もう、ヤダ――。 和志は疲れていた。毎度のことではあるが、新メニューの案件が挙がると数週間に渡って残業が続く。連日、帰宅が深夜になるだけでなく就業中の休憩もまともに取れなくなり、休日出勤もあって、食事は朝も昼も夜もコンビニで買ってきたものか外食に尽きてしまい、ごっそり気力まで持っていかれる。 あー、炊き立ての白いご飯が食いてぇ……。 この数日は、そのことばかりを思っていた。別段口が肥えているわけでもなく、米の産地や銘柄にも特にこだわりなどないが、出来合いのものを食べ続けていると、とにかく炊き立ての白いご飯がたまらなく恋しくなるのだ。 ようやく仕事に一段落がついた金曜日の今日、閉店間際の駅前のスーパーに駆け込み、おかずになる食材をしっかり買い漁ってきた。片手に重い袋をぶら提げて歩く今は、もはや炊き立ての白いご飯のことしか頭にない。 帰ったらすぐに米研いでご飯炊いて、それから着替えて魚焼いて味噌汁作って――。 段取りを思い巡らし、気持ちは先を急ぐが、足は思うほど速くならない。いささか前のめりになって、午後十時を回った暗く静かな住宅街をひとりトボトボと行く。 スーツは続けて何日も着ているからプレスが取れてすっかりよれよれだ。疲れが高じると、普段は気を遣う身だしなみも手抜きになってしまう。髪も伸びて、いっそ自分で切りたいほどだし、表情まで締まりがなくなって、せっかくの端正な顔が台無しになっている。 『主任〜。来週は元に戻ってくださいね〜。主任は顔だけなんですから〜』 帰りがけに木村が言っていた。ふらふらの頭で、うんわかった、と返してきたのだが、思い出して急にムッとしてくる。 顔だけって……オレは顔だけなんかっ。 それを自分より背の高い年下の女性社員に言われたのかと思うと余計に腹立たしくもあるが、そんなことに割く気力など、もうどこにも残っていない。 だから早く帰って……炊き立ての白いご飯で、まともな夕飯を――。 そうして風呂に入ってゆっくりくつろいで、明日はとことん寝倒す。美容院に行くのも家事を片づけるのも、明後日まで後回しだ。 入社して、もうすぐ十年になる。外食企業の本社内で何度かの異動を経て、今の「企画管理部」に配属されたのは一昨年の春だ。チェーン展開する居酒屋のメニューを考える仕事がこんなにも大変とはわかっていなかった。 和志が企画を取り仕切る居酒屋チェーンは、中高年の会社員が客層の中心だ。若年層とは違い、彼らは概して口が肥えている。しかも評価が手厳しい。だが、いったん常連になれば流れにくい層でもある。 そんな彼らの舌を飽きさせないため、新規に客を呼び寄せるため、季節ごとにキャンペーンを企画してメニューを見直す。新商品を盛り込むこともそうだが、揚げ物、焼き物、煮物など、メニューは構成のバランスも大事だし、何より売り上げの上昇が見込めるようにできてなくてはならない。 商品を開発し、時に斬新な試作品を生み出すのは「商品開発部」だが、どれをメニューに入れるかを決めるのは「企画管理部」で、そのため客受けを想定しての味見は毎回欠かせず、ほかにも市場調査と銘打って居酒屋を渡り歩き、おかげで出来合いの味にすっかり飽きてしまい、学生のときから板についていた自炊に拍車がかかった。 今となっては、和志にとって外食は仕事の一環か空腹を満たすためのやむない行為で、すし屋や焼き肉屋やラーメン屋のほかは、本格派の専門料理店でなければ行く気が起きない。本当にうまいと思えるものは、そのときに食べたいものをそのときに食べたい味付けで、自分で作ったものに限る。 『それ、ゼッタイ会社に背いてますから』 同僚の池田は言うが、しかし否定されたことはない。 『でも、俺も自分で料理するかな――』 だが、そうなる前に池田は結婚して、今は嫁さんの料理に満足しているようだ。 「ふぅ」 ようやく自宅に着き、和志は玄関に入るとため息をついた。単身者向きの賃貸マンションの二階で、1DKの間取りだ。手探りで壁のスイッチを押し、パッと照らされた狭いダイニングキッチンに目を細める。整然として見えるが、しばらく使っていなかったせいだ。 「はぁ」 そのことを思ってまたため息が出たが、気を取り直してネクタイを緩めた。まずは米を研がなくては。ほかほかと湯気を上げる白いご飯が思い浮かび、ゴクッと喉が鳴る。 さっそく手を洗い、炊飯器の内釜を持って米を入れてある容器を開くのだが――固まってしまった。 ……ない。 愕然とすること数秒。そのあいだに高速で記憶をさかのぼり、そう言えば、いつだったか使い切ってしまい、買いに行かなくてはと考えていたことを思い出した。 なんでー……。 炊き立ての白いご飯。ものすごく楽しみにしていたのに。買い物にも行けなくてずっと忙しかったけど、今日になってやっと行けて――なのに、肝心の米を買い忘れるとは。 どうすんだよ! もう駅前のスーパーは閉まっている。閉店間際に駆け込んだくらいだ。いくらコンビニでも米は売ってないだろう、確かめたことはないけど。パックのご飯なら、ともかく。 「炊き立ての白いご飯が食いたいのに〜!」 自分のバカバカ――髪をかきむしりたくなる勢いで激しく後悔するが、どうにもならない。だけどあきらめきれない、スーパーの袋の中で旬のサンマが待っている。 カボスまで買ったんだ! 和志は思い切ってベランダに飛び出た。手すりから身を乗り出し、右と左を見て明かりの漏れている部屋を探す。そうして、すぐに玄関を出て隣の呼び鈴を押した。 「はい」 インターフォンからではなく、ドア越しに声がした。ほぼ同時に玄関が開く。 「悪い、関口さん、来てもらっちゃって――」 言いながら出てきた男と、ばっちり視線が合った。途端に男の目が怪訝そうに細くなる。 「あ、あの、隣の どうしよう。 こうなって、急に血が下がった。いくら隣同士でも、少しの面識もない相手にいきなり「米を貸してください」と言っては、やはり常識に欠けるのではないか。思うのだが、もう遅い。呼び出した相手は目の前にいる。 「米を……貸してもらえませんか」 「はあっ? 米ぇ?」 予想を裏切ることなく、男は変な声を上げた。長い前髪をかき上げ、驚いた目で和志を見下ろしてくる。 あああ……思いっきりハズした――。 同じマンションの住人なのだから単身者に違いないし、何よりこの容姿だ。 男は玄関につかえそうなほど背が高く、すっきりとスリムな体格で、髪の色は黒いけど長くて学生みたいなスタイルだし、着ているものも長袖の黒いTシャツと擦り切れたデニムで、それよりも、男の和志ですら目を奪われるほど派手に整った顔立ちで――。 米なんて、なさそう。 襟元に覗く鎖骨に妙な色気まで感じて、そう思った。冷蔵庫には、きっと飲み物くらいしかないだろう。 「すみません――」 いきなり変なこと言ったけど忘れてください、と言いかけたところに男の声が重なった。 「米って、今から炊くわけ?」 「え?」 きょとんと和志は見上げるが、男は素っ気ない表情で続ける。 「炊けるまで時間かかるんじゃない? 一時間くらい?」 「はぁ……」 「ま、いいや」 くるりと背を見せ、中に戻っていった。閉まりかけるドアに和志が戸惑っている間に、また出てきた。 「これ」 ドサッと和志の足元に茶色い大きな袋を置く。今どき珍しい、紙製の米袋だ。十キロ近く入ってそうに見える。 「持ってって」 「え――」 唖然とする和志の前で、ドアは唐突に閉まった。足元の米袋に目を瞬かせ、それから和志は表札に目を向ける。 いすみ……しまおか。 渋い光沢を放つ金属の板に、しゃれた字体のアルファベットで「島岡井澄」とつづられていた。このときまで、和志は隣人の名前どころか性別さえわかっていなかった。 米、こんなにくれちゃって……どうしよう。 なのに、頭に浮かぶのはそんなことだった。 つづく
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素材:あんずいろ