Words & Emotion Written by 奥杜レイ
千のしずく
−2−
『え? もう書き始められたんですか?』
弓削くんから電話があったのは2日後の月曜日の昼すぎだった。
「何かまずかったか?」
あまりにも戸惑った声だったので、俺は焦った。てっきり、がんばった俺をほめてくれるものと思っていたのだ。
『まずいってわけではありませんけど、プロット段階での打ち合わせがないと、と言うより、枚数だってまだお伝えしてないじゃないですか』
「雑誌掲載用だと思ったから100枚以内で仕上げるつもりだけど」
『そうですか、それなら結構なんですけど――。先生、プロットをファックスしていただけませんか? 向こうの編集から折り返し連絡入れさせますから』
「……え?」
ということは、つまり――。
「弓削くんが担当じゃないの?」
『は? やだな、何おっしゃってるんですか、僕は向こうの編集じゃありませんから』
「そうか――そうだよな……」
言われるまでもなく、ちょっと考えればわかる当然のことじゃないか。
『先生……そんなに不安になられないでくださいよ。大丈夫です、先生に失礼のないよう、ベテランが担当させていただくことになってますから』
「あ……ああ」
『がんばってください。以前の調子を取り戻されてください。僕、うれしいです。資料としてお持ちした本を読まれたか、それを伺いたくてお電話したのに、もう書き始められていると聞いて、本当にうれしいんです』
弓削くんが本気でうれしがってくれているのは声音から十分伝わってきた。弓削くんがそんなに喜んでくれるのなら、俺だってうれしい。うれしいのだけど――。
『先生?』
少し困ったような声が耳に響く。
『担当が替わるのが……そんなに不安ですか?』
「いや、不安と言うか」
『先生がナイーブでらっしゃるのは、よく存じ上げてますけど――がんばってください。誰が担当でも僕だと思ってください。僕はいつだって先生を思ってます。先生――』
しっとりと、ささやくような声で弓削くんは言った。
『僕だって、しばらく先生の担当を離れると思うと淋しいんですよ』
「弓削くん――」
なぜか、ふたりそろって沈黙してしまった。妙な間があいて、気持ちがざわつく。
「ゆ、弓削くん?」
『は、はい!』
「巨峰、ありがとう。おいしかったよ」
な、何を言ってるんだ、俺は!
『え? ――あ、いえ、それは――よかったです……』
な、なんで、しどろもどろ答えるんだ、弓削くん!
『先生……』
「あ、ああ」
『いっそうのご活躍、心からお祈りします』
「ありがとう……」
まるで、別れのあいさつのようなセリフを残して弓削くんはいきなり電話を切った。
……なんだったんだ、今のは。
いや、それよりも、プロット段階での打ち合わせもなしに俺は書き始めたのだから、至急ファックスしないとならないのは確かだ。せっかく書き始めた原稿がボツになったのではたまらない。プロットからやり直しなんて、そんなことになったら、今度こそ二度と書けなくなってしまうかもしれない。
A4用紙に簡潔にプロットを書き写し、そそくさと俺はファックスした。まず間違いなく、弓削くんがそれを受け取り、『小説ラブポップ』の編集部に届け、今回の担当から電話がくるのは早くて夕方、下手すると明日になるかもしれないと思っていた。
『ラブポップ編集部の富樫(とがし)と申します』
しかし、その電話がかかってきたのは、ファックスを送信してから2時間も経たないうちだった。
『本来でしたら、美園先生にはお会いしてごあいさつ申し上げるところではございますが、既にご執筆に入られたとのことですので、取り急ぎ、お電話で失礼させていただきます』
「はあ……」
やたらとテンションの高い女性編集者の声は続いた。
『プロット拝読させていただきました。とてもいい感じです。先生がこちらの作品を執筆されるのは今回が初めてと伺っておりましたが、ツボを押さえた設定に感服いたしました』
……ツボ?
『この、傷心の青年と地元のエキゾチックな美少年のカップリングは、萌えの基本とも言えるものです。数冊読まれてそこを押さえられるとは、さすが官能小説の大御所であられる美園先生ならではと――』
……カップリング? 萌え――? つーか、俺が大御所?
『ですが、大変な失礼を承知でのお願いになりますが、ご執筆の途中ではありますけど、冒頭部分だけでも先に拝読させてはいただけないでしょうか』
そこまでを、まさに立て板に水のごとく話し、富樫という女性編集者は言葉を切った。
『美園先生?』
「あ、ああ、失礼、えーっと、冒頭ですね?」
『はい。数枚ほどで結構ですので、ひとまずファックスで――よろしいですか?』
「かまわないよ、決定稿じゃないけど」
『ありがとうございます』
一方的にしゃべりまくられ、電話は切れた。
ついつい弓削くんの対応と比べている自分に気づいた。ベテラン編集者が担当につくとは弓削くんの言葉だったけど、要領を得た事務的な話の運びから察するに、その通り、富樫さんはベテランと思える。思えるのだけど。
『いっそうのご活躍、心からお祈りします』
電話を切る直前に弓削くんの口から聞かされた言葉が耳の奥によみがえった。まるで、もう二度と会うことがないような、そんな雰囲気を漂わせた、あの声音――。
まいったな――。
いずれにしても、引き受けて、ここまでこぎつけて、俺自身が書く気持ちになっているのだから、担当が替わっても、どんな編集者でも、俺は俺の作品を書き上げるまで――。
考えようによっては、むしろ事務的に徹せられたほうが気は楽だ。下手に親しく接せられるのは苦手だ。なので、俺も事務的に初稿の冒頭部分を原稿用紙にして10枚ほどファックスした。
原稿は、鈍くうなる音と共に、次々と電気通信機器に飲み込まれていく。べつに見てなくたっていいのに見てしまっていて――なんかむなしくなった。
送った原稿を読んで、いったいどんなふうに富樫さんは俺に電話してくるのだろう。
『いいですね、このまま続けてください』
せいぜい、そんなところだろう。だいたい、冒頭部分だけ読んで何がわかると言うのだ。どうせ文体とか、作風とか、そのへんを確かめたいだけなんだ。
と、またもや電話の前でうだうだしていたら、いきなり電話が鳴った。ファックスの送信先は『月刊お色気小説』の編集部だったから、まだ富樫さんの手元には届いてないはずだ。と言うか、『小説ラブポップ』のほうの電話番号とかそういうの、教えてくれなかったじゃないか。抜けてるなあ。
『美園先生』
電話は弓削くんだった。
『先生、原稿のファックス受け取りました。それで、僕、読んじゃったんです。すみません、もう担当じゃないのに。でも、これ、すっごくいいですよ、いい感じですよ、とても期待できます。これからどうなっていくのか、すぐに続きを読みたいくらいです。もう、先生ってば、1文字も書けないなんておっしゃって、ちゃんと書けてるじゃないですか!』
すっかり興奮しきった声だ。
『先生? ――あ、すみません、失礼なこと言っちゃった……かな?』
俺が答えないものだからか、途端にしょぼくれた声に変わった。
『――先生?』
「あ、いや……」
『もしかしなくても――すねてしまわれました?』
「いや、そうじゃない」
うまく言えなかった。
届いた原稿は必ずすぐに読んでくれて、こうした感想を即座によこしてくれるのが弓削くんなのだ。この2年間で、俺にとっては、それがすっかり当然になっていたのだと、思い知った瞬間だった。
「ありがとう」
『先生……』
「ありがとう、弓削くん。きみはいつだって、そうやって感想をくれるんだよな、おべんちゃらでもなんでもなくて、思ったままを率直に――今になって気づいた」
電話の向こうで弓削くんがくすっと笑ったのがわかった。深く息を吸い込む音まで耳に伝わってくる。
『やだなあ、なに言ってんですか。僕は先生のファンだって、ずっと言ってきたじゃないですか。先生の原稿を手にしたら読まずにはいられないんですよ』
「そうだったな……」
『これから富樫さんに届けてきます。――あれ? どうしてこちらにファックスを?』
「いや……間違えただけだ」
ファックス番号はまだ知らされていないと本当のことを言えば、弓削くんに余計な心配をかけることになる。
『先生――』
また、くすっと笑った声が聞こえた。
その瞬間、弓削くんの笑顔がいきなり思い出された。いつだってスーツをビシッと着こなし、隙なんてどこにもないのに、そのくせ笑うと、クールに整った顔は、あたたかみでいっぱいになる――。
『先生。この調子でこの作品、がんばって仕上げてくださいね。応援してます。必ず書き上げて、僕にも読ませてください。楽しみに待ってます』
電話を切ってからも、しばらくぼうっとしていた。会話の余韻をかみしめるように、じっと電話を見ていた。
このあいだ弓削くんに会ってから、まだ2日しか経っていない。なのに、どうしてこれほどまでに彼をなつかしく思ってしまうのか。
2年の歳月をかけて築いた彼との信頼の深さを思った。今までにも何度も思ったことだけど、今こそ、身にしみて感じられた。
弓削くんは俺のベストパートナーだったんだ。
――って、どうして過去形で考えているんだ、俺は。この仕事を終えて、『月刊お色気小説』に戻れば、また弓削くんと一緒に仕事できるじゃないか。
富樫さんからの返事を待たずに、何はともあれ、俺は続きを書き始めた。鉄は熱いうちに打て、だ。雑念の入る隙を作らないよう、今はただ、書き続けるのみだ。
仕事部屋兼リビングに使う部屋は16畳の広さがある。南はベランダで、西側の壁いっぱいに本棚やラックが並んでいる。東側の壁には、窓の方から、机、パソコンデスク、電話などが置かれたキャビネット、ついで、もうしわけ程度に2人がけのソファがある。部屋の中央にラグをしいて、そこにローテーブルを置いているから、俺がくつろぐときは、もっぱらラグでごろごろだ。
パソコンに向かう背中に、浴びる夕陽を感じて時刻を知った。真夏の日没は遅い。かすかにうなるエアコンの音が耳に戻って、俺は大きく伸びをした。
調子がいい。こんなに集中できたのは、いつ以来だろう。
目頭を強く押さえて揉んだ。原稿をプリントアウトする間に、キッチンで軽く食事をとる。集中していたせいか、空腹はかなりのものだが、こういうときは少しでも時間を惜しむ気持ちが働く。夕食はレトルトのカレーで済ませた。
ソファに座って原稿を読み返す。ソファを使うのは、こんなときくらいだ。推敲はあとにして、ひとまず書き上げた分を通して読んでみた。
タイトルは『エンドレス・シャワー』。女性向けの読み物として、ちょっとしゃれた感じを狙ってあえて英語にしてみた。
傷心の若者――設定は20代後半だ。恋に破れ、仕事も失い、今はもう頼る相手はひとりもいない彼は失意のうちに旅に出る。行く先は南方の島だ。あえて明記しなかったが、俺の頭の中ではタイのどこかになっている。プーケット島のようなメジャーな観光地ではなく、穴場のような場所だ。
海はどこまでも青く美しい。それを眺望するホテルは、こぢんまりとした家庭的な味わいを失っていない。白い砂浜に人が多く見られるのは日中に限られ、日没から早朝までは静かなところだ。
彼――笙(しょう)は、その地に着いた初日にホテルの従業員の息子だというリオに現地を案内される。
余談だが、主人公の名前の「笙」は、弓削くんが置いていってくれた本の中から見つけた。他作品とかぶってしまうが、まあ、そんなことはよくあることだし、いいだろう。それに、その名前をお借りした作品では、「笙」は主人公ではなく脇役だから問題ない。
現地の少年の名前をリオにしたのは、なんとなく思いついたからだ。どこかで聞いたようにも思うのだが――決してブラジルのリオ市からイメージしたのではない。実際にタイ人にそのような名前があるのか知らないが、作中ではタイと明記していないのだから、そこまで厳密にする必要はないだろう。
主人公の笙は、有り金をほぼ全額つぎこんで海外にまで来たのだった。はっきりとした自覚のないまま、それでも心のどこかでは死を望んでいた。
あっさりと自殺できるほどの絶望にひしがれているわけではない。ふとした何かの拍子に、もしかしたら断崖から飛び降りてしまいそうな自身に怯えていた。
そんな笙の内心をリオは半日を共に過ごしただけで感じ取っていた。リオは、初日にガイドを頼まれただけだったのだが、ことあるごとに笙の近くにやってくる。
それは、こんなふうにだ――。
笙は海岸で夜明けを待っていた。新しい朝を何度迎えようとも自分が変わるわけではないのは痛いほどわかっていたのだが、そうせずにはいられなかった。
快適なホテルの部屋で、昼近くまで惰眠をむさぼっては、この虚無感はさらに強まりそうに思えてならなかった。明け方までひとりジンを飲み、酔いにまかせたしばしの深い眠りからふと目覚めたのを機に、ふらつく頭で重い体をひきずるようにして、海岸に出てきたのだった。
この地に来て3日。旅程は1週間だから、こんな調子では残りの日はあっという間に失われてしまう。ガイドを頼んで初日に近くを見て回ったきりで、その後は観光らしい観光もせず、だからと言って、他の多くの人々のように海で遊ぶでもなかった。
――何をしに、俺はここまで来たのだろう。
酔いの残る頭でぼんやり考える。酔っていなくても答えは得られそうになかった。
白い砂浜にうずくまる笙の影が背後に長く伸びていった。笙の見つめる先、水平線がきらきらと輝き始める。背後に広がる熱帯雨林では、小鳥たちのさえずりが一斉に高まる。
頬に伝わる一筋のしずくに笙は我に返った。目に映る太陽は大きく、ゆらゆらと揺れながら昇っていく。朝陽を受け、体を包む大気が急に熱をはらんでいくのを笙は感じ取った。
『ミスター?』
かけられた声に、笙は驚いて顔を向けた。あの少年だった。初日にガイドをしてくれた――。
『リオ?』
少年はにっこりとうなずく。そして、立ったまま目の下を片手でこすり、涙を拭う素振りをして見せた。
『え……や、やだな』
慌てて目を拭い、笙は苦く笑った。まだ18にも満たない歳に見える相手だ。そんな年下の少年に涙を見られたと思うと恥ずかしくもあり、逆に、相手は少年だと思えば気を許せるようにも思えるのだった。
涙を拭った笙に、少年は明るくほほ笑んだ。朝陽の力を借りてか、それはいっそうの眩しさで笙の目に映った。
屈託のない、微塵の汚れも見つけられない、心からの笑顔――。
自身の幼い頃に笙の思いは馳せる。まだ恋も知らず、本当の痛みを知らなかった、あの頃。純粋のもたらす無垢と無知が、世間のしがらみによって、どのように失われていくのかを知ってしまった、今――。
可能性の広がりを無限にたたえた少年は、笙の目に美しく、朝陽に輝く海よりも美しく見えた。
ずっと気づいていたのだ。少年が自分を気にかけてくれているらしいことに。
でなければ、こんな早朝に、まだ誰もいない海岸に、少年が現れるはずがない。
それを疎ましく思うどころか、言葉も通じない、こんな堕落しきった自分に向けられる少年の思いが、素直に好意として笙には受け止められたのだった。
ちょっと硬かったかな。
そこまでを読み終えて、俺は原稿から目を上げた。弓削くんが置いていってくれた本を次々と手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
どれも平易で読みやすい文体だ。このままだと書き直しの指示が出るかもしれない。
とは思ったものの、1文字も書けなかった俺がここまで――原稿用紙にして30枚程度だろうか――書きかけのままプリントアウトするときは、俺が読みやすければそれでいいので、段組みして見開きの書式にしているから正確な枚数はわからないのだが――いずれにしても、これだけ書けたのだから、今までのペースはくずしたくない。
細かなことに気を回すのはあとにして、今はとにかく書き上げることだ。
それにしても、冒頭部分だけファックスしてから、富樫さんからの電話はなかった。壁の時計を見れば、午後9時を回っていた。
なんとなく、ため息が出た。雑誌の編集部は『月刊お色気小説』しか知らないが、同じ会社だし、まだ仕事している時間ではないのか。
ならば、今夜中に電話をくれるのだろうか。
それを思ったら、途端に落ち着かない気分になってしまった。肩から背にかけて、ひどく張っていることに気づく。原稿を机の上に置いて、今夜はシャワーではなく風呂につかろうと、湯を張りにバスルームに向かった。つづく
素材:Mistiqu