二 学内のホールに、さまざまな楽器の音がばらばらに響く。六月の定期公演の合同練習は三回目を迎え、ステージにはオーケストラのメンバーが着席し、客席には指導担当の講師と教授、ほかに見学の学生がちらほら見える。 調弦を終え、郁也は小さく吐息を落とした。第一ヴァイオリンの二列目からも中央に据えられたグランドピアノは鍵盤まで目に入る。そこに渡瀬の後ろ姿を見るたびに、きりきりと胸が締めつけられるようになっていた。 あの日、渡瀬に抱かれて、郁也は翌朝まで目覚めなかった。ふと開いた瞳に渡瀬の顔が大きく映り、心臓が一拍止まった。渡瀬はまだ眠っていて、ふたりで布団に包まれていることに大きく息を飲んだ。 ソファがいつベッドに変わったのかも知らない。何度か体を動かされたに違いないのに、目を覚ました記憶がなかった。 居たたまれず、渡瀬を起こさないように抜け出して、足元がふらつくのに急いで衣服を身につけ、一言も残せずに自宅に帰った。 その後、渡瀬に会ったのは翌週の合同練習の初日で、目が合った途端に苦しそうにそらされた。たちまち心臓が凍りついたようになり、避けられたこともそうだが、ショックを受けたことがショックだった。 だって……なんで。 そうなって、何も考えていなかったと気づいた。あんな夜を過ごして、渡瀬と今後どうなるのか。こんなふうに避けられるとも、逆に親しくなるとも、予測も何も、本当にしていなかった。 ただ繰り返し、あの夜を思い出していた。初めての経験は生々しく鮮烈で、忘れがたい強さで甘美によみがえる。夜になってベッドに入ると抑えようもなく体に触れてしまい、そうすることに後ろめたさを感じながらも、知りたての快感に浸って胸を震わせていた。 けど、渡瀬は――。 もしかしなくても後悔している。ここまであからさまに自分を避けたのだ。 ぼくは、何を――。 渡瀬とは、もともと知り合いにも満たない。それでいて一夜のうちに体を交えたのだから、顔を合わせて渡瀬が気まずく感じるなら自分もそうだ。そもそも互いの目的のために相手を利用し合ったようなものだった。 そんなこと……わかってたはずなのに――。 あれから一週間が経つが、廊下や学食でも目が合ってはそらされる。そうせずにいられない羞恥は自分こそ強く、しかし渡瀬を見かければ目が合ってしまうのだからどうしようもない。 あの夜の、自分がからっぽになったような感覚に再び襲われた。二度と取り戻せない何かを失ったような感覚だ。 こんな、なるなんて……経験なんて、したから。 高槻が言ったから。どんな言い方をされたにしても、真に受けて自分は何をしたのか。 ぼくが、経験したいなんて言ったから。 言わなければ、渡瀬は誘わなかっただろう。そう思ったら、悔やまれてならなくなった。断言できるほどの気持ちではなかったのに、なぜ言ってしまったのか。自分には忘れられない一夜が、渡瀬には後悔になったなんて。 周囲からざわめきが消え、郁也はハッと顔を上げる。ステージに指揮科の学生と渡瀬が出てきた。 今また、きりきりと胸が締めつけられる。だが渡瀬はまっすぐにピアノに向かい、視線は合わない。郁也は指揮者を見つめ、今日の注意点を聞きながら気持ちを切り替えていく。 もはや、高槻を思っていたときのように心が乱れることはない。渡瀬を目にすれば胸が締めつけられるが、いっそ以前より集中できる。ヴァイオリンが、からっぽに感じられる自分を元どおりに満たしてくれるようだった。 指揮棒が構えられ、心地よい緊張が走る。すっと振り下ろされ、緊迫感に満ちた調べが静かに流れ出す。 郁也は瞬時に音楽の海に飛び込み、オーケストラに溶けて自分のヴァイオリンを歌わせる。曲の高まりにつれて情感が溢れ、やがて渡瀬のピアノが響いてくると胸がせつなく震えるが、それでも心は乱れなかった。 渡瀬のピアノは二年で抜擢されたのも納得で、想像していたとおりに大らかで、思いのほか繊細で、深く胸にしみ入る。『協奏曲』の名のとおりに、演奏で渡瀬と一体となる心地に何度も漂った。 それが、いっそう郁也の胸を締めつけた。オーケストラはひとつの楽器にたとえられるように、一体となって当然だ。渡瀬ひとりが意識されてはおかしい。 でも……ぼくは、避けられてるから――。 音楽でなら、渡瀬とまだつながりを持てると思えるようだった。 「ねえ、郁也」 合同練習が終わり、それぞれにステージを去り始めてから藤野に呼ばれた。 「ちょっと残って、ここで弾いてくれない?」 やけに真剣な顔で言ってくる。 「短いのでいいから。ホールで聞きたいの」 「なんで――上条、待ってるみたいだよ?」 「いいから弾いてよ。わけはあとで話すから」 頑として譲らない様子に郁也は口を閉ざす。こういうことは今までにもあって、特にヴァイオリンに関してだと藤野は一歩も引かない。 ……一曲、聞きたいだけって言うんだし。 客席にいた講師や教授は消えていて、学生はステージにも既にまばらだ。郁也は無言で中央に戻った。藤野は客席に降りていく。 何を弾こうか考えて、パガニーニの『カンタービレ』にした。ヴァイオリンを構えれば、今は、こんな状況でもおのずと集中する。 ゆったりと伸びやかな調べは、奏でる郁也の心も蕩かせた。ヴァイオリンは高く澄んで歌い、曲想に共鳴してせつなく胸が震える。 ふと、渡瀬が思い浮かんだ。あの夜の渡瀬が――。 ……やさしかった。 拍手がして郁也は我に返る。藤野のほかに、まだ残っていた学生も送ってくれていた。 「意外だな。やけに色気が出たみたいだ」 ステージの端にいた水谷に言われた。同じ二年の男子で、今回のオーケストラでは第二ヴァイオリンに加わっている。言い方に少し刺を感じたが、それほど親しくない水谷にはいつものことだ。気にせずに受け流した。 「郁也、ありがと」 戻ってきて、藤野は満面の笑みで言う。 「やっぱ、気のせいじゃなかった」 連れ立ってステージの袖に入った。廊下に出ていく渡瀬が目に映り、郁也は思わず足が止まる。 「どうしたの」 「……なんでもない」 再び歩き出して藤野と楽屋に向かうが、急に鼓動が速くなっていた。 渡瀬……聞いてた? まさか。 とっくに楽屋に戻ったと思っていた。渡瀬は持ち運ぶ楽器がないのだから。きっと今まで袖で立ち話でもしていたのだ。そうとでも思わなければ恥ずかしくてならなかった。 聞かれて恥ずかしいなんて――。 ありえないと思う。人前で弾いて、いまだ緊張することはあっても、恥ずかしく感じるなんてない。人に演奏を聞いてもらえるようになりたくて音楽大学に進学したのだ。 ……渡瀬だったから? 弾いていくうちに渡瀬が思い浮かんだから。あの夜の渡瀬が――。 「今の演奏ね、すっごくよかった」 楽屋の手前の休憩室に藤野は入っていく。お礼ね、と言って自販機にコインを入れた。 「オーケストラで弾いていても、郁也の音が聞こえたの。なんか、色っぽかった。誰かと聞き間違えたのかと思って、確かめてみたの」 促されて、郁也はレモンジュースのボタンを押す。続けて藤野も買う。 「でも、聞き間違いじゃなかった。前より澄んで、艶っぽい響きだった。もしかして……好きな人と何かあった?」 「――え」 ギクッとした。好きな人と言われて渡瀬が浮かんだ。高槻ではなく――。 「なんかひどいこと言われてたけど、その人のこと好きになれてよかったんじゃない? 人を好きになる気持ちって大切だと思うし。演奏にも、自分自身にも」 息もつけなかった。藤野に釘づけになって、目が大きく見開いていく。 「郁也――」 藤野まで驚いたようになり、口早に続けた。 「ごめん! また余計なこと言ったかも! でも郁也のヴァイオリン、本当によくなったと思うから!」 「……うん。ありがとう」 必死の勢いで言われ、どうにか声が出た。藤野の耳を疑う気はなく、感想は素直に受け止めておく。 て言うか、なんで渡瀬――。 そっちの動揺が激しい。好きな人と言われて、渡瀬が浮かんだなんて。 何かあったとか、藤野が言うから――。 一瞬であの夜が思い出され、顔も体も熱くなるようで、同時に自分がからっぽになった感覚に襲われた。 だって……避けられてるんだし。 胸が苦しい。きりきりと締めつけられる。 ……人を好きになってよかった、なんて。 本当には何に動揺しているのか、藤野にも知れるんじゃないかと、余計にドキドキした。だが藤野は、まだ申し訳なさそうにしている。 互いにぎくしゃくしたまま楽屋に戻った。上条に駆け寄る藤野から離れ、郁也はケースにヴァイオリンをしまう。おごってもらったジュースに口をつけ、ようやく人心地がつく。 でも、藤野にわかるくらい演奏が変わってきてるなら――。 やはり経験をしたからか。そう思うとやりきれない。渡瀬には後悔になったようなのに。 ……色っぽいとか、艶っぽいとか。 本当にそうなら、真っ先に高槻が気づくはずだ。だが、まだ何も言われていない。次に受けるレッスンが少し怖いと思った。 「――いいね」 案の定なのかどうなのか、その週の高槻のレッスンで、『シャコンヌ』を弾き終えた途端に郁也は言われた。 「いっそう澄んで艶のある響きになっている。甘く胸が締めつけられるようだった」 声も出なかった。背筋に戦慄が走り、高槻が背を向けて立つ窓の外で、生い茂る青葉が風にざわめいた音が聞こえたようだった。 「何があったのかな」 レッスン室は空調が利いている。それなのに、郁也は汗をかきそうな思いに駆られる。 「きみは今度のオーケストラに出るのだったね。それがよかったのかな」 それを聞いて気が緩んだ。高槻が正面まで来て、大きく目を瞠る。顎に手が触れた。 「……知らなかったよ。気が強いだけでなく、きみは意外に健気なんだな。私に相手にしてほしくて、ほかで経験してきたのだろう?」 ひたりと自分に据えられた視線から逃れられない。したたるほどの色気を感じて、圧倒される。胸が高鳴った。 「褒美をあげなくてはならないな――自分の演奏を高めた褒美だ」 高槻の顔が近づいてきて、小さく息を飲む。顎を捕らえる手に仰向かされ、唇に生温かい吐息を感じたときだった。 「い、嫌!」 突如、身をよじって郁也は顔を背けた。驚くほど鼓動が跳ね上がり、潰れそうなほど胸が苦しくなっている。 「どうして」 平然と高槻は訊いてくる。答えられない。 「経験してもウブなままか。――悪くない」 何を言っているのかと思った。弓を持った手で、郁也は胸を押さえる。 「どんな男が相手だったのか、興味が湧くね」 ゾッとした。頬を引きつらせて高槻を仰ぎ見る。薄く笑んでいた。 「どうせ行きずりだったのだろう? もう、やめておきなさい。ヴァイオリンまではしたなくなっては、元も子もない」 自分の顔が青ざめていくのが感じられた。 ヴァイオリンまではしたなくなるって――。 激しい羞恥に焼き切れそうになる。そうだ、自分ははしたない。高槻のキスが欲しくて渡瀬に抱かれた。間違いなく、自分から誘ったのだ。 あの店で偶然にも居合わせたとき、渡瀬は性指向を確かめたいと言っただけで、誰かを抱いてみたいとまでは言わなかった。渡瀬をその気にさせたのは、紛れもない自分――。 「今日は、もう終わりにしよう。きみが持ちそうにない。今の演奏を聞いただけで十分だ」 フッと口元で笑い、高槻は郁也の横を過ぎていく。しかし足を止め、低く言い残した。 「今後は、身を持て余すことがあったら私に預けなさい。きみのヴァイオリンのためだ」 身を持て余す、って――。 あの夜の快感を追って、何度も自分でしている。それが、高槻にはわかるのか。 渡瀬は後悔してるのに……! 扉が開いて閉まる音を確かに聞いて、郁也は足元から床に崩れ落ちた。それでも、胸にヴァイオリンを抱えて守った。ヴァイオリンは自分の支えだ。今はからっぽに感じられる自分を満たしてくれる。 背を丸めてうずくまり、強く思った。絶対に傷つけない、ヴァイオリンも、奏でる音も。 よくわかった。高槻を思って高揚した気持ちは、少しも恋ではなかった。同性でも恋の相手になることに気づかされて湧いた興味だ。 たった今、高槻の唇が触れそうになったとき、渡瀬とのキスが一瞬でよみがえり、胸が張り裂けた。 今の自分が欲しいのは高槻のキスじゃない、あの夜の、渡瀬のやさしいキス――。 「……でも、どうしようもないじゃないか」 気持ちが溢れて声に漏れ、嗚咽に変わる。 あの夜を渡瀬が後悔しているなら、なかったことにしたいなら、話しかけることもできない。ずっと避けられている。 演奏に艶をもらえただけで、十分と思う。高槻が言ったとおりだ。相手は渡瀬だったにしても、自分は確かに行きずりの男と寝た。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:あんずいろ