より頭半分は背が高く日頃からスーツを着用していて、すらりとした体格だ。髪は黒くありふれたスタイルだが、少し癖があって、甘い顔立ちによく似合っている。静かに目を合わせて穏やかに笑いかけてくる表情が、とても魅力的だ。 「綾瀬先生に言われるまでピンとこなかったけど、今ならわかるかな」 「穂高がいると、やりにくい?」 からかうように言って、くすっと笑った。充流は肩を落とし、あきらめた口調で返す。 「やりにくい。クラス委員にまでなってくれてさ。文系だから授業では見ないけど」 「まあ、しょうがないんじゃない? 三年は持ち上がりが基本なのに、去年の担任が転出しちゃったんじゃね。代わりには綾瀬先生が適任だったってことだろ?」 「三年の受け持ちなんて、選択の生物だけだと思ってたのに。生物部が廃部になって顧問しなくなった分、余裕だと思われたかな」 「それだけの理由で三年は任されないだろ」 「進路指導まであって、今年は大変だ」 ふたりは渡り廊下を過ぎて特別教室ばかりの校舎に入った。昼休みのざわめきから遠のき、静かだ。生物科準備室は生物室の隣にあって、一階の西の端にあたる。南に向いた窓の外には敷地を隔てるフェンスもなく、かろうじて人が通れるほどの余地を残すだけで、その向こうは崖のような斜面になっている。視界をさえぎるものは何もなく、街並みが遠く見晴らせる。 「気にしないことだな」 西沢はさっそく窓を開けて、タバコを取り出した。外を眺めるようにして火をつける。 この県立高校に生物科教諭は充流ひとりだから、事実上、この部屋は充流の好きに使えた。毎日のように西沢が訪れても、昼食後の喫煙という名目がある手前、他の教員に訝しがられるようなこともない。 「充流」 ふたりきりになると、西沢はそう呼ぶ。 「穂高は生徒だ」 何を言われたのか充流にはわかっていた。隅のテーブルでふたつのマグにインスタントコーヒーを作りながら、無言で頷いて返す。 「そうは言っても、俺のほうがよほど危ない橋渡ってるか」 充流から湯気の立つマグを受け取りながら、西沢はうっすらと笑った。 「穂高なんて、俺にはぜんぜん。おまえのほうが、ずっとそそられる」 そして口もつけずに窓際の棚にマグを置き、その手を充流に伸ばした。指先でそっと頬に触れ、軽く顎を上向かせる。充流の眼鏡をよけるようにして顔を傾けた。 充流は浅い吐息をこぼす。わずかにタバコの苦みを残すキス――罪を思い起こすには、充流にこれ以上のものはなかった。 三歳年上で、英語科の教諭としても中堅に入る西沢は、今年で三十歳になる。結婚して五年目のはずだ。子どもができないんだよ、とは、この関係が始まるときに聞かされた。 「ん――」 あえかな声を漏らし、充流はきゅっと片手を握る。窓の外に視線を流し、西沢にすがりそうになる衝動をこらえた。ここは校内だ。生徒も教員も、この時間には誰も来るはずのない校舎の端にいるとしても。 しかし、熱く濡れた舌に深く探られ、応えてしまう。絡ませ合う感触に、長いまつげが震える。窓からの風に細い髪を散らされることにさえ、胸がさざめいた。 「……そろそろ?」 官能的なキスを解き、西沢がささやく。 「できれば」 すっと目をそらし、キスの最中も手にあったマグを充流は口に運ぶ。 「やっと落ち着いてきたし」 新年度が始まってから、ずっと多忙だったことを指して言った。 「そうだな」 やはり手にあったままのタバコをくゆらせ、西沢が答える。 「今夜でもいいぞ? ――おまえが心配だ」 目を細め、艶っぽく充流を見つめてきた。 「生徒になんか、惑わされてるんじゃ――」 充流の背をゾクッとした感覚が駆け抜ける。西沢のこの眼差しに弱い。本気になれない相手と割り切れているつもりが、揺らぎそうになる。だから、仕方ないのだ。 充流はマグを置き、西沢にそっと身を寄せる。両手でスーツの前を開き、内ポケットから携帯灰皿を取り出してやる。そうしながらワイシャツの胸を指先でなぞった。 「充流……」 甘く呼ばれ、湿った吐息が溢れ出る。この胸に抱かれることを思うと、体が芯から疼く。 「わかった。今夜だ」 タバコを消して西沢が呟いた。だがここで抱擁はない。本当はキスも禁じていた。それがいつのまにかキスはするようになっていて、確かに危ない橋を渡っていると充流は思う。 自分はいい。だけど、西沢の生活も家庭も、決して壊さないでいたい。たまに渇きを潤してもらえるだけで十分だ。それ以上のことは何も望んでいない。理解して、受け入れてくれるだけで、たくさんだ。 これは恋ではないと、最初から互いにわかっていた。あえて名をつけるなら、癒し合う関係だ。 「……ありがとう」 口をついて、そんな言葉が出た。その途端、西沢の腕が背に回った。