Words & Emotion   Written by 奥杜レイ



千のしずく

−1−


「もうダメだ、もう書けない、俺は枯れちまったんだ〜」
『美園(みその)先生……』
 電話越しに弓削(ゆげ)くんの困り果てた声を聞いても気持ちは変わらなかった。
「今まで書いてこられたのが何かの間違いだったんだ、俺は筆を折る、いや、そんなカッコいい言い方する資格すら俺にはないんだ、ただ書き散らしてきただけなんだから〜」
『先生、落ち着いてください、最終の〆切までまだ1週間あるんですから』
「何日あったって同じだ、もう、一滴も出ないんだ〜」
『……一滴って……先生』
 こんな会話でも突っ込みどころを逃さない弓削くん、今はきみですら恨めしいよ。
 それでも受話器にすがって電話を切れずにいる俺がわかるから、弓削くんは落ち着いた声で俺に言う。
『わかりました。これから伺います。お話はお会いしてからじっくり聞かせていただきますから』
「う……うん」
『そうですね――2時間ばかりいただけますか。先生のご自宅には7時ごろになると思われますが』
「か、かまわんよ……」
『ありがとうございます』
 どう考えても俺は感謝される立場ではない。弓削くんはいつだって礼儀を忘れない。
『先生?』
 一瞬黙り込んでしまった俺の耳に、弓削くんの声が今度はひやりと届く。
『必ず、ご自宅にいらしてくださいね。絶対に――逃げないでくださいね』
「う……」
 凄味さえ感じさせる声で釘を刺すのは、飴と鞭を上手に使い分ける弓削くんの常套手段だ。
「は、必ずいます――」
 わかっていても、かしこまってしまう。
『先生のお好きなもの、何かお持ちしますから、楽しみにお待ちください』
「あ、ありがとう」
 最後はけろりと明るく言われて、電話は切れた。ツーツーとしか聞こえてこない受話器をのろのろと耳から離してカチャリと戻した。
 ため息が出た。会話の流れとは言え、弓削くんと会って話すことになってしまった。会って話せば、また丸め込まれるとわかっていたから電話にしたのに――何やってんだ、俺。と言うか、つまりは電話にしたって丸め込まれるのに違いはなかった、ってことだ。
 デビューして2年。思えば、2年も書き続けてきたなんて、幻のようだ。勢いで応募した処女作が、うっかり新人賞の佳作を受賞したのが始まりで、以来、『月刊お色気小説』に毎号のように作品が掲載されてきたなんて。
 ――期待の新人。フレッシュな感性が描き出す新たな官能の世界――
 デビュー当時の俺のキャッチコピーはそれだった。「新人」と「フレッシュ」と「新たな」はかぶってんじゃないの、と今なら突っ込めるほどにはなったけど、デビュー当初は編集の弓削くんに原稿に赤入れられまくりのダメだしのオンパレードだった。
 大学は一応国文科を出たけど、所詮「一応」と言える程度の学力だったし、大型書店に就職してからサイドビジネスまがいのライターもどきなことはやってたけど、それほど真剣に作家になりたいと思ってたわけじゃないんだ。
 そりゃまあ、文章書いて食っていけるようになったらいいな、とは思っていたけど、それは夢で、夢はしょせん夢に終わるものと思っていた。
 デビュー作になった処女作を書いたのだって、なにげに読んだ官能小説があまりにヘボくて、この程度なら自分でも書けると思えたからで、『月刊お色気小説』の新人賞に応募したのだって、賞金欲しさの宝くじ買うノリだったし、佳作を受賞できたのだって、その新人賞がまだ2回目であまり知られていなかったからに過ぎないんだ。
 応募総数54作品――うち、受賞は俺だけ。
 受賞後、俺は即デビュー、それからは言われるままに書き続け、と言うか、書いてくれと言われるのがうれしかったから、だからなおさら書き続けてきたんだ。
 俺のデビュー後、なぜか『月刊お色気小説』は部数を伸ばし、そのおかげか俺の原稿料も上がり続け、ついでに本も何冊か出してもらえて俺は看板作家のひとりとなり、それで勤め先の書店は思い切ってデビュー後1年で辞めて――現在に至る。
 もはや、俺は枯れてしまった――。
 こんな日がくるなんて思いもしなかった。世の中の作家がみんな自分と同じだなんて思わないし、そもそも俺は本当に作家と言えるのかどうか自信ないほどなんだけど、サラリーマン収入のない今、書き続けられなくなったら、いや、書き続けられても売れなくなったら、いずれ俺は無一文になってしまうなんて――考えてなかった。
 ああ、バカだよ、俺はバカだ〜。
 しょうがないじゃないか、うじゃうじゃ言いながらも最初の1文さえ書ければ、あとはノリノリで書けてたんだから……半年前までは。
 「書けない」なんてのは俺の口癖のようなもので、デビュー当初からのパートナーである弓削くんにしてみれば聞き飽きたセリフなんだ。
 だけど、今回は今までとは違う。マジで書けない。最初の1文ですら、書けない。何かしら書き始めても10行でアウトだ。何度やっても同じだ。
 ――ごめんよ、弓削くん。せっかくうちまで来てくれても、今回は、本当に、もう終わりだ。
 きみが俺の担当に決まったとき、俺より3歳年下で、しかも俺が初めての担当と聞いて実はバカにしてたんだ。けれどきみと組んで歩んできた2年で、きみがどんなに素晴らしい編集者か、今の俺はよく知っている。
 忘れもしない受賞後第1作。苦心の末に書き上げた作品にいきなりダメだししやがって、あん時は頭にきたけど、あくまで礼儀を忘れず懇切丁寧に事細かに一字一句つぶさに俺を指導して――そう、あれは「指導」だった――雑誌に掲載されても恥ずかしくないレベルまで作品を磨いてくれた。それも今だからそう思えるのであって、初対面苦手、新しい環境苦手の俺としては、弓削くんの言いなりになりながらも内心では毒づいていたんだ。
 ――そこまで言うなら、てめーが書け。
 あの頃はまだサラリーマンと作家の2足のわらじだったし、べつだん作家で食っていくつもりじゃなかったし、いつでもやめられる気持ちだったのに――。
『美園先生、ほら、こんなに読者さんからのお便りが届いてますよ』
『先月号の一番人気は先生の作品でした』
『いやだなあ、僕自身が先生のファンなんですよ。ありがちな官能小説とはひと味違うじゃないですか? 先生の作品にはやさしさとロマンがあるんです』
『お伝えしてませんでしたっけ? 先生が書かれるようになってから女性読者が増えたんですよ。ありがたいことです』
 感情の浮き沈みが激しい俺に合わせ、ある時はなだめすかし、ある時は叱咤激励し、俺は――すっかり弓削くんに丸め込まれてサラリーマンを辞めるまでに至ってしまったのだ。
 ずっと書いていけると思っていた。俺には弓削くんというベストパートナーがいるのだから。なのに、もう、俺はダメだ。どんなにパートナーがよくたって、俺自身がダメなんだ、いや、もとからダメだったんだ〜っ。
 ……夢を見たのだと思おう。サラリーマン生活5年、作家生活2年、30前の今ならまだ間に合う、この世界から足を洗うんだ。サラリーマンに戻ってもいいし、いっそのこと貯金をつぎ込んで自営業を始めたっていい。
 ……自営業でいい、っつったって、俺に何ができるんだよ……サラリーマンしかできないんじゃないのか? それだって、この2年間の不規則な生活から抜け出せる自信がないから、どうやっても無理に思える。
 どうしたらいいんだ……もう、俺には何も残されていないのか。乞食と役者は3日やったらやめられない、とか言うけど、それを言うなら作家もじゃないか。と言うか、ああ、そうだ、
『13歳のハローワーク』に書いてあったっけ、『作家は人に残された最後の職業』だって――つぶしがきかないって。
 そんなの、俺が作家になる前に教えてくれよな! 遅すぎんだよ! こんなことになるなら、書店辞めなかったのに!
 書けない、書けない、書けない〜!
 ピンポーン――。
 ハッと顔を上げた。時計を見ると既に7時を回っていた。
 ううう、俺って本当にもうダメだ。電話の前で2時間もうだうだしていたなんて。
「美園先生……」
 玄関ドアをのろのろと開けると、細い眉を険しく寄せた弓削くんと目が合った。
 ダークグレーのスーツをビシッと着こなす痩身にはいつも通り隙がなく、身長差から俺を見上げていても眼差しは鋭く自信にあふれ――。
 本当の本当、大マジで――鞭モードだ、弓削くん……。
「どうしたんですか、先生。でかい図体で、なにしょぼくれてるんですか。もう、何日ヒゲ剃ってないんですか? 髪だって、短いからって手を抜いてちゃ、せっかくの男前が台無しですよ? しっかりしてくださいよ――これ、陣中見舞いです」
 押し付けるように目の前に差し出されたのは白いビニール製の手提げ袋。ちょっとは名の知れた高級果物店のものだ。
「巨峰です。先生のご実家のあたりで生産されたもののようですよ。これでも召し上がって少しはなごまれてください」
 巨峰と教えられなくてもわかる。鼻先で手提げ袋を受け取ったから、甘ったるい香りにふわりと包まれた。記憶中枢に刻み込まれたなつかしい香りと重なり、顔がゆるむ。伏せていた目をそっと上げれば弓削くんはにっこりと笑んでいて――その顔にさらに気持ちがやわらいだ。
「お邪魔してもよろしいですか?」
 あくまで礼儀は忘れずに、それでも、なかば強引に弓削くんは靴を脱ぐ。毎度のことながら、きちんと断わる態度は評価したい。
「さっそくですが」
 冷蔵庫に巨峰を大切にしまって部屋に戻った俺に、弓削くんは真剣な眼差しを注いだ。
 案内のいらない2DKのマンションだ、仕事部屋兼リビングに使っている部屋のラグに、弓削くんは既に背筋を伸ばして正座していた。
 編集者というものは誰もがこんなに身ぎれいにしているわけではないだろうが、弓削くんはいつだってスーツ姿だ。夏場でもダーク系のスーツを好んで装い、それがまた憎らしいほどよく似合っている。
 今は、上着は脱いで、きちんと畳んで大きな紙袋と共にかたわらに置いているのだが、細身の体に真っ白なワイシャツとスモーキーピンクのネクタイが映える。出版業界に働くせいなのか肌の色はかなり白い。
「書けないというお言葉は先生の口から何度も聞かせていただいているわけですが――」
 しかし、薄い唇を開けば、微妙に苛立ちを混じえた敬語で話し始めた。
「〆切までまだ1週間ある今、先生がそこまでおっしゃる理由をお聞かせください」
 ローテーブルをはさんで正面に座った俺の目をじっと覗き込むようにして言った。
 まっすぐに向けられる視線に俺は耐えられなくなる。真摯な態度に真摯に応えたいと思うのに、子どもじみた言い訳しか浮かんでこない。
「……ダメなんだ、本当に。1行、いや、1文字だって書けないんだ」
 弓削くんは、ひたと俺を見つめたまま、少しだけ目を細めた。
「ここ数ヶ月、先生が不調を感じられているのは僕も理解しているつもりです。デビューされて2年、これまでが順調すぎるほど順調だったと言えなくもないと思います。このようなことをお話しするのは差し出がましいのですが、先生とはデビュー以来のお付き合いですし――スランプはどなたにもあります。息の長い作家さんになればこそ、それを何度も乗り越えて書き続けてらっしゃるのです。ですから、先生にも、ここはひとつ――」
「できないんだ!」
 吼えた俺に弓削くんは大きく目を開いた。
「何も浮かんでこないんだ、プロットどころか、単なるイメージも湧かないんだ」
 言っていて悔しくも哀しくなる。思わず弓削くんから目を逸らし、俺はうつむいた。
「先生……」
 ひどく沈んだ声が耳に届く。作家としての俺を誰よりも理解し励ましてくれてきた弓削くんなんだ。それ以上に、俺にとっては一番の読者であるに違いない弓削くんをこんなにも落胆させてしまう自分が情けなかった。
「今回ご依頼したテーマがいけなかったのでしょうか。『旅先で肉欲に溺れた果てに自分を失うOL』でしたね。明るく軽いテーマに変更しましょうか」
「……何に変えたって同じだ」
「先生――」
 腹を決めた。もうどうしたって書けないんだから、デビューさせてもらい、今まで書かせてきてもらえた恩を思えば、胸のうちをすべて明かすのが義理だろう。書けないと駄々をこねる俺をあっさり切り捨てずに、こうして俺の自宅まで足を運んでくれて話を聞いてくれているのだから、なおさらだ。
「弓削くん」
「はい」
 顔を上げれば、弓削くんは変わらず俺をじっと見つめていた。
「俺が官能小説を書く原動力は未体験への夢と憧れだと話したこと、あったよな?」
「はい、覚えています。美園先生は女性経験が極めて少ないから、それで官能小説を書かれるのだと伺いました」
 ……俺がわざと回避した点をしっかり補足するのは弓削くんだからなのだ。俺が言いたくないことは俺に言わせずにおこうという心配りだと、ここはそう受け取っておく。
「それで、俺は、今までの作品の中で、自分がやってみたいと思ったことをさんざんやってきたわけだ」
「そうですよ。ですから、あれほどまでに情熱的で無我夢中な主人公を先生は書かれてきたわけで、読者さんはそれに共感されたのです。先生は、読者さんが共通に抱く願望を作品の中で具現化されてきたのです」
 目を輝かせて弓削くんは言うけど、それじゃ、俺はまるで男の妄想の権化みたいじゃないか。
「先生。それが先生の作品の魅力なんです。欲望に正直な主人公、しかも主人公が何をするにしても、そこには必ず愛が感じられる。ですから女性の固定ファンまでついたんじゃないですか。先生の描く主人公に情熱的に愛される夢を先生は多くの女性読者さんに与えてきたんです。これは強味ですよ」
 伸ばした背筋はそのままに、両膝に両手をついて、身を乗り出す勢いで弓削くんは言った。
 俺はため息をついてしまう。ローテーブルに肘をつき、片手で頭を抱え込んだ。
「……先生?」
「今きみが言ったそれが、できないんだ」
「先生……」
「もう、やりたいことなんて、ないんだ。やりつくしてしまったんだ。舐めたり揉んだりぶち込んだり、あんあん言わせたり、そのどれもが、もう、嫌になったんだ」
 俺は硬く短い自分の髪をがしがしとかきむしった。
「どんなに書いたって、俺自身の女性経験が増えるわけじゃない。俺が書くのは俺の夢でしかなく、女性読者がついてるとは言っても、読者とヴァーチャルセックスしたところで俺自身は何も変わらないじゃないか。限界なんだよ。もう、一滴も出ないんだ。むなしいんだよ!」
 こんなことを自分以外の誰かに話すなんて。いくら相手は弓削くんとは言え、あまりの恥ずかしさに俺はテーブルに突っ伏した。
 ほんの束の間の沈黙に包まれる。さすがの弓削くんでもどう対処したらいいのか困っているのだろう。俺にとってはベストパートナーである弓削くんを困らせるのは忍びない。でも、このままだと本当に俺自身がダメになってしまうんだ。
「……わかりました」
 静かな声が耳に届いた。
 いよいよ切られるのだと思った。自分から書けないと言い出したのに「切られる」という発想はつくづく身勝手だと思う。
 でも――。
 これで俺は今のこの苦しみから解放されるんだ。出版社とも編集部とも縁が切れて――二度と弓削くんに会うこともなく――ひとりっきりになる。
「このお話は最後の最後まで伏せておくつもりだったのですが――」
 予想外の切り出しに、俺は顔を上げた。
「先生のお気持ちをここまでお聞かせいただいた今、僕も相当のお返事を差し上げるべきだと思います」
 何を言われているのかわからなかった。
「つまり――先生は女性に対する夢を失われてしまったと、そうおっしゃるわけですね?」
「え……?」
「先生におかれては、フィクションは現実の穴を埋めるためのものでしかなかったと、そうなりますね?」
「は……?」
「いえ、そうなんですよ。そこが先生のスランプの原因でもあるわけです。フィクションはフィクションそのものにリアルが要求されるのに、先生はフィクションで埋められない現実を嘆いてらっしゃる」
「ちょ、ちょっと、弓削くん、それは違う」
 うろたえる俺を弓削くんはキッと見据えた。
「いえ、この際、論旨の差異はどうでもいいです」
「よかないだろ!」
「先生にはリハビリをお願いします」
「な、なんだよ!」
 そこで、弓削くんはかたわらにあった大きな紙袋に両手をつっこみ、取り出したものをドサッとテーブルの上に置いた。
「なんだ、それ――」
 本だ。しかも十数冊。
「弊社から刊行された文庫です」
「そんなの、見りゃわかる。俺が言いたいのは、その、ちゃらちゃらした少女マンガみたいな表紙はいったい何だって――」
「弊社から隔月で刊行されているボーイズラブ小説誌『小説ラブポップ』から文庫化されたものだからです」
「ラ、ラブポップ〜?」
 な、なんちゅーふざけたネーミングだ!
「ご存じありませんでしたか? 先生のファンになられた女性読者さんは、ほとんどが『小説ラブポップ』から流れてきた方たちなんですよ?」
「そ、そんなの、知るか!」
 吐き捨てるように言えば、弓削くんは眉をひそめた。
「そのおっしゃり方、読者さんに失礼です」
「う――」
 それはそうだけど、だからって――。
「俺には直接関係ないだろっ」
「先生」
 コホンと、わざとらしく咳払いすると、弓削くんは秘密を打ち明けるような口調で続けた。
「それが関係なくもないんですよ。この半年、美園先生にぜひ『小説ラブポップ』で書いて欲しいと、読者さんからの要望が多くて――」
「は、初めて聞くぞ!」
「最後の最後まで伏せておいた話ですから」
「はあ?」
 目を丸くする俺にニヤリと弓削くんは笑う。
「いい機会じゃないですか。女性に夢を抱けないとおっしゃるなら、この際ですから、男性に夢を抱いてみては?」
「な、なに言ってんだ、俺は――」
「ストップ! その続きをおっしゃられたら、ゲイの方たちに失礼です」
 言われて、ぐっと言葉に詰まったものの、この場にゲイはいないんだから何をどう言ったっていいじゃないかと反論しようとした矢先、弓削くんはいきなり頭を下げた。
「先生。僕は、先生がこのまま終わってしまわれては辛いんです。保身のために言っているのではありません。先生ご自身がどんなにスランプとおっしゃられても、先生が執筆される作品はいまだ魅力を失わず、でなければ、こうまでお引き止めいたしません。担当作家を失っても僕は平気でいられたでしょう」
 ラグに額をこすりつけるまでに頭を下げ、弓削くんは言う。
「お願いです。あきらめないでください。今回のお願いは一度きりと思ってくださってかまいません。いずれまた、『月刊お色気小説』で書かれるためにも、ここはひとつ、何かしら最後まで書き切ってみてください。どんな作品でも完結させることができれば、それが先生のリハビリになると僕は信じてます」
「弓削くん……」
「お願いします!」
 困った。本気で困った。
 2年の付き合いになるけど、弓削くんにここまで頭を下げさせたことなんてないんだ。むしろ、〆切を延ばしてくれとか、頭を下げるのは俺のほうだったわけで――。
「わかった」
「本当ですかっ?」
 ぱあっと明るい顔を上げると、弓削くんは目を輝かせて俺を見た。
 ああ、もう、そんな目で俺を見ないでくれ。そんな顔をされるとますます困る。
「だけど俺、そんなの書いたことないし、書けるかどうかなんて――」
「先生なら大丈夫です! 女性を男性に置き換えるだけで、いつものように書いてくだされば――」
 そこで言葉を切ると、弓削くんはテーブルの上の本を俺の方へずずっと押しやった。
「ご参考になるよう、お持ちしたのです。このジャンルの作品をお読みになったことは――」
「あるわけないだろ!」
「ですよね、ですから、この中の1冊でもお読みいただければおわかりいただけると思うのです、先生の作風は、このジャンルに最適なんです!」
 ……これ一度きりの依頼だと、さっき言わなかったか?
 なんか、また丸め込まれているような気はしたけど、さっきのような土下座まがいの態度を再び見せられるのは嫌だし、なにより、いつまでも押し問答しているのが嫌だし――。
「わかった。とりあえず読んでみるよ」
「ありがとうございます!」
「でも、書けるかどうかわからないよ?」
 そうさ、1文字だって書けないってのに。
「いえ、きっと書けます。先生ならできます」
 いったい何を根拠にそこまで強く言えるのかわからないけど、弓削くんはあくまで信じて疑わないといった様子だった。
 ため息が出る。期待されるのは重荷だ。けれど、ここまで誰かに信じてもらえる心地よさを感じているのも、また事実だった。
 ほかでもない弓削くんだ。弓削くんは俺のベストパートナーなんだと思う気持ちがますます強くなる。
「では、数日後に、お電話させていただきます。詳しくはそのときにもう一度――」
「わかった――それで、『お色気』のほうの原稿なんだが」
「ご心配には及びません。こちらに伺わせていただく前に、代替原稿は当たりをつけておきました」
「……そうか」
 仕事ができて用意周到な弓削くんではあるけど、代替原稿のことまで俺に話すのは、若さゆえの落ち度なのだろうか――3歳しか違わないけど。原稿を落としたのは自分なのに、既に代替原稿が用意されたと聞いて落ち込む俺も、まだまだ若いのかもしれない。とりあえず、ぎりぎり20代だしな――。
 よろしくお願いします、と、既に原稿を受け取れる気分にでもなったかのように弓削くんは帰っていった。ひとりになって、ローテーブルの上にあった本を手に取った。
 気乗りしないのは当然だ。1文字だって書けない状態なのに、いくらジャンルを変えたところで、書けないものは書けないに変わりない。
 それに、ホモでもない俺が、ホモ小説なんて書けるのか? あ、でも、それを言ったら、置いていかれた本の作者はどれも女性であるわけで、彼女たちはホモどころか男でもないのに男同士の恋愛とかセックスとかを書いているわけだ――。
 ん?
 それって、基本中の基本、素朴な疑問なんじゃないのか?
 なんてことを考えたら、つい、読み始めてしまった。読み続けること3時間。気づけば夕食も風呂も忘れて読んでいた。
 おもしろかったのか、と訊かれると返答に詰まる。俺は書く立場で読んだのだ。じゃ、書く立場としてどうだったかと言うと――それは企業秘密だ。
 ただ言えるのは、どういうわけか、俺だったら何をどう書くか、が浮かんだという事実だ。驚きだ。あれほど一滴も出ないと騒いだ俺の中に、ひとしずく生まれたのだ。
『旅先で肉欲に溺れた果てに自分を失うOL』――。
 それは今回『月刊お色気小説』で書くはずだったテーマだ。書こうと思っても何も浮かばなかったそのテーマに、なぜか喚起された。
 弓削くんが持ってきた本は、どれもハッピーエンドだった。どうやら、それがこのジャンルのお約束のひとつらしい。少なくとも、ここにある十数冊からはそう結論付けられる。
 ――旅に出た若者がひとりの少年と出会う。若者は急速に少年に惹かれていく。
 そうだ、それなら「傷心の若者」のほうがいいだろう。
 ――心の隙間を埋めるかのように、少年とのふれあいを若者は求めるようになる。
 うんうん、いい感じだ。なにしろ若者だからな、若さゆえ欲望には弱い。その論理がこのジャンルでは簡単に成り立つようだ。ま、事実そうなのかもしれないけど、俺自身は縁がなかったから――それで女性経験が少ないのは今さら触れたくないことだけど。
 そこでハッと気づいた。俺は俺の欲望を満たすために書いてきたようなものだけど、このジャンルには、その可能性がまだ残っている。うう、深く言及すれば世間に顔向けできなくなりそうだけど、それを作品という形にする限りは、俺自身が責められることはない。
 書ける。きっと、書ける。
 男同士のセックスだって、やってることに変わりはなさそうだし――ここにある本を読む限り――フェラシーンは女がやってると思えばいいんだし、突っ込む先だって女のあそこと脳内変換すればいいだけだし、いやいや、アナルセックスは既に何度も書いているからどうってことない――そう思えば、男同士の性行為に拒絶反応どころか微塵の抵抗感すら湧かない自分に驚いた。
 そうだよなー、エロはエロなんだし。エロ好きだし。エロは素晴らしいし。
 となれば、これが美園有也の作品だ、というものを書いてやろうじゃん。
 そうして俺は、その日のうちにプロットを書き出したんだ。弓削くんとの打ち合わせもなしに。
 ふと、没頭から我に返ったとき、窓の外は既に明るくなっていた。ふらつく頭でシャワーを浴び、ベッドにもぐりこむと、久しぶりに訪れた深く心地よい眠りに俺は落ちていったのだった。

つづく




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素材:Mistiqu