Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    今夜も食べたい
    −4−



            「はぁ……」
             思わず特大のため息を漏らし、向かいのデスクで池田が眉を寄せた顔を上げるのが目に入って、和志はまたため息を漏らしそうになった。
            「どうしちゃったんですか主任。出張から帰ってから、ずっとそんなじゃないですか」
            「……なんでもない」
             この数日、幾度となく繰り返された会話に和志はウンザリする。それはむしろ池田のようで、大げさに肩を落として見せた。
            「出張で何かあったのかと思って木村に訊けば何もなかったって言うし、主任はなんでもないって言うだけだし、どうなってんだか」
             ぐちぐちと言われ、耳をふさぎたくなる。
            「そう言えば、木村は――」
             さりげに話をそらそうとして墓穴を掘った。
            「ふざけてんですか? コピー取りに行くって、ちゃんと主任に言って席離れましたよ」
            「……そうだったな」
            「しっかりしてくださいよ〜」
             情けない顔になって池田が訴えてくる。
            「ひやひやして、俺たまりませんよ。主任は行き詰まると何するか予測できないし、ここまで後ろ向きな主任なんて初めてだし」
            「前向きならいいのか?」
             つい言ったら、声まで青ざめたようになる。
            「あたりまえのこと言わないでくださいよ〜。前向きのときはヒットになってるじゃないですか。それより主任、アレも忘れてます?」
            「アレ……?」
             とうとう池田は腰を浮かせ、和志に向かって身を乗り出してきた。小声で言う。
            「カンベンしてくださいよ。さっき、内線で話してたでしょ。新メニューのゲラのチェック、頼まれたんじゃないですかっ?」
            「あー……」
            「ヒマしてるなら自分から取りに行ってくださいよ。体動かして、少しはしゃきっとしてください!」
             池田に追い払われるようにして席を立ち、和志は担当者のデスクに向かう。
            「あーあ……」
             自分でも不甲斐なかった。井澄がずっと気にかかっていて職場でもこの調子だ。池田が気を配ってくれるから、どうにかボロを出さずにいられるようなものだった。
             バカだよ、オレ――。
             いつのまにか、また金曜日になっていた。先週の出張の帰りにばったり会ったのが最後、あれから井澄を見かけてもいない。今から、その井澄の仕事を自分の目で見るのかと思うと、なおさら気分が落ち込むようだった。見てみたいようにも思う反面、できれば見たくないようにも思う。
            「あ、小幡さん。すみません、来てもらって」
             和志に気づいて、担当者はさっそく印刷物の束を取り出した。和志によく見えるように、一枚一枚をばらばらにデスクの上に広げる。
            「どうです? いい感じでしょう?」
             色校はまだなんですけどね、と付け加えて、椅子からにっこりと和志を見上げた。
             本当にいい感じだった。表紙は抹茶色と薄茶色の二色に左右が塗り分けられていて、その上に柿色の文字が並んでいる。品書きの書体も文字の並びもすっきりと見やすく、写真もわかりやすい位置に配されている。しかもメニューを開いてパッと目に入ったときの余白の印象が、スタイリッシュに感じられた。
            「……すげぇな」
             担当者を前にしていることも忘れ、井澄に向かって呟くかのように言ってしまった。
             客層をよく理解していると思えるデザインだった。これならターゲットの中高年層にも好評だろうし、彼らに連れてこられるような、もうちょっと若い層にも受けるだろう。
             オレ……何やってんだろ。
             自分がぐだぐだしている間にも井澄は鮮やかに仕事をこなしている。そう思ったら、たまらなくなった。
             一時間で返すと担当者に断って、和志は自分のデスクに戻るとすぐにゲラのチェックを始めた。料理や飲み物の名称、その価格、その横に写真がある場合はその写真、それぞれに誤りがないかを確かめる。製作の係でも同じ作業をするが、和志の確認は不可欠だった。
             始めてすぐに池田のホッとしたような視線を感じたが、和志は黙って受け止めた。その仕事を終えてからも気が散ることはなかった。
             夜になって、和志は鍋の火を止めて深く息をつく。いつものように会社帰りに駅前のスーパーに寄って、買ってきたものはおでん種だった。
             ……こんなに作ってどうすんだよ。
            『まだ冬じゃないけど、おでん食いてぇ』
             井澄がそう言っていたことを思い出したにしても作りすぎた。おでんでいっぱいの鍋をぼんやりと見て、和志は情けない気分になる。
             出張から帰った日の夜だけでなく、その翌日の夜も、そのあともずっと井澄は来ていない。約束してたわけじゃないし、勝手に押しかけて来てただけだし、そう自分に言い聞かせるようにして今日まで過ごした。
             やっぱバカだよ、オレ。
             そんなつもりはないのに、気づけば多めに作りすぎて、翌日もまた食べることを何度も繰り返した。そのくせ、その日の夜には別のものを作ってしまい、冷蔵庫の中はストックだらけだ。何品かは冷凍に回した。
             もう認めるしかない。自分は井澄を待っている。
             なんで、来ない――。
             まだ怒っているのだろうか。それとも見限られたか。どうも自分は鈍すぎのようだから。
            『そういうとこ、主任は冷たいです。ぜんぜん興味ないから、わからないんです』
             どういうわけか、出張の夜に木村と話したことがやたらと頭に浮かんできた。
            『そんなの、傷つきたくないから言ったに決まってるじゃないですか。もっと背が低かったらなーって、私、何回言われたかわからないでしょ』
             ……そう言われたってなぁ。
             木村に、もうちょっと背が高かったら私がつきあうのにと言われたとき、返す言葉がなかった。あのとき木村は笑っていたし、冗談かお愛想にしか思えなかったのだ。
             木村が身長にコンプレックスを抱いているとは知らなかった。いつもヒールの高い靴を履いているくらいだ。だけど、いくら身長を理由に拒絶されたくなかったにしても、あんな言い方をしたのでは伝わらなくてもしょうがないんじゃないかと思う。
             本当に好きになる前でよかった、なんて言ってさ――。
             強がって言ったようにも聞こえたが、言葉どおりなのかもしれない。本当に好きなら、あんな言い方はできないだろう。
             ……臆病だよ。
             本当に好きになる前に、先に相手の気持ちを知ろうとするなんて。それで見込みがないとわかるなら傷つかずに済むと思うなんて。
             オレより背が高くたっていいじゃないか、つきあおうよ――あのときそう答えたなら、木村はどんな顔をしたのかと思う。
             オレも、同じか――。
             井澄が気になってならないなら、自分から訪ねていけばいいのに、それができない。
             あれだけ押しかけてきていたのがいきなり来なくなった理由がわからないから。自分から訪ねていって拒絶されるなら、身の置き場がないから。井澄が来なくなって淋しいなんて――言えそうにないから。
             やっぱバカだな、オレ。
             こんなふうに井澄を待つようになるくらいなら、言ってやればよかったのだ。ひとり分もふたり分も作る手間は変わらないから遠慮なく食べに来ればいい、と。井澄が押しかけてくるから仕方なくなんて、自分への言い訳だ。井澄のせいにしておけば、自分は傷つかずに済む。井澄の分も考えて、いつしか多めに作るようになっていたのに。
            「はぁ」
             ため息をつき、和志は鍋いっぱいのおでんを見つめる。これはもう、井澄に食べてもらえないのか。井澄のリクエストで作ったのに。
            『和志サイコー』
             何度もそう言われた。料理にも、自分自身にも。思えば、最初から井澄は思ったことを率直に言葉にして伝えてきていた。
            『通じない人なんだ、あんた』
             あれは、伝えても理解しそうにない自分に疲れて言ったのかもしれない。
            『あんた……鈍すぎだよ』
             そして、最後にはそう言った。ひどく淋しそうな目で――。
             イヤだ。
             このままずっと井澄と会えずに、何もかもが消えてなくなるのでは嫌だ。一緒に夕飯を囲んだ楽しさも、つまらないことで言い合いをしたことも、ふたりでいて和んだことも、どれも失いたくない。
             すっと息を吸い、和志は唇を噛む。胸の底から強い思いが湧きあがった。
             会いたい――今すぐ。
             身を翻し、玄関を飛び出す。一呼吸おいて隣の呼び鈴を押した。そうして、井澄が出てくるのをじっと待った。
             だが、ドアの向こうからは物音ひとつしない。ノブに手をかけたら鍵がかかっている。そうなってから、ドアの新聞受けが溢れそうになっていることに気づいた。
             がっくりと肩を落とし、和志はトボトボと戻る。鈍すぎ――まさに自分は、そのとおりだと思った。ようやく自分から会いにいったときには井澄はいないなんて。何日も前から留守のようなのに気づかなかったなんて。
             フリーのデザイナーにも出張があるのかと思った。それとも旅行に出かけたのだろうか。
             ……あ。
             ズキッと胸が痛む。ぎゅっと締めつけられて、喘ぎそうになる。
             同じだった。自分が井澄にそうしたように、井澄も自分に一言もなしにいなくなった。
             オレに言う必要なんかないって――。
             苦しくて、膝から崩れてしまいそうだった。


             和志はよく眠れないうちに夜を明かす。翌日の土曜日は朝から絶好の洗濯日和で、窓の外には恨めしくなるほどすっきりと晴れた秋空が広がっていた。
             惰性で朝食を済ませ、溜まっていた家事をのろのろと始める。洗濯物を干しにベランダに出て、やっぱりどうしても気になって、仕切りの陰から隣の井澄の部屋を覗いた。
             ――え?
             窓が開いている。やわらかな秋風に吹かれ、半分ほど引かれたカーテンがかすかに揺れている。
             思うより先に玄関に駆け出していた。和志は井澄の部屋の前に来て、一呼吸すると震えそうな手で呼び鈴を押した。
             だが返事はない。物音もしない。そっとノブに手をかけたら、しかしあっさりとドアが開いた。細い隙間を作り、中を覗いてみる。
             間取りは自分のところとまったく同じだ。玄関を上がると狭いダイニングキッチンで、正面に奥の部屋に続く扉が見える。
             開いていた。自分がベッドを置いている場所に、同じようにベッドが置かれている。
             和志はじっと目を凝らす。窓から射す光が、カーテンの引かれていない分だけ奥の部屋を明るく照らしている。
             あ……。
             だらりとベッドから垂れている腕が妙に白く目に映り、声を上げそうになった。不吉な予感に襲われ、和志は中に飛び込む。
            「井澄!」
             井澄はうつ伏せに顔を枕にうずめ、首まで毛布を被って、ぐったりとベッドに沈んでいた。ピクリとも動きそうにない気配に、和志は背筋が冷たくなる。
            「井澄、井澄!」
             咄嗟に膝をつき、両手で強く揺さぶった。次の瞬間、ベッドから落ちていた腕に背中から絡め取られた。
            「い、すみぃっ?」
             和志は変な声を上げ、目を丸くして井澄の顔を覗き込む。
            「……やっと来たと思ったら」
             目を閉じたまま、井澄は掠れた声を出した。
            「ずいぶんな起こし方だな」
             ニヤッと口元を歪め、ゆっくりとまぶたを上げた。和志の目をじっと見つめ返してくる。
            「なに慌ててんの」
            「だ、だって――」
            「こっちは朝まで働かされて爆睡してたってのに」
            「――え」
             急に力が抜けて、和志はへなへなと井澄の前に頭を落とした。
            「なんだー……」
            「なんだはないだろ。一週間以上、ぶっ続けでこき使われてたんだぞ」
            「それでいなかったんだ――」
             ぼそっと口に出したら、井澄はうつ伏せのままムッとしたようになって言う。
            「いなかったも何も、拉致られてたんだって。社員のデザイナー倒れたから代わりお願いとか言って、関口さん、ハンパなく使いやがってさ! あんたの会社の仕事あったのに帰してくれなくて、マジどうなるかと思った」
            「大変だったんだな」
             顔を上げて呟けば、怒ったようになって言い返してきた。
            「わかって言ってんのかよ。チラシとかだけじゃなくて、カバーデザインまであってクレジットつく言われちゃ、マジ必死だって。全力で片っ端から仕上げてきたんだから」
            「――うん。わかるよ。ウチのメニュー、いい感じにできてた」
            「え――」
             井澄は首を持ち上げて目を合わせてくる。
            「見たのか」
            「あたりまえだ。センスいいな、おまえ」
             言った途端、パッと笑顔を弾けさせた。
            「マジ? やった!」
             いきなり両腕で抱きついてくる。
            「ちょ、ちょっと! 井澄!」
             そ……そんなに喜ぶことか?
