Words & Emotion
輪の外
Out of a Circle
1 trigger
「ん……」
小さく飛び出た自分の声にハッと目を開くと、宙に舞う塵が見えた。キラキラしている。私の後ろにある踊り場の大きな窓からいっぱいに、冬の陽が射し込んでいるのだ。
旧校舎は明治だか大正だかに建てられたレトロな建物で、今では教室として使われている部屋はひとつもなく、運動部や文化部の物置同然になっている。どの部もほかに活動場所があるから、この旧校舎の奥まで来る生徒はめったにいない。
階段には埃が積もっている。白く積もった埃がところどころきれいに消えているのは、私たちのほかにもここをこんなふうに利用する生徒がいるからなのかもしれない。
「なに考えてんだよ」
耳元でヤスヒロが囁いた。私は、べつに、とうつろに答えて彼の肩に顔を埋める。彼の首にかじりついていた腕はさっきから力が入らない。ずるずると下がって、いつのまにか彼の胸にゆるく縋っているだけだ。
背中が熱い。ガラス越しの冬の光でも、光はそれなりの熱を持つのだろうか。最近ではほとんど目にすることのない歪みのある厚いガラスを思い描いた。踊り場の窓ガラスだ。天井から腰のあたりまである大きな格子窓は木枠でできていて開けることはできない。
「あ……だめ」
ほんの少し動きを変えられただけで声が出た。くすっと笑ったヤスヒロの吐息が耳にかかり、背筋がぞくっと震えた。
固く閉ざされた屋上への扉に続く階段、踊り場から回り込んだ最上段は下の階からは見えない。ヤスヒロはそこに腰掛けている。私はヤスヒロの腿の上に向かい合って座っている――ように見えるはずだ。
こんなとき、スカートって便利だな、なんて思う。普段はジーンズばかりでスカートなんて制服のほかには一枚も持っていない私だけど、スカートって便利かも――なんてヤスヒロに言ったら、買えよ、って言われるかもしれない。そうしたら、次は外でしようとでも言うのだろうか。冬は寒いから嫌だな。
「――まだイけないのかよ」
「そんなこと、言ったって」
ゆるゆるとした刺激を受け続けて、私のそこも腿の内側もぐっしょりとしているのだけど、どうしても気が散ってしまう。
いくら人気のない旧校舎の奥でも、さらに屋上へ続く階段の最上段でも、学校の中であるのには違いない。誰かに見られたってかまわないけど、煩わしいことになると面倒だ。
わかっている。ヤスヒロはこんな状況を楽しんでいる。まだ終わらないのはわざと長引かせているからだ。毎日のようにしているのに、そんな時間はないのに今日もしようと言い出したのは、もちろんヤスヒロだった。
バイトのシフト入りがいつもより早くなったから、ミチコの家に寄ると遅れるから、だから旧校舎に行こうぜ――。
行こうぜ、って、しようぜとイコールなのはわかっていたけど――だから、それは、私もそれでいいと、そういうことなのだけど。
「時間――」
なんか、もう、カンベンして、って感じになって、言った。もどかしいだけで、あまり楽しくない。
「遅れるよ、バイト――」
聞こえていないはずはないのに、ヤスヒロは何も答えずにさっきからのペースを崩さない。じわじわと私の奥を刺激し続ける。
熱い。コートを着たままでいるのがいけないのかもしれない。吐く息も熱くて、それが顔を埋めているヤスヒロの肩にこもって、なおさら、熱い。
胸の底から湧き出る熱く湿った息を殺して、頬をヤスヒロの肩に押し付けたまま横を向いた。淀んだ空気をゆっくりと吸って、吐く。
踊り場の窓から射し込む陽射しは長く、階段の下まで伸びていた。光が跳ねるレトロなデザインの施された手摺り、アイボリーの漆喰壁、こげ茶色の腰板――その先の薄暗い陰。
「あ」
「――なに?」
それまでと違う声を上げた私の顔をヤスヒロが覗き込んだ。
「あ……」
ヤスヒロと目が合って、別の声が出た。
冬の陽射しに照らされて、彫りの深いヤスヒロの顔は溶けていた。少し長い前髪は額にかかり、うっすらと滲む汗に幾筋か貼りついている。眩しそうに目を細めて、うっとりと私を見つめるこの眼差しが私は好きだ。
ヤスヒロはふうっと大きく息を吐くと、ぎゅうっと私を抱きしめた。
「あ、てさ……なに?」
甘く囁かれ、最初の声の理由を私は答えた。
「誰か、いた」
「どこに」
「そこ、階段の途中」
「べつにいいじゃん」
「でも……シンジだったみたい」
「シンジ?」
「見ていたのかも……」
「何を? おまえを抱っこしているとこ?」
くくっと低く笑って、ヤスヒロは再びゆっくりと動き始める。私の顔を引き寄せてキスをする。胸の詰まるような吐息と共に離れる。
その顔を私は見つめた。せつなげに寄った眉も、震える睫毛も、薄く開いた唇も、ヤスヒロの到達はもうすぐなのを伝えている。
ヤスヒロの表情に酔った。ようやく訪れた背筋を駆け上る感覚を私は意識した。ぞくぞくと体中が騒ぐ。下腹部に力が入る。
「く……」
その声で、ヤスヒロが私の中に放ったのを知る。そのときのヤスヒロの表情を見逃さないように、私は大きく目を開いた。
バス通りから折れると冬枯れの街路樹が続く住宅街に出る。私の家はこの一角にある。
二十年前には新興住宅地と言われた区域は似たような造りの家々が建ち並び、似たような家族構成の似たような経済状態の人々が住む街だ。今はどの家の子もほとんどが成人し、どの家も同じように共働き家庭だ。平日の昼間は人影を見るのも珍しいような街。
私の家も例外ではなく、姉が大学入学を機に家を出てからは、母はまるでそれで子育てが終わったかのように仕事に専念した。フルタイムで働く両親は、夜になるまで帰らない。
私のほかに誰もいない家で、私が何をしているのかなんて、両親は知らない。両親だけじゃない、隣近所の誰もが知るはずもない。
ヤスヒロのようにバイトするでもなく、ましてや部活するでもなく、学校が終われば私の時間はたっぷりある。そのほとんどをバイトに行く前のヤスヒロと過ごしているとしても、多分、私は自由なんだと思う。
ヤスヒロとは学校で別れて、私はひとり、家への道をのんびりと歩いていた。冬の日没はあっという間だ。すっかり暗くなっている。明かりの見える家は少なく、凍える夜気の中、ところどころに震えている。
うちの門に手を掛け、ふと右手を見た。歩いてきた通りの先、道が大きく右にカーブするところにある家――シンジの家。玄関の明かりは点いていても一階の窓はどれも暗く、二階は通りに面した窓がひとつ明るいだけだ。
玄関の鍵をあけて中に入った。自分の部屋に上がって着替えながら、今日、旧校舎で見たシンジを思い出した。
下の階から数段上がったところ、陰になっていた壁際にシンジは立っていた。ヤスヒロには曖昧に答えたけど、私たちを見ていたのは確かにシンジだった。
不思議な表情だった。最上段に座り込んで抱き合っている私たちを見上げながらも、驚いているふうでもなく、覗きを楽しんでいるふうでもなく、なんて言うか――苦しそうな、せつなそうな、悲しそうな――そう、怒っているような表情だった。
そんな顔で見られて、驚いたのはむしろ私だった。そんな顔をしながら、シンジはじっと私たちの方を見つめていたのだ。思わず声を上げてしまうまで、数秒の間があった。
だけど……シンジと目が合ったのは私が声を上げてからだった――どうしてかな。
シンジは何を見ていたのだろう。
シンジと私は中学校も同じだった。だけど小学校は違う。シンジは中学校に入る前の春休みにこの街に引っ越してきたからだ。女の子みたいにきれいな顔立ちで、物静かで勉強ができたから、中学校では浮いていた。
集団の中で浮いてしまうのは、たいがい簡単な理由からだと思う。もともと異質なものを持っているか、あるいは異質なものを持っていると思われるだけでいいのだ。
集団は例外を許さない。誰もが名前で呼び合うような中学校だったけれど、親しみもなく名前で呼び合うのは、例外を繋ぎとめるための集団の手段でしかない。
私が誰からもミチコと呼ばれていたように、シンジも名前で呼ばれていた。互いに浮いた者同士、私とシンジは似ていたかもしれないけど、だからと言って固まることはなく、むしろ、互いに互いを見張っていたようなものだった。
シンジが私と同じ高校に入ったのだって、有名私立高校の受験に失敗したからだ。高校に入ってからは同じクラスになることもなく、今日まで忘れていたような存在だった。
だけど、気になる。しているところを見られたからではない。誰が見ても私たちがしていたのは気づいただろうけど、私の胸を触るヤスヒロの手は私のコートに隠されていたし、その部分は私のスカートに隠されていた。
気になるのは――シンジに気づいた私にシンジはすぐには気づかなかったこと。私たちの方をじっと見上げながらも、シンジはそこに何を見ていたのか――そのことだった。
⇒NEXT
◆別館に戻る
壁紙提供:Studio Blue Moon