Words & Emotion   Written by 奥杜レイ



千のしずく

−6−


「――先生!」
 その週の金曜日の夜、唐突に訪れた俺に弓削くんは目をむいた。
「いきなり押しかけて来るなんて、どういうつもりですか!」
 怒っていた。仕方ない。俺とは、もう電話すらできないと言った弓削くんなのだから。
 火曜日、富樫さんと別れてからひとり喫茶店で赤くなったり青くなったりした俺は、今日のこのために、こんなに集中したのなんて初めてなんじゃないかと言える勢いで、きっちり〆切の今日までに改稿を終えていた。
 富樫さんが原稿を取りに来るのなんて待っていられなかった。編集部まで持参した。驚き、かしこまる富樫さんから弓削くんの自宅住所を無理に聞き出したのだ。
『本当はこういうのダメなんですよ。先生が弓削とどれほどのご関係なのか、お察ししての私の親切心とお受け取りくださいね』
 口ではぶつぶつ言いながらも富樫さんの目は笑っていた。ひどく意味深な笑いで――しょうがない、俺が自分でまいた種だ。弓削くんはゲイなのか、なんて富樫さんに訊いたものだから――。弓削くんの住所を教えてもらい、結果、富樫さんには借りを作ってしまった。
 弓削くんが既に退社しているであろうことは、わかっていた。昨日が『月刊お色気小説』最新号の発売日だったからだ。発売日翌日の金曜日、帰宅はまだだとしても玄関の前で待つつもりだった。
「事前にアポとっても、きみは応じてくれないと思ったから――」
 弓削くんの自宅である賃貸のワンルームマンションの玄関先で、俺はおずおずと答える。
「だからって……誰から聞いたんです?」
「富樫さん」
 ちょっと悔しそうに弓削くんは小さく舌打ちした。
 玄関ドアを半開きにして、それを中から押さえる格好で、弓削くんは顔を背けてうつむいている。
 目の先に弓削くんのつむじがよく見えた。さらっとした黒髪が流れ落ちて顔を半分おおい、あとはゆがんだ口元しか見えない。
 弓削くんはいつものスーツ姿ではなく、Vネックのラフな感じのサマーセーターを着ていた。葡萄色が色白の首筋に鮮やかで――やけに色っぽく目に映った。はきこんだジーンズはぴたりと下肢を包み――浅ましくも、きゅっと引き締まったヒップラインに目が行ってしまう。
 モノホンだな……俺。
 俺なりに迷ったし、悩んだんだ、一応。けれど、『エンドレス・シャワー』の改稿を進めるうちに、俺の決心は確かなものになっていた。
 主人公の笙の気持ちが、初稿を上げたとき以上に痛切に胸に迫ったんだ。深いところで気持ちの通じ合える相手――そんな相手は、何をどうしても、決して失ってはならないんだと、俺自身が心底そう思った。
「改稿指示が出たって聞きましたけど――終えられたんですか?」
 顔は背けたまま、苦しそうな声で弓削くんは言った。
「ああ、ここに来る前に渡してきた」
「そうですか」
 安心したようにつぶやいた。
「それで、ラストを書きかえたんだ」
「え?」
 驚いたように弓削くんは俺に顔を向けた。編集者の顔に戻っている。
「心配はいらない。ラストの書きかえは俺の判断だ。指示は出てなかった」
「……そうですか」
 途端にほっとした顔になる。
 まったく……きみって男は。
「コピーを持ってきたんだが、読んでくれないか?」
「そんな用でいらしたんですか?」
 本当は違う。でも、黙っていると、弓削くんは気をゆるめたようだった。
「……どうぞ、お入りください。散らかってますけど――」
 ドアを大きく開き、やっと俺を中に入れてくれた。
 玄関のわきはミニキッチンで、フローリングの広めのワンルームは、ベッドと机と本棚が目につく程度で、すっきりとした印象だった。散らかっていると言われたけど、散らかって見えるのは机の上くらいだ。
 何か飲み物を、とキッチンに向かおうとした弓削くんを止めて、俺は部屋の真ん中に突っ立ったまま、ジーンズの尻ポケットに丸めて突っ込んでおいた原稿のコピーを渡した。
「先に読んでくれ」
 眉をかすかにひそめ、それでも、弓削くんは受け取るとすぐに読み出した。
 書き直したラストシーンは原稿用紙にして5枚もない。弓削くんは、さすが編集者の速さですぐに読み終えると顔を上げた。
 驚いたような、困ったような顔に向かって俺は言う。
「どうかな?」
「どうかなって――」
「笙は、そうするのが自然だと思ったんだ」
 初稿では、別れるのが辛いあまり、リオには何も言わずに帰国する笙だった。しかし俺は、それはおかしいと、改稿して気づいたのだった。
 リオを連れて帰国するでもなく、リオに笙を追わせるでもなく、当然の結末は、現地に留まることを笙に選ばせることだったのだ。
 本物の恋であるのなら、みすみす捨てることなんてできない。ましてや、相手の気持ちを試すようなことなんてできない。
 それまでの人生で築いた何もかもを失うことになっても――アイデンティティーを揺るがすことになっても、相手への想いを貫けてこそ、その恋は本物と言えるのではないか。
 それに気づいたとき、俺自身が本物の恋をしたことがなかったのだと知った。
 何もかもを失ったとしても、この人さえいてくれれば幸せと思えるほどの相手――そんな相手にめぐり合ったことがなかったと、いや、そこまで誰かを愛したことがなかったと、俺は気づいたんだ。
 初対面が苦手、人付き合いが下手、そんな俺を理解して受け入れてくれる相手を探すばかりで、つまりは誰に対しても受動的で、俺から誰かに働きかけることなんて――なかった。
 女性経験が少ないのはあたりまえだ。俺みたいな甘ったれの男、付き合ってくれる相手を見つけられたとしても、愛想を尽かされるのは時間の問題だったんだ。
 弓削くんを失いたくないと思ったとき、果たしてその気持ちが恋なのか、俺にはわからなかった。けれど、弓削くんのような存在はそれまでの俺にはいなくて、弓削くんが特別なことだけは確かだった。
 俺が先に惚れたのではなく、惚れられて気づかされた恋でもいいじゃないか。今はただ、どんなことをしてでも弓削くんを俺のもとに留まらせたいと、こんなにも強く思っているのだから。
「弓削くん」
 突っ立ったまま向かい合っている弓削くんに俺は言う。俺の原稿を持つ手が震えて見える弓削くんに言う。
「俺は、笙と同じ結論にたどり着いたんだ」
 伏せていた顔をはじくように上げ、弓削くんは眉を寄せた顔で俺をじっと見つめた。
「きみの望む形でいい、俺はきみを失いたくない」
 それを声にするにはひどく勇気が必要で、勢いで、俺は弓削くんを抱き寄せた。
「せ、せんせ――」
 抱きしめた体は硬く骨ばっていて、弓削くんが男であることをあらためて思い知ったのだけど――俺は止まらなかった。
 妄想の果てに、触れてみたいとずっと思っていた頬に手を添えた。顎を引き上げ、唇を重ねた。
 そうすることで、相手を確かに自分のものとできるのなら、体を交えるのはなんて素晴らしいことだろうと思う。
 俺が今まで書き散らしてきた小説でも、書き及ぶことのなかった、恋愛の真髄――身も心もひとつとなりうる予感は、これほどまでに俺を昂揚させる。
 こんなに気持ちをこめて相手に触れたことなんてなかった。
 俺は、弓削くんの頬をさすり、髪に触れ、肩を撫で下ろし、腰を引き寄せる。密着した体と体の間で、隠しようのない欲望が頭をもたげた。
 理性では止められないのが情動だ。弓削くんの本心を確かめもせずに、俺は弓削くんの口の中にまで押し入る。唇を舌先でこじ開け、舌を挿し入れ、深く探った。
「ん、ふ……は、あ!」
 身をよじり、弓削くんは俺の胸を強く押した。どうにか俺のくちづけから逃れ、真っ赤になった顔で俺を睨む。
「な、なんのつもりです、先生!」
「弓削くん、俺は――」
「僕をからかってるんですか!」
 そんなふうに返されるとは思いもしなかった。俺は何も言えなくなる。まさか――俺ひとりの早とちりだったとでも?
「か、からかってるなんて……」
「からかってないんなら、何なんです! 先生はノンケでしょ? 自作の主人公にシンクロして、おかしくなったんですかっ?」
「なんてこと言うんだ! 今まで一度でも、俺が自作の主人公にシンクロして何かしたことなんてあるかっ?」
 そんなことしてたら大変だ、俺はとっくに性犯罪者として警察に捕まっている!
「俺が作品と生活をきちんと切り離せているのは、きみが一番知ってるじゃないか!」
 言えば、うっ、と弓削くんは声を詰まらせた。しかし、すぐに言い返す。
「でも、一時の気の迷いなんでしょっ? ノンケの気の迷いで抱かれるなんて真っ平だ! 僕は本気なんだ!」
 言ってからハッとして、弓削くんは手で口を押さえた。
「今のが本音か?」
 うれしくて、でも耳を疑って、俺は言う。
「今のが……きみの本心なんだろう?」
 じりじりと後ずさりする弓削くんに一歩踏み出した。
「だから……俺と会うのも俺に電話するのもできないって……言ったんだろう?」
 弓削くんはかすかに首を振った。大きく見開いた目は、ひたりと俺に据えたまま――。
「きみを失いたくない、いや、きみが欲しいんだ、いつまでも俺のそばにいて欲しい、仕事なんか関係なく、いつまでも――」
 くるりと背を向けた体を捕らえた。背後からきつく抱きしめ、強引に顔だけ振り向かせる。有無を言わせない勢いで再び唇を奪った。
「う、う……」
 もれてくる声さえ吸い尽くすほどむさぼり、夢中になって弓削くんの体中を撫で回す。その箇所をジーンズの硬い布地の上から握った。
「あ!」
 残念ながら、男の体は正直にできている。態度でどう拒もうと、そこだけは弓削くんの本心を明らかにしていた。
「もう……知りませんよ」
 唇を解放すれば、上ずった声で弓削くんは言う。
「僕に火をつけたら――もう、後戻りはできませんよ」
 潤んだ眼差しで、じっと俺を見て言う。
 圧倒された。こんな弓削くんを見るのは初めてで――頬を染め、恥じらっているようでいて、そのくせ乱れた黒髪の合間からのぞく目は――燃えるような情欲に濡れていた。
 む、むちゃくちゃ……セクシー……。
「わ!」
 ベッドに押し倒された。間髪を入れずに俺の上に馬乗りになると、とんでもない勢いで、弓削くんは俺のTシャツを引き抜く。
「ゆ、弓削くん……?」
「先生がどこまで本気なのか、確かめるまでです!」
 え……ええっ?
 手際よく、俺にはできない芸当で弓削くんは俺を裸にむいていく。
 ちょ、ちょっと待て、弓削くん、もしかしなくても、ものすごく……慣れてる?
 俺は自分の経験の少なさを思った。そんなこと思ってる場合じゃないけど、マジで焦ってくる。男相手なんてゼロだし、女相手にしたところで――。
「ま、待ってくれ、弓削くん!」
「今さら、なに言ってんですか」
 すっかり裸にされた俺の腰にまたがり、弓削くんは冷ややかに俺を見下ろした。
 もしかしなくても……鞭モード?
 俺を冷たく見つめたまま、弓削くんは葡萄色のサマーセーターを脱ぎ捨てた。頭をひとふりして、乱れた黒髪を直す。
 細く引き締まった体は見るからに瑞々しく、ふくらみがなくても、ふたつの鮮やかな色の飾りをつけた胸は悩ましいほど色っぽかった。
 ふっ、と弓削くんは口元をゆるめた。涼しげな目を細め、ささやくように言う。
「先生――かわいい」
 ぎゃ〜〜っ!
 声にならない悲鳴を上げ、顔を引きつらせた俺に弓削くんは覆い被さってきた。唇を奪われる。
 ひ、ひえ〜……。
 抵抗なんてできない。俺がするのではなく、誰かにされるキスなんて初めてだった。
 しかも、しかも――弓削くんは、俺なんかよりも、ずーっとうまいのだ。頭の芯がぼうっとして、くらくらするキスなんて生まれて初めてだった。
 俺の上で弓削くんはごそごそと動いている。気づいたときには、弓削くんも一糸まとわぬ姿になっていた。
 ななな、なんか、まともに見られない。そ、その、それなんか――わーっ。
「なんでビビってんですか、先生」
 俺のものをそっと手で包み、弓削くんはくすりと笑う。
「突っ込まれるとでも思ってるんですか? 知りません? そういうの、ノンケの論理って言うんですよ?」
 あー、もう、なんでそんなに冷静なんだ!
「ホント、かわいい人だな……せんせ」
 なんて言って、ちゅっ、と音を立てて俺の耳にキスをした。
 俺にまたがったまま、俺のものをつかんだまま、弓削くんは俺の顔に胸を押し付けるようにして、ベッドヘッドの向こうに手を伸ばした。
 俺はぴくりとも身動きできない。やけに興奮して、あれがギンギンに硬くなっているのはわかるけど、全身まで硬くしていた。
 弓削くんは上体を起こすと、ずりずりと俺の腿の上まで下がった。そこでやっと俺のものを放し、もう片方の手にあったボトルのキャップを開ける。
「これ、何だかわかります?」
 笑っている。笑いながら、俺によく見えるようにボトルを高く上げ、そこからタラリと垂らした液体をもう片方の手で受けて言った。
「ラブローション」
「ぶっ」
「……吹き出すこと、ないでしょ?」
 ま、まずい!
 いったい何をされるのかと焦った次の瞬間、弓削くんはガバッと身を屈め、俺のものをパクリと口に含んだ。
「うっ……」
 な、なんつー舌の使い方だ! これはちょっと、小説の参考にしないと――。
 なんて余裕ぶっこいていられるわけがなく、たちまちのうちに俺は上り詰めていく。
「せんせ」
 すぽっと口を離し、弓削くんは身を屈めたまま上目づかいで俺を見た。
「ダメですよ、まだ――」
 て、なあ、きみが、きみが〜!
 ハッとした。弓削くんは片手を後ろに回していたのだ。それは、つまり……。
 目を細め、俺を見つめながら自分で自分のそこを――ほぐしている。頬を紅潮させたその表情が……なんて言えばいいんだ、つまり――エロい。あー、小説書いてるくせに、ほかに言いようがないのか、俺は〜!
 うっとりとした弓削くんの目は今にも溶けてしまいそうで、薄く開いた唇からは熱い吐息がもれ、それが俺のそこにかかった。湿った吐息に包まれただけで、口に含まれる快感を期待して俺は震える――なんちゃって。
 じゃなくって、マジで弓削くんは再び俺のものを口に含んだ。根元をつかみ、激しく動いても口から抜けないようにして、しっかり舐めねぶる。
 気持ちいい、ものすごく。すぐにでも達してしまいそうだ。なんだけど――。
 弓削くんが激しく動いているのは、自分のそこに自分の指を出し入れしているからで、それを思うと、俺は自分の不甲斐なさが身にしみて情けなくなった。
 結局は、弓削くんに抱かれているんじゃないか。俺は弓削くんにされるままで、俺からは何もしてあげてなくて――。
 弓削くん……。
「はあ、」
 口を離し、大きく息を吸い込むと、弓削くんは再び俺の上にまたがった。そして――ゆっくりと腰を落としてきた。
「……先生……もらっちゃいます……」
 そんな言い方を弓削くんにさせるなんて!
 熱い体内に迎え入れられて、俺は瞬時に燃え上がった。弓削くんを突き上げる。
「あ、せ、先生?」
 髪を振り乱し、弓削くんは俺を見る。その目が、ひどく頼りなく、困惑したように見えるから――さらに俺は腰を使った。
「ん!」
 振り落とされそうになって、弓削くんは俺にしがみついた。
「は、あ、あ……ん!」
 咄嗟に上体を起こすと、より深く俺を迎え入れた。背をそらせ、後ろに手を回して俺の腿をきつくつかんだ。
 壮絶な眺めだった。俺が突き上げるたびに弓削くんの体が揺れる。そのたびに甘い喘ぎがもれ、ますます俺は昂ぶった。
 俺の見つめる先で、弓削くんのものも高くそそり立っていた。その先からしずくが溢れ出ている。まるで泣いているようで、俺は慰めてやりたくなって――。
「あ、やだっ」
 腹に力を入れて上体を跳ね上げ、即座に弓削くんのものをつかんだ。もう片方の手で、弓削くんの腰を支える。
「ん――」
 唇を引き結び、弓削くんは眉をひそめる。その表情すらたまらなく、俺は夢中になって弓削くんのものをしごき、腰を使い続けた。
「あ、あ……せんせっ」
 握る手がぬるく濡れたのと、俺自身がはじけたのは同時だった。
 目が合って、弓削くんは途端に恥ずかしそうに顔を背けた。俺の上から逃げようとする体をすかさずきつく抱きしめた。
 汗にぬめり、吐き出す息も熱く、はずむ鼓動は抑えようもなく――重なる肌と肌がひどく心地よかった。
 安心する。こんな弓削くんを抱きしめられて、俺はほっとしていた。
「放してください、先生……」
 かすれた声が耳元でささやいた。
「どうして」
「どうしてって――」
 ためらいを感じさせる声に、俺はいっそう弓削くんをきつく抱きしめた。
 放すもんか。絶対に。
「先生……僕、勘違いしてしまいます……」
「勘違い?」
 声は返ってこなかった。けれど、弓削くんが何を言いたいのかはわかるから――。
「俺も本気だ」
 弓削くんの耳元ではっきりと言った。聞こえなかったとは言わせない。
「――先生」
「まだ何か問題あるのか? 俺の気持ちは確かめられなかったのか?」
 言えば、弓削くんはゆるく頭を振った。顔を上げ、俺をじっと見つめ――俺の首にかじりついた。
「僕は、僕は――恐いんです」
「……何が?」
「先生は、僕が初めてでしょう? だから――」
「誰にだって初めてはあるじゃないか」
「でも、今までは女性としか――」
「これからは、きみだけだ」
 愛しさがつのった。悪ぶって俺を翻弄しただけで、それは不安が引き起こした弓削くんの怯えの裏返しだとわかったから。
「好きだよ」
 俺は弓削くんにくちづける。精一杯の気持ちを伝えるために。
「……先生」
 俺に押されて身を横たえ、弓削くんは揺れる眼差しで俺を見上げた。
「うれしい」
 のしかかる俺の首に腕を回す。
「……一度きりでもいいと思ってた」
 うっとりとした声に胸が打たれ、答える声は震えてしまった。
「バカだな――一度で済むもんか」
 それから、飽きることのない行為に俺たちがいつまでも没頭したのは言うまでもない。それこそ一滴も出なくなるまで、俺は弓削くんを抱き続けたのだった。


 『エンドレス・シャワー』は一度の改稿で、無事に『小説ラブポップ』に掲載された。反響は予想以上で、今までにないテイストが好評だったようだ。作者が男であることがどのくらい作用したのかは、俺の知るところではない。
 『月刊お色気小説』の最新号も俺は読んだ。俺の代替原稿として掲載された作品は新人の初掲載作で――悔しいけど、おもしろかった。
 自分は枯れてしまったと限界を感じたあの時点で、俺は負けていたのだ。俺自身に。あのとき、どうにか依頼作を書き上げられたとしても、果たして俺は、その後も書き続けられていただろうか?
 それを思うと、俺は強く内省を求められる。誰にでもない、俺自身に、だ。
 今は、新しいフィールドを与えられたことに感謝して、今まで以上に真摯に作品に取り組んでいきたいと思っている。今までにないほど、これからも書いて、書き続けて、生きていきたいと思っている。
「あたりまえですよ。先生は、そういうふうに生まれついたんですから」
 そんな、歯の浮くようなことを平気で言えるのは弓削くんだからだ。でも、俺はそれを素直に受け取り、心の支えとする。
 初めてのあの日から何度目かの、体を交えたあとだった。初めてのあのとき、どうして弓削くんがあれほどまでに俺の気持ちを疑ったのか、俺は知らされたのだった。
 彼には、辛い過去があったから――。
 二度とノンケもしくはバイの男に本気にはならないと決めていたそうだ。けれど、どんなに自分にそう言い聞かせても、惚れてしまえば、相手に惹かれるのは止められようもないのが恋であるわけで。
 ボーイズラブの世界はあれほどまでに自由で幸福にあふれているのに、弓削くんが辿ってきた現実を思うと俺は胸が詰まった。
 ならば、なおさら、俺は読む人が幸福な気持ちになれる作品を書きたいと思うわけで、自然と執筆に熱が入るのだ。
 おかげで今の俺は絶好調だ。思うように書ける喜びを取り戻せて、弓削くんという恋人をも得て――。
 以来、弓削くんは俺の部屋に頻繁に来るようになった。そのうち、同居しようと俺が言い出せば、案外、あっさり同意してくれるんじゃないかと思えるほどだ。
「先生、もしかして、最近、いろいろ研究されてます?」
 ベッドに横たわり、俺の下で喘ぎながら、弓削くんはそんなことを言う。
「――なんで?」
「だって……」
 くすっと笑って見せる顔は、心から満たされているようで俺まで幸せな気分になる。
 いろいろと研究しているのは当然だ。執筆の材料として必要なのもあるけど、なによりも恋人を喜ばせるためだ。
「あ……せんせっ」
 仰け反った首筋にくちづける。
「こんな関係になったのに、まだ俺を『先生』って呼ぶのか?」
 『小説ラブポップ』にきっちり移ってしまった今、弓削くんと一緒に仕事することは、もうなかった。
「せ、先生だって、僕のこと、まだ『弓削くん』って呼ぶじゃないですか」
 確かに――。それなら名前で呼ぼうとして、一瞬、俺はためらった。
「先生?」
 動きの止まった俺を弓削くんは怪訝そうに見上げる。
「えーっと……」
 『リオ』と呼べばいいのだろうけど、そう呼んだら、また自作の主人公とシンクロしているだのなんだの、余計な詮索を蒸し返してしまいそうで、けれど、弓削くんの名前は『里央』であるのは事実で――。
「……『さとお』?」
 しまったと思っても、もう遅い。見る見るうちに弓削くんの眉間にしわが寄っていく。
「――ギャグにもなりませんよ」
 低く、凄むように言うと、俺を跳ね除け、体を返して弓削くんは俺の上に乗った。
 ……鞭モード?
「僕の名前が『りお』だって、もう、ご存知なんでしょう?」
 冷ややかに俺を見下ろす眼差しにすくむ。けれど、それもまた快感だったりして――。
「で、でも、俺が笙とシンクロしてるとか、また、きみ、言い出しそうだったから――」
 俺にまたがる弓削くんは、いつもながら女王様然としている。クールビューティーの名に恥じない――と言うか、ボーイズラブ小説を書くうちに、弓削くんをたとえるならそれが一番だと気づいたのだが――クールに整った弓削くんの顔は、ふと、悲しそうにゆがんだ。
「――先生。まだ怒ってらっしゃるんですか?」
「ななな、何を?」
「……初めてのとき、僕が先生の気持ちを疑ったこと」
 目を伏せ、言いにくそうにぽつりともらした。
「いやっ? ぜんぜんっ?」
「それなら、名前で呼んでくださいよ……『りお』って――」
 体を重ね、俺の胸に胸をすり寄せた。俺の頬を指先で撫で、甘えるように言う。
「ね、せんせ」
 だ、ダメだ、俺がこれに弱いのを知っていて、弓削くんは何度もこの手を使う。
 『先生』と呼ぶなと言いつつも、この状況で、この声で、こんなふうに呼ばれると、むちゃくちゃ燃えるんだ〜!
「り、りお!」
 形勢逆転、たきつけられて、俺は弓削くんを組み敷いた。
「せ〜んせっ」
 うれしそうな声を上げて、弓削くんは俺の首にかじりついた。
 あとはもう、声なんか出せないディープキス。気づけば、やっぱり弓削くんに丸め込まれている自分を知るのだけど――でも、それが幸せなんだ、俺は。
 あふれる想いがあって、何もかもを乗り越えて、それを注ぎ合い、伝え合い続けられるのなら、それが俺の生きる力になる。
 今後、何作書いたって、きっと『エンドレス・シャワー』が俺の代表作だろう。客観的な評価じゃなくて、俺にとっては――そして、弓削くんにとっても――それは間違いない。
 いつまでも降り注ぐ愛が、俺たちを満たし続けてくれるのだから。




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素材:Mistiqu