             和志は顔が熱くなって戸惑ってしまう。井澄の意外なリアクションに動揺したからだと、自分に言い聞かせるように思った。
             これじゃ仕事で見たなんて言えないな――。
            「ハァ」
             なんだか気が抜ける。井澄に抱きしめられるに任せ、ふと視線を落としたら、ドキッとした。
            「――って。おまえ何? 裸?」
             むきだしの広い背中が目に映っている。
            「四時頃タクシーで帰って、シャワー浴びて、それでダウンだった」
            「……マジ?」
            「ほら!」
            「うわっ」
             急に腕をほどかれ、倒れそうになって和志は声を上げ、バサッとめくられた毛布の中にぐいっと引きずり込まれた。
            「い、井澄?」
             焦りまくる和志に、井澄は顔を寄せてニンマリと言う。
            「残念だった? 下、穿いてて」
            「バ、バカ! なに言って――」
            「こうなるってわかってたら、素っ裸でいたんだけどなー」
            「じゃなくて! これって――」
             どういうつもりだと抗議しようとするが、和志は顔を真っ赤にするだけだ。井澄の裸の胸にしっかりと抱き寄せられ、一緒に毛布にくるまっている。
            「あんたさ。学習能力、あるでしょ?」
             井澄はいっそう顔を近づけてきて、鼻先が触れそうな距離で笑う。
            「自分から俺の部屋に上がり込んだんだし、どうなっても文句ないよな?」
             ゾッとしそうなあでやかな笑顔になった。
             ど、どうなってもって……。
             和志はすくみ上がる。自分を見つめる井澄の目が、とんでもなく色っぽい。それなのに胸はドキドキしてくるし、今にも駆け出しそうで、気持ちが追いついていかない。
            「わかってて来たと思っていい?」
             低いささやきが耳元で艶っぽく響いた。
            「あんた、そんな性格だから外側からじっくり崩してくつもりだったけど、逃げんだもんなー。あれには焦ったし、痛かった」
             和志は目を丸くして、視線を泳がせる。
             じゃあ、やっぱあれって……。
            「本気で言ったんだ。女ダメ、って――」
             ぽつりと漏らした途端、井澄の腕が緩んだ。和志はうろたえて井澄に目を戻す。
            「……なんだよ。今わかったのかよ、あんた」
             がっかりしたように言われ、すうっと胸の底が冷えた。
            「だったら、なんで来た?」
             つまらなそうに訊かれ、固まってしまいそうになった。
            「井澄、オレ――」
             慌てて口を開き、和志はゴクッと喉を鳴らす。言わなくては伝わらない。ちゃんと言わなくては。
            「あ、会いたかったんだ。おまえが来ないと、さ、淋しかった」
             言えないと思っていたことを一気に言ってしまい、たまらない感情が押し寄せてきた。自分には、もう何もないように感じる。
            「たった、一週間ちょっとなのに?」
             冷たく言われ、観念して答えた。
            「そうだ。たったの一週間ちょっとで、どうにもならなくなった。おまえはもうオレと会うつもりがないんじゃないかって――あっ」
             一瞬で顎を捕らえられた。軽く上向かせられ、じっと目を覗き込まれる。
            「なら、もうわかってるな」
             声が出ない。井澄の目は驚くほど真剣だ。唇が近づいてきて、そっと耳に触れた。
            「二度と逃げられないようにしてやる」
             ねっとりと甘く、それでいて凍りつきそうな響きだった。
            「んっ」
             和志の鼓動は跳ね上がる。頬を滑ってきた唇に、唇を塞がれる。遠慮のない舌が歯列を割って入ってきた。すぐに舌を探り当てられ、きつく吸われて、くらっとした。
             キスを深めながら、井澄がのしかかかってくる。和志は仰向けにされ、両手首をきつく捕らえられる。
            「ふ、ん」
             動きを封じられ、信じられないようなキスにさらわれた。熱っぽく貪られ、井澄が本当にその気になっていると伝わってくる。
             男なのに――ふと頭を掠めたが、井澄にはそれが前提かと思う。おかしいのは自分だ。男とキスをして溶けそうになっているなんて。
             違う……井澄だからだ。
             会いたかった。黙っていなくなったと知ったときは切り捨てられたように感じた。だから今日、自分から会いにきた。
             しょうがないじゃん。
             井澄がいないと、ぽっかりと穴があいたようになってしまうのだから。
            「は、あ……」
             たっぷりと濃厚なキスからやっと解放され、和志は大きく喘いだ。濡れた唇から舌先を覗かせ、潤みそうな目で井澄を見上げる。
            「和志――」
             そっとささやかれ、すっぱいような気持ちが胸に滲んだ。井澄は目を細め、じっと自分を見つめている。うっとりと熱っぽく。なのに、ひどく悲しそうに。
            「もう、逃げんなよ」
             ひそやかに落ちた声が、胸にしっとりと響いた。和志は吐息を溢れさせる。息が詰まり、喉が掠れる。
            「今……今だったら、いい」
             見上げる先で、くすっと井澄が笑った。
            「なにそれ? やっぱ、あんた鈍いな――」
             冷ややかな笑みに鮮やかに変わり、顔を被せてくる。捕らえていた和志の両手首を持ち上げ、和志の頭上に倒した。きつく押さえる。
            「俺に抱かれて忘れられると思ってんの?」
             素っ気ないほどの声でささやいた。
            「……硬くしといて、よく言う」
             ぐりっと、和志の股間を腿で押した。
            「あんた……もう逃げんなよ」
             低く呟き、和志の肩に顔をうずめてくる。熱い吐息が和志の首筋を湿らせた。
            「井澄」
             天井を仰ぎ、和志はそっと息をつく。
            「オレは、おまえがいないとダメみたいだ」
             深いため息が耳を掠めた。
            「あんたから来たんだ。もう俺のものになっちゃえよ、和志――」
             くぐもった声がひっそりと流れる。
            「ヤなんだよ……会えなくて不安になるの」
             和志は顔を向けて井澄を見る。間近で視線が絡んだ。互いの眼差しが甘く揺らめく。井澄の唇が滑ってきて、和志の喉を這い上がり、そっと唇をついばんだ。
            「井澄……」
             熱い吐息を落とし、和志は薄く唇を開く。再び深くキスをされ、うっとりと酔いしれた。
             井澄との出逢いは、ほんの数週間前だったことを思う。そのときから目を奪われた。図々しく押しかけてきて、だけど拒めなかった。
             年下で、呆れるほど押しが強くて、だけど強引ではない――今だってそうだ。許すから踏み込んできて、そしてその先も許せと少しも悪びれずにねだってくる。
             しょうがない、井澄なんだから。
            「ふ……あ」
             和志は喘ぎ、甘く心地よい気分に満たされた。体の隅までやわらかく痺れていくようで、指先がピクッとした。そうしたら、あっさりと手首の戒めが解かれた。
            「……井澄」
             とろんとした目で井澄を追う。両手で和志のシャツを開き、首筋から胸まで唇で辿っていった。掠める程度の極上の感触で素肌をなぞられ、和志はいっそう息を上げる。
            「和志の乳首……きれいなバージンピンク」
             そんなことを言って、井澄はそこを執拗に舐め始める。濡れた舌先にプツッと尖らされる様が目に映り、和志は身をくねらせた。
            「いやらしい、和志。――初めてのくせに」
             男なのに、そんなところでたまらなく感じていることをわざわざ言われ、和志は恥ずかしさに消えてしまいたくなる。顔も胸も全身が火照ってきて、震えてきそうになる。
            「ちょ――待てよ」
             べろりと出した舌でたっぷりと肌を濡らしながら、井澄が次第に下がっていることに気づき、慌てた。
            「待てるかよ」
             ひどく男を感じさせる声が返ってきた。
            「俺がどれだけ待ってやったと思うんだ」
             ゾクッとし、下肢をあらわにされても和志は抗えない。硬く起ち上がったものを指で絡め取られ、ガクッと腰から力が抜ける。
            「は……っ」
             井澄はそれを大切そうにもてあそぶ。花びらにするかのように、そっと唇を押し当てた。熱い舌が、ゆっくりと裏側をなぞり上げる。
            「あ、あ、ああ――」
             強烈な快感に襲われ、和志は高く掠れた声を上げた。初めて聞いた自分の声に、羞恥が湧き上がる。
            「いいよ、啼きな。もっと聞かせてよ。やさしくするから」
            「あ、そ、そんなとこ……」
             たっぷりと舐め回されているその奥に、井澄の手がもぐり込んできた。固く閉じている狭間に、ぬるっと指先が滑る。
            「ム、ムリ!」
             怯える和志の上を過ぎて、長い腕が何かを取り上げた。井澄は膝立ちになって、穿いていたものを下ろす。ゴクッと和志は息を呑んだ。
            「そ、んなの……ムリだって……」
            「試してもないのに、なに言うの」
            「でも――」
             甘く鋭い眼差しで見つめられ、抗いきれずシーツに身を投げ出す。耳元で艶っぽくささやかれた。
            「すぐに啼きたくなるって。俺がするんだし」
             ……ああ、もう。
             唇を塞がれ、和志はまたぼうっとしてしまう。井澄のキスに、何度でも蕩けさせられてしまう。
             こうやって自分は、これからもほだされていくのだろうか――。
             温かな手に素肌をまさぐられ、屹立を熱心に扱かれ、そうこうするうちに後ろも許してしまった。ぬるぬるともぐり込んできた指に時間をかけて十分にほぐされ、硬くて太い熱のかたまりにグッと貫かれる。
            「あっ……ああっ!」
             知らなかった自分がまた引き出されていく。何もかも暴かれ、根こそぎ持っていかれる。
             井澄だもの――。
             すべてを明け渡したときには、和志は夢に漂っていた。井澄の熱い肌に包まれ、激しく揺さぶられて絶頂に達した。
            「は、あ――んっ」
            「く……っ」
             井澄のうめきを聞き、うっとりと見上げる。なんてきれいな顔をするんだろうと思った。
             息はまだ静まらない。重なってきた体を受け止め、両腕を絡ませた。火照った井澄の肌の感触が、自分の肌にたまらなく気持ちよかった。井澄を胸に抱き、井澄に抱きしめられ、とても幸福だった。井澄は、ここにいる。


            「わ! すっげー、いっぱいあるじゃん」
             おでんの鍋のふたを開けて、井澄が大げさな声を上げた。すぐに火にかける。その様子を奥の部屋から見て、和志は深い吐息をついた。ベッドにもたれていないと腰がつらい。
             つい今しがた、井澄と自分の部屋に戻った。井澄のベッドで早急としか思えない行為に及んだあと、そのまましばらく休んで、井澄の部屋でシャワーを浴びた。そのときになっても腰が立たず、井澄に丁寧に洗われたことを思い出し、また顔が熱くなってくる。
            『あんた、かわいかったな。初めてなのに、あんあん啼いちゃってさ』
             ボディソープを泡立てた手は、いたずらだった。とんでもないところまで洗い流した。
            『あんなふうにいつも素直なら、もっとかわいいのに。素直じゃないところも好きだけど』
             どっちなんだと問い返したかったけど、そんな気力はどこにも残っていなかった。完敗だと思う。自分から会いに行った時点で――。
            「鍋のままでいい? 取り皿、ここだっけ?」
             箸やら皿やら次々と運んできて、井澄が食卓を整える。気遣われていると思う。ずっと会えなかったのも、やむない事情だった。ないがしろにされたことは一度もないはずだ。
            「なんだよ、あんた。そんな色っぽい顔して」
             顔を覗き込まれて言われ、いっそう顔が熱くなる。たった今経験したことを思い出していたなんて、間違っても言えない。
            「って、なんで発泡酒も?」
             食卓に目を走らせ、さりげに話をそらした。
            「いいじゃん、おでんなんだから」
             まだ陽は高いけど、まあいいかと思った。陽の高いうちにあんなことをしたと思えば。
            「かんぱーい! いただきまーす!」
             当然のように隣に座った井澄に呆れる。肩の力が抜けてフッと笑えば、笑顔を返された。
            「いいかげん、ケー番教えてくれない?」
             そんなことを言う。ベッドサイドからケータイを取り上げて番号を交換した。しばらくは、テレビもつけずに遅い昼食に専念した。
            「やっぱサイコーだわ、あんたのメシ。ずっと食いたかったんだ」
             明るく言われ、和志は照れる。
            「飢えてたのかよ」
            「飢えてたって。決まってんじゃん、あんたのメシにも、あんたにも」
             応えられないでいると目を覗かれた。
            「あんただって、そうだろ? おでん作って、待っててくれてたんじゃねえの? 冷蔵庫にもいろいろあったぞ?」
            「オレが鈍いんじゃなくて、おまえが鋭いんだな」
             思い切って言えば、くすっと笑う。
            「和志は鈍いよ。自分の気持ちもわからないんだから」
             覚えてるか、と井澄は続ける。
            「俺の実家、農家かって訊いたじゃん。あの時点でアウト。俺に興味が湧いたから、そんなこと訊いたんだ。ちなみに返事はノー。直買いしてる農家の米がうまいからって、親が勝手に送ってくるだけ」
            「そうだったんだ……」
             呟いて、和志は納得する。大した自信家だ。やっぱりコイツには勝てそうにないと思う。
            「俺をもっと知りたいと思って」
            「思うよ。あたりまえだろ」
             素直に口に出したら、唇を耳に寄せてきた。
            「だったら――」
             ささやかれた一言に和志は顔を赤くする。
             今夜は、本当の俺を教えるから。
            「ムリ! 絶対にムリ!」
            「なんでー」
            「やさしくしてアレなんだろ? オレ、ついていけないから! 当分ムリだから!」
            「けど、次はあるってことだよな?」
             口を閉ざし、和志はますます顔を赤くして井澄を睨む。次はいつになるかなんて、答えられるはずもなかった。


            おわり


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