ぎゅっと片手で抱き寄せられる。 充流は息を呑み、大きく瞠った目で西沢を見上げてしまう。歪んだ顔が、苦しそうに横を向いた。 なんで――。 しかし、問いかける前に答えが返ってくる。 「なんでもない。あとでメールする」 西沢は腕を解き、マグを取り上げた。充流もコーヒーを飲む。ぬるくなった味わいは、どこか自分と西沢の関係のようだと思った。 「先生! やっぱ、ここにいた」 穂高――。 生物室の窓際の棚で並べてあったシャーレを片づける手を止め、充流は外に目を向ける。ゴールデンウィークを過ぎて空はまだ明るい。穂高は駆け寄ってくると、長身をかがめて窓から覗き込んできた。 「つか、毎日ここだもんな。生物部なくなったのによくやる、って言うか、白衣まで着ちゃって、それって授業の準備?」 「用なら、早く言え」 授業の準備をしていたわけではないので、つい語調が冷たくなった。 「わ、ひで。来週の球技大会なんだけど――」 もう、部活が終わる時間か。 ぼやいたものの、さっそく用件を話し出した穂高を見て思った。穂高はサッカー部員だ。ぺらっとしたTシャツの半袖から伸びた長い腕は日に焼けていて、窓枠を掴んで筋が浮き上がって見える。V字に開いた襟には鎖骨が覗き、充流の目は、ひどく男を感じさせる喉元に惹きつけられた。シャープな顎と、言葉をつむいでなめらかに動く唇、白い歯がこぼれる。そこにチラッと赤い舌先が垣間見え、鼓動が跳ねて視線をそらした。 「――ってさ。聞いてる? 先生」 「聞いてる。けど、種目ごとのチーム分けに担任の意見は必要ないんじゃないか?」 「そんな、言わないでよ。みんな、いまいちヤル気なくてさ。積極的に参加して勝ち気でいこうって、先生からも言ってよ」 「穂高――」 近すぎる距離で目を合わせることは避けたかった。だがそうはいかなくなって、充流は穂高と目を合わせる。トクンと鼓動が響いた。 「先生」 じっと、まっすぐに見つめてくる目。この一点の曇りもない深い色を映す瞳が、何より充流を魅了する。 「そんなに勝ちたいか」 喘ぎそうになって、そんな言葉で逃げた。 「あたりまえでしょ。今年が最後なんだし」 穂高の、この青さ。吐息が溢れそうになる。十八になる年になっても未だ初々しさを失わず、どれほどの魅力で他人を惹きつけているのか自分ではわかっていない。 穂高の汗の匂いが急に意識された。張りのあるみずみずしい頬に、額に落ちた前髪に、今にも触れてしまいそうな錯覚に陥る。 充流はフッと口元を緩め、肩を落とした。 「わかった」 一瞬で穂高の笑顔が弾けた。その眩しさに充流は耐えられない。さりげなく横を向く。 「部活、終わったんだろ? 汗かいたままでいると風邪ひくぞ」 視線だけ穂高に流して、呟くように言った。 「え! 俺、そんな匂う?」 窓から飛びのき、穂高は素早くTシャツの裾を引き上げて匂いを嗅いだ。見事に引き締まった腹筋と、形よいヘソが充流の目に飛び込む。また鼓動が跳ね上がった。 「いいから、さっさと帰れ」 「うん。じゃ、頼んだかんな、先生!」 捨てゼリフのような声を聞いて、ようやく充流はホッとする。穂高の後ろ姿を見送って、深い溜め息が流れ出た。 今のようなことは偶然のようでいて、そうではない。話しかけてくることはまれだが、穂高は一年のときから、この生物室前の狭い敷地を放課後の通り道にしていた。そんな生徒は穂高のほかにもいて、部室棟がこの校舎の東側に並んであることから、校庭での部活動の出入りに少しは近道かと思われる。 だがほとんどの生徒は、充流が毎日のように中にいることに気づくと通らなくなるものだった。実際に、去年の夏に三年が引退して生物部が事実上の廃部になってからは、通り抜ける生徒はめっきり減った。 なのに、――だよな。 物怖じしない性格なのか単にずうずうしいのか、生物部に友人がいたわけでもないのに、穂高はまったく悪びれもせず、ここを頻繁に通り抜けている。一年のときから、ずっとだ。それも、うっかり目でも合えばニコッと笑いかけてくるのだから、たまったものではない。 わかってないんだよな。わかるわけもないか、自分が教師キラーだなんて。 不思議なもので、抗いがたいまでの色気で教員を惹きつける生徒は、必ずしも生徒たちのあいだでモテているわけではない。穂高も例外ではなく、言うなれば、経験を積んだ大人にしか感知できないフェロモンを垂れ流しているようなものだ。 だとしても、穂高によろめきそうになる男の教師なんて、俺だけか。 そう思ったら笑えた。よろめくなんて不意に出てきた言葉だが、自分にはぴったりだと思う。 『綾瀬先生が担任だし、俺、やります!』 クラス委員に立候補したとき、穂高はそう言った。いつのまに、そんなふうに言えるほど懐いたかと焦った。穂高の担任になったのは今年が初めてだし、授業を受け持ったのも一年の必修科目の生物だけだ。そのときから穂高に危険な香りを感じていたから、努めて接点を持たないようにしてきた。 なのに、なんで――。 思い当たると言えば、穂高が生物室の前を通り道にしていることくらいだった。たったあれだけで。そう思った。思ったら、不覚にもときめいた。 おかしな期待を抱きそうになる自分をきつく戒めた。穂高は生徒なのだから卒業すればいなくなる。それまで、どうにかやり過ごせ。 「はあ……」 声になって漏れた溜め息を聞いて、充流は苦く笑う。棚の上に並んだシャーレを片づける手を再び動かし始める。 西沢に抱かれたいと思った。放課後のことやクラスの中でのことは、西沢は知らない。知る術がないのだから、自分が話さない限り知るわけがなかった。 穂高が近づいてきている。まったく考えもしなかったことだ。穂高から近づいてくるなんて。卒業まで自分は耐えられるだろうか。いつか誘惑してしまわないだろうか。西沢をそうしてしまったように。 ……これは、罰だ。 校内で、職場で、いけないとわかっていながら不倫を続ける自分は罪に塗られている。妻帯者で、男などまるで知らなかった西沢を救いにしているのだから。 『気がついてしまったら仕方ないんだ。視界が開けたように感じてしまったら』 この高校に着任したのは充流が先だった。西沢は二年前にやってきた。穂高が入学した年だ。充流は一目で西沢に気持ちが動いたが、結婚していると知って、すぐに忘れた。 始めの一年間は何事もなく過ぎた。気が合うとわかって他の教員より親しくなるにも、教科が違うから時間がかかった。 プライベートでもつきあうようになって、しばらくしてからだった。ふたりきりの酒の席で、充流には恋人がいないのかとか、そんなありがちな会話がきっかけだったはずだ。 『教師は出会いが少ないって、本当だな』 そんなことを西沢が言い出して、結婚相手は大学の同級生だったと打ち明けた。 『綾瀬先生ならモテるだろうに、もったいない。校内で女子にモテても、生徒じゃなあ』 苦笑を向けられ、哀れまれたように感じた。しかも見当違いとあって、投げやりに答えた。 『少しもモテませんよ。理系オタクの堅物で、インドア丸出しの色白の男なんて』 『それは違うだろ』 なのに、穏やかな笑顔で即座に否定された。 『物静かで、眼鏡の似合う知性派だ。背丈もあるし、細いけどやせすぎでもない。それに艶もあって、なんて言うか綾瀬先生は――』 間近から目を合わせてきて、そこでハッとしたように西沢は口をつぐんだ。充流としては、ほんの出来心だった。艶もあると言われたことに、応えてみただけだった。 『なんですか? 続き』 目を眇め、うっすらと笑って見せた。その表情が、西沢に何かしら作用すると意識して。 『いや。一言でなら、綺麗とでも――』 案の定、焦った様子で答えた西沢を笑ってしまいそうになった。綺麗だなんて、充流には耳にこびりついた賛辞だ。くっきりと黒い瞳が、細く跳ね上がった眉が、唇の形が、さらりとした髪が、綺麗だと言われた。 幾度となく、嫌になるほど。 『綺麗――? 男が言われて喜ぶ、褒め言葉じゃないですね』 『でも、そうとしか』 『そそられます?』 西沢は答えなかった。目を泳がせてそらし、かなりうろたえて見えた。 『抱いてみたいとか、思っちゃいます?』 しかし、言った途端に視線を戻してきた。ひどく驚いた顔で、大きく目を瞠って。 『冗談ですよ』 そのときは冗談で終わった。だがそれからは、性的な対象として西沢に意識されるようになったとわかった。 昼休みの生物科準備室で、何も確かめることのないまま、その場の雰囲気と流れで唇を重ねた。一年前のことだ。校庭では桜が満開だった。 『子どもができないんだよ。検査を受けたいと言われているけど逃げてるんだ』 初めて肌を合わせた、そのときに聞かされた。西沢がどうして自分を抱く気になったのか、わかったように思えた。でもすぐに、そんな言葉は忘れた。 癒し合う関係と言えば聞こえはいいけれど、実際には慰め合う関係だと充流は思う。 慰めてほしい。行きずりの男に抱かれるよりも、信頼のある西沢に抱かれるほうが断然いいに決まっている。西沢でいっぱいに満たされ、穂高など跡形もなく消してしまいたい。 充流は白衣のポケットからケータイを取り出す。西沢に宛ててメールを打ちながら指が震えるようだった。いつかは絶たなくてはならない関係だ。でも、これは罰だから。罪を重ねずにはいられないことが自分には罰に思えた。新たな罪を犯さないための、そして罪から逃れるために新たな罪を犯しそうな自分への、罰――。 つづく ◆NEXT ◆作品一覧に戻る |