Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 
「白衣隷属」
−1−





『私のいた研究室で一番頭が切れる学生ですか? そうですね……六条かな』
 あまり考えずに放った一言が、二年も過ぎてから自分の身に面倒を引き起こすなんて、誰だって予測できなくて当然だと思う。
 だけど、あの時点で俺は気づいてよかったはずだ。そんな名前は加藤教授の研究室の名簿に見たことがない、と返された時点で。
『ああ、六条は学部生なのできっと載ってないんですよ。でも加藤教授のゼミにいて研究室が同じでした。きっと天才だなんて院生のあいだで噂になったくらいです。外部受けてなければ、今は院にいると思います』
 なのに、バカ正直にも俺はそんなことまで笑顔で答えてしまったんだ。浮かれてたんだと思う。第一志望だった製薬会社に無事に就職して研修も終わり、これまた第一志望だった製品開発部に配属が決まった直後だったから。人事部が次の採用に向けてもう動き出しているなんて、まったく考えもしなかった。
「きみから聞いたとおり、六条くんは逸材のようだ」
 つい先日のことだ。人事部に呼び出されて何事かと思って行ってみたら、いきなりそう言われた。
「きみからも誘ってくれないか? わかっていると思うが、うちから加藤教授に指名するわけにはいかないのでね」
 曖昧に苦笑してみせる人事部の採用担当者を前に、溜め息が出そうだった。要は、俺にリクルーターをやれ、ということだ。なんで俺が、と思ったが、会社と加藤教授との力関係を思えば下手に出るしかないと言われたのも納得で、そもそも俺が六条はどうかと言い出したわけだし、俺の次に加藤教授の研究室から入社したヤツよりも俺のほうが適任と判断されたのは疑いようがなかった。
 余計なことは言うもんじゃない。今だから思えるのであって、入社して間もなかった当時の俺は会社組織というものを理解できてなかったのだから仕方なかった。
「でも、六条はまだ前期過程ですよね? 来年は後期過程に進んで、そのまま大学に残るか、留学するつもりでいるかもしれませんよ」
 天才と呼べば聞こえはいいけど、紙一重とも言えるタイプの人間が会社でやっていけるとは思えなかった。六条みたいなヤツは大学に残って教授にでもなったほうがいいんじゃないか。
「だから、きみを呼んだんだ。新堂明則くん。加藤教授とも懇意だったろう? 教授の推薦があったからうちに採用されたのは自分でもわかっているだろうし、うちとしても、きみのような社員をもっと増やしたいんだよ。何を言われているか、わかるね?」
 俺をフルネームで呼び、急に威圧的な態度に打って変わった理由は、嫌でもわかった。
 俺は、加藤教授とのパイプ役ですか。最初からそのつもりで採用したわけですか。
 だとしても異論はない。大して優秀でもない俺が研究員をやっていられるんだ。ラボを支えるのは突出した一握りのやつらではなく、俺のような平均的レベルの多くの研究員とわかっている今、卑屈に思うこともなかった。
 もっとも、六条が入社したなら、突出した一握りの中に入るのは間違いないけど。
「大学に埋もれさせるのでは惜しい。他社に持っていかれるのでは、もっと惜しい。できれば、六条くんには新薬の開発に携わってもらいたいと考えている」
「わかりました」
 そこまで言われては引き下がるしかなかった。六条に新薬の開発をさせようなんて、青田買いにもほどがあると呆れそうになった。
 だけど、それは俺につけたエサだ。六条を入社させて、それからも六条のサポートに就けるなら、俺も新薬開発のラボに移れるかもしれない。
 消臭除菌製品の開発援助も決してつまらなくはないけれど、想像を上回る企業間の熾烈な新製品開発競争に早くも疲れてきていたのは事実だ。入社して二年。ずっと残業続きだった。同じ開発援助をするにも、せっかくなら医薬品開発の現場で働いてみたい。
 一か八か、六条を引き込んでみるのもおもしろいと思った。


『白衣が乾かないんです』
 アホくさいメールを受け取ることにも慣れて、俺は仏頂面で返信を打つ。
『乾燥機使え。ないならコインランドリーに行け』
『乾燥機はしわくちゃになるから嫌です』
『アイロンかければいいだろ』
『アイロン苦手なんです』
『だったらクリーニングに出すんだな』
 貴重な昼休みの時間をどうしてこんなことに費やさなくてはならないのかと思う。
『クリーニング屋が開いてる時間に出しに行ったり取りに行ったり、ぼくにはできません』
 マジに六条は紙一重だ。こんなヤツがひとり暮らしだなんて、何かの間違いじゃないか。
『なら通販で買い足せ。届け先は研究室だ』
『そんなことに使うお金ないです』
 じゃあ勝手にしろ、と言えない自分が嫌になる。
『わかった。明日行ってやる』
 結局はブチ切れてこうなる。貴重な休日をまた六条に潰されるのかと思うと、ケータイを手にしたまま溜め息を止められなかった
「どうした新堂。彼女とケンカか?」
 ラボの食堂にいて、テーブルの向こう側から言われた。食後の茶を飲みながら、ふたつ上の萩原さんがニヤニヤと俺を見ている。
「彼女ならいいんですけどね。俺、いないし」
「へえ、いないんだ?」
 意外そうに言われても、それならメールの相手は誰だとか訊かれないからいい。良くも悪くも、どのラボでも深い人間関係はありえない。誰もが実験や研究で頭がいっぱいだ。
「新堂でも彼女いないんじゃ、俺にいなくて当然だな」
 だけど萩原さんはそんな冗談が言える余裕がある。穏やかな笑顔につられて口元が緩み、そんな自分に気づいて少し戸惑った。まだ食べかけだったB定食を一気に片づけながら、だったら合コンしましょうかと萩原さんに言えなかった鈍さに思い当たり、自分も大概だと呆れた。研究者なんて、こんなもんだ。
「新堂さん、待っていました」
 だけど、こいつは別。六条は読みきれない思考回路の持ち主。
 土曜日の午後を空けるために昨夜はラボに泊まり込み、帰宅する前に六条が借りているマンションに立ち寄った俺に、六条は両手いっぱいの白衣を差し出してくる。
「実験でずっと研究室に泊まっていて、昨日は溶液こぼしちゃって白衣なくなっちゃって、困ってたんです」
 こいつは本当に今年で二十四になるのかと、俺でなくたって思うに違いない。少しも構わない髪は伸び放題で、でも癖がないから黒くまっすぐでサラサラだ。勉強ばかりしてきたくせに視力はいいからメガネもしてなくて、小顔に目がぱっちりと大きい。だけど栄養は成長に行き届かなかったようで、俺よりも頭ひとつ低く、体つきもかなり細い。身長一六五センチで体重五十キロないなら、男として痩せすぎだろう。もちろん、色白だ。
 見た目はそんな小動物のようでも六条には機敏さのカケラもなく、動きが鈍くてぼうっとして表情が少ないから、六条のスゴさを知るまでアホにしか思えなかった。今だって、パジャマにしか見えないジャージ姿で出てきて、まさに紙一重。
「わかった、わかったから。で、どれが溶液こぼしたやつなんだ?」
 まさか、生乾きの白衣と一緒にしてないだろうな。
「えーと。これは洗濯して――」
 そんなことを呟きながら一枚一枚床に落とし始めた六条に頭が痛くなりそうだった。
「もういいから全部よこせ」
 結局こうなる。玄関での会話に痺れを切らして、俺は全部まとめて奪うとズカズカと上がり込んだ。しょせん1DKのマンションだ、洗濯機のありかくらいすぐにわかった。
「乾燥機あるじゃん。使い方、知らないのか」
 のろのろとついてきた六条に言ってやった。
「でも、しわくちゃになるから――」
「少しは、こういうことにも頭使え。完全に乾く前に取り出して、アイロンかけるんだ」
「でも、アイロンは――」
「苦手だって言うんだろ」
 訊いた俺がバカだった。このために来たんだから。とは言え納得のいかないまま、白衣を一枚一枚確かめながら洗濯機に入れる。
