駅前から続く桜の並木通りは、今は満開となって時折花びらの雨を降らせている。充流は転任先の高校へ着任の挨拶に行った帰りで、緊張から解かれて和やかな気分になっていた。 これまで転任することにのみ気を取られて何も期待がなかったからか、今回着任した高校は思いのほかいい職場に感じられた。生物科の教諭は既にひとりいて、定年間近の気難しそうな男だったが、設備の充実ぶりには目をむいた。あれを使えるかと思うと心が躍るようだ。それに校内のどこにもぎすぎすした雰囲気はなく、春休みでも部活動で登校している生徒が多く見られ、のんびりとした校風に思えた。 何より、引っ越しをしないで通える範囲だったことがよかった。勤務先を移るだけでも荷づくりと搬送に手間取ったことを思うと、大学生のときからひとり暮らしを続けている今の賃貸マンションを引き払うとなったら、どうなるかわからない。 空を仰ぎ、充流は立ち止まる。そこに揺れる桜の美しさに溜め息を漏らした。春の夕暮れは、秋とは別の郷愁を誘うようで、すべてが新しく変わる予感にさらわれるようだった。 いつになく時間をかけて自宅マンションに辿りつき、エレベーターを降りて、鞄の中の鍵を探りながら開放廊下を進んだ。吹き抜ける風は春の温度をはらみ、髪を散らされることさえ心地よく感じられる。 鍵を探り当てて、顔を上げたときだった。自宅玄関はすぐそこで、しかしその前に立つ人影を認めて足がすくんだ。 ――穂高。 なぜここにいるのかとか、どうやってここを知ったのかとか、余計な思いが次々と湧き起こり、逃げ遅れた。 「先生」 素早く手首を捕らえられ、背を見せて充流は震える。鼓動が激しかった。息まで上がるようで、声が出ない。 「約束したとおり、来ました」 懐かしい声を聞いて、胸が熱くなってしまう。だが充流は喘いで言って返した。 「俺は約束した覚えなんかない」 意識して、深く息を継ぐ。そうしてから、平静を装って振り向いた。 「放してくれないか」 しかし穂高の手が離れるのを待たずに玄関に向かい、鍵を開けた。ドアを引いたら背後から伸びてきた手に大きく開かれ、体ごと中に押し込められた。 「どういうつもりだ」 意図せずとも不機嫌に言い放った。穂高を見上げ、充流はきつく眉を寄せる。 「返事を聞かせてもらえるまで帰りません」 まっすぐな視線を返され、苛立つより先に呆れた。 ……どこまでこうなんだ、こいつは。 「強情だな」 「どっちが!」 嘲笑してやっても、まともに答えてくる。 「強情なのは、先生でしょ。俺に振り回されたくないなら、はっきりすればいいじゃん」 しかし、その一言には血の気が引いた。 「なんだって?」 目をむいて穂高を見る。穂高はすっと顔を横にそらした。 薄暗くなった狭い玄関に立つ長身の美男。私服姿の穂高はまさにそんな印象で、どこか見知らぬ他人のように感じられた。フードのついたTシャツにカジュアルなジャケットを着ていて、スタンダードなデニムを穿いている。少し長くなった髪は相変わらず生まれたままの色のようだが、顔つきは以前にも増して精悍になり、彼本来の色気をやけに感じさせた。 家にふたりきり――。 置かれている状況が変に意識され、充流の鼓動は乱れる。まるで男を連れ込んだみたいだと思ってしまった。 「――西沢先生に訊いたんです」 しかし、それを聞いて震え上がった。 「何を」 咄嗟に掠れた声が出た。穂高は横顔のまま、気まずそうに低く答えた。 「学校に行ったら先生はいなくて。焦って職員室に行ったら西沢先生がいて。悔しかったけど、先生はどうしたのか訊いたら転任したって言って。どこの高校行ったのか訊いたら、去年の職員名簿出してきて、ここの住所教えてくれました」 ――え? 思っていたこととは違う返事を聞かされ、充流は一瞬唖然とした。だが、どうして穂高がここに来ることができたのかはわかった。 「それで? ほかにも何か聞いたか?」 問題はそこだった。西沢が余計なことを漏らすとは思えないが、確かめておきたかった。 たとえば、充流は穂高に惚れていた、とか。 「べつに」 肩から力が抜け、今頃になって充流は靴を脱ぐ。追い返しても穂高は帰りそうにないと思えたから、あとは取り合わないと決めた。 「でも、言ってました」 背中に浴びた声に足が止まる。 「綾瀬先生は大変だぞ、って」 なんだって。 そっちのほうがよほど重大だ。すぐにも西沢に抗議の電話を入れたくなる。 余計なことを。 足早にダイニングを抜け、寝室にしている奥の部屋に入る。イライラとスーツの上着を脱いでハンガーにかけた。ネクタイを緩める。 「西沢先生に言われなくたって、わかってました。先生は、逃げるんだから」 間近で聞こえた声に振り向いた。穂高はすぐそこにいて、戸口をふさいで立っていた。 「先生は、強情です。学校では親身でいてくれたのに、少しも打ち解けてくれない」 「……ふざけてんのか?」 呆れて穂高を見る。 「生徒との色恋沙汰で打ち解けられるか」 「振り回されるのが嫌なら、逃げなきゃいいじゃん! つか、俺もう生徒じゃないし!」 目の前まで迫り、穂高は言い放った。充流は思わず身を引いてしまう。 「俺に振り回されたくないんでしょ! なら、はっきりさせてください!」 穂高の勢いに押され、怯みそうになる。胸が痛んだ。おまえなどなんとも思っていないと、やすやすと言えるならどれほどいいか。 「俺がはっきり言うまでもないだろ」 目をそらし、暗く呟いた。 「返事はわかってるくせに。帰れ」 だが、そうはならなかった。 「嘘つき!」 罵声を浴び、ビクッと肩が揺れてしまう。 「先生、そんなじゃないのに。なんで、そんな嘘つくんですか! 俺、先生を振り回したんでしょ! だったら、返事は違うじゃん!」 「穂高……」 「言ってください、先生から。じゃなかったら、俺――」 いきなり視界がぐらついた。穂高の胸に顔がぶつかり、体が痛いほど締めつけられる。そうなってから、穂高に抱きしめられたとわかった。 息が詰まる。たちまちのうちに顔が熱くなる。胸が苦しい。体中が痺れるように感じる。 「お願いだから! 俺でいいなら、そう言って! 大切にする、ゼッタイに裏切らない、傷ついた顔なんてさせないから!」 もう駄目だと思った。悔しくて涙が出そうになる。穂高に抱きしめられたなら、今でもこんなにうれしいなんて。 「……どうしてそこまで言える」 穂高の胸に顔をうずめ、喘いで言った。 「俺のどこが、そんなにいいんだ」 綺麗だとか、つまらない返事を聞かせたら、殴ってでも追い返そうと思った。 「わかりません――どうして好きになったかなんて、答えられるものなんですか?」 正直な気持ちを聞いたようで、気が抜けた。自分のほうこそ、つまらない質問をした。身構えてまでいて愚かだったと思った。 「でも……先生は誠実でした。生徒に誠実な先生だった。なのに、そんなふうに思われるのが嫌みたいで、わざと意地悪なこと言ったりして、そういうとこ、好きでした」 充流は笑ってしまう。低く喉を鳴らし、目を伏せて呟いた。 「俺のどこが誠実なんだ。校内で同僚の男と不倫してた、エロ教師だぞ?」 体に回る腕にぐっと力が入り、穂高が息を詰まらせたのが感じられた。 「……そんなふうに言わないでください。だからたまらなくなるって言うか……俺が守ってやりたいって、思っちゃう」 本当は、うれしくて泣きたいくらいだった。それなのに、充流は冷たく言い返す。 「よくそんなことが言えるな。学生のくせに」 「だから、そんなふうに言わないでください。守るなんてムリでも、そばにいたら何かできるかもしれないでしょ」 何を言っても根気よく諭されてしまうようで、充流はたまらなくなる。穂高の言うことは間違っていない。言葉を失い、口を閉じた。 「先生は知らないんです。みんな、先生が好きだった。球技大会でアイスおごってくれたでしょ? あのときなんて学園ドラマみたいだって女子が喜んでました。文化祭のときも無断で出し物変えたのに許してくれて、先生は手も口も出さないけど、ちゃんと俺たちのこと見て、俺たちの気持ち考えてくれてた」 そんな、大層な教師じゃない。 思ったが、胸のうちで呟くに留める。穂高に抱きしめられ、思い出の数々を聞かされる心地よさに、もう少し浸っていたかった。 「それに、やっぱ先生は誠実です。誠実って言うか、マジメか。先生になっても、自分の研究続けてたでしょ。そういうのってスゴイし、そういうとこも好きでした」 ――そんなことまで知って。 つい、穂高を見上げてしまった。甘く穏やかな眼差しにぶつかる。 「先生って、シャイなのかな。そんなふうに思うようになってから、ものすごく好きになった。準備室で勉強させてもらってたときも、冷たくされてるようでそうじゃないって、わかってました。あのときが一番楽しかった」 「穂高……」 自分も同じだったと言ってしまいそうになった。あの時間がよみがえり、甘く酸っぱい気持ちが胸に広がっていく。 「ねえ、先生。先生がエロ教師だって言うなら、俺だってエロ生徒でしたよ。先生が知らないだけなんだから」 目に映る穂高の頬が、急に赤く染まる。ひどく照れた顔になって、口ごもって言った。 「サクランボ、あげたでしょ。あのとき先生の顔見て……起った」 「おま……っ」 「聞いて! 西沢先生とそうだってわかってから、俺、先生でエロいことばかり考えてた」 照れながらも、ひたすらに訴えてくる。 「やっぱ、そういうのって普通に好きとは違うでしょ? けど、先生には西沢先生がいて、すごくつらかった。別れたって聞いたとき、先生は傷ついた顔してたのに、俺……むちゃくちゃ、うれしかったんだ」 最後は吐き出すように言って、だが穂高は充流を見つめて目を離さない。 「……穂高」 自分ではどうにもできそうにない気持ちが込み上げてくる。穂高の胸にいて、穂高の唇は目の前だ。いっそキスしたい衝動に耐え、充流は苦しい声を漏らす。 「思い直せ。男同士だぞ?」 「なに言うんですか! 俺だって考えたし、ものすごく悩んで苦しんだのに。先生だって、男とつきあってたじゃないですか!」 「だから言うんだ。おまえ、誰ともつきあったことないだろ? 俺なんかとつきあう前に女子とつきあえ」 「できるわけないでしょ! 俺は先生が好きなのに、ほかの人とつきあうなんて――」 「やれ! できるから」 実際に自分がしたことだ。気持ちは穂高に傾いていくのに、西沢に抱かれて慰められた。 「ひどい、なんでそんなこと言うの」 「いいから、もう放せ」 穂高に抱きしめられて酔っている場合ではなかった。自分の汚さが思い出され、充流は泣きたくなる。なのに、もがき出した充流を穂高はいっそう強く抱きしめてくる。 「先生が初めてでもいいじゃん! なんでダメなの!」 「うるさい、俺なんかが溺れたら、おまえなんてすぐにグチャグチャだ!」 「いいよ、それで! 先生が溺れてくれるなら、グチャグチャになってもいい! どうせ、もうグチャグチャなんだから! つきあえなくてグチャグチャでいるより、つきあってそうなるほうが、ずっといい!」 悲痛な声を浴びせられ、充流は呆然と固まった。目を丸くして穂高を見る。 「だって、そうでしょ。本当に人を好きになるって、こういうことなんだって思った。先生につきあってもらえないなら、俺、ストーカーになっちゃうのかもって、恐くなった」 声が出なかった。見上げる先で穂高が泣いている。まるで子どもだ。そう思うのに胸は震え、体中が燃え立つように熱くなってくる。 つきあってグチャグチャになるなら、そのほうがずっといい、って――。 汚されてもいいと言うのか。壊されても。自分がどうなってでも、思いを遂げたいと。 そこまで……! 「俺に溺れて。好きです、先生――」 充流を抱きしめていた腕が緩み、その手が上がった。充流の目を見つめ、穂高がそっと頬に触れてくる。 「お願い……そんな、傷ついた顔しないで」 違う! もう抑えられなかった。充流は穂高の首に腕を回し、引き寄せて唇を重ねる。舌を挿し入れて、穂高の舌に絡めた。 「ん……っ」 穂高の漏らした声が耳にせつなく響く。充流はいっそう深くキスを貪り、胸がたぎるまでになった。 好きで好きでどうしようもない思い。穂高の気持ちが痛いほど伝わったから、充流も叫びたかった。何度あきらめようとしたかしれない。何度あきらめても、あきらめきれなかった。生徒だから、同性だから、穂高は無垢だからと、いくら自分に言い聞かせても、この思いは消えなかった。卒業の別れで思い出に変えられたはずが、今また燃え上がる。 「先生……」 唇が離れ、穂高が蕩けた目で見つめてくる。充流もまた蕩けた目で答える。 「俺も、同じだから」 背にあった穂高の手がいきなり頭を抱えた。ぐいと引き寄せられ、荒っぽいキスになる。 すぐにも奪ってほしい。何もかも。穂高がこんなにも欲しがってくれるのなら、自分もどうなってもいい。本当に、どうなっても。 互いに体を絡ませ、そのうち充流は眼鏡を奪われ、髪も頬も耳も首筋も、穂高に熱心にまさぐられた。 体中を満たす、熱と快感。ただ甘いキスに酔う。苦みなど、どこにもない。どこにも。 「ふ、あ……」 やがてまた唇が離れ、充流はうっとりと穂高を見上げる。情欲を映す目に捕らわれた。 「ごめん、先生。俺、超うれしくて止まりそうにない」 こうなっても穂高の初々しさは失われず、ひどく照れた顔でささやいてくる。気まずそうに身じろいで、股間をこすりつけてきた。 「こんなんで、ごめん――。俺、もうグチャグチャになっちゃって、いい?」 「……穂高」 どうしたことか、充流のほうこそ、とてつもなく恥ずかしくなった。穂高にぎこちなく押されただけで、あっさりベッドに倒れる。 部屋はすっかり暗くなっていた。カーテンを引く間もなかったから、窓からほのかな光が射し込んでいる。 「先生――」 仰向けになった充流を覆い、ベッドに両手をついて穂高が見下ろしてくる。充流は動けない。鼓動が変に乱れて、戸惑う。淫らな期待に沸きながら、甘く酸っぱい思いに浸される。おかしかった。おぼろな視界に映る穂高は、彼特有の色気をふんだんに溢れさせていながら、どこまでも清純に感じられる。 照れて恥ずかしそうな表情。なのに、情欲に燃えるような眼差し。長めの髪が顔にかかり、その陰から充流をじっと見つめている。 「先生。……どうしよう、俺」 いきなり心臓が跳ね上がった。手順を尋ねられたとわかったが、充流はどうにも答えられない。どこか投げやりに呟く。 「……好きにしろ」 「やだよ、俺たちの初めてになるのに。先生にも気持ちよくなってもらいたい」 あまりにもあからさまに言われ、カッと頬が熱くなる。 俺たち、なんて。 さっそく恋人気取りかと、嫌味を言って逃げたくもなるが、そうはできない。 当然だ。この青さに惹かれた。いっそ礼儀など知らずに情動に任せて奪ってくれたら楽とも思うが、穂高がこうだから惚れたわけで、充流は恥ずかしさに耐え、口を開く。 「違う。俺が、好きにされたいんだ――」 これでは羞恥プレイだと、ますます赤くなる顔を背けた。穂高に見つめられることさえ、今は恥ずかしい。 「ん」 穂高は身を起こし、暗がりの中で衣服を脱ぎ出した。充流はかすかな衣擦れを聞くだけで、ベッドに横たえられて待たされることが、こんなにも高揚するものとは知らなかった。 焦らされているように思ってしまう自分が恥ずかしい。どこまでいやらしいのだと自分を責めたくなる。そのくせ穂高の体温が待ち遠しい。渇いてくる。早く潤してもらいたくて、自ら手ほどきしそうで恐くなる。 「先生」 ゆっくりと穂高が重なってきた。体重をかけないように気を遣っているのか、肘で体を支え、間近から見つめてくる。 「あ……」 裸になった穂高を目にして充流は息を呑んだ。少し髪に隠れる肩も、広い胸も、しっかりと筋肉がつき引き締まっている。若くしなやかな牡鹿が連想され、穂高がしたたらせる元来の色気に一瞬で酔わされた。 戸惑いを忘れ、頬にそっと指先を滑らせる。シャープな顎のラインを辿り、首筋をなぞり、鎖骨にも触れ、手のひらでじっくりと胸を撫でた。湿った吐息が溢れ出る。 「せ、せんせい」 うろたえた声を漏らし、穂高が顔を近づけてくる。たどたどしく唇が重なり、しかし深いキスになった。 「……は、あ」 充流は心地よく喘ぎ、穂高にされるに任せる。頼りない手つきでネクタイを引き抜かれ、ワイシャツのボタンをひとつひとつはずされ、ベルトを解かれてボトムを下ろされた。 前をはだけたワイシャツ一枚の姿になって、穂高にキスを浴びせられる。全身から力が抜けていった。頬にも顎にも喉にも唇が押し当てられ、胸はねっとりと執拗に舐められる。 「はっ、あ、あっ」 抑えきれなくて声が上がった。これまでの相手には、わざとらしくも聞かせようとしてきたのに、今はどうしようもなく恥ずかしい。 「ここ……感じるの?」 わざわざ確かめるまでもないことを訊かれ、余計に昂ぶった。穂高が少し動くだけでも穂高の髪が肌をくすぐり、それにも感じている。 「どうなの……先生?」 答えないことには何度でも訊かれるようだ。 「いい、すごく」 とっくに硬く起ち上がり、穂高の腹にこすれてぬるぬると濡らしているのに、そのことにも気づかないのかと言ってやりたかった。言えたなら。 「俺も。――なんかもう、ダメかも」 熱っぽく、体中のどこも撫でようとする穂高の手の動きが妖しくなっている。充流は触れられるそばからその箇所が焼けるほど熱く感じられて、自分には珍しく汗が滲み、意識が霞んでいくようだった。 「どうしよう……ここも触っていい?」 だからもう、何も訊いてくれるな――。 言おうとしても、息も上がっていては言葉になりそうにない。唇から溢れるのは喘ぎばかりで、身をくねらせて充流は悶える。 たまらなかった。まるで生殺しにされているようだとまで思ってしまう。穂高の愛撫は稚拙と呼ぶより、むしろ手だれた焦らしそのもので、そこに加えて天性の色気をしたたらせてくるのだから、何もしないで抱かれていては狂ってしまう。 もう、どうしようもなかった。戸惑いを捨て、充流は手を伸ばして上体を起こす。そうして穂高が触れようかためらっているのと同じものを穂高の股間できゅっと掴んだ。 「せ、先生っ?」 裏返った声を聞いても放さない。手にした熱にも性感をあおられ、何もかも忘れて誰もにしてきたように、それを存分にもてあそぶ。 「ちょ、も、ダメだって先生!」 聞き流して口に含んだ。止まらなかった。これは穂高をなぶる行為になるのかどうか、未だ理性に引きずられそうになりながら、かえって穂高にしているということが強く意識され、自分でもわからないほど興奮した。 「あ、ん、くぅ――」 落ちてくる穂高のうめきが色っぽくてかわいい。肩を掴まれ、その手にぐっと力が入る。穂高を絶頂に導きたくて、この口ででも体のどこを使ってでもそうしたくて、充流は硬く充実したものの舌触りを心ゆくまで味わい、喉の奥まで使って強く吸い上げる。 「ダメ! イく、イっちゃうって、先生!」 いきなり肩を押し返された。だが口から抜けたものは、しっかり手に掴んでいる。 「やめてよ……先生」 涙声で言われ、甘酸っぱく胸がざわめいた。 「先生なんて、呼ぶな」 先生と呼ばれると、ひどくいけないことをしている気分にされるから困る。それが快感なのか罪悪感なのか、闇雲に乱れてしまいそうになる。 「だったら、どう呼べばいいの……充流?」 「あ」 その瞬間、ゾクッとした感覚が背筋を駆け抜け、穂高を掴む手の指先まで甘く痺れた。 「あ、は」 充流は穂高の肩に頭でもたれ、大きく喘ぐ。 「――充流?」 訝しげに呼ばれ、また快感が背筋を襲った。潤んだ目で穂高を見上げる。穂高も濡れた目で見つめ返してくる。男を感じて圧倒された。 「充流……充流!」 しゃぶりつくようなキスをされて、手の中のものがぐんと硬くなる。 「たまんない……すごい色っぽい、充流――」 唇で耳をまさぐり穂高がささやく。 「マジ、イきそう」 甘えて言われ、充流のほうこそ昂ぶった。 「イきな。……おまえのを使うから」 「――え?」 しかし、きょとんとした目を向けられて、顔から火が出そうになる。 し、知らなかった――とか? 「使うって……」 「なんでもない!」 慌てて顔を背けても穂高が覗き込んでくる。互いにベッドに座って向き合う体勢になっていては、逃れようがなかった。 「充流?」 わざとではなく名を呼ばれたことはわかる。自分がそうしろと言ったようなものだ。それなのに名を呼ばれると沸き立って、何も抵抗できなくなる。 「入れなくて……いいのか?」 やっとの思いで呟いたら、穂高はハッとした顔になり、サッと頬を赤らめた。 「そこまでしなくていいなら、俺は――」 言いかけて止まってしまう。虚勢だ。穂高にその気がないなら馬乗りになってでも欲しくなっている。 「ちょ……待ってよ」 困惑したように言って、穂高は改めて目を覗き込んできた。 「――いいの?」 口ではかわいいことを言っても、ゾクッとするほど男を感じさせる顔を見せつけるのだから充流は声が出なくなる。 こくりと頷くのが精一杯で、しかし手の中にあった穂高を熱心に追い上げ始めた。 「あ、みつ……くぅ」 うめいて穂高が顔を伏せて震える。充流は生温かく濡れた手を広げ、そこに目を向けた。 ……穂高の。 妙に興奮した。また甘酸っぱい気持ちが胸に広がり、異様に性感が高まる。その手を後ろに回し、片手で穂高の肩につかまった。 「み、つる?」 顎を突き出してキスをねだった。唇を開いて受け、深く挿し入れた舌で穂高の口中を荒らす。そうしながら、ぬるく濡れた手で自分の後孔を探った。穂高が放ったものを塗り込めるように広げ、中指を入れてほぐし始める。 だが、すぐにその腕を掴まれて動きを止められた。キスは続いていて、充流は薄く開いた目で穂高を見る。荒っぽく押し倒された。 まるで何もできず、穂高に片手で両手首を捕らえられてしまう。そして別の手で、裏の狭間をじっくりと探られた。 長い指がずっと奥まで入ってくる。ぐるりとえぐり、さまようように動いた。 「前立腺って……こっちのほうだよね?」 どこで仕入れた知識なのか、学術的な言葉を使われ、充流はかえってあおられる。 「そうだ……そのへん」 それにしても予備知識を得ていたのなら、さきほどの反応はなんだったのかと言いたくなって、しかし穂高では応用までは無理と思い至り、わけがわからないほど熱が上がった。 「ここ――?」 「そう……あ、ん!」 「すご……ちょ、先生――」 だから先生と呼ぶなと。 穂高の性格を映して、充流の後孔をほぐす指は基本に忠実に増えていく。どうしようもなく感じる箇所を徹底して攻められ、充流はとことん翻弄された。 「あっ、は、あ……! ほだ、か!」 涙を浮かべて呼べば、すぐになだめるようなキスをされる。手首の戒めが解かれ、顔に散る髪を指で梳き上げられた。頬をやさしく何度も撫でられる。 「たまらない……先生、充流――」 穂高の声が艶めいて耳に響いてくる。 「好き……欲しい、俺だけのものになって」 甘えてくる声が、どうにもやるせない。 「来て――」 自分からねだるのを止められなかった。 「俺も欲しい……和真」 「充流!」 切羽詰まった勢いで呼ばれ、たちまちのうちに指に替わって熱いかたまりで貫かれる。その瞬間に歓喜に染まり、充流は弾けた。 「充流……?」 不安そうに呼ばれ、激しく頭を振って、穂高の首に両腕でかじりついた。 「もっと……もっと!」 穂高を感じたかった。これまでがどうであろうと、この瞬間をずっと待ち望んでいた。それが今、かなっている。 「動いて……おまえが、したいように!」 たとえ粉々に砕かれるのだとしても、穂高にされるなら喜びでしかないとまで思った。力強く突き動かされ、熱っぽく揺さぶられて、充流はまた高揚していく。絶頂の際まで追い上げられ、その境界にたゆたい続ける。 「充流、充流、好きだ」 うわごとのように繰り返し浴びせられる言葉にも心が満ちた。まっすぐに届き、深く刺さって、いつまでも残ると感じられた。 脱ぐ機会を失ったワイシャツが、ぐしゃぐしゃに乱れて火照った肌にまといつく。それすらも穂高と初めてひとつになれたこのときにはふさわしいように思え、歓喜に震えた。 穂高の熱く湿った吐息を耳元で聞く。のしかかる重みを心地よく受け止め、感じるままに喘ぎ続ける。悶えて、穂高に脚を絡ませた。そうして体の奥で穂高を捕らえ、締めつけて、熱情のほとばしりを感じ、自身も放った。 「充流……」 蕩けきって甘えてくる穂高が愛しい。ぐったりと抱きついてきて、熱い頬が重なった。 「充流」 湿ったささやきと共に、耳に濡れたキスを受けた。唇でやさしく食まれる。 「――充流」 体を横にした穂高に抱き寄せられた。背に、ゆったりと腕が回る。 穂高の胸に顔をうずめ、充流は穂高の匂いに包まれる。どくどくと体中を駆け巡る血流の音を聞き、一向に鎮まらない呼吸に喘いだ。 「俺……今、すっげー幸せ」 どことなくのんきにも聞こえた穂高の声を耳にし、充流は救われたように感じる。目に涙が滲む。せつない思いがせり上がってきて、穂高の肌に頬をすり寄せた。そうしたら、背に回る腕にあやすように抱き直され、余計に泣けてしまいそうになった。 「……充流?」 気遣うように穂高が呼びかけてくる。充流の髪をやさしく撫でる。繰り返し、何度も。 「和真――」 涙をこらえ、充流はひっそりとささやいた。 「好きだったんだ。ずっと、好きだった」 穂高は何も答えなかった。ただ、ぎゅっと強く充流を抱きしめ、その肩に顔をうずめた。 それからどのくらい抱き合っていたのか、体の火照りが引いて、互いの穏やかな体温に包まれるようになっても、ふたりは交わす言葉もなく、ただじっとしていた。 ふと、思い出したように穂高がケータイの番号を交換したいと言って、脱ぎ捨ててあったデニムを床から拾い上げた。 「あーあ」 いきなりがっかりした声を上げて、充流の横に体を投げ出してくる。面倒そうに充流にケータイを向けた。母親からのメールが表示されていて、一言もなく外出して夕食の時間が過ぎても帰宅しないことへの小言だった。 「失敗した。いつもはこんなことないのに」 普段から子ども扱いされているわけではないと言いたそうな穂高に、充流は笑みがこぼれた。自分の言い訳をしながら母親は過保護じゃないと弁護したようなもので、穂高らしいと思った。だがそうもしていられなくなって、それなら早く帰れと穂高を急き立てた。 穂高は渋々だったが、それぞれにシャワーを浴びて身なりを整えた。そうなってから取り出した充流のケータイにもメールが届いていた。西沢からだった。 穂高がここに来る前に会ったと聞いていたから、いったいどんな内容かと不安になった。それがなくても、西沢からのメールなんて、別れて以来初めてだ。恐る恐る開いた。 《自分の幸せも考えてくれ》 文面は、それだけだった。思わず送信日時を確かめたら、まず間違いなく穂高と会ったあとだった。 「そっちも、なんかあった?」 穂高が心配そうに背後から覗き込んできても、充流はケータイを閉じられなかった。穂高にも見せるつもりになっていたのかどうなのか、自分でもわからないまま穂高に読まれた。 自分の幸せも考えろ、って――。 不意に長身が背に被さってきて、長い腕が体に巻きつく。充流は息を呑み、たとえようもない感情が押し寄せてきて震える。 「俺、がんばって変わるから」 耳元で穂高がささやいた。 「一緒にいて、ちっともおかしくない男になるから」 頬を寄せてきて、ぎゅっと抱きすくめた。 「幸せにしてあげられるように、なるから」 充流は、また泣けてしまいそうになっていた。頭に浮かぶことは依然としてあっても、胸が温かく満ちた。そうして少しのあいだ、ふたりでじっとしていた。 住宅街を抜ける桜の並木通りは、まだ遅くない時間もあって、ところどころに道行く人が見える。駅まで送ると充流が言って、連れ立って出てきたふたりだが、互いに言葉は少なく、一緒にいられる喜びに浸るだけのようだった。 夜空に見る桜が美しい。点々と続く街灯に照らされ、闇に浮かんで目に映る。充流は、夕方ここをひとりで歩いたことが思い出された。まさか穂高が訪ねてきているとは、あのときは思うはずもなかった。 今また、すべてが新しく変わる予感にさらわれる。 「やっぱ、きれいだ……」 ふと足を止めた穂高をどこか夢見るような心地で見上げた。静かで熱い、穂高の眼差しとぶつかった。 「ずっと見ていたい」 穂高は桜ではなく充流を見ていた。 「俺、何回見とれたかわからない。そのたんびにドキドキして、今もドキドキしてる」 充流は顔が熱くなるだけだった。目を伏せてポケットを探り、自宅から忍ばせてきたものを手に開いて見せる。ハッと穂高が目を瞠った。 「これ――」 穂高が制服からもぎ取ったボタンだった。持ち続けていることを伝える機会を逸して、今になってしまった。 「俺も変わるから」 ひとつ息を吸い、顔を上げてまっすぐに穂高を見つめる。 「おまえといて恥ずかしくないように」 「……先生」 咄嗟に先生と口にした穂高の気持ちが胸に迫った。充流は穂高の手を取り、ボタンを乗せた自分の手に重ねる。 「大切にする。おまえの気持ちを裏切らない」 思いを遂げられるなら、自分はどうなってもいいとまで穂高は言った。だから同じように正直な気持ちになれたのだと思う。 好きで好きでどうしようもない思い。それはよく知るものだったのに、ずっと打ち消すことしか考えてこなかった。 あきらめがつきまとう恋ばかりしてきたと思っていたけれど本当はそうではなく、自分があきらめていたからそんな恋しかできなかったのだと、今ならわかる。 穂高のひたむきな強さに応えたい。穂高に釣り合う自分でいたい。穂高が求めてくれるならどうなってもいい。そのことを伝えたい。 「幸せだと、また言ってもらえるといい」 穂高の手が握り締めてきた。その中にあるボタンを強く感じ取り、充流は胸が熱くなる。 穂高がくれた、純情の証――。 「大丈夫だって。俺もう幸せだから。ずっとつきあってくれるんでしょ?」 「……穂高」 涙を滲ませ、穂高を見つめる。言葉が続かなかった。 「違うでしょ。もう生徒じゃないんだから」 ぽんと頭に手を置かれ、充流はハッと息を呑む。穂高の笑顔が輝くほどまぶしい。 「ねえ……次はいつ会える?」 急に甘えた声になって、穂高が歩き出した。握られた手を引かれ、充流も並んで歩き出す。 それとなく穂高が寄ってきて、つないだ手をふたりのあいだに隠すようにした。充流はそのことにもハッとして、穂高に目を向ける。 「高校始まるのって、来週? ずっと休み?」 かすかな動揺を残したまま充流は答える。 「……休みは、もう土日だけだ」 「じゃ、今度の土日に会おう。電話する」 穂高は明るく言って、それから低めた声で続けた。 「もう、親からメールなんてないから」 苦笑した顔になって見つめてきた。 「穂高――」 「和真」 さらりと明るく訂正され、充流は胸を詰まらせる。ゆるやかな歩調に合わせ、そっと息を整える。 「和真」 心をこめて呼びかけ、ほほえんで見上げた。 「泊まってもいいぞ、この次」 「マジ? やった!」 俺、本当は今日も帰りたくなかったんだよねと、屈託のない笑顔で言う穂高がまぶしくてたまらない。 幸せだ。もう、幸せだった。 穂高のやさしさが胸にしみる。熱情に任せて思いの丈をぶつけてきたようでいて、いつのときも自分を気遣ってくれていた。今も。 「和真」 ほんの数週間前まで自分の生徒だった男に、充流はそっと寄り添った。 「俺だって、本当は帰したくないんだ」 「せんっ、……充流」 素直にうろたえる恋人がかわいい。そう、恋人だ。これからも、ずっと。 駅へ向かう並木通りの桜は満開で、時折花びらの雨を降らせる。それはまるで祝福を受けるかのようで、充流はこの道がどこまでも続けばいいと思った。 すべてが新しく変わる予感にさらわれる。穂高といて自分もまた変わっていく。強く、大らかに。ふたりの手に包まれたものを思い、充流はぎゅっと手を握った。力強く返され、心が甘く痺れた。 おわり ◆BACK ◆作品一覧に戻る |