「先生! ここ、ここ!」 五月の半ば、球技大会の当日は文字どおりの五月晴れになった。一般には体育祭にあたる学校行事で、種目ごとにクラス対抗のトーナメント戦が行われ、学年に関係なく優勝が決まる。そうは言っても、ほぼ例年、総合優勝を収めるのは三年のクラスで、しかし去年は誰もの予想を裏切って一年のクラスが勝ち取った。今回クラス委員の穂高が熱を上げたのは、そのせいではないかと充流は思う。 「ここ座って、先生」 昼休みになって教員室に戻ろうとしたら、穂高に止められた。クラス全員で集まって校庭で食べるから充流も混ざれと言ってきた。 ……そんなクラスじゃないだろ。 訝しく思いながらも教員室から仕出し弁当を持って戻ってみれば、本当にクラス全員がそろっていた。事前に申し合わせていたのか、色とりどりのレジャーシートを広げて、葉桜の茂る下に陣取っている。 「穂高、どんだけ綾セン好きなんだよ」 穂高に請われるまま仕方なく隣に腰を下ろしたら、反対隣の生徒がぼそっとこぼした。充流を越えて、穂高が言い返す。 「いいじゃん綾セン。テキトーなこと言って、ごまかさないところが好き」 本人を前に明け透けに話す態度に呆れた。周りの生徒たちも同じように感じたのか、妙に白けた空気が漂い、それを変えるのは自分の役目のような気がして、充流は口を開く。 「午後からは準々決勝だな。勝ち進んでいるのは、女子バレーと男子バスケとサッカーか」 「バスケ見にきてよ、先生。優勝するから」 部活動をしている種目には出られない規則もあって、穂高はバスケットボールのチームにエントリーしていた。 「バスケか。ルールが細かくて、見ていてもわからないんだよな」 適当なことを言ってごまかしている自分を意識して充流は苦笑した。午前中は、勝てそうにないと前評判だった女子のチームの試合を見て回った。だがそれは建前で、本音では穂高を目にしたくなかっただけだ。 今もあからさまに呼ばれたから穂高の隣に座っているが、できるなら、もっと端の方で陰のようにしていたかった。 「それなら、またバレー見に来てください」 離れたところから女子が声をかけてきた。 「昼休み、ずっと練習してきたんだから」 「先生が応援してくれたから勝ってるかも」 口々に言われ、充流は弁当の箱を開けながら黙って笑顔だけ返した。クラスのこの雰囲気は、クラス委員の穂高の尽力あってと認めるしかないだろう。個人的な事情を差し引けば、担任の立場から見て穂高は優秀な生徒だ。 「午後も思いきりやって、すっきり終わらせるんだな。俺も必ずどこかに応援に行くから。この調子で来週の中間考査も挑んでもらえるなら、俺としては申し分ないよ」 言い終える前に、えーっ、と声が上がった。あちこちから非難が飛んでくる。 「なんで今、テストの話?」 「信じらんない」 「ヤル気なくすだろー」 充流はニヤニヤと笑い、チラッと穂高に目を向けた。自分でも意地が悪いと思う。この状況を穂高がどう収拾するのか見てみたい。 「こんな綾センの、どこがいいんだよ穂高」 当然の問いかけだ。穂高に耳を傾ける。 「べつに悪くないじゃん。先生の本音だろ? もともと勉強に集中できるように中間の前に球技大会あるんだしさ」 「穂高、最悪ー」 「マジかよー」 優等生じみた返答にブーイングが起こった。だが、それで場が収まった。正論の通るクラスなんだなと、充流は改めて感心する羽目になった。若干の反省から、助け舟を出す。 「そういうわけだから今日は完全燃焼しろ。総合優勝できたら全員にアイス買って帰りのホームルームで祝ってやる」 「えっ」 充流がそんなことを言い出す担任とは誰も思ってなかったようだ。穂高を含め、一瞬で端までしんとなった。四十人からの視線をいっせいに浴びて面食らう充流をよそに、次の瞬間には明るい声が弾ける。 ……こいつら。 これが今どきの高校生かと疑いたくなるが、悪い気はしない。誰もが球技大会でハイになっているだけだ。そう思うことにして、食事に戻った。 「先生――」 顔を伏せて箸を進める充流の耳に、穂高の声がひっそりと響いてくる。 「俺、やっぱ本当に先生好きかも」 ビクッと肩が揺れそうになって、無理にもこらえた。 アイスごときで、おまえまで釣られるなよ。 言ってやりたかったが言えなかった。 それより、高校生が気安く好きとか言うな。 それも喉まで出かかったが、声にはならなかった。まったく別の意味で好きと言われたことくらいわかっているのに、なぜだか胸が締めつけられた。穂高の、外見とのギャップがありすぎる素直さが、嫌になるくらい幼くて青臭くて、それだけ純粋に思えて、自分の汚さばかりが胸に迫った。 いっそ、泣いてしまいたいほどだった。 校外では、どこで生徒に会うかわからない。そんな理由から、西沢との密会は最寄り駅近くで、ただし高校とは反対側にあるホテルでと決めていた。万一生徒に会ってしまっても、飲んだ帰りとか食事した帰りとか、いくらでも言い訳が立つ。それは教員が相手でも通じる。ホテルの部屋から出るところを見られたなら、そのときには相手にも後ろ暗いことがあるに違いなかった。 実際には、これまでの一年間、行きにも帰りにも、一度も生徒にも他の教員にも会っていない。周到に注意を払っていることもあるだろうが、駅の反対側というのは思った以上に死角だったようだ。 先に高校を出たほうが部屋を取り、メールで伝える。今日は西沢だった。アイスが功を奏したのか、充流のクラスは球技大会で総合優勝を収め、帰りのホームルームが長引いた。放課後の部活動はこの日からテスト前の停止期間に入り、教員には休息日も同然で、部活指導もなく試験準備を急ぐまでもなく、充流が出るときには生徒も教員もほとんどが帰ったあとだった。 「ん……」 ホテルの部屋に入ると、待ち構えていたかのように、すぐに眼鏡を奪われ西沢にキスされた。こんな日に誘ったのは充流だったから、少し戸惑った。だが、たちまちのうちに溶かされていく。 「は、あ」 声は惜しまない。初めてのときからそうしてきた。どれほど感じているか西沢に伝えたくて、充流はあえかな声を漏らし続ける。 西沢は唇を滑らせ、頬から顎をなぞって喉元に吸いつく。充流の上着を床に落とし、シャツを開いて、立って向かい合ったまま胸にじっとりと舌を這わせてくる。 どうして、と思った。いつもの西沢と違う。初めての頃はどうあれ、西沢の抱き方は成熟した男らしく、落ち着いて余裕のあるものだった。充流の後ろめたさを消し去るほど丁寧で、時間を忘れさせ、ふたり一緒に上り詰めていく手順だった。 裸にされてベッドに倒され、充流はうろたえてしまう。椅子に荒っぽく衣服を脱ぎ捨てる西沢など初めて見る。しかし飛びつくようにのしかかられ、一気に火がついた。 西沢の愛撫は、むしゃぶりつくようだった。息を整える間も与えられずに、充流は昂ぶるばかりだった。つながるために後ろを探ることさえもどかしそうで、その指の動きにひどく感じた。貫かれると同時に達してしまい、あとは絶頂に漂うだけだった。 「あ、あ、あ……っ」 最後は掠れた声しか出なかった。汗にまみれて崩れてきた西沢を受け止めても、充流は小刻みな震えが止まらない。西沢も息を上げていた。充流の胸に顔をうずめ、乱れた呼吸で充流の肌を熱く濡らす。 やがて少しは落ち着いた頃になって、充流は重い腕を上げて西沢の頭を抱いた。少し湿って、いっそうやわらかく感じる髪をゆっくりと梳き上げる。顔が見たかった。 「……本当は、今日はマズかった?」 声をひそめ、尋ねてみる。いつになく先を急ぐようだった理由が知りたかった。 「そんなことない」 熱い吐息と共に、くぐもった声が返された。 「なら、どうして」 西沢が目を向けてくる。充流の胸に顎を乗せて、間近から見つめてきた。 「そっちはどうしてなんだ?」 ギクッとして充流は眉をひそめる。問われた意味がわからずに、なのに、西沢に対して後ろめたい気分になった。 「どうして今日誘った?」 すっと息を呑み、西沢を見つめ返す。本当は目をそらしたかった。だがここでそうしたなら、西沢を踏みにじることになってしまう。 吐息をつき、西沢が先に目をそらした。充流の胸に頬を預け、部屋の片隅を見るようにして話す。 「今日、おまえのクラス盛り上がってたじゃないか。優勝もしたけど、昼にはテンション上がってたよな。クラス全員そろって校庭で弁当なんて、大したものだ。ほかにもたくさんいたけど、どこも少人数のグループだった」 そこまで言って視線を流してくる。口元で淡く笑うのが充流にもわかった。 「どうして今日、抱かれたくなった」 核心を衝かれ、息まで詰まりそうになる。充流は動揺を隠せない。 「穂高の横で弁当食べてたよな?」 束の間の沈黙が降りる。西沢は視線をそらし、それ以上もう何も言わないように見えた。 「……これで、わかっただろ」 しかし、ひっそりと低い声が流れてきた。 俺が、穂高に流れそうになったから――? 充流は鼓動が速くなる。それが、胸に頬を重ねる西沢に知られるのを阻めない。 『穂高は生徒だ』 いつかの西沢の声が脳裏に響いた。新年度が始まって間もない頃だったはずだ。 「わかっている」 それだけを喘いで言った。 「そうか」 暗い呟きが返ってきた。 「でも、半分だけだ」 ――え? その真意を確かめる前に西沢は起き上がった。背を見せてバスルームに向かう。 まさか……そんな。 言葉を濁した西沢の胸のうちを思い、充流はますます動揺する。穂高に嫉妬するような熱情に駆られて、あれほどにも激しく自分を抱いたのであれば――。 眩暈がした。枕に顔をうずめて、固く目を閉じる。買いかぶりすぎだ。生徒に過ちを犯さないよう、自分を引き止めてくれただけだ。 でも――。 西沢がバスルームを出た。身支度を整える衣擦れが聞こえる。先に出るよと、ぽつりと言われた。 ドアが閉まるかすかな音が耳に届き、充流は詰めていた息がやっと吐けた。別々に出るのはいつものことだ。一緒のほうが、まれだ。今も少しも気にならない。 ……潮時か。 気がかりは、それだった。思い返さずとも、肌を重ねる間隔が短くなっていることに気づいていた。西沢も同じはずだ。なのに、充流から西沢から、誘い続けてきた。 体だけの関係でも何かしらの情はある。慰め合ってきたのなら、なおさらだ。恋心ではないにしても抑えられなくなるほど募るなら、そのときこそ終わりと心に決めていた。 西沢を信頼している。彼の何も壊さないでいたい。その気持ちは確かだ。 ホテルを出て充流は駅へ向かう。体は未だ官能に漂い、しかし心は打ちひしがれるようだった。 駅前の狭いロータリーに辿り着き、ぼんやり歩いていた足が止まった。すぐそこのビルから、飽きるほど見慣れた制服姿が出てきた。その横顔に目が釘づけになって、全身から血が引くように感じる。穂高だ。こちらに気づいたふうでもないのに顔を向けてきて、視線が合った瞬間、パッと笑顔を弾けさせた。 駆け寄ってくる。充流は足が動かない。 「先生、どうしたの、こんなとこで」 固まったまま穂高の声を聞いた。 「先生?」 明るい笑顔で返事を待たれ、なんとしても答えなくてはならなかった。 「おまえこそ、どうした。こんな時間に」 どうにか声が出たことで平静を取り戻した。息をつき、改めて穂高と目を合わせる。 「まさか球技大会の打ち上げとか、やってたんじゃないだろうな」 「なにそれ、ひど」 苦笑して、穂高は慌てて言い返してくる。 「俺しかいないじゃん。つか、今日もマジメに塾行ってきたんだから褒めてよ」 「塾か」 呟いて、ふと気になった。 「いつから行ってるんだ?」 これまで会わなかったのは単なる幸運か。 「今月から。部活ばっかやって家で勉強しないなら塾行けって言われてさ。今までほっといたくせに、急にこうだもんな」 「受験生なんだから、あきらめろ」 「あきらめてるって。大学行きたいし、浪人したくないし」 充流はさりげなく歩き出し、先に立って駅の改札に続く階段を上り始める。すぐ後ろを穂高がついてきた。 「あれ? で、先生は何してたわけ?」 答える気などなく、目も向けずに先を急ぐ。 「なんか、いい匂いする。シャンプー?」 穂高が長身をかがめ、背後から髪を嗅いだとわかり、心臓が飛び上がった。 「ほ、穂高!」 あと数段を残したところで、立ち止まって振り向いた。勢い余って穂高が軽く胸に突き当たる。そのせいでいっそう動揺し、充流は顔が熱くなっていくのを抑えきれない。 「わ、ごめん、って……先生?」 とんでもない近さだった。片足は二段下にある穂高と目の高さが合い、鼻先が触れそうになっている。 「おかしなまね、するなっ」 小声で吐き捨て、背を向けて言い逃れる。 「風呂に行ってきたんだよ。この先の国道にあるだろ、スーパー銭湯。知らないのか?」 あらかじめ用意してあったセリフだ。すらすらと口にできたことに安堵しながら、意識して足を速め、改札に向かう。 「え? そんなの、あんの?」 穂高はすぐに追いついてきて、充流に続いて改札を抜ける。 「けど先生ってさ、髪、サラッサラだよな」 いきなり耳元の髪をすくい上げた穂高の指が首筋をなぞり、充流は叫びそうになった。咄嗟に穂高の手首を掴み、だが逆効果だったと慌てて放す。ホームへの階段を駆け下りた。 「せ、先生」 うろたえた声を出して穂高が寄ってくる。 「人の話は、ちゃんと聞いておけ」 二度も不意打ちを食らわされたのだ。穂高に顔を見せるなんて、できなかった。 「ごめん……あんな驚くなんて――」 穂高のしょぼくれた声が、ホームに滑り込んできた電車にかき消された。開いたドアに向かいながら、充流は背中で言った。 「遅い時間なんだから、気をつけて帰れ」 ドアが閉まり、充流はやっと穂高に目を向ける。ホームにぽつんと立って、動き始めた電車を見送る姿が胸に痛かった。 今度こそ心底ホッとして、深く息を継いだ。穂高と路線は同じでも、逆方向でよかったと本気で思う。 官能を残す体は熾き火が燻っているようなもので、穂高に触れられ、一瞬で燃え上がった。抑えようがなかった。髪の匂いを嗅がれたとき、指先が首筋を掠めたとき、電撃にも似た甘く強烈な感覚が背筋を駆け下りた。 西沢に抱かれた直後だからだと思いたい。相手が穂高でなくても同じだったと。 それなのに、この高揚する気分は何だろう。浮き立つような感覚は――。 どうにもならない。自分の感情すらコントロールできないのだ。他人の感情なら、なおさらそうだ。穂高にしても、西沢にしても。 何を思って穂高が近づいてきても阻めない。西沢がどんなつもりで自分を抱くにしても。 夜の闇を走る電車の中にいて、車窓の外を眺めて充流は何度も溜め息をつく。何もかもが暗く沈んで見える。これからどうなろうと自分には何もできないと、あきらめた。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |