Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    今夜も食べたい
    −3−



            「やっぱ出張ですか」
            「やっぱ出張です」
             まじめくさった顔で木村の口調をまねて言って返し、和志は改めて説明する。
            「回る予定の蔵元は、この一覧。オレは日帰りでいいって言ったんだが、一泊になった」
            「いいじゃないですか、一泊。おいしいもの、たくさん食べてきましょうよ」
            「あのなー」
            「わかってますって。出張は旅行じゃないですよ。でも、三食どこで食べてもオッケーですよね?」
             和志から手渡された一覧から目を上げ、隣のデスクで木村はいたずらっぽく笑う。
            「……わかってるなら、いい」
            「で、泊まるところって、やっぱビジネスホテルですか? でも温泉あるといいなー」
            「むちゃ言うな。アポ取り、やっとけよ」
            「はーい」
             蔵元を回る出張は、和志には二度目になる。前回も、前任者からの引き継ぎで指示されたとおり、木村を同行させた。
             出張の目的は、新たに地酒を買いつける蔵元の選定だ。ひとつの蔵元でも数種類の酒を作っていることが多いから、実際に味を確かめないことには、どの蔵元のどの酒を買いつけることにするか決められない。
             その後、和志は木村が取りつけた各蔵元とのアポイントメントを元に日程を決め、新幹線とレンタカーを手配し、ビジネスホテルにシングルルームをふたつ予約した。女性社員の木村を連れての出張なのだから温泉宿になど泊まれるわけがなかった。だが、少しだけ木村を思う気持ちが働いて、宿泊先の周辺に温泉施設がないか、こっそり調べておいた。
             出張の当日になり、新幹線の座席で木村と待ち合わせて新潟に向かった。日程に従い、レンタカーを運転して次々と蔵元を回った。その日の予定を消化しきれた頃にはすっかり陽が落ちていて、いったん宿泊先に戻ってから、木村を連れて食事を取りに夜の繁華街に歩いて出た。
            「主任。ここにしましょうよ。地酒が揃ってるみたいですよ」
             木村に腕を引かれ、縄のれんをくぐった。木村の言ったとおり、その居酒屋には地元の酒がかなり揃えられていた。
             まずは、本腰で飲み始める前に、その日の取りまとめをした。蔵元の一覧をテーブルに出して、順に木村の意見を聞いた。
            「ここは、意外と普通の純米酒がイケると思います。吟醸や大吟醸よりよかったな」
             和志はそれぞれの蔵元について経営の様子や酒蔵の管理状況などを書き込んだメモを取り出し、それと照らし合わせながら一覧に評価を書き加えていく。
            「この、最後に回ったとこの大吟醸。今日のイチ押しなんですけど、ちょっと高すぎになっちゃいますか?」
            「あれか。あれはオレもうまいと思ったけど、価格より生産量が微妙だな。全店に回る量が確保できるか、そのへん営業の腕次第と言うか、とりあえず候補に上げておこう」
            「これで終わりですね? オーダーしちゃいますよ。あ、主任! 明日回るとこのお酒もあります、頼んでみますね」
             木村は和志の返事も待ちきれない様子で、片手をひらひらと振って店員を呼んだ。
            「主任は私と違う銘柄にしますね。それと、主任は刺身なら何でもオッケーですよね?」
             和志が外食を好まない理由を知っているから、木村は素材そのものを味わうような料理を選んで注文する。
            「食べたいもの、好きにオーダーしていいぞ」
            「大丈夫です、ちゃんと頼みました」
             すぐに冷やで注文した日本酒が運ばれてきて、お疲れさまと言い合って乾杯した。
            「あー、これ、なかなかいいです。主任のほうはどうですか?」
            「やわらかい味だ。次に飲んでみるか?」
            「もちろんです」
             そんなことを話しながら、ひとしきり飲んで食べた。やがて仕事のことも頭から消え、さすがに酔いが回ってきた頃になって、和志はふと井澄を思った。
             結局、出張のこと話さないで来ちゃったな。
             この出張が決まった日に、今度の水曜日は出張で留守にすると一度は話そうと思ったのだが、わざわざそうするのもおかしいように思えて、言わずに来てしまった。
             約束してるわけじゃないし。でも。
             夕飯を当てにしていたのに、いつになっても自分が帰らないと気づいたら焦るかもしれない。そんな時間になって外に買いに出るのでは、弁当のたぐいしか調達できないだろう。
             ……言っておくんだったな。
             急に申し訳ないことをしたような気持ちになってくる。
             けど、子どもじゃないんだし。
             そう思ってみるが、やっぱり気にかかる。
             でも――。
             ふと、最初の晩に井澄の玄関先で入れ違いになった美女が思い出された。
             関口……とか言ってたな。
             井澄は苗字に『さん』づけで呼んでいたが、あの晩、井澄が彼女を待っていたことは明らかだ。あんな夜遅くに訪問してくるくらいだから井澄と特別な仲に思える。あの晩は、あのあとすぐに帰ったようだが、それだって何か事情があってのことかもしれない。
             ……ケンカしたとか。
             井澄に恋人がいても少しも不思議ではない。あの容姿だ。むしろ、いないと考えるほうが不自然なくらいで、それなら自分が井澄を心配するまでもないわけで――。
            「木村。オレってほだされやすいタイプかな」
             つい、思ったことが口に出てしまった。
            「えー? 知りませんよ、そんなこと。でも、ぜんぜんそんなふうには見えません」
            「そうか……?」
             自分では、井澄にほだされているとしか思えないのだが。夕飯をたかられて和むなんて。
             あれから、また米もらっちゃったし。
            「主任って、あまり怒らないじゃないですか」
            「――は?」
             言われたことが飲み込めず、和志はグラスを唇につけたまま木村に目を向けた。
            「だからー、温度が低いって言うかー。私も池田さんも、なんか、放牧されてる感じです」
            「放牧って……」
            「だって主任は、ほとんど口出さないじゃないですかー。そういうのって、やさしいのかもしれませんけど、もしかして関心ないのかなって、たまに思います」
             木村は少し赤くなった顔を伏せて、グラスを両手で持って口に運ぶ。
            「無関心ってことはないぞ。任せられるから任せてるんだし」
            「だと思いますけど、それって仕事の話じゃないですか。そうじゃなくて私が言いたいのは、なんて言うか……他人に興味がない?」
             ふと顔を上げた木村と目が合い、和志はきょとんとしてしまった。
            「そう……そうですよ。主任ってば、ぜんぜん興味ないって感じで冷たくするし」
            「え?」
            「覚えてないんですかぁ? 主任とつきあってもいいかなって、私、言ったことあるのに」
            「あ……あれは、木村――」
             突然そんなことを持ち出されて面食らった。
            「主任がほだされやすいタイプなら、私にもほだされてくれたってよかったじゃないですか。なに言ってんだ、みたいに見られて少しショックでしたよ」
             木村はテーブルに視線を落とし、いじいじと割り箸の袋をもてあそぶ。和志としては言いがかりをつけられたような気分で、木村のそんな態度に少しムッとした。
            「しょうがないだろ? 私より背が高かったらー、なんて言われてマジに受け取れるか? 背なんて、伸ばそうと思って伸びるもんじゃないんだし」
             思わず言えば、上目づかいに睨んでくる。
            「そういうとこ、主任は冷たいです。ぜんぜん興味ないから、わからないんです。そんなの、傷つきたくないから言ったに決まってるじゃないですか。もっと背が低かったらなーって、私、何回言われたかわからないでしょ」
             返す言葉に詰まった。間が持てず、和志は視線をさまよわせる。
            「でも、いいんです。ちょっといいかなって思ってたときだったし。本当に好きになる前でよかったです」
            「木村――」
            「だから、主任がほだされやすいなんて、嘘です」
            「悪かった。気がつけなくて」
             本心からそう思って、うつむく木村に苦い気持ちで謝った。
            「主任って、きっと恋愛感度が低いんですよ。カッコいいし悪い人じゃないのに今カノジョいないって、きっとそのせい。ホント、もったいないです」
             だが、拗ねた口調でそんなことを返され、どう答えるのが一番か思いあぐねてしまう。そっと息を吐き、口を開く。
            「それ言うなら、そっちだ。木村なら、オレよりもっとイイ男とつきあえるだろ。もったいない」
            「――そう思います?」
             不意に顔を上げ、木村が見つめてきた。
            「本当に?」
             切り替えの早さに半ば呆れて和志は答える。
            「本当だ。背が高くても姿勢がいいから、すらっとして見えるし、性格も素直だし、一緒にいて気が許せる」
            「んー、主任にそう言ってもらえるとうれしいなあ。私も主任大好きです」
             木村は、にっこりと明るい笑顔になる。
            「さっきは冷たいだの言ったくせに」
            「上司には最高です」
             それには和志も笑ってしまった。
            「だったら私、がんばっちゃおうかな。今度のデザイナーの島岡さん、ステキですよねー」
            「え?」
             唐突に井澄の名を出されて、グラスを取り上げた手が止まった。
            「また会社に来ないかなー」
            「無理だろ」
             目をそらし、和志は日本酒をあおる。
            「なんでー。応援してくれないんですか?」
             言われてギクッとしたが、そんなそぶりは少しも見せずに言い捨てた。
            「外注なんだから、打ち合わせでもなければ来るわけないだろ? 知ってて訊くな」
            「なら、打ち上げとか」
            「部外者が押しかける気か? 前向きなのはいいけど、そこまで明け透けだと引かれるぞ」
             木村はムスッとして言い返してくる。
            「だったら、主任はガード硬すぎ。だから何も起こらないうちに引かれちゃうんですよ」
            「オレはべつに困ってない」
             答えるのも面倒になって、適当に受け流した。飲み干したグラスを手に、次はどの地酒にしようか考える。
            「そっかー。やっとわかった」
             だが木村は、小さく手を叩いてまだ続ける。
            「主任は、カノジョいらないんだ」
            「もう、その話はいいから」
             和志はさえぎるが、やめようとしない。
            「料理できるし、おしゃれでいつもちゃんとしてるし、何でも自分でできますもんね?」
            「嫌味か?」
             苦笑して見せれば真顔で返してくる。
            「違いますよ。新鮮な発見です。感度低いのも納得です」
            「ひとり暮らしが長いだけだろ」
            「なら、淋しいとか思うじゃないですか普通」
             すっと胸の底が冷えた気がして口をつぐみ、和志はメニューを取って木村に渡した。
            「次、頼むならさっさとしろ。温泉入りたいんだろ? 近くにあるぞ、銭湯みたいなやつ」
            「えっ……? ホントですか?」
             目を丸くする木村に、わざと仕事の口調で言ってやった。
            「行くなら、少し酔い覚ましてからだ。倒れたって連絡がきても、裸じゃオレは迎えに行けないからな」
            「ひっどーい。それってセクハラ〜」
             不満そうに漏らしながらも木村は笑顔でメニューを開いて目を走らせる。すぐに店員を呼び、追加の注文をした。
            「主任は行かないんですか? 温泉」
            「オレはいい。一緒に行っても別々になるし」
            「あたりまえですよ。混浴なんて絶対ムリ」
            「明日はロビーに七時半だ。朝も外で食べるんだろ? オレにコールさせるなよ」
            「――わかりました」
             その返事は、まだ残っていた焼き魚に箸を伸ばしながら聞いた。追加で頼んだ日本酒が届き、黙ってグラスを取り上げる。
            「ありがとうございます、主任」
             小声で言った木村にチラッと目を向けた。
            「主任が、本当はいろいろ気を遣う人だって、わかってるのに、私――」
             木村は箸を持ったままテーブルに手を置き、ひっそりと肩を落とした。
            「いいから、飲んで食え。温泉の場所、教えるから迷うなよ。あと、帰りに襲われるな」
            「大丈夫ですよー。ひどいなあ、もう」
             わざとらしくふくれて見せる木村に、和志はやわらかく笑った。追加した料理も届き、和やかに木村と食べ尽くした。
             翌日も滞りなく日程を消化し、出張を終えて新幹線を降りたときには午後八時を回っていた。
            「オレも直帰だから、気にしないで帰れ」
             そんなことを話しながら、木村と並んで和志は乗り換えの連絡通路に出る。路線の違う木村と別れかけたところで、ふと視界に入った人物に目が留まった。
            「どうかしました、主任? あ、あの人――」
             木村も気づいた様子でハッと目を見開く。
            「いいから行け。快速に乗りたいんだろ?」
            「でも、島岡さんじゃ――」
            「ほら、電車入ってきたぞ」
            「え? きゃ、ホントだ!」
             お先に失礼します〜、と言いながら階段を駆け上っていく木村を見送った。
            「女と旅行だったとはね」
             間近で聞こえ、和志は振り向く。すぐそこに顔をしかめた井澄が立っていた。
            「出張だ。人聞きの悪いこと言うな」
            「どうだか」
             言い捨てて歩き出した和志に、井澄は並んできて呟いた。
            「平日だぞ? 出張に決まってるだろ」
             ムッとする和志を冷たく流し見る。
            「出張だろうと女と一泊したんだ。同じじゃねえか」
             それには心底カチンときて、和志は思わず足を止めた。
            「何が言いたい。オレをそんなふうに見てたのか」
             目を尖らせる和志に、井澄も眼差しを鋭くして返す。
            「なら、あんたは俺をどんなふうに見てたんだ。出張なら、前からわかってたはずだろ? 俺なんか、どうでもいいって?」
             チッと小さく舌打ちして目をそらした。
            「バカみてえじゃん、俺。あんた帰ってくるの待ってたなんて、帰ってくるはずねえのに」
             小声で漏らし、苦々しく横顔を歪ませる。
             ……マジで? オレを待ってたって?
             和志は急に落ち着かない気分になる。井澄は昨夜、やっぱり自分を待っていた。たとえ夕飯目当てであろうと。
            「くそっ。なんで俺が――」
             吐き捨てるように言って先を行こうとする井澄を和志は慌てて追う。
            「拗ねてんのかよ」
            「拗ねてなんかねーよ!」
             怒鳴る勢いで返され、びっくりした。
            「自分にムカついてるだけ。読みが浅かった。ケー番も聞いてなかったなんて、昨日になって気がつくなんて――」
             そこまで言って、井澄は気まずそうに口をつぐみ、そっと和志に振り返った。
             一瞬、時が止まったように和志は感じた。じっと自分を見つめる井澄の目が戸惑うように揺れ、それから苦しそうに細められた。
             な、なに……?
             どういうわけか胸が締めつけられてくる。井澄にひどく悪いことをしている気分になる。そのくせ鼓動が高まっていくようで、和志は上ずった声を漏らした。
            「さ、さっきの子とは何もないし――」
             言い訳じみたことを口走る自分に焦る。
            「木村は、おまえに気があるみたいだし――」
             口に出した途端、ズキンと胸が痛んだ。
             なんで――。
            「……へえ」
             井澄はすっと目をそらし、冷たく呟く。
            「だったら何? あんたがどうにかしてやろうって?」
            「そういうわけじゃ――」
            「俺、女ダメなんだ。そう言っといて」
            「――え?」
             こともなげに言い捨てた井澄に和志は耳を疑った。
             女ダメって……じゃあ、あの人は――。
             思ったら、カッとなった。自分でうろたえるほど抑えが利かなくなって、言い放つ。
            「いいかげんなこと言うなよな! カノジョいるくせに、よくそんなふうに言えるな!」
            「はぁ?」
             呆れた顔をされ、ムキになってしまう。
            「どうでもいい相手なら、適当なこと言って切り捨てんのかよ! そういうヤツなのかよ、おまえ!」
            「あんたに言われたくねーよ!」
             叩きつけるように井澄は言って返し、肩を怒らせた。
            「とことん通じない人だな、あんた。今あんたが言ったこと、そっくり返してやるよ。俺に女がいるなんて、どっから出てくんだよ」
            「いるだろ!」
             不意にケータイが鳴る音がした。和志からすっと目をそらし、井澄が上着のポケットからケータイを取り出した。
            「――ああ、関口さん」
             その一言を聞いて和志は固まる。自分の前で電話に出た男を見つめ、動けなくなる。
            「まだ東京駅です。はい――急ぎですか? 今からすぐ?」
             チラッと目を向けられ、ビクッと肩が揺れた。なぜか息が苦しい。すぐにもこの場から逃げ出したいと思うのに足が動いてくれない。
            「――仕事が入った」
             井澄は和志に見せつけるように、パタッと片手でケータイを閉じ、硬い声で言った。それから目を伏せるようにしてポケットにケータイを戻しながら、ぽつりと漏らした。
            「……一緒には帰れないな」
            「な、んで……!」
             一緒に帰らなくちゃならないのかと言い返しそうになり、和志は声を詰まらせる。
             井澄がじっと自分を見つめている。やけに淋しそうな眼差しで、ただ、じっと――。
            「問題は、解決した?」
             和志は何も答えられない。
            「あんた……鈍すぎだよ」
             くるりと背を向けて去っていく長身の後ろ姿を呆然と見送るだけだった。
             その晩、井澄は和志の部屋に来なかった。仕事で呼び出されたのだからあたりまえだと思っても、和志はどうにも居心地が悪かった。
             自分の分しか作らなかったのに――。
             駅前のスーパーは十時閉店だから出張の帰りに寄っても間に合った。井澄が来たら今夜は追い返すつもりで、あてつけにステーキ用の肉を一枚買っただけだ。
             なに考えてんだ、オレ。
             出張先では刺身や焼き魚ばかり食べていたからステーキにしたのに、ほどよくミディアムレアに焼いて、大根おろしにレモン醤油で自分好みに食べていても少しもおいしくない。
             ひとりきりの食卓は味気なかった。何年も続けてきたことなのに。
            『料理ウマイのって、やっぱ仕事のせい?』
             いつだったか井澄に訊かれた。そのときは、必要に迫られて自分で作るようになっただけだと答えた。
             自分の作る料理が他人にもおいしいかなんて考えていない。ふるまった相手においしいと言われればうれしいが、そのための努力をしたことはなかった。
             和志の料理は祖母に教わったものばかりだ。だから家庭料理に尽きる。自分はそれで満足だから手の込んだものは作れないし、チャレンジしようと思うほど料理が好きなわけでもない。
             物心ついたときには祖母とふたりきりの家庭だった。父親はいたがほとんど家にいることはなく、仕事が忙しいせいだと聞かされていたが、実はその限りでもないと大きくなるにつれて悟った。
             他界したと聞かされていた母親が実は生きていて、離婚の際に自分を置いて出て行ったと知ったのは中学生のときだ。父親が自分を構わない理由がなんとなくわかった。
             それでも、祖母とふたりの生活は楽しかった。自然と祖母を手伝っているうちに、自分のことは自分でできるようになっていた。
             ひとりで暮らすことに淋しさは感じない。ただ、自分の高校卒業を見届けるように祖母が他界したあとの数年間は本当に淋しかった。
             その頃には父親は再婚していて、アパートを借りて大学に通う経済的な援助は受けていたが、それだけだった。淋しさを埋めてくれる相手は、多くの友人と、その時々につきあっていた女の子だけだった。
             夜になればひとりだ。何年ものあいだ、ほとんどの夜をそう過ごしてきた。今さら淋しさを感じる理由などないはずだ。
             ……なのに。
             今、井澄がここにいないから、ぽっかりと穴があいたように感じる。たったの数週間、一緒に夕飯を囲んだだけなのに。
             あんな勝手なヤツ、なんで。
             呼んでもないのにやってきて、うまいと言って夕飯をたかるだけで、米はずいぶんもらったけどそれだけで――。
             でも、嫌じゃなかった。
             むしろ楽しかった。井澄は和むと言っていたが、自分も同じ気持ちになっていた。心のどこかで祖母と暮らしていた頃に重ね合わせていたのかもしれないと思う。だけど、それだけではないはずだ。祖母がくれた眼差しと、井澄がくれる眼差しは違うから。
            『あんた……鈍すぎだよ』
             別れ際に投げられた一言が、今になって胸に迫る。あのときの井澄の目が思い出され、和志をせつなく責めたてる。
            『感度低いのも納得です』
             あっけらかんとした木村の声が、追うようにして脳裏をよぎった。
            『だったら、主任はガード硬すぎ。だから何も起こらないうちに引かれちゃうんですよ』
             受け流したはずの言葉が重くのしかかってきた。
            「はー……」
             ため息が出る。自分の部屋にひとりでいて、消えてしまいたい気持ちになる。
             あの晩、井澄と並んで今のこの場所にいて、ベッドに寄りかかってテレビを見ていた。だけど本当には見ていなかった。井澄の肩にもたれ、不思議な安堵に酔っていたのが本当だ。
             たったの一晩、たったの一晩だ。何も知らされずに、出張で帰らない自分を待って井澄が過ごした昨夜も、井澄は仕事で来ないとわかって、自分が過ごす今夜も、同じひとりの夜、同じ一晩。
             井澄も自分と同じように、昨夜はたまらない淋しさを味わったのだろうか。だとしたら、自分が井澄をそうさせたのか。
             あの人……つきあってるわけじゃなかったんだな――。
             ケータイに『関口さん』からかかってきた電話に出た井澄は事務的だった。単なる仕事相手と話しているようだった。
            『問題は、解決した?』
            「あ――」
             何を言われたのか、今やっとわかった。
             オレが勘違いしてたことに気づいて――。
            『俺、女ダメなんだ』
             ……そんな。
             じわっと胸が熱くなる。頬まで熱くなるようで和志はうろたえる。
             頭を振り、余計としか思えないことを払おうとした。なのに、普段より速い鼓動が意識されて、すっぱいような気持ちが胸いっぱいに広がっていった。


            つづく


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    素材:あんずいろ