「溶液は何だったんだ?」
 派手にしみのついた白衣を広げた。返事を聞いて、持ってきた自社製品のサンプルの中から一番適当なものを取り出す。
「で、実験は終わったのか?」
 しみ抜きをしながら、そんなことまで訊いてやる自分が嫌になってくる。
「……終わりました」
 気のない声が返って、振り向いた。表情のない六条を見て、溜め息が出た。しみ抜きをした白衣を回り始めた洗濯機に放り込む。
 洗濯から乾燥まで約一時間、それから八枚あった白衣にアイロンをかけて約四十分、ほかに何だかんだでトータル二時間も六条につきあわなければならないなんて間が持たない。それでも、昨日までどんな実験やってたんだとか、うっかり訊かなくてよかった。
 下手に今やっている研究内容なんか話題に振ったら大変だ。こっちの研究は社外秘で話せるはずもなく、延々と六条の話を聞くことになる。先輩面で相槌を打つにも、俺の理解を超える内容になってくると苦痛でしかなかった。ほかに話題を振るにも、学術的なことでなければ六条はまったく受け付けない。
 だが、なぜか今日は違っていた。
「濡れてますね」
 洗濯機の前にぼんやり突っ立ている俺を見て、いきなり言った。
「少し匂う」
 俺のスーツに鼻を近づけて、そんなことまで言う。
「昨日は泊まったんだから仕方ないだろ」
 誰のせいだよ、とまでは言わなかった。
「スーツの替えまで持ってなかったし、ラボにはシャワーしかないし。こんだけ雨が強ければ濡れるし、濡れたから匂うんだろ」
 小学生に言い聞かせるような説明をした俺に、六条は、へえ、とも、はあ、とも言わずに珍しいものでも見るような目を向けてくる。
「……なんだよ」
「昨日、泊まったんですか」
「だからそう言ったろ」
「濡れてるし」
「だから、今日はかなり強く降ってんだよ」
「お風呂入りますか?」
「はあっ?」
「さっき大学から帰って入ったばかりだから、まだ入れます」
 何を言い出すんだ、こいつは。でも、俺も家に帰ったらすぐ風呂に入るつもりだったし、それよりこいつといるんじゃ間が持たないし、悪くない話だった。
「じゃ、借りるわ」
 その場でさっさと脱ぎ出した。どうせ帰りにまた濡れるのだから、脱いだものは適当にそのへんに置いた。一瞬、六条が面食らった顔をしたけど、むしろいい気味だった。少しは動揺しろ。俺が何をしてやっても、いつも無表情で受け流してんだから。
 風呂は、六条にしてはきれいに掃除してあるように見えた。それに六条の言ったとおり、湯船のふたを開けると湯気が立ち上って、少し温めるだけでいい湯加減になった。わざと時間をかけて、のんびり入った。洗濯機が止まるまで俺は何もすることがないんだから。
「ゼリー、食べますか?」
「はあっ?」
 しかし風呂から上がった俺は、逆に動揺させられることになる。
 また六条が唐突なことを言ったのもあるけど、俺の脱いだものが見当たらない。そこに代わりのように置かれていたバスタオルを巻いて、うろうろしてしまう。
「ゼリー、作ったんですけど」
「そんなことより俺の服」
 洗面所に顔を出した六条は、相変わらずの無表情で洗濯機を指差す。
「って、おまえ! まさかスーツまで放り込んだのかっ?」
 ありえない話じゃない。相手が六条なら。
「いえ」
 今度は奥の部屋を指差す。開いたドアの先にハンガーに吊るされた俺のスーツが見えた。
「新堂さんが作った、シワ取りスプレーかけておきました」
 六条なのに、なんて殊勝なことを。とでも感激すると思ったのか、俺が。それに、あのスプレーは俺が作ったんじゃない、自社製品を俺があげただけだ。嫌味か、まったく。
 ひとまずスーツは無事とわかってホッとしたけど、となると、残りはすべて洗濯機の中か。なに考えてんだ、六条。
「俺に裸でいろ、ってのか」
「いてくれるんですか?」
「はあっ?」
 そんなこと訊いて俺にどう答えろと。検討の余地なんてないだろ!
「ふざけんな! 梅雨で、いくら蒸し暑くたって風邪ひくだろ! つか、むしろひく!」
「じゃ、これ着てください」
 着替え用意してたなら先に出せよと、差し出されたものを見て固まった。
「……どういうことだ」
 目の前にあるのは白衣だ。全部、洗濯したんじゃなかったか?
「まだ替えがあるじゃないか。俺を呼びつけて洗濯させて、だまして遊んでんのかっ」
 そうとしか思えなかった。六条は、なんで俺がここに来るのか当然わかっている。後期過程も修了して博士号を取りたいと言う六条を思い留まらせ、うちに入社させるためだ。
 しかし六条は、しれっと答えた。
「違います、それ、ぼくには大きすぎて。それに、研究室で着るのはちょっと」
「ちょっと、ってなんだよ!」
「風邪ひきそうなら早く着てください」
「六条! おまえな!」
 俺が呼び止めるのなんてちっとも聞かずに、六条はキッチンに行って冷蔵庫を開ける。
 ムッとして洗濯機の中を確かめたら、マジに俺のワイシャツやら下着やらがぐるぐる回っていた。仕方なく白衣に腕を通したら、気持ち悪いほどピッタリだ。ボタンをかけようとして、ふと内側のタグに記名があると気づいた。それを見て、急に背筋が冷たくなる。
 ……なんで、俺の。
 間違いない。俺の白衣だ。筆跡でわかる。
「六条――」
「ああ、すみません。ゼリー、まだ固まってませんでした」
 そうじゃなくて。
 どうして俺の白衣を六条が持っているのか、訊こうとしてタイミングをくじかれて、俺はぐっと口をつぐんだ。
 白衣の下は何も着てないから、腰のあたりが特にスースーして、妙に居心地が悪い。なのに、六条は冷蔵庫を閉めながら、氷の作り置きがなかったのは失敗でしたなんて、ぼそぼそ言っている。
 だいたい、なんでゼリーなんだ。
「おまえさ。ゼリーなんか作るヒマあるなら、アイロンの練習しろよ」
 まったくもって、そのとおりだ。このあいだは、食料が何もないんです、買いに行く時間がないんです、なんてメール送りつけてきて、俺に買い物して来させたんだぞ。それもレトルト食品ばかり。
「て言うか、ゼリー作るくらいなら料理しろ。そんな、なまっちろい顔してさ」
「白い肌は嫌いですか?」
 やっとこっちを向いたかと思ったら、またそんなことを言い出す。もう、取り合う気にもなれない。白い肌は好きだけと、女の話だ。
「でも、ゼリーは作らないと駄目なんです。市販品は増粘安定剤を使ったものが多くて味が落ちます。天然素材のゼラチンが一番です」
 急にそんなことを言い出して、六条の話が延々と始まる。
「化学組成上はまったく同じにしても、どうして食品添加物は天然素材と食感も味も違ってしまうのか。天然素材には不純物が含まれていることが最たる要因と想定できますが、ならば、含まれうる不純物も合わせて化学合成すれば天然素材により近づけることができるはずで――」
「わかった、わかったから」
 こんな格好で、こんなところに突っ立ったままそんな話を聞かされるんじゃ、たまったもんじゃない。
「それに、ぼくの経験上、天然ゼラチンを使用したゼリーは主に洋菓子専門店で購入可能ですけど、大体において洋酒を使うなど、ぼくの口には合わないものが多すぎです」
 だから手間をかけてでも自分で作るのだと、この六条が言うなら呆れた。思わず口に出る。
「食品メーカーにでも就職する気かよ。おまえが食品添加物の研究開発するなんてな」
「……しませんよ」
 おっと。まともに反応した。
「新堂さんは、ぼくを自分の会社に入れたいんでしょう?」
「まあ、そうだ。いや、そのとおりだ」
 実際には俺が入れたいんじゃないけど。ここはそう言っておかないとマズイだろ?
「ぼくも、研究室に新堂さんがいるならいいんですけど、企業に入るのは、やっぱり……」
 おいおい、まだそんなこと言うか? 俺が、どれだけおまえに貢いでると思ってるんだ。金の話じゃない、今日だってせっかくの休みを潰して、こうして来てるんだぞ。
「新堂さんもひどいです。修士でやめちゃうなんて」
 ――は?
 言われたことにもだけど、いきなり六条の顔に表情が浮かんで、びっくりした。恨めしそうな、拗ねたような目で俺を睨んでくる。
「院に入ったら、一緒に研究できると思ってたのに」
「……なんの話だ?」
「知らないうちに就職が決まってて、ぼくと入れ違いにいなくなるなんて」
 がっかりしたように肩を落とされて、本気で驚いた。俺と一緒に研究したかったなんて、六条が言うこと自体にも驚きだけど、本当にそうだったとしても、そんなふうにはぜんぜん見えなかったぞ。
「嫌がらせですか?」
「はあっ?」
 なんで俺の就職が六条への嫌がらせなんだ。
「一緒に研究したかったのに」
 目の前まで来て、六条は顔を伏せて、俺の白衣をいじけた仕草で触る。
「二年もしてから突然ぼくに連絡してきて、それが、よりによって採用活動だなんて」
 ムスッとして上目遣いに俺を見上げる。
「新堂さんと大学の、どちらかを選べと言われたようなものです。ぼくには究極の選択だ」
「おまえ……」
 俺を見上げる六条の顔が、やけにせつなそうに見える。錯覚か。
「なに言ってるか、自分でわかってるか?」
「ぼくをバカにするんですか?」
 それには慌てた。六条のプライドの高さは半端じゃない。急いで言い繕う。
「まさか。だけど俺、研究室にいたときも、おまえと話した記憶ほとんどないんだけど」
 そんな俺と一緒に研究したかったなんて、どんな理由からだ。そもそも六条が誰かと研究したいなんて言うこと自体が信じられない。
「新堂さんがいなくなるなんて思ってなかったんです。学部生だったときのぼくの最優先事項は、ほかにありましたから」
 言葉が出なかった。それなら、院生になってからの最優先事項は俺になるはずだった、って言ってるようなものじゃないか。
「新堂さん」
 俺を見つめる六条の目がなんだか揺れている。色白の小顔に黒く大きな瞳。おかしな気持ちにさせられるようで、俺はかなり焦った。
「ぼく、新堂さんの会社になら入ってもいいかなって、ちょっと思い始めてるんです」
「お、おう! そうしろよ。企業はいいぞ、白衣なんていくらでも替えがあってサイズもそろってるし、クリーニングは会社持ちだ」
 自分でもズレたこと言ってるとわかってたけど、うろたえすぎて止まらなかった。
「それに、入社早々新薬の開発チームに配属なら悪くないだろ? 斬新な発想が求められるんだ、十分に能力を生かせるじゃないか」
 もう、しどろもどろだ。以前にも聞かせたことと同じ話をしている。せっかく六条が入社する気を見せているのに、ここでもう一押しできなきゃ駄目だろ。
「ぼくが入ったら、新堂さんもうれしい?」
 今さらの質問に、大きく頷いて返した。
「なら、入ってもいいかな。製品開発には興味がないけど、基礎研究ができるなら大学に残るのと変わらないし」
「できるって! 新薬開発なんだから」
「でも、そんなこと言っても入社したあとになって変更とか、たまに聞くんですよね」
「六条〜」
 なんだよこの、思わせぶりな態度は。さっきから俺の白衣とかV字に開いた胸のあたりとか、指先でいじいじ触り続けてさ。
「企業に入れば研究することで金がもらえるんだぞ。その分、好きなことに使えるだろ?」
 しかしそう言った途端、六条は急に醒めた目を向けてきた。すっと細めて、ゾクッとする眼差しで俺を見る。
「ぼくは、お金には関心が向きません」
 何を今さら。専門書でも薬品でも、白衣の買い足しでも、際限なく使い道があるくせに。
「新堂さんの会社に入って何かもらえるなら、お金より欲しいものがあります」
 もう、引くに引けない。訊くしかなかった。
「なんだ。言ってみろ」
「新堂さん」
 う、と声を詰まらせた俺を見て、六条は薄く笑った。白衣の合わせから手を滑り込ませてきて、俺の肌をいやらしい仕草で撫でる。
「ぼく、実験で、研究室にずっと泊まり込みだったでしょう? ストレスでアドレナリン受容体が過剰になっているんです」
 要は、たまってる、って言いたいのか。
「おまえでも、実験がストレスになるのかよ」
 咄嗟に嫌味でも何でも言って返して、この場を濁すしかないと思った。
「いやだなあ、新堂さんからそんなこと聞くなんて。わかってるくせに。緊張が続けば、どんなことでもストレスになるでしょ」
 ニコッと見上げられてゾッとした。六条の笑顔なんて、これが初めてかもしれない。
 て言うか、こいつ本当に六条か?
「なんか……いつもとキャラ違うんだけど」
「ああ、そうかもしれません。実験期間中は実験が最優先事項ですから。実験がない日に新堂さんに会ったのは、今日が初めてですね」
「六条……」
 俺の胸にピタッと頬を寄せて、体を合わせてくる。とにかく信じられない。六条がこんなことするなんて、冗談でもありえない。
「白衣、どうしてぼくが持っていたのか、訊かないんですか?」
 言われてギクッとした。そうだ、なんで俺の白衣がここにあったのか。
「これしかなかったんです。院生になって、研究室に行ったら」
 そう言って、俺の白衣に挿し入れた手で俺の乳首をつまんだ。
「うっ」
「新堂さんって、かなり迂闊です。忘れ物もするし、言われたことを丸呑みするし」
「ろ、六条」
「まずは疑うこと。それが斬新な発想につながるんじゃないですか? 忘れてたでしょ」
 ……こいつ!
「そんなふうに怒った顔、見たかったです。そのへんの人みたいで。みんな、なんて言うんでしたっけ? 燃える? ぼくなんてアドレナリン放出、って感じ」
 つまり――襲いたくなる?
「冗談じゃない! あっ」
「無理ですよ。会社の言いなりになって、ぼくのところに来てるんですから」
 ぎゅっと強くつままれて、爪を立てられた乳首がピリピリ痛む。
「ぼくの言いなりにもなってください。今だってぼくを突き飛ばせば逃げられるのに、しないのは、できない理由があるからでしょ」
 思わず六条に目を向けた。信じられない……本当に、本当に六条なのか?
 色白の頬が淡く染まっている。伸びすぎた黒くまっすぐな前髪の陰から、薄く開いた目でうっとりと俺を見上げている。そのくせ、眼差しはギラギラと鋭くて。
 性的に興奮した顔だ。六条でもこんな顔をするなんて。俺に、こんな顔を見せるなんて。
「安心して」
 すっと視線を下げて、俺の肩に頭を乗せる。
「ぼくは一度した約束は必ず守ります」
 俺の首筋に生温かい舌をぬるりと這わせた。
「会社があなたにした約束を守らなかったら、ぼくが会社を裏切ります。それだけの価値がぼくにあるから、こうして来るんでしょう?」
 ゴクッと喉が鳴った。六条を引き込む――それが、こういうことだったとは。
 六条の言いなりになって、六条を入社させるか。そうなっても社内で俺が優遇されることがなかったら、六条が阻止すると言う。
 六条を拒んだら――こっちのほうが結果は明らかだ。六条は入社しないし、俺の社内での立場は変わらないか悪くなるかのどちらか。
 迷ってもいられない。六条の本気が伝わってくる。俺の腿に当たる、硬い感触で。
 二者択一だ。六条の言いなりになるか、ならないか。こんなことで迷えるほど、自分に野心があるとは思わなかった。枕営業まがいのことと天秤にかけてまで、社内で優遇されることを考えているなんて。
「迷うなら、答えは出たのも同じだね」
 ニッコリと六条が笑いかけてくる。胸の奥がすっと冷えて、背筋をゾクッとした感覚が走り抜けた。
 目の前にいる六条は、少年のようだ。

つづく




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