二 まさか、あんなにもウブだったとは――。 羽柴は信じられない気持ちでいっぱいだ。むしろ信じたくない気持ちだ。想像もつかなかったのは、いっそ仕方ないとさえ思えてくる。もしかしなくても、田口は自分がモテていることにも気づいてないだろう。 実際、田口はモテている。売り場に現れると、向かいの呉服売り場の女性販売員など、目に見えてそわそわするくらいだ。時には、客の中にもそんな女性が見られる。 「はー……」 職場で男とキスしているところなど見せるんじゃなかったと、今さらながら激しく後悔した。田口には刺激が強すぎたに違いない。これでは炎がくすぶっているかを確かめたのではなく、何もないところに火を焚きつけてしまったようなものだ。 まいったな。 そもそも田口にあんな場面を見せつけたのは、自分に惚れているなら思い留まらせたかったからにほかならない。色恋ごとを口に上らされる前に、向こうから離れていくように仕向けたつもりだった。 ……まったく逆になってる。 もともとゲイでないなら、彼のような男は見合いでもして、折り目正しく清純な交際を経て、早々に生涯の伴侶を得たほうがいいのではないか。あのルックスで素直な上にウブで『経験がない』のでは、とんでもない相手に引っかかって、ひどく傷つきそうで心配だ。 「羽柴さん、どうされました?」 すっと高橋が隣に来て、にっこりと小声で言った。 「え――?」 「溜め息ついてましたよ。珍しい」 「あ……いや、申し訳ない」 周囲にサッと目を走らせ、近くに客がいなかったことに羽柴は胸を撫で下ろす。売り場に出ていて溜め息をもらすなど言語道断だ。それもプライベートなことを思い巡らせてなんて、深く自分を恥じた。 「気がかりがあるようでしたら、仰ってください。羽柴さん、抱え込むタイプですし」 言いながら高橋はショーケースを開け、目を伏せて、さりげなくカメオブローチを並べ替えていく。 高橋に気遣われ、羽柴はすまない気持ちになった。商品チェックをしていたバインダーを手に開いたまま、声をひそめて言う。 「仕事のことじゃないんです。田口の――」 「田口さん?」 意外そうに高橋が目を上げてきた。羽柴は咄嗟に思いついて口にする。 「高橋さん、お見合いを取り持ったことがありますよね? 田口にもお願いしますよ」 「あら。急にどうしたんですか? 田口さんに頼まれたんですか?」 「そうでもないんですけど……」 口ごもる羽柴と目を合わせてきて、高橋は穏やかにほほ笑む。 「田口さんって、おいくつでしたっけ?」 「二十六のはずです」 「でしたら、お見合いするまでもないじゃないですか。これから、まだいくらでも出会いがありますでしょう?」 明るく返されてしまい、そうですねと羽柴はつぶやくしかできなくなる。 「田口さんのことより、ご自分の心配をされたほうがよさそうに思えますけど?」 高橋はいたずらっぽく言って口元で笑んだ。 「羽柴さんになら、張り切ってお見合いの話を持ってきますよ――いらっしゃいませ」 腕時計の並ぶショーケースに客が近づいて、高橋は自然な流れでそちらに移っていく。 客が来て助かったと、羽柴はホッとした。自分に見合いの話なんて、無駄になるだけだ。 でも――。 高橋の言葉どおり、田口にはこれからまだ、いくらでも出会いがあるだろう。 結局は確かめられていないが、田口がゲイでもバイでもストレートでも、自分のような男にうつつを抜かしていては駄目に違いない。 とんでもない相手に引っかかるって――。 ハッと思い当たり、羽柴は大きく息を飲む。一瞬で血の気が引くように感じられた。 なんてことはない、それは自分だ。 「……クッ」 売り場にいながら膝からくずおれた。伏せた顔の前に開いたバインダーをかざし、どうにかショーケースの陰で体裁を繕うが、喉の奥から暗い笑いがこみ上げて止まらなかった。 胸がきしんでたまらない。押し潰されそうなほどに感じる。 どうしてなのか、自分でもわからない。ただ――田口を思い切らせなければならないと思った。どれほどの好意かなんて、もうどうでもいい。どんな好意でも、田口が寄せる相手として自分はふさわしくない。それだけだ。 「すみません、遅くなりました。クリスマスセールの準備に春物の商談が重なって――」 頼んでおいた在庫リストを持参してきて、田口はいきなり頭を下げた。五日が過ぎて月も十一月に変わり、時刻も既に七時に近い。 「言い訳するくらいならきっちり仕事しろ、ですよね」 苦笑した顔を上げられ、羽柴は浅く息を落とす。今日は早番で、オフィスにいて退店前の引き継ぎ事務を終えたところだった。 「ありがとう。急かしたようで悪かったな」 田口から受け取ったリストに目を通し、自然と顔がほころんだ。的確な品揃えだ。 「すぐに発注を決めて返すが、このあとの予定はどうなってる? 戻るのか?」 言いながらデスクに向き直り、リストから商品を選んで発注数を書き込んでいく。クリスマスセールの目玉商品『一万円ペンダント』に替えて客に勧めるつもりの品々だ。 「いえ、直帰していいって言われて来ました」 「じゃ、飲みに行くか」 「――え」 田口が息を飲んだとわかったが目も向けなかった。おかしなほど胸がドキドキしている。 「あ……車なんです、取引先の帰りで――じゃなくて、俺は飲まないでもいいですか?」 「――車? 自分のか?」 書き込みを終えたリストを差し出しながら、田口を振り仰いだ。 「最近、社用車が回ってこなくて――」 「なら食事にしよう」 あっさり返して羽柴は立ち上がる。呆気に取られたような田口をよそに、鞄を手にした。 「正式な発注書は、明日中に社内便で送る」 「――はい」 先に立ってオフィスを出た。田口は従うようについてきて、社員用の駐車場に出るまで互いに押し黙るかのようだった。 田口が車を示して先に乗り込む。羽柴は何も言わず、当然のように助手席に乗った。 「すみません、俺……舞い上がってます」 「――安全運転で頼むぞ」 すぐに車は発進した。晩秋の夜の街に滑り出し、いくぶん込んだ道を羽柴の指示で進む。 「誘ってもらえるなんて、思いませんでした」 赤信号で止まり、ひっそりと田口が言った。 「このあいだ――答えられなくて」 男が好きかと尋ねたことを言ったのだと、羽柴はすぐにわかった。小さく息をつく。 「違うんです、俺……羽柴さんが好きです」 やっぱり、と思う。なんとも言えない気持ちだ。どことなく、やるせない気分になる。 「信号、変わったぞ」 さらりとかわすが迷っていた。国道沿いのイタリアンに田口を連れて行くつもりだった。あの店なら駐車場があるから――。 「すまん、ここ右折だ」 「えっ?」 「間に合わないなら無理しなくても――」 だが田口は器用に右折ラインに車を進める。 「――悪かった、急で。そこ、ホテル見えるだろう? レストランが最上階にあるんだ」 「わかりました。駐車場、この先ですね?」 五分と走らずに車を降りることになった。駅まで徒歩で行けるシティホテルだ。地下の駐車場からエレベーターに乗り込み、しかし羽柴はフロントのある一階のボタンを押す。 「羽柴さん?」 田口が怪訝そうに呼びかけたが羽柴は聞き流した。一階に着くと、まっすぐフロントに向かう。田口を置き去りに部屋を取った。再びエレベーターに乗り込む。 「……どういうことですか?」 こうなってもそんなふうに尋ねてくる田口が羽柴はいとおしい。ウブじゃない、無垢だ。 「俺は、あきらめろ」 エレベーターから降りながら言い、田口がついてきていることを背後に感じ取った。 「――羽柴さん」 部屋のドアを開けて、戸惑う田口を引きずり込む。そうして、伸び上がってキスをした。 「えっ……」 驚いた声を飲み込み、舌を絡める。体を求めるキスだ。否応なく、羽柴は昂ぶった。 「……くれてやる。だから俺はあきらめろ」 「そんな!」 頬を染めながらもうろたえる田口をベッドに押し倒す。すかさず、のしかかった。 「どういうことです? 説明してください」 眉を寄せて田口が見上げてくる。 「俺が好きなんだろ? だけど俺は応えられない。これが最後と、あきらめてくれ」 その間にも羽柴は田口の肩を押さえつけ、田口の下から器用に上掛けを引き抜いていく。 「そんなんじゃ、わかりませんよ!」 口でそうは言っても、田口に抵抗は見られない。困り果てた表情で頬を赤くしている。 「俺に抱かれろ。経験しとけ」 田口の腰を挟んで膝立ちになり、羽柴は田口のスーツの前を開いていった。タイを解き、ワイシャツのボタンも次々とはずしていく。 「……羽柴さん」 胸を上ずらせ、田口はじっと羽柴を見つめる。シーツに縫い止められたように動かない。 「嫌か?」 しどけない姿にされ、額に黒髪を散らした田口を見下ろして羽柴はつぶやいた。 トクンと胸が鳴る。きれいな男だと思う。そう、きれいと言うなら田口だ。一点の穢れもなく目に映る。だから、汚したかった。 「嫌とか、そんなんじゃなくて――羽柴さんの気持ちがわかりません」 声を掠れさせて田口は言う。羽柴は田口の胸に手を置いた。温かい。トクトクと、少し速い鼓動が伝わってくる。 「俺の気持ちなんて……どうでもいいだろ」 涙が滲みそうだった。 「どうして。じゃあ、なんでこんなこと」 「デカイ男がタイプなんだ。自分より体格のいいヤツを抱いて、よがらせるのが趣味だ」 見下ろす先で、田口の目が大きく見開いた。 「いいから抱かれとけ。気持ちよくイかせてやる。一回で満足させてやるから」 ――あきらめがつくように。 田口の頬を手で包み、羽柴は体を重ねた。しかし唇は重ねなかった。もうキスはしたくない。心のどこかで思っていた。 髪をまさぐり、頬から首筋に舌を這わせていく。そうしながら、もう片方の手で田口の股間を探った。ちゃんと、勃っていた。 「……なんですか、それ」 耳元で苦しい声がする。 「俺の気持ちも無視ですか」 「俺が好きならいいだろ?」 胸が痛い。それなのに、羽柴は動きを止めようとしない。 「俺は、遊ばれるんですか?」 だが、それにはビクッとした。その途端、田口は跳ね起きる。 「遊びなんて嫌です、遊ばれるのは嫌です。それとも、無理やり抱くのも趣味ですか?」 間近で目を合わせられ、羽柴は声も出ない。あまりにも真剣な眼差しに射すくめられる。 澄んで、穢れない瞳。自分の心の奥底まで見透かすように見つめてくる。一途だ。 「勘弁してください、お願いです」 田口は目を合わせたまま泣き出した。 「俺を試さないでください。試さなくても、本当に羽柴さんが好きなんです」 羽柴は目を丸くする。うろたえて声を出す。 「……試す?」 「そうでしょう? 俺の気持ちなんて、とっくにわかってたんでしょう? だから、ほかの男とキスしてるところなんか見せたんだ。今日だって、こんな……っ」 ぐちゃぐちゃの顔になって田口は声を詰まらせる。それでも目をそらしはしない。 「好きなんです、本当に! だから……こんなことじゃ、あきらめられません!」 言い切って、ベッドを降りた。震える手で身なりを整え、慌しく部屋を出ていった。 羽柴はベッドの上から呆然と見送るだけだった。いったい何が起こったのか、少しも頭が働かない。 ただ、知らないうちに涙がこぼれていた。なまぬるく濡れた頬に指先で触れ、そうして自分が泣いていると気づいた。 ……なんで。 自問するが何も出てこない。 試す、って。 田口が言ったように、自分は本当に田口を試していたのか考えようとするが、胸が痛むだけだった。 『あきらめられません!』 田口が残した声が頭の中でぐるぐるする。ふらりと体が傾いだ。シーツに突っ伏す。 ……そんなこと言ったって。 すべて終わったと、そう思った。ぎゅっと強く胸が締めつけられ、その痛みと苦しさを信じられない思いで受け止めた。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |