「えーっ、それマジっすか? 信じらんねえ」 「声、デカいんだよ池田」 パーティションで仕切られたオフィスの一角で、和志は池田と木村と頭を突き合わせている。ソファセットのテーブルの上には何枚もの写真が散らばっていて、その中から新しいメニューに載せるものを選んでいる最中だ。 メニュー切り替えの仕事もここまで漕ぎつければのんびりとしたもので、あとは製作の係に新メニューの品書きと写真を渡すだけになっていた。 これまでの緊張から解かれて、仕事を進めながらもつい雑談に流れる。先週末の話題が出て、和志は何の気なしに隣人に米を借りたと話してしまった。 「けど米借りるとか、いつの日本ですか」 「昔は味噌とか醤油とか借りたって、何かで読んだ気がするけど……それって戦前?」 「何が言いたいんだ、おまえら」 池田と木村に続けて言われ、和志はムッと眉を寄せた顔を上げた。 「でも主任、いつもじゃないですかー」 しかし池田は、メガネをかけた丸顔をにこやかに崩して言う。 「普段は落ち着いてるくせに、行き詰まると予測もつかない行動に出るの」 「どこが」 「普通しませんよ、面識もない人に米借りるなんて。それより、隣に住んでて名前も知らなかったなんて、ありえないですよ」 正論をかまされ、和志は面倒そうに答える。 「隣でも奥なんだよ。用がなきゃ、自分のウチ通り越して奥になんか行かないだろ普通」 「て言うか、主任、自覚ないんですかー?」 ぱっちりとした目をさらに大きくして木村にまで言われ、ちょっとだけギクッとした。 「春でしたっけ? 健康志向が強まってるからメニューにカロリー表示しようって意見が出たとき、急に恐い顔になって、客が飲む気なくして売り上げ落ちるって反論して」 「そうそう。――あ、この写真よくないですか? 使いましょうよ。で、特保のお茶割りチューハイ、いきなり提案したんですよね? これでどうだ、って。あれには驚いたな」 池田が示した写真をしかめた顔で受け取り、掲載候補として隅に寄せる。 「それと、去年のチゲ鍋。客がセルフで辛さ調節できるように、一味を山盛りオプションで別添えしようって突然言い出したりして」 「開発部がムッとしてましたけどね」 池田も木村も次々と写真を手に取り、それを見ながら話している。和志は半ば呆れてふたりを眺め、ぼそっと言い返した。 「けど、どっちも会議で採択されたろ? 客受けもよかったし、売り上げにもつながった。それにケチつけられるんじゃ――」 「ケチなんてつけてませんよ。感心してるんです」 池田がまじめくさった顔を向けてくる。 「そうは聞こえないぞ」 「だから意外だって話じゃないですか。この写真も候補に入れてください」 木村に写真を突き出され、ぐっと口をつぐんで受け取った。 「ホント、主任ってもったいないですよー。カノジョできても続かないのって、やっぱ土壇場でトンデモしてるんですか?」 「それ、セクハラ発言だぞ木村」 「えー、心配してるんですよー。池田さんのほうが先に結婚するなんて思わなかった」 「それもセクハラ発言だ木村」 和志をまねて言って池田は笑う。 「だって主任カッコいいのに、だろう? で、主任は木村には言われたくない、ですよね?」 木村には、もうちょっと背が高かったら私がつきあうのに、とまで言われたことを池田は知っているのだ。木村は愛らしい顔立ちながら女性にして一七二センチの長身の上、いつもヒールの高い靴を履いているから、その分だけ和志は身長で負けている。もっとも、直属の部下と社内恋愛する気など、これっぽっちもないのだが。 「……わかってるなら黙って仕事進めろ」 「はーい」 会議室でやるんだったな、とチラッと思った。なまじ気が合うから、池田と木村と三人で仕事をすると普段からこの調子なのだが、主任という立場上、あまり人には知られたくない。少人数で会議室を占拠しては他部署に申し訳ないように思えていたが、判断を誤ったようだ。パーティションの向こうを気にしながら、和志はわざとらしく声を上げて言う。 「ところで 「あー、あそこヤバイ感じですよね」 すかさず池田が答えた。 「今度の契約更改、卸値上げてきそうだって営業が言ってました」 「やっぱりか」 「最近、日本酒は輸出が伸びてますからね。強気の構えなんじゃないですか」 メニューの料理は「商品開発部」が考えてくれるが、飲み物のラインナップを考えるのは和志たちの仕事で、一番のポイントは蔵元から買いつける地酒だ。よそではなかなか飲めない一品となれば、固定ファンがついたら確実に売り上げにつながる。 「だったら、新規開拓ですか?」 写真を手にしたまま木村も顔を向けてきた。 「そうなったら、私も出張ですよね?」 木村は素人ながら利き酒に長けているツワモノだ。木村が太鼓判を押した日本酒は群を抜いてオーダーが伸びるのだから大したものである。 「営業から、ちゃんとした報告受けてからな」 また新潟まで木村と出張になるかもしれない。契約を結ぶのは営業部の仕事でも、どの蔵元と契約するかを決めるのは和志の仕事だ。 「主任とまた出張かー。でも何も起こらないのが私と主任ですよね」 「それ、無駄に釘刺してるように聞こえるぞ」 苦笑する池田へ、木村は明るく笑って返す。 「でも、さっきの主任の話。お米貸してくれた人がものすごい美人だったら、何か起こってたかもしれませんよね?」 「そんな簡単に何か起こってたまるか」 冷たく切り捨てた和志に食いかかってくる。 「えー、そんなもんですよー。恋は出逢いとタイミング? 難しく考えすぎです主任は」 「じゃあ、残念だったよ美人じゃなくて」 面倒になってそう答え、内心で毒づいた。 ものすごいイケメンだったけどな。その上、ろくでもないことになってるけどな! 「メシたかられても美人なら許せそうだし」 ぼそっと口に出した途端、池田と木村から揃って視線を浴びせられる。 「……なんだよ」 「それ、マジっすか?」 「うわー……主任、大丈夫なんですかぁ?」 「大丈夫って――」 「俺、むやみに他人からモノもらうなって、嫁さんに言っとこ」 「ですよね、池田さん。奥さん、昼間は家にひとりなんですから気をつけないと」 ……こいつら。 おもしろがってるな、と思ったが、あえて何も言わなかった。何も言う気になどなれない。本当に夕飯をたかられているなど――それも、毎晩だとは。 あの晩、袋ごと渡された米に未だ面食らっていたときだった。背後から声をかけられた。 「ごめんなさい、いいかしら?」 巻き髪もあでやかな美女だった。大ぶりの黒いバッグを肩にかけていて、和志の前に細い手を伸ばしてきて、隣の呼び鈴を押した。 「関口です」 それを聞いて腑に落ちた。 なんだ、女待ちだったのか。 ならば退散するに限ると米袋を抱えて自宅に戻り、翌日のことも考え、ありがたく三合だけ使わせてもらった。残りの米のこととか代金を払うべきかとか頭を掠めたが、女性の来客中に押しかけていくほど無粋ではない。そんなことは翌日でいいと、米が炊き上がるのを待ちながら着替えを済ませ風呂の用意をし、味噌汁を作りサンマを焼いていたら、向こうからやってきた。本気で驚いた。 「玄関開けたらいい匂いがしてさ。食わせて」 ニヤッと笑う長身の男前に目が瞬いた。 「米あげたんだし。いいだろ?」 自分の分もあって当然と言った口調だった。 「はぁ……けど、人が来てるんじゃ――」 「帰った」 うっかりズレたことを口走ってもあっさりと返され、いっそう驚いた。 「だめ?」 駄目と言えるわけがなかった。米を借りた直後だ。仕方なく、もう一匹サンマを焼いた。 「なにこれっ、マジうめぇ!」 味噌汁を手放しで褒められ、ますます驚いた。自分のために多めに作ったはずが、自分よりもたくさん食べられてしまった。 ま、いいか。米借りたんだし、一食くらい。 どうして初対面の隣の男を自宅に上げて夕飯を囲んでいるのか一向に納得できなかったが、それで済ませた。とりあえず、サンマと味噌汁とご飯という超シンプルな献立なのに、本気で喜ばれていることはよくわかった。三合のご飯が底をつき、かなりいい気分だった。 『料理できる男の人はモテるんですよー』 木村は言うが、その限りではないと和志は思う。外食が好きじゃないのもあって、これまでに恋人に手料理をふるまったことは何度もあるが、わりとそれが原因で別れになった。 私こんなうまくできないしー、とか、フレンチくらい連れてって、とか、いつも手料理なんてケチくさい、とか、まあそんな感じだ。 『そのくらい聞いてやればいいじゃないですか。そんなことじゃ、結婚なんてムリですよ』 池田に言われたことは、もっともだろう。だが、 けど、これだけ食べてくれる相手なら――。 ふと男を見て、思ったときだった。 「あんた、いい嫁になれるな」 突然のその一言は、驚きを超えた。 「こんな遅く帰っても自分でメシ作るなんてエライし、めちゃウマイし、クセになりそう」 ぽかんと見つめるだけの和志に、満足そうに笑いかけてきた。 「名前、何? 小幡の下。表札出てないし」 「……和志」 いったいこの男前は何なんだと、鮮やかな笑顔に目を奪われながら答えた。 「カズシ、ね。んじゃ、ごちそうさまカズシ」 立ち上がり際にポンと肩を叩かれ、ハッとした。米を借りたがどうしたらいいのか、何も話せないうちに帰られてしまった。 だから……いったい何なんだ、アイツは! その翌日の夜も、そのまた翌日の夜も隣の男はやってきた。米の代金を払うと言っても、いらないと突っぱねる。 「何でも金で解決しようなんて甘くない?」 挙句にそう言われて絶句した。 「あんたの作るメシ、うまくてさー」 ひとつ残さず食べられた上におかわりまでされては、都合のいいことを言っているだけと片づけられもしなかった。 米代払ってると思えばいいか――。 「けど、なんでオレのメシの時間がわかるんだよ」 「うまそうな匂いするもん」 「食い意地張ってるな」 「そっちだって。人に米借りるくらいだし」 それを出されると何も言い返せなくなる。 「俺? フリーのデザイナー。井澄って、いい名前だろ? 溢れる才能を感じない?」 「大した自信だな。その年でフリーかよ」 「は? 二十七なら珍しくもないだろ?」 「見えねーよ、つか、やっぱ年下じゃねえか」 「うそ! マジ? なに、あんた三十一? そっちのほうが見えねーよ!」 いつのまにか、そんな気安い会話をするまでになっていた。だが食後も居座って、一緒になってテレビを眺めてくつろいでいる井澄に気づくと、急に落ち着かない気分になる。 だから、なんで。 「もうおまえ帰れ。帰って仕事しろ!」 「やっぱ和志イイヨー。がんばりまーす!」 追い出しても井澄は笑顔で帰っていく。そうして、また懲りずに翌日の晩にやってくる。 もう、一週間か。 そろそろ米の代金は払い終えたよな、と思う。一食五百円の計算ならトータル三千五百円だ。あの袋分の米の代金に見合うだろう。 そこまで考えて憂鬱な気分になった。井澄の受け売りではないが、金で清算しようとしている自分にウンザリしそうになる。 毎晩メシたかられて、そっちのほうがウンザリだっての――。 思ってみるが、それほどウンザリでもないことに気づいて驚いた。 ……アイツが何でもうまいって食べるから。 「主任」 池田の声にハッとして顔を上げた。 「メニュー掲載の写真、これ全部ですか?」 「ちょっと待て。数えるから」 ぼーっとしてたなんて。 それも井澄のことを考えて仕事中にぼんやりしてしまうとは、なんとも不覚だった。 写真の枚数を合わせ、新メニューの品書きと一緒に製作の係に渡しにいく。池田と木村を連れてパーティションを回って出たところで、和志の足はぴたりと止まった。 「あ、ちょうどよかった。終わりました?」 今まさに向かおうとしていた係の担当者がそこにいた。 「写真と品書き、それですね?」 何も声が出ないうちに、写真を入れた茶封筒と品書きの原稿を手から受け取られる。 「助かりました。今からデザイナーさんと打ち合わせで、これなら早く話を進められる」 なのに、和志は担当者の背後に立っている男から目が離せない。 「今回から、デザイナーさん替わりました」 和志の唖然とした様子に気づいてか、担当者は紹介するように立ち位置を変えた。正面に進み出てきた男に和志は大きく目を瞠る。 「島岡です。よろしくお願いします」 にっこりと見下ろされ、思いきり固まった。 「主任」 池田に小突かれて慌てて口を開く。 「小幡です、企画担当の――」 「では島岡さん、こちらに」 呆然としたまま、パーティションに仕切られた中に入っていく井澄とすれ違った。 「きゃ〜、どうしよう」 小声で叫んだ木村にハッとさせられる。 「今の人、ものすごくカッコよかった!」 「木村」 たしなめるように池田が呼ぶのも聞かず、私がお茶出すと言って木村はオフィスを出ていった。それを見送り、池田がため息をつく。 「どうしたんです主任。あいさつで、ぼうっとするなんて」 「いや、ちょっと……気をつけるよ」 「主任まで見とれてたんですか?」 言われてギクッとする。 「……木村と一緒にするな」 「確かに、いい男でしたけどね」 「仕事には関係ないだろ」 そう言って気持ちを落ち着かせようとした。 なのに、デスクに着いても動揺が鎮まらない。職場で井澄と鉢合わせるなんて万一の出来事に違いなかったが、可能性はゼロではなかったのだ。 デザイナーって、グラフィックだったとは。 知らなかっただけだ。自分に言い聞かせる。 でも――。 木村が見とれたのも当然だった。スーツを颯爽と着こなし、仕事の顔になってオフィスに現れた井澄は、男の自分でも改めて目を奪われたほど決まっていた。 だから……なんでそんなことでオレがドキドキすんだよ。 井澄を見直したような気分になっただけだ。それだって外見だけじゃないか。 アイツ――仕事絡みになっても、まだウチに来るのか? そんなことが気になった。もう二度と来てほしくないような、変わらず来てほしいような、自分でもよくわからない感情だった。 結局、井澄はその晩もやってきた。 「ども。主任」 玄関を開けたと同時に、そう言ってニヤッと笑った。昼間とは違う、いつもと同じラフな服装だ。髪も洗いたてのように無造作に流してあるだけで、前髪が目にかかっている。 和志は眉をひそめるのだが気にする様子もなく、あらかじめ約束していたかのように、さっさと横をすり抜けて上がり込んできた。 「あのさ」 「お。今日は肉じゃが?」 「そうじゃなくて」 「いい匂い、うまそー。味噌汁はワカメか!」 「って、聞けよコラ」 勝手に鍋のふたを開ける井澄の手を掴んだ。 「おまえ、どういうつもりだ?」 「何が?」 睨み上げる和志を井澄はきょとんと見つめてくる。 「何がって、これからもメシ食いに来るつもりかよ?」 「けど、たくさんあるじゃん」 言われて、和志は返す言葉に詰まった。煮物は以前から多めに作るようにしてきたが、今夜、井澄の分を考えなかったかと問われるなら答えられない。 「つか、俺に食わせる気がないなら、玄関、開けなきゃいいじゃん。違う?」 「今までとは事情が変わっただろ」 「どこが?」 けろっと返され、カチンときた。 「隣に住んでんだから無視できなかっただけだろうが! オレが米借りたからこうなったわけだし、借りを作っといて冷たくするのもナンだし、もしおまえが変なヤツだったら、冷たくして何されるかわかんねえし」 「うわー、ひでぇー」 「ひでぇじゃねえっての! おまえが金受け取らないから、こうなったんだろ!」 「ますますひでぇ」 口ではそう言いながら井澄は笑っている。 「だったら俺、あんたを米でゆすってるみたいじゃん」 「同じじゃねえか」 「へえ。――そうなんだ」 すっと目を細め、おもむろに顎に手をやると、和志をじっくり見下ろしてきた。 「な……なんだよ」 「米、まだあるんだ。いらねえって言うのに実家が送ってくるからさ。俺、めったに料理しないし、米は溜まってくし、捨てちゃったら米に申し訳ないし、どうしようかと思ってたんだけど」 「家、農家なのか?」 訊いた途端、プッと吹き出した。 「やっぱ和志サイコー。だから、まだ残ってる米、もらって?」 「は?」 「あとで持ってくるからさ。とにかくメシ、食っちゃおう」 「て、オイ! なんでそうなるんだよ!」 またもや勝手にコンロの火をつける井澄の手を掴んだ。だが今度は、あっさり払われてしまう。 「あんた、わかってないなー。最初に俺を家に入れた時点でアウトじゃん。ヤられちゃってても文句言えない状況よ?」 「はあっ?」 「少しも考えなかった? アブナイなー」 そんなことを言いながら、井澄は涼しい顔で鍋の味噌汁をかき混ぜ、一口味見する。 「ん。やっぱ、うまい」 「……意味わかんね。オレ、男だぞ?」 「え――?」 お玉を手に振り向いた井澄と目が合った。 「……通じない人なんだ、あんた――」 軽く見開いた目でじっと見つめられ、和志は居心地が悪くなる。 「だから、今後どうする気かって話だろ?」 ムスッとこぼして、横目で睨んだ。 「まだ食べに来るつもりかよ」 「いきなり都合悪くなった理由は何?」 急に改まった感じになって井澄が問いかけてくる。お玉を戻し、コンロの火を消した。和志はそれにもムッとしてツンと顔を背ける。 「もう、ただの隣同士じゃないだろ? 仕事が絡んだんじゃ、やりにくいし」 「それって問題? あんたと直に仕事するわけでもないのに」 「けど、公私混同って言うか――」 「そう考えるほうがプライベートとの線引きができてないんじゃないの」 言われて、のろのろと視線を戻した。初めて見るような井澄の真剣な表情に、すっと息を呑む。 「もしもあんたが俺を邪魔に思ってるなら、そう言えばいい。仕事がどうとか、そんな屁理屈はいらない。俺に利用されてると思うなら、それは俺が悪かった。謝っとく」 きっぱりと言って、井澄は和志の返事を促すようにまっすぐに見つめてくる。 「だったら……だったら、なんで来る?」 そんなつもりは少しもないのに、和志は伏し目がちになってぽつりと言った。 「あんたのメシがうまいから」 はっきりと聞こえた声にそっと目を上げる。 「そりゃ最初は違ったよ? ただの偶然って言うか、関口さん見送ってドア閉めようとしたらいい匂いがしてさ。ちょうど晩メシ買いに出るつもりだったから、米の換わりに食わせてもらってもいいかなって思った程度で」 「やっぱ、そうなんだ」 ふと口に出したら、井澄はムキになったように言い募ってくる。 「けど、二回目からは違うからな。なんか食いたくなるんだよ、あんたのメシ。こっちはダメ元で行くのに、あんた食わせてくれるし。だったら、いいのかなって思うじゃん」 「それは――」 返答に迷う和志をさえぎって、さらに力を入れて言う。 「理由なんて、俺はどうでもいいんだ。あんたを利用してると思われても構わない。家にひとりでいて仕事してるとメシなんて忘れるし、食べても買ってきたものばかりになるし、自分でなんか作ってらんないし、いちいち外に食べになんて行けないし、マジ助かってんだよ俺。それに、あんたのメシって、いつもうまくて何日でも食べたくなるんだ」 何をどう答えたらいいのか、和志は困ってしまった。嘘でも冗談でもなく、ましてやこの場をごまかすためでもなく、井澄が本心から言っているとわかるから、うっかり喜んでしまいそうになる。 メシたかられてうれしいって……ないだろ。 それで、また心にもない言葉が口に出た。 「おまえ……それじゃ、飢えすぎだ」 「――え」 和志を見つめ、井澄は目を大きく瞠った。絶句したようにぽかんと唇を開き、それから豪快に笑い出した。 「わけわかんね」 決まり悪くて顔を背ける和志だが、なぜだか頬が熱くなってくる。照れくさいような、恥ずかしさに消えてしまいたいようなこの気分は、いったい何だろう。 「ごめんごめん」 慌てたように言って、笑みを残す顔で井澄が覗き込んできた。 「悪かったよ、笑って」 そうして、和志の正面からシンクの上の棚に片手をついた。 「たぶん、それで合ってんじゃね? けど、飢えてるだけじゃ来ないって。あんたのメシもだけど、あんたサイコーなんだからさ」 和志はシンクを背に長身の陰になって、妙にそわそわした気分になる。だが井澄は背を丸め、顔を近づけてきた。 「お近づきに、食事でもいかがですか――」 「なっ」 今度こそ、さっと頬に血が上った。それを意識して、和志はいっそう顔が赤らむのが自分でわかる。 間近に迫った、思わず見とれたくなる顔から目が離せない。やわらかく笑いかけてくる井澄に自分は何ひとつ抗えないと、一瞬で悟った。 後ろ手にシンクの縁をぎゅっと掴む。腰が引けて、背がしなった。目をつぶってしまいたくても、まぶたが下りてこない。 「――ってさ。あいさつみたいなもんだけど、正攻法だよな? 一緒にメシ食うと、どんなヤツなのか相手がよくわかるし」 「……え」 目と鼻の先でニヤリと笑う顔を見て、和志は思いきり井澄の胸を突っぱねた。 「まったくだ。おまえが自信家で、やたら図々しいヤツなのは、よくわかった」 「俺もよくわかった。あんた、ゆるゆるに見えるけど気が強くて頭カタイ」 「だったら――」 「サイコーだ、和志。早くメシ食おうぜ」 ひたりと鋭い眼差しで和志を捉え、ゾッとしそうなほどあでやかな笑顔を井澄は見せる。 「……だから、なんでそうなるんだ」 喘ぐように呟いた和志にくるりと背を向け、井澄は再びコンロの火をつけた。 「もう、いいかげん認めたら?」 火力を調節しながら素っ気ない口調で言う。 「イヤじゃないんだろ? 俺とメシ食うの」 すらりとした長身の後ろ姿を見つめ、和志は小さく吐息を落とした。 「――ああ」 顔を見られたくなくて、そっぽを向いて続ける。 「オレが作ったもの、おまえみたいに食べるヤツ、初めてだ」 しかし井澄の声は聞こえてこない。すぐに何か言い返されると構えていたのに、思いがけない間があく。 眉をひそめ、和志が顔を戻そうとしたとき、ぽつりと返ってきた。 「なんだ。それだけか」 「なんだ、って……なんだよ!」 「あー、はいはい、怒らない怒らない。さ、食おう?」 「って、オレが作ったんだぞ!」 「皿、これでいいか?」 「って、聞けよ!」 井澄は背を見せて立ち回り、勝手に食事を始める用意をする。器に盛った肉じゃがを奥の部屋のローテーブルに運んでいき、戻ってきて和志の前を通り過ぎる。 「あー、もう!」 いらいらと壁にもたれ、和志は静観に徹した。だが片手を髪にもぐらせ、思わずこぼす。 「ったく、なんでかな! マジ調子狂う」 「それって困ること?」 ひとりごとのはずが応えられてしまった。 「怒ったりイラついたりするときって、本当の自分が出るだけじゃん」 変わらず立ち回りながら井澄は言う。 「……だからヤなんだよ」 「俺は、そんな和志イイと思うけどな」 「マゾか? おまえ」 「まさか。むしろ『ドS』?」 最後に味噌汁をついだお椀をテーブルに置き、和志に振り向いて言った。 「……かもな」 「さ、食おう?」 「――うん」 和志は、のろのろといつもの位置に着く。ベッドに寄りかかれて、テレビの真正面だ。井澄はテーブルの角をはさんで和志の右隣にいて、部屋の出入り口を背に座っている。 歓迎するなら、窓際の左隣を勧めるのが本当だと和志は思う。もしくは自分の位置――。 「いただきまーす!」 だが、今も素直に手を合わせる井澄に、そんなことを気にする様子はまったく見られない。それを思うと、まるで自分は意味もなく井澄に冷たくしているようだ。 「んまい!」 これもまたいつもと同じように、味噌汁を一口飲んで井澄は言った。 「おまえ……ホント、味噌汁好きだな」 呆れて言えば、にこやかな顔を向けてくる。 「ちょっと違うな。味噌汁が好きなんじゃなくて、あんたの味噌汁が好きなだけ」 「どうなんだよ、それ」 「んー、ダシが違う? よくわかんないけど」 言われて、つい頬が緩んでしまった。 「煮干し。煮干し使ってんだよ」 「へー」 たったそれだけの会話で、和志は気持ちがほころんでいくのを感じる。おかしなもんだな、と思ってみるが、それ以上のことは何も浮かんでこなかった。 今日はテレビをつける気にもならない。井澄とふたりで、ただ黙々と――いや、むしろガツガツと食事を進める。 「はー、今日もごちそうさまでした!」 満ち足りたように言って、井澄がパチンと手を合わせた。さっそく腰を上げ、使った食器をシンクに運んでいこうとする。 「慌てなくたっていい」 言えば、意外そうな目を向けてきた。 「オレは明日休みだし、のんびりできるから」 「え? あ、そうか。今日って金曜――ってことは、ちょうど一週間?」 「わかってなかったのかよ」 「だから何日でも食べられるって――」 顔を見合わせて、くすっと笑ってしまった。 「飲むか? 発泡酒だけど」 「マジ?」 「あー、おまえはまだ仕事か。夜型人間」 立ち上がりながら言って、井澄の横を過ぎて冷蔵庫に向かう。 「今日は俺も休み。ちょうど仕事の切れ目」 追ってくるように聞こえた声に苦笑して、発泡酒を二本取り出した。 「ウソだろ。今日、ウチの仕事受けたくせに」 「予定より早く話が進んだって、担当の人も言ってたろ? 〆切は、ずいぶん先」 「ほら」 背後から井澄の頬に冷たい缶を押しつけたら、ビクッと肩を跳ね上げて振り返った。和志は明るく笑って、元の位置に戻る。 「飲めよ」 ムッとした様子で座り直す井澄に言って、リモコンを取ってテレビをつけた。わっと、お笑い番組の音声が唐突に湧き上がった。 ベッドに寄りかかり、和志はプシュッと缶を開ける。唇をつけて、一気に流しこんだ。ゴクッと喉が鳴る。 「どうした?」 じっと自分に注がれる視線に気づいて顔を向けた。井澄はまだプルトップも引かずに、片手に発泡酒を握って和志を見つめていた。 「隣……いい?」 いつになく遠慮がちに、ぼそっと言う。 「来れば? こっちのほうが見やすい」 和志は少し横にずれて井澄に場所をあける。 「ん」 腰を浮かせて井澄は移動してくるのだが、彼にしてはやけにぎこちない動作だった。 ヘンなの。なに遠慮してんだか。 思ったが口には出さず、和志はテレビに目を戻す。取り立てて見たいわけでもないが、番組の内容につられて何度となく笑った。 「……やっぱ、和むわ」 不意に耳元で響いた声に、発泡酒を口に運ぶ手が止まった。井澄に目を向けそうになるが、ドクンと鼓動がひとつ大きく鳴って、そのまま固まってしまう。 隣にいる井澄が急に意識された。体のどこかが触れ合っているわけでもないのに、井澄の体温まで感じられるような気がしてくる。 次第に感覚が研ぎ澄まされていくようで、井澄も自分と同じようにベッドに寄りかかり、ゆったりと発泡酒を飲んでいるのがわかった。 和む、か――。 ひとりごとのように聞こえた声が脳裏をよぎり、ふっと肩から力が抜けた。宙に浮いていた缶を唇に寄せ、一口飲んで、その心地よい冷たさと共に深く味わう。 和むよ、オレも。 よくわかった。夕飯をたかりにくるとしか思えなかった井澄をどうして一週間も許してこられたのか。井澄と食卓を囲むことで、自分も和んでいたからだ。ずけずけと勝手なことを言い合い、まるで競り合うように互いに好きなだけ食べ尽くし、そうしてふたりして満たされた。 それだけのこと。たったそれだけのことが、長年のひとりで向かう食卓と大きく違った。とても大きく、比べようもないほど。 ……なんでかな。 まだ一缶も飲みきってないのに酔いが回ったように感じて、和志は全身から力が抜ける。お笑い番組の騒々しいほどの音声が、どこか遠くから聞こえるように思えた。 背を支えるベッドに体を預けたら、井澄のほうに傾いた。手の中の缶が滑り落ちそうになって慌てて握り直したら、井澄の肩に頭がぶつかった。 「――へ?」 うろたえたような声を耳にし、和志は笑ってしまう。くすくすと込み上げてくる笑いが止まらずに、かすかに肩を震わせる。 「マジ? こんなんで、もう酔ったのかよ? 飲み屋の社員がコレじゃ、マズくね?」 酔ってなんかないよ――。 だが和志は声に出したりしない。いつまでも止まりそうになく湧いてくる小さな笑いに身をゆだね、それがとても気持ちいい。 「しょーがねーな」 肩に回ってきた手に、やんわりと引き寄せられた。されるがまま、何も考えずに井澄にもたれ、気持ちがほどけきって、溶け出していくように感じた。そうなっても、やっぱり込み上げてくる笑いは止まらなかった。 「……笑い上戸かよ、あんた」 どうだろう――。 耳元で聞こえた、ささやきにも似た低く深い声は、とても甘く胸の底に落ちていった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
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