Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    恋のエチュードもきみと
    ‐4‐




     三


     六月も半分が過ぎ、いつまでも暮れそうにない空が練習室の窓に広がっている。郁也は意識して深い吐息を落とし、肩から力を抜くと、もう一度ピアノに向かった。
     学内オーケストラの定期公演は月末の日曜日で、あと一週間余りだが、合同練習二回と前日のリハーサルを残すのみになっている。個人レッスンの『シャコンヌ』もほぼ仕上がり、ピアノ練習に時間を取る余裕ができた。
     弦楽科はピアノが副科と決まっていて必修科目だ。ピアノは中学生まで習ったものの実家に置いたままで、今は電子ピアノならあるが、なるべく練習室で弾くようにしている。
     気持ちを整え、譜面台に目を上げる。ショパンの『エチュード 作品十の三』だ。一般には『別れの曲』と知られている。
     二年になってから、弾きたい曲を課題にすると言われて、ショパンの『エチュード』を選んだ。それなら『一』から順にやろうと講師に言われ、先週から『三』に入ったのだが、かなり苦労している。
     もっとも、『エチュード』は練習曲を意味するのだから苦労して当然かもしれない。だがショパンの『エチュード』は、練習曲と思うには美しい曲ばかりで、中でもこの『三』は特に気に入っている。
     ゆったりと淋しくも甘い旋律を郁也は奏でていく。曲想を追い、よく響かせられたなら心を酔わせ、しかし抑えていた熱情がほとばしるような旋律に変わるところがうまく弾けない。その数小節を繰り返し弾いてみる。
    「まだ無駄に力が入ってる。もっと手首を楽に、やわらかく使ったほうがいい」
     自分しかいない室内に声がして、びっくりした。顔を向けて息が止まる。
    「副科の練習?」
     歩み寄ってきて、渡瀬は譜面を覗き込んだ。
    「このへんなんて、よく響いてたけど。ここの運指は、やっかいだよな。しっかり立てて動かさないと――って」
     そこまで話してから驚いたように目を合わせてきた。急に照れくさそうになって笑う。
    「……ごめん、黙って入った。桧原がピアノ弾いてるのが見えて、珍しくて、つい――」
     郁也は胸が焦げそうなほど熱くなる。渡瀬に笑顔を向けられたのは、あの夜以来だ。
     ひたすらに渡瀬を見上げ、渡瀬も譜面台に手を置いたまま目をそらさずにいた。束の間、見つめ合うようになる。
     なに……これ。
     顔が近い。今さら気づいて、鍵盤に視線を落とした。ドキドキしすぎて胸が苦しい。
    「あ……そうか。ピアノは練習室でしか弾けないとか――なら、邪魔だったな。ごめん」
     しどろもどろして渡瀬が離れていきそうになり、郁也は咄嗟に腕をつかんだ。
    「ま、待って」
     驚いて振り向かれ、カッと顔が熱くなる。
    「も、もう、終わりにするつもりだったから」
     何が言いたいのかわからずに口走っていた。
    「ほ、ほら! 無駄に力が入ってたから腕が疲れたって言うか……すごく好きな曲なんだけど――主旋律とか、たまにヴァイオリンで弾いてみるくらいで……」
     結局は、言葉に詰まってしまう。それでも渡瀬を放せなくて、郁也はどうにもならない。
     だが、明るい声が返ってきた。
    「それ、いいな。ヴァイオリンだったら、まだ弾ける? 合わせてみようよ」
    「え――」
    「俺がピアノ弾くからさ」
     うろたえる間にピアノの前からどかされた。ケースからヴァイオリンを取り出して、一気に舞い上がった。
     この曲、渡瀬と合わせられるなんて――。
     急いでピアノの横に立ち、調弦を済ませる。頬の染まるまま視線を交わし、弾き始める。
     胸が奥底から震えた。初めて合わせたとは思えないほどしっとりと音が寄り添い、渡瀬のピアノと自分のヴァイオリンとが響き合う。
     何度も甘い痺れが背筋を駆け上がった。曲想に酔わされ、穏やかな快感の海にたゆたう。この美しい共鳴を渡瀬と生み出しているのだと思ったら、何も抑えられなくなった。
     歓びが溢れて流れ出す。奏でるヴァイオリンに乗って、いくらでも。
     はっきり思っていた。渡瀬が好きだ。渡瀬となら、どこまでも高く舞い上がれる。奏でる音に乗って、渡瀬の音と熱く絡み合って。
     でも、この曲は『別れの曲』――。
     心地よく満たされながら気づいてしまった。
     そうだった……避けられてるんだった。音楽でなら、こんなにも寄り添えるのに。
     最後の音が消えて、郁也は悄然と立ち尽くす。弓は下ろしても、ヴァイオリンは肩からはずせなかった。
     ただ自分の鼓動を聞いていた。頬が温かく濡れていて、それがどうしてなのか考えたくなかった。渡瀬を見られない。のろのろと窓に視線を移す。青かった空に夕暮れが広がり始めていて、気が遠くなるようだった。
    「……このあいだの曲。パガニーニの『カンタービレ』、すごくよかった」
     低いつぶやきが聞こえ、そっと視線を戻した。渡瀬は鍵盤を見つめて肩を落としている。
    「……聞いてたんだ」
     