ショーケースの隅に、葉の形に切り抜かれた色とりどりの紙が重ね置かれている。落葉を模したディスプレイだ。その上には朝露に見立てて真珠のピアスが対で乗せられている。 『羽柴さんは、こまやかな人ですね』 田口の声が思い出され、羽柴はそっと息をつく。いつ言われたかも覚えていない、さりげない一言だった。 俺は、あいつを試したのか――。 細かいところまでよく見ている男なのだ。あの男とのキスを見せつけようと思った自分の心の動きも、自分より先に把握していた。 本当は、自分もわかっていたのではないか。あんな場面を見せれば田口は引くと決めつけていたが、むしろ、そうならなかったことに安堵したのではないか。田口から寄せられる好意は、やはり特別なものだったと確信して。 それが本当に迷惑なら、好きだと言葉にして告白されたときに、はっきり振ってやればいいだけのことだった。ホテルに連れ込んで、あんなふうに思い切らせようとする必要などまったくなかったのだ。 汚したかったなんて、ひどく身勝手な思いだ。田口を遠ざけたくて抱こうとした。傷ついて田口が自ら離れてくれるなら、自分が、あきらめがつくから。あんなにも純粋に思われ続けたら、いずれ落ちてしまうとわかっていたから。 とっくに落ちていたのにな。 どんなに否定しようとも、もう認めるほかない。いつのまにか田口に惚れていた。 ……まいったな。 ようやく気持ちの整理がついて、だが羽柴は果てしなく淋しい。恋など、二度としないと心に決めていた。 大学生のとき、初めての恋人ができた。就職活動を通じて知り合った、三年上のゼミのOBだった。 恋は人を盲目にすると言うけれど、どうしてあれほど夢中になれたのか、今となってはわからない。商社マンの彼は忙しく、彼の都合で呼び出されては、激しく抱かれて歓びに溺れるつきあいだった。 それが卒業まで続き、就職してからは休日が違うこともあって、呼び出されても必ず応じられなくなった淋しさに耐えた。何度でもメールを寄越し、月に一度でも会おうとしてくれる彼を信じて疑わなかった。 『本部に異動? よかったじゃん。オレも名古屋に転勤だから』 だが就職して三度目の春、絶望に染まる。 『まだつきあう? ムリムリ。転勤のついでに結婚するし。カノジョ、うるさくてさ』 カノジョがいたなんて、そのときまで知らなかった。 『は? 二股? おまえとはセックスしただけだろ? そっちも楽しんだじゃん。おまえ、すげーよかったから、相手すぐ見つかるって』 あのとき殴らなかったのは、殴らなかったのではなくて殴れなかったからだ。心が凍りついて、声すら出てこなかった。 それからは新しい職場で仕事に没頭した。恋をしたいとは、もう思えなかった。仕事に喜びを見出し、淋しさも感じなかった。ただ、いつしか夜の街に出て、彼のように見映えがよくて体格のいい男ばかりを選んで、抱いてよがらせるようになった。 『え、逆なの? へえー……あんたみたいなタイプに抱かれるなんて、かなり燃えるかも』 一度だけならと、応じてくる相手とは恋になることなんてない。ほんのたまにでも自分より体格のいい男を組み伏せて喘がせることは快感だった。ろくでもないことをしている自覚にすら酔った。 だから……俺なんて忘れてほしい……。 自分は田口に似つかわしくない。既に田口を傷つけている。それなのに――。 「田口さんが納品に来てます」 いきなり耳打ちされ、羽柴はビクッとする。オフィスで事務をしていたサブマネジャーだ。 「ああ……わかった。ありがとう」 自分を呼びに来ずとも、代わりに対応してくれてよかったとは言いにくい。それが田口と顔を合わせたくないという理由なら、なおさらだ。 高額商品の納品だった。会計課の金庫の横にある小部屋に保管される。 田口と共に、係で納品書と商品との確認を受けて、羽柴は保管室の鍵を開ける。中に入り、すぐに施錠した。盗難防止のため、そういう決まりになっている。 「いつまで持ってるつもりだ?」 田口が納品のキャリーケースを寄越さないから、密室にふたりきりになってしまった。 「どうして目を合わせてくれないんですか」 質問に質問を返し、しかし田口はケースの施錠をはずして羽柴に差し出す。 「俺が、あきらめられないなんて言ったからですか」 羽柴は押し黙った。受け取ったケースから小箱を取り出し、順に棚に納めていく。 「……あきらめられませんよ。あんなふうに、あきらめろと言われたって――ぜんぜん羽柴さんらしくない」 ほんの二日前の出来事だ。ありありと思い出せる。自分が何を言い、田口に何をしたか。 「……俺らしかったよ。とても」 目も向けず、自嘲して言った。 「嘘です」 だが、きっぱりと否定の声が返ってくる。 「羽柴さんは、あんな人じゃありません」 「いや。あれが俺だ。ヤりたくなると男を引っかけて、いつもあんなふうに抱いてるんだ」 「嘘だ」 「嘘じゃない」 「なら、なんで泣きそうな顔してたんですか」 危うく手が止まりそうになった。羽柴は平静を取り繕い、顔も向けずに冷ややかに言う。 「泣きそうな顔? 俺が? いつの話だ?」 「最初から最後まで、ずっとですよ!」 ぎゅっと胸が締めつけられる。空になったケースを田口に返すが、手が震えそうだった。 「……あなたは、いいかげんな人じゃない」 ケースを持つ羽柴の手に、田口はそっと手を重ねてきた。田口の体温が羽柴に伝わる。 「ずっとあなたを見てきたんです。どんな人か、よくわかってます」 胸にしみる穏やかな声で田口はささやく。 「やっぱり、あきらめられません」 羽柴は喘いだ。苦しい声をもらす。 「買いかぶりすぎだ。もっといい相手がいる」 「俺は羽柴さんがいいんです」 「どうして……俺なんか、いいとこないだろ」 伏せた顔に手が伸びてきた。頬を包まれ、顔を上げさせられる。 「それが羽柴さんの本音なら、なおさらあきらめられません」 ――あ。 失言に気づいても遅かった。田口はケースを受け取り、ドアの前に立つ。羽柴は急いで鍵を開けたが、どうしても手が震えていた。 自分の本音を見透かし、じっと目を覗き込んできた田口の眼差し――。 ともすると仕事中にも思い出してしまい、羽柴はうろたえる。澄んで一点の曇りもない瞳は、まるでダイヤモンドのようだ。それも自らの力で磨かれて、輝きを増す。 強い男だと思う。傷つくことなど恐れない。少年のようだとか、ウブだとか無垢だとか、よくも思えたものだと羽柴は自身を笑った。 十一月は風のように過ぎていった。田口は週に何度か売り場に来る。仕事中は仕事の顔をしている。プライベートを挟んできたのは、保管室にふたりきりになったあのときだけだ。それだって、あんなことの翌々日だったわけで、素知らぬ顔をされたほうがつらかったに違いなく、そう思うと、それもまた田口なりの気遣いに感じられる。 だけど田口は今でも折を見て、飲みに行きましょうと誘ってくる。販売に立っても客のいないときは、差し支えのない程度に雑談を持ちかけてくる。 たまらなかった。 飲みの誘いは、すべて断ってきた。雑談も、曖昧に流してきた。それなのに田口は持ち前の明るい笑顔を崩さない。無下にならないほどの弱い拒絶でも、心を痛めているだろうに。 田口を遠ざけようとすればするほど自分が傷ついていくようで、どうしてこれほどまで頑なな態度を取っているのかわからなくなる。 田口が自分の内面を見て好きと言ってくれていると、わかっていた。自分もまた惚れているなら、もうそれでいいのではないか。 今さら、俺もおまえが好きだと言えって? 何か、違う。何かが大きく間違っている。そんなふうに迷うばかりの一ヶ月だった。 そして十二月になり、全館上げてのクリスマスセールが始まっていた。羽柴の商戦は店内会議でも認められ、宝飾品売り場では在庫を大幅に減らすような販売が進められている。 「はい。こちらが広告でご案内の品です」 羽柴には手腕が問われる期間でもあった。 「あら。思ったより小さいのね」 接客の相手は見るからに一般家庭の主婦だ。 「それでしたら、このサファイアなどいかがですか。大変お求めやすくなっております」 田口がリストアップした中の一点だ。目玉商品の『一万円ペンダント』より足が出るが、石が大きくてデザインが似ている。 「これがサファイア? 透明に見えるけど」 「サファイアは、いろいろな色があるんです。これはごく薄いブルーで、白い紙の上に置くとよくわかるのですけど――」 ショーケースからそのペンダントを取り出し、あらかじめ用意しておいた白い紙をサッと広げ、その上に丁寧に置いて見せる。 「……まあ」 客の声音と反応で購買意欲は量れる。そのタイミングを逃さず、さらにアピールする。 「上品な色ですよね。広告の品より石が大きいですし、カットもきれいです。黒いお召し物につけられますと、透明にも見えて――」 「ちょっとダイヤだと思っちゃうわよね?」 「そうかもしれませんね」 ニコッと笑って返した。客も笑顔になる。 「お試しになられますか?」 「え。でも――」 「お値段も、ほとんど変わらないんですよ」 さらりと値札を見せて、鏡を引き寄せた。 「どうぞ」 ここ一番の営業スマイルになる。すっと高橋が横に来て、一緒になって客に笑いかけた。 「お試しになってくださいませ」 鏡の向きを直して、さりげなく耳打ちする。 「田口さんが来てます」 自然な流れで羽柴と接客を替わった。 「お客さま、とてもお似合いですわ」 客には、羽柴より上の者が交替したように感じられただろう。高橋の接客スキルゆえだ。 「さすがですね、高橋さん」 そのあたりのことは田口も心得ている。 「羽柴さんも、相変わらずお客さまをつかむのがうまいです」 にっこりと言われ、ドキッとしてしまった。屈託のない田口の笑顔は、今では心臓に悪い。 「……誉めても何も出ないぞ」 「わかってます――」 微妙な空気になる。まったく別のことを話したような気分になった。 「今日は時間あるから急がなくていいって、高橋さんには言ったんですけど――」 田口が仕事の話に切り替えて、羽柴はホッとするようだった。 「こちらの在庫で回してほしいものがあるんです。クロノのドレスウォッチ、型番二〇〇」 「構わないぞ。一点でいいのか?」 「はい。でも今、売り場離れられませんよね」 クリスマスセール期間中の土曜日の夕方とあって、普段よりだんぜん多くの客がこの階にいた。いつショーケースに客が近づいてもおかしくない状況だ。 「しばらく販売していてもいいですか?」 「そうしてくれ」 ふたりでリングの並ぶショーケースの前にいた。田口が場所を移ろうとして足を止める。 「どうした?」 「いえ。これ――」 田口は例のペーパークラフトを見ている。 「いいですね。白いツリーにルビーとエメラルドのリングが掛かってる。繊細で華やかだ」 顔を上げ、まっすぐに羽柴を見つめてきた。 「作った人がよくわかります」 言ったきり、腕時計のショーケースの前に移る。反則だと羽柴は思った。胸が乱れる。 離れても、田口が同じ売り場にいることを意識してしまう。細かいところまでよく見て、自分を理解してくれていることを思う。 「あ! これ、かわいい!」 耳に飛び込んだ女性の声にハッとした。 「いらっしゃいま――」 しかし顔を向けた途端、声が詰まった。女性の隣にいる男性に目が釘づけになる。 「おい。ペンダント買いに来たんだろ」 「えー、いいじゃない。すみません、これ見せてくれませんか」 「……はい」 どうにか答えたものの、手が震えていた。ショーケースを開けて指し示されたリングを取り出し、黒いベルベットの張られた小さな台に置いて客の前に押し出すが、そうなっても手の震えは収まらない。 まさか……本当に? でも――。 胸は早鐘を打つようだ。背筋が冷たくなる。 「つけてもいい?」 「はい、もちろん、どうぞ――」 まったく駄目だった。声が上ずっている。女性の応対をしているのに、嫌でも隣の男性に目が行ってしまう。 俺に……気づかない? もう何年も経つのだから当然かもしれない。だが間違いなく彼だ。自分を手ひどく捨てた、あの男だ。忘れたつもりが、くつがえされる。 となると、この女性は――。 「ゆるゆるじゃん」 「やあね、直してもらえるのよ。ねえ?」 同意を求められているのに声が出なかった。訝しそうに男性が顔を向けてくる。ぴたりと目が合った。なのに、まったく表情が変わらない。信じられなかった。 俺なんて、顔も忘れた……って? 「え……やだ、なに? どうしたのっ?」 さあっと全身から一気に血が引く感覚がしたと同時に、目の前が真っ暗になり、女性の甲高い声が妙に遠く響いた。倒れる――そう思った瞬間に、力強く背後から支えられる。 「失礼しました、お客さま」 低く、くぐもって聞こえたが、声は高橋だった。しかし自分を支えた腕は――。 ……田口。 ぼんやりと思い、意識が薄らいでいく中で身を預けた。ゆらりと浮く感じがして、田口に助けられたことに心の底から安堵していた。 羽柴が意識を戻したとき、目に映ったのは白い天井とぼやけた黒い影だった。焦点が合い、田口が心配そうに覗き込んでいると知る。 「……大丈夫ですか?」 掠れた声を聞いて涙が滲んだ。体中が重く、うなずくこともできない気がして目を閉じる。 「よかった。気がついて。救護室に運んだんですけど救急車呼んだほうがいいって言われて、どうなるかと思ったんですけど……点滴が終わったら帰っていいそうです」 普段になく、せわしない田口の口調から、どれほど心配されたか伝わった。胸にしみる。 「……ありがとう」 口を開いたら声が出て、自分もホッとした。 「なんか、よく脳貧血って言われるヤツらしいんですけど、本当には失神みたいで、けど健康な人でもなるから心配いらないそうで、過度のストレスとか……精神的ショックで」 「――ん」 そっと目を開けて田口を見上げた。病院に運ばれてからもずっと付き添ってくれていたとわかる。やはり涙がこぼれた。 「羽柴さん……」 これでは余計に田口に心配をかける。次第にはっきりしてきた頭でそう考えるが、羽柴はどうにもできない。 腕につながるチューブと、その先のビニールのバッグが目に入った。中の溶液は、ほとんどなくなりかけている。 「本当に、ありがとう。……悪かった」 「そんなこと! 俺はもう退勤時間だったし、八木さんにも許可もらえたし。それに、これ」 脇から小箱を掲げて見せた。腕時計の箱だ。つい先ほど、サブマネジャーが帰宅途中に、羽柴の通勤鞄と共に届けてくれたと言う。 「すみません、回してもらえると先に聞いてたので、頼んじゃいました」 「謝るな。取りに来たくらいなんだから明日必要なんだろう? 渡せてよかった」 「羽柴さん――」 会話が途切れ、しんとした静けさに包まれた。田口がそっと手を握ってくる。 「こんなことになった原因に心当たりがあるか、お医者さんに訊かれて、その――すみません、思い出さないでいいですっ」 きゅっと、いくぶん強く手を握られ、羽柴はじわりと胸が熱くなった。田口の手を弱々しく握り返して言う。 「心配しなくていい。もう大丈夫だ」 「でも」 田口は情けない顔で見つめてくる。 「ずっと……気になっていたんだろう? ここにいるあいだ、ずっと」 羽柴は田口にほほ笑みかけた。 「あの客……別れた男なんだ」 だが、そこまでしか言えなかった。倒れるほどのショックを受けたなんて、自分が信じられない。まだ引きずっていたとは――。 「……田口?」 握られている手が静かに持ち上げられる。田口に大切そうに両手で包まれ、その指先に唇が押し当てられた。 あ……。 一瞬で胸が熱く染まる。田口の思いが流れ込んでくる。やわらかく心を溶かしていく。 「は、羽柴さんっ?」 慌てる田口に何か言ってやりたいのに声が出なかった。涙が溢れて、止まらなかった。 「お、俺!」 「い、いいんだ……うれしくて……おまえに……おまえに、大切に思われて……っ」 抱きつきたいのに体は動かない。田口の目が大きく見開き、泣き出しそうな笑顔に変わるのをぼやけた視界にただ見ていた。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |