三 田口の肩にもたれ、自宅までタクシーで送られたあの晩のことは、一生心に残ると羽柴は思う。 あれから間もなく点滴が終わり、田口が医師に伝えて、診察を受けて帰宅の許可が下りた。思っていたより遅い時間ではなかったし、体調もかなりよくなっていたのでタクシーを使えばひとりで帰れるからと一度は断ったのだが、田口は自宅まで送ると言い張ってくれ、それが無性にうれしかった。 「俺が送りたいんです。わかってください」 拒む気持ちなど微塵もなかった。ずっと付き添ってくれていたのも、誰に頼まれたわけでもなく、田口の気持ちとわかっていた。 タクシーに乗り込んでから携帯電話で仕事の確認を取った。上司との電話で倒れた理由を問われ、自覚が足りなくて疲労を溜めてしまったようだと詫びたとき、田口が傷ついたような眼差しで自分を見つめていた。 深く思われていると、胸にしみて、改めて感じた。真摯に、少しの迷いもなく。 それから自宅マンションに着くまで互いに何も言わず、田口の肩に引き寄せられ、そうされる心地よさに身を任せていた。 タクシーを降りてからも田口は付き添ってくれて、自宅のベッドに横たわる手助けまでして、そのあともかたわらから離れなかった。 「終電になる前に帰らないと」 言ったのだが、うなずくばかりだった。 「もう少しいさせてください。俺が安心できるまで――わがまま言ってすみません」 また涙が滲みそうになって困った。田口はやはり目ざとくて、床に跪いて、またそっと手を握ってきた。 やわらかく心が溶かされた。まだ溶けると感じるほど自分の心は固く閉ざされていたのかと、いっそう涙ぐみそうになった。 田口に言わなければならなかった。自分の気持ちも、隠してきたことも。田口に聞いてもらいたかった。 偶然にもあの男が客として現われ、どうして倒れるほどのショックを受けたか、確かに疲労が溜まっていたことも言い添えて、本当の理由を話した。そして、この数年は奔放に男を抱いてきたことも事実だと。 「恋なんて、二度としないと思ってた。でも、今日やっとわかった。たった一度の失恋を引きずってヤケになってただけだ。五年もだぞ? 情けなくて悔しい。そんなことで、おまえを傷つけたなんて……俺は醜くて、汚い」 声にして、涙をこらえられなくなった。 「とっくにおまえに惚れていた。言われる前から、おまえの気持ちに気づいていた。試すつもりなんてなかった……本当にすまない」 「謝らないでください。羽柴さんはそれだけ傷ついてたんです。どんなふうに振る舞っても、本当はどんな人か俺はわかってました」 しっかりと手を握られ、力強く言われた。 「醜くも汚くもないです。繊細で……きれいです」 返せる言葉などなかった。自分の痛みまでこの男は引き受けるのかと思った。握られた手を引いて、田口の手に頬をすり寄せた。 「羽柴さん、俺……嘘ついてました」 苦しい声をもらし、田口が見つめてきた。 「経験――あるんです」 すがるように強く、両手で手を握ってきた。 「大学四年のとき、男とつきあいました。男は彼が初めてで、それまでは……女の子とつきあってたんです。彼にも経験を訊かれて、話したら嫌われてしまって……だから、羽柴さんには言えませんでした。すみません」 そんなことを打ち明けて聞かせた田口は、愛しいだけだった。 「……謝るほどのことじゃない」 しかし田口は必死の様子で言い募ってきた。 「謝ることですよ。もっといい相手がいるって言われたとき、誤解させたってわかったんです。どうして身を引くような言い方をするんだろうと思って。過去を隠して自分の逃げ道を作った分、俺は羽柴さんを追い詰めたんだ。思いきり後悔しました。許してください」 うな垂れる田口を見て、熱い吐息が湧き起こった。握られていない手を伸ばして、田口の髪に触れた。 「おまえは潔いな。強くて、澄んでいる」 「ぜんぜん違います、俺は弱くて卑怯です」 「だったら、こんなときはキスで誤魔化すんじゃないか?」 「……え?」 顔を上げた田口の頭を引き寄せた。もう何も言わせず、深く唇を合わせた。 熱く、ときめいた。しっかりと応えられ、歓びに胸が染まった。 「おまえが好きだ。信じてくれるか?」 うっとりと間近に見つめ合い、ささやいた。 「そんなふうに言わないでください。うれしいです、ものすごく――俺でいいなんて」 「それは俺のセリフだ」 それからまたキスをして、結局、田口は帰らなかった。ひとつのベッドに寄り添って眠るだけで迎えた朝は、初めて知る幸福に満ちていた。 あの朝、田口と約束した。その翌週は火曜日と金曜日が早番だから、どちらか定時に帰れるように仕事を調整しろと。そうして飲みに行こうと。年末に向けて互いがもっと忙しくなる前に。 今日が、その日だった。 「羽柴さん」 待ち合わせをしたレストランに先に田口が来ていた。窓際のテーブルから、恥ずかしくなるほどの笑顔で手を挙げて見せる。 ……ったく。 田口らしいと言うか、むしろオッサン同士みたいだ。いっそ爽やかで、かえって他人の目が気にならなくなっていい。 「このホテル、最上階が本当にレストランで、ちょっとオドロキでした」 向かいの席に着く羽柴に、いたずらっぽく田口は言った。 「まるっきり俺がだましたと思ってたのか」 チッと舌打ちして羽柴は言うが、悪い気はしていない。これはカムフラージュだ。 「違いますよ。夜景がきれいで――」 言いながら田口は窓の外に目を向ける。その横顔がくつろいだ笑みに染まっていることに、羽柴は安らぐ。 あのときのホテルを待ち合わせ場所にしたことには意味があった。あの過ちから、やり直したかった。 「好きな人と夜景を見ながら食事するなんて、初めてです」 顔を戻してきて田口はメニューを開く。 「俺もだ」 羽柴もメニューを開いて言った。 「嘘は言わないでください」 田口が見つめてくる。責められたわけではないことは伝わった。だから、さらりと口にしてみた。 「嘘じゃない。誰とも、こんなふうに食事するなんてなかった」 「羽柴さん……」 「気にするな。過ぎたことだ」 誠実を求めただけの発言が違う結果を招き、うろたえる田口が目をそらす前に、やわらかく笑いかけて羽柴は言う。 「これからは、いくらでもあるんだろう?」 「あ……はい!」 素直な返事に、熱く胸が満たされた。 食事はアラカルトで何品か頼み、ワインはふたりで一本飲むことにした。 仕事の話から始まり、食事を進めながら他愛のない話題で盛り上がった。田口の笑顔は胸のすくような明るさで、羽柴もずっと顔がほころんでいた。 心を通わせ合う相手との食事が、こんなにも楽しいことを初めて知った。田口をもっと知りたくなる。そうとわかっていたから、実は前もって部屋を押さえていた。 鍵はこのレストランに入る前に受け取っている。それを田口にどう切り出したらいいか、そんなことを思い悩んで恥じらう楽しさも、初めての経験だった。 「ほかには、どんなことがしたい?」 食後に頼んだコーヒーが運ばれてきて、羽柴はそう切り出した。 「どんなことでも。そうですね……これからの季節なら、温泉とか行ってみたいな」 自分で言っておいて、田口は照れたように頬を染める。かわいい男だ。 「露天風呂で雪見酒か。いいな」 つきあう相手がいてもセックスのほかに何もなかった羽柴には、憧れのようなプランだ。 「羽柴さん、けっこう飲みますよね」 クスッと笑い、今さら気づいたように田口は言う。 「今日は、こんなんでいいんですか? 飲みに行こうって話だったのに食事になったし」 「いいんだ。今日は」 ここまで言ってピンとこないようでは迷うところだったが、田口はハッと目を瞠り、急にはにかんだようになる。 「……やっぱり、だましたんじゃないですか」 「だましてないぞ。食事しただろう?」 泳いでいた視線が戻ってくる。テーブルを挟んでじっと見つめ合い、トクンと羽柴の鼓動は跳ねた。そっとテーブルの上に部屋の鍵を置いて見せる。 「――行くか?」 「はい」 田口と並んで割り勘で会計を済ませるのに、顔が熱く感じられて羽柴はたまらなかった。ウブだった頃の自分に戻ったように思えた。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |