Words & Emotion   Written by 奥杜レイ



千のしずく

−5−


「申し訳ありません、ご足労いただきまして」
 『エンドレス・シャワー』の初稿を渡してから4日経った翌週の火曜日、俺は編集部近くの喫茶店で富樫さんと会った。
「さっそくですが、お預かりした原稿についてなんですけど――」
 注文したコーヒーを一口飲んだだけで、富樫さんは切り出した。
 内容は、改稿についてだ。俺には、圧倒的にこのジャンルの作品の読書量が不足している。初稿を通してみせると意気込んだものの、いくつかの指摘を受けた。
「……わかりました」
 改稿の指示は納得のいくものだった。エンターテイメントに徹するなら、読者を楽しませることを念頭におくべきとは当然だ。それが「商品」となりうる小説の必須条件であるのは、今までの経験から理解していた。
「美園先生ほどの方に、改稿のお願いをするのは恐縮なのですが」
 富樫さんはかしこまって言う。今までとは異なり、俺に気をつかっているのがありありとわかって、それはそれで居心地が悪かった。
「じゃ、今週中には二稿を渡せるようにしますので」
 俺が言えば、富樫さんは即答した。
「よろしくお願いします」
 冷め切ってしまったコーヒーを口に運ぶ。
「でも――」
 富樫さんのその様子を見つめ、迷いながらも俺は言ってみた。
「ラストはあのままで、いいんですか?」
 その質問の意図は、こういうことだ。
 『エンドレス・シャワー』のラスト、リオへの想いを遂げた笙ではあるが、結局はそれ以上のことは何もできずに日本に帰ってしまう。帰国してからは、短い期間に熱く燃えた恋を支えに、新しい人生を歩み始めるのだ――。

 あの恋は本物だった。笙にとっては本物だったのだ。
 リオを思えば、笙の胸はすぐに熱くたぎった。どんなに時が流れても、この熱い想いが消えることはないと、笙は知った。
 リオへの想いは笙の胸に永遠に降り注ぐ。あたたかく、熱く胸を満たし、それはまるで、あの時のスコールのように、いつまでも途切れはしないのだ。
 笙は生きていく。これからも生きていく。生きる力と喜びを――リオに分け与えてもらったのだから。


 『エンドレス・シャワー』はそれで終わる。つまりは、ハッピーエンドではないのだ。
「相手に何も言わずに日本に帰ってしまう主人公というのは、どうなんでしょう?」
 ラストはかなり迷った。現実的に考えれば、笙という男にはリオを連れ帰れるような甲斐性はないし、夢物語として終えようと思えば、リオに笙を追わせることもできた。
 俺が選んだのは、現実的なラストということになる。
「そうですね、望ましくはありませんが、この作品としては納得のいく結末でした。美しい悲恋ものを好む読者はかなりいますから、あえて変える必要はないと私は思います」
 富樫さんはきっぱりと言った。それは、俺には心強く感じられた。
「それで、質問のご回答のほうは――?」
 改稿の件は終わったとばかりに、すかさず富樫さんは話を変えた。ファックスする前に改稿の件で会う約束をしたので、持参することになっていた。
「一応、書いたことは書いたんですが――」
 趣味、嗜好品に関する質問など、ありきたりなものは何も考えずにすぐに書けた。けれど、『先生の萌えるカップリングとは?』とか『どんなシチュエーションに萌えますか?』とか、なんとも答えようのない質問には回答できなかった。挙句に、予想通り『ズバリ、先生はゲイですか?』という質問が最後にあった。
「カンベンしてくださいよ」
 俺が渋々と差し出した質問用紙に記入された回答を見て、富樫さんは口元に笑みを浮かべた。
「それ、最後の、どういうつもりですか」
「あら、正直にお答えいただかなくても結構なんですよ。なんでしたら、『ひみつ』とでもご記入いただければ」
 我慢できないという感じで、富樫さんはころころと笑い出した。
「待ってくださいよ、それじゃ――」
「美園先生」
 ぴたりと笑いを止め、すっかり困り果てた俺に向かって、富樫さんは真剣な目で言った。
「このようなことは、今後もあるとご承知いただけませんか。先生のご性格は弓削から伺い、おおよそ理解させていただいたつもりです。その上で、あえて申し上げますが、これからもこのジャンルで続けていかれるためにも、それ相当のご覚悟をお願いします」
「……どういうことですか」
「弓削からお聞き及びではありませんか?」
 その質問が何を言っているのかわかったが、確信が持てず、また、その事実を認めたくなかったから俺は否定した。少なくとも弓削くんは、俺にはっきりとは言わなかったのだ。
「――いいえ」
 驚いたように大きく目を見開き、富樫さんは、すっと俺から視線を逸らした。
「どうしようもないわね……伝えるように頼んでおいたのに」
 どうにか聞き取れる程度の声でつぶやいた。
「富樫さん」
 呼びかけると目は戻したものの、形よい眉をひそかに寄せていた。
「失礼しました。弓削は前の部署での私の後輩だったこともあって、信頼していたのですが、先生と弓削の結びつきの深さを考えれば、弓削の口から伝えさせようとした私に落ち度があったようです」
「どういうことです?」
 背筋を正し、富樫さんは慎重に話し始めた。
「率直に申し上げますと、今回の作品は、先生を試させていただくものだったのです」
 すべてが明かされた。俺がうすうす感づいていた通り、俺は『月刊お色気小説』では切られたのと同然の扱いになっていたのだ。それで、弓削くんは俺に傾倒するあまり、『小説ラブポップ』で俺が書けないものかと富樫さんに打診したのだった。
 俺の作品に女性読者が多いのは事実で、そのほとんどが『小説ラブポップ』から流れたのも事実だと富樫さんは言った。加えて、俺の作品の男性読者受けが半年ほど前から落ちているとも言った。
 つまりは、『エンドレス・シャワー』は、俺にとっては再起をかけた試験だったわけだ。今後も作家として生き延びていけるか、それとも、筆を折るしかないか、の――。
 そんなこと、弓削くんが俺に言えるはずがなかった。少なくとも、書き始める前にそれを言われていたら、俺はきっと書き上げることなどできなかったと思う。
「どうぞ、ご立腹なさらないでください。はっきり申し上げれば、先生が男性であることを宣伝材料に使えれば、それでどうにかなると初めは考えていたのです」
「じゃ、その質問の回答、そんな感じに書きかえましょうか?」
 投げやりな気持ちで吐き捨てるように言って、俺は、顔を伏せた。
 俺としては、『月刊お色気小説』にすぐに戻れると思っていたから、『小説ラブポップ』には最初から1作で終わりのつもりで書いたんだ。でも、だからと言って、書き上げた作品に愛着がないと言えば嘘になる。できることなら、そんなふうに掲載されるくらいなら原稿を返せと言いたいくらいだ。
 けれど、弓削くんの気持ちを思うとそれは言えなかった。俺に書き続けて欲しいと願う弓削くんの気持ちには一点の曇りもないはずで、だからこそ、こんな、弓削くんらしくもない、俺をハメるようなマネをしてまで俺に書かせたんだ。
 『エンドレス・シャワー』は絶対に落とせない。たとえこれが俺の最後の作品になろうとも、ケチのついた掲載になろうとも、何をしても落とすことはできないと思った。
「質問の回答はこのままで結構です」
 予想外の返答を聞いて、俺は驚いて顔を上げた。
「いいえ、質問を少し変えさせてください」
 にっこりと笑んで、富樫さんは言う。
「先生が男性であることを売りにする必要は、もう、ありませんから。『エンドレス・シャワー』は十分に勝負できる作品に仕上がってます。さきほどお願いした改稿点は、このジャンル特有のお約束のようなもので、お預かりした原稿は、小説としては遜色ございません」
「じゃ……」
「はい。私共としましては、先生には次回作もご依頼したいと思っております」
「それは……」
 この次なんて、考えていなかった。書けるようになれば、『月刊お色気小説』に戻れると思っていたから。でもそれは、もう、ない話で――。
「今すぐお答えいただけなくて結構です。この作品が掲載され、読者からの反響をご自身で感じ取られて、それからでも十分にご検討ください」
「……すみません」
「先生。私も先生の作品のファンなんですよ?」
 唐突なことを言われ、俺はなんと答えればいいのか声に詰まった。
「まだまだ至らないところは多いと思いますが、私も弓削のように先生と二人三脚でやっていきたいと思っているんですよ。先生の作品に自分の名前を使ってもらえるなんて、光栄じゃありませんか」
「はっ?」
 それにはさすがに焦った。
「待ってくださいよ、俺、弓削くんの名前なんて使ったことないですよ?」
「あら。じゃ、リオっていうのは――」
「なんとなく思いついて……じゃなくて、弓削くんの名前って――」
 そこまで言って、俺はハッとした。
「弓削の名前は『里央』と書いて、読みは『リオ』なんです。『さとお』とか『さとひろ』とか読まれて面倒だと本人は言ってますけど」
 テーブルの上に指先で文字を書きながら、「ゆげりお」なんてフルネームでも珍しい名前ですよね、と富樫さんはつぶやいた。
 だけど俺は、それどころじゃなかった。いや、そのことで頭がいっぱいになっていた。
 ――リオ。
『リオという名前を選ばれたのには理由があるんですか』
 土曜日の晩にかかってきた電話で弓削くんは俺にそう言ったのだ。どうしてそんなことを尋ねられたのか、そのときの俺にはピンとこなかったのだが、今になってわかった。
 金曜日、『エンドレス・シャワー』の原稿を受け取った富樫さんと弓削くんは、その足で会社に戻ったのだそうだ。
 弓削くんは原稿のコピーを取り、その夜、持ち帰った『エンドレス・シャワー』をさっそく読んでくれたとのことだった。
 読んだらすぐに感想をくれるのが弓削くんだ。会社は休みの土曜日でも、それに変わりはなかった。
『先生、とてもよかったです。恥ずかしながら、僕、ちょっと泣いちゃいましたよ』
 照れくさそうな声が耳の奥に響いて、俺はくすぐったかった。
『もう、スランプだなんて言わないでください。これだけのもの、書けたじゃないですか。今までのどの作品にも勝るとも劣らない出来です。いえ、むしろ、恋愛感情を重視して書かれる先生には、こちらのジャンルのほうが合っているように僕には思えます』
 熱っぽく、誠意をこめて語る弓削くんの声に、じんと胸が熱くなった。
 やっぱり、俺を一番わかってくれるのは弓削くんなんだ――。
 担当でもないのに、担当編集者よりも早く反応を返してくれる弓削くん。そこに、個人的な感情がないとは決して言えないだろう。
『今のこの調子をくずさずに、これからもずっと書き続けてください』
 だから、その声を聞かされた途端、俺は体の芯が冷たくなるのを感じたのだ。
「弓削くん、それはつまり、やっぱり――」
 自分から、俺は切られたのか、と尋ねることはできなくて――現金なものだ。もう二度と書けないと思ったときは、すっぱり作家から足を洗う覚悟までした俺なのに、こうして1作でも書けてしまえば、切られたと聞かされるのも尋ねるのさえも辛く思えて――。
『先生にならできます。富樫さんはベテランですし』
 俺にはもう、『小説ラブポップ』にしか行き場がないと、弓削くんは遠まわしに言ったのだ。ショックだった。
『先生』
 ひどく沈んだ声で弓削くんは続けた。
『この作品が、先生と関われた最後になって、僕はとても幸せです』
「何を言うんだ」
『言わせてください。先生のつづられた言葉のひとつひとつが、この作品にあるように、スコールのしずくになって僕の胸に降り注いだんです。それは、永遠に途切れることはありません。先生――リオという名前を選ばれたのには、理由があるんですか?』
 そう、そのタイミングで、「リオ」という名前を選んだのには理由があるのかと尋ねられたのだ。
「いや……なんとなく思いついたんだ。どこかで聞いたように思うのだけど、はっきりとは思い出せなくて――」
『そうですか……』
 沈んで聞こえていた弓削くんの声は、それを言ったとき、さらに深く沈んで俺の耳に届いた。
「なにか問題でも?」
 今思えば、マヌケな質問をしたのだ、俺は。
『問題なんて……いいんです、変なことをお尋ねしました、気になさらないでください』
「弓削くん――」
 少し間があいて、その間に、俺はどうしても抑え切れない気持ちになって、言ってしまった。
「きみと一緒に仕事できなくなるのが辛くてたまらない。お願いだ、時々でいい、これからもこうして電話をくれたり、そういうことを――してもらえないだろうか?」
 弓削くんに甘える自分が恥ずかしかった。作家と編集者という関係を超えているとしても、それは、弓削くんにとっては、作家と熱烈なファンの関係かもしれないし、俺が願うような――親友とか、心の支えとか、そういった関係ではないかもしれないのに。
『――無理です』
 期待を裏切り、返された声は冷たく響いた。
『あんな作品を読ませてもらってしまっては、もう、僕は、先生と会うことも、先生と電話で話すことも――』
「ゆ、弓削くん!」
『僕は、これからは、陰ながら応援させていただきます、先生の今まで以上のご活躍を心からお祈りしています』
 そこで、電話は唐突に切られてしまった。弓削くんの携帯電話番号は知らされていたけど、自分からかけ直すなんてことは――できなかった。
 俺が弓削くんに抱いていた気持ちと、弓削くんが俺に抱いていた気持ちは、はっきり違うと言われたのも同然だったから――。
 ――でも。
「富樫さん」
 黒の大きな革のバッグをごそごそと探り、今にも席を立ちそうな富樫さんを呼び止めた。
「あの……」
「なんでしょうか?」
 にこっと笑って富樫さんは答える。
「えっと――弓削くんは後輩だとさっき言われましけど、プライベートでも親しいんですか?」
 な、何を言っているのだ、俺は。
「は? え、ええ、まあ、そこそこに――」
 面食らったように富樫さんは答えた。あたりまえだ、ふたりの関係を勘ぐるような質問をしたのだから。
「それが何か?」
 怪訝な目を向ける富樫さんに、それでも俺は、一世一代とも言える勇気を振り絞って尋ねた。
「ここだけの話にしてもらいたいのですが……弓削くんは――ゲイ、ですか?」
 予想通り、富樫さんは目を丸くした。
「あ、あ、こんな質問をするのは、えーっと、その、今回の作品を書くように弓削くんに勧められたとき、俺がゲイの方を差別するようなことを言いそうになったら、弓削くんにたしなめられて、だから――」
 ふっ、と富樫さんは口元をゆるめて言った。
「そのようなご質問は、弓削本人にお願いします」
「そ……そうですよね……」
「私から言えるのは、そのような質問をしても弓削は怒ったりしないと、それだけかな?」
 急に軽い口調で言って、伝票を取ると富樫さんは立ち上がった。
「では、ご連絡お待ちしてます。どうぞ、今のこの調子で改稿を進めてください」
 深々と丁寧なお辞儀をすると、喫茶店を出て行った。
 ひとりになって俺は考えた。すっかり冷えてしまったコーヒーを新しいのに注文し直して、時間をかけて、ゆっくり考えた。自分のことをこんなに考えるなんて――久しぶりだ。
 ずっと、走り続けるだけだった。途中からは、追われている気分だった。
 この2年のあいだ、書き続け、書き散らかし、枯れたと感じるまで、ひたすらに走り続けてきたのだ。
 それができたのは弓削くんがいたから。それだけは確かだ。それほどの存在だった弓削くんの名前を忘れていたのは――俺だから、仕方ないと言えなくもない。
 こういう男なのだ、俺は。初めて会ったときに当然名刺はもらっていた。「弓削」という苗字の読みを頭に叩き込むのでいっぱいいっぱいで、「里央」の読みも聞いたはずなのに、それは頭から抜け落ちてしまった。
 一度聞いたことを再度聞くのが俺は苦手だ。そのときに嫌な顔をされるのがひどく辛いのだ。それが人の名前ともなるとなおさらだ。
 幸いなことに――今となっては不幸なことなのだが――担当編集者の名前は、苗字だけ知っていれば事は済んだ。苗字が「鈴木」とかありがちなもので、同じ編集部内に同じ苗字の人が複数いたら、下の名前も覚えないわけにはいかなかっただろうけど、「弓削」という苗字はありがちではなく――それも不幸だったのだ、今にしてみれば。
『リオという名前を選ばれたのには理由があるんですか』
 もしもあのとき、きみの名前を使わせてもらった、と答えていたら、どうなっていたか。
『あんな作品を読ませてもらってしまっては、もう、僕は、先生と会うことも、先生と電話で話すことも――』
 できない、と弓削くんが言った理由はどこにあるのか。
『先生のつづられた言葉のひとつひとつが――僕の胸に降り注いだんです。それは、永遠に途切れることはありません』
 そうなのだ、弓削くんは、はっきりと俺に伝えていたのだ――彼の気持ちを。
 そこに思い至って、俺は頬が熱くなっているのに気づく。気づくと同時に、激しく鼓動が打ち鳴るのを知った。
『僕自身が先生のファンなんですよ』
 それを俺に言ったときの弓削くんの表情。
『先生、僕は、先生と2年間を共に歩んでこられたことをとても誇りに思っています』
 それを言ったときの弓削くんの――。
『これからも、僕は、先生を応援していますから。僕は、いつまでも先生の一番の読者ですから。だから、先生も――』
 ――弓削くん!
 俺は、決して失いたくない相手をみずから手放してしまったのだ!
 俺が鈍いから! 俺がマヌケだから!
 俺から逃げ出さずにはいられないほど弓削くんを追い詰めたのは、まぎれもない俺なんだ!
 いてもたってもいられない衝動に駆られた。けれど、落ち着け、俺! ここで俺が弓削くんを追うとなれば、それは、つまり――。
 妄想はふくらみ、体中が熱くなった。
 あの弓削くんを! あの、一分の隙もない弓削くんを、俺が〜〜っ?
 考えてもみろ、さらさらの黒髪に細い眉、涼しい目元に薄い唇、俺より少し背の低い体はすっきりとスレンダーで――。
 今まで意識して見てなかっただけで、弓削くんはえらく美男子じゃないか! イケメンともハンサムとも違う、弓削くんは、まさしく「美男子」だ、しかも、かなりクールな印象の……そうだよな、あれだけ俺に飴と鞭を使い分けたキレ者なんだし――。
 またもやぬるくしてしまったコーヒーをすすり、俺は喫茶店で赤くなったり青くなったりした。ここまで結論づけられたのに決心がなかなかつかないのが俺で……でも、そのとき、しっかりあそこがそうなっていたのだけは――事実だ。

つづく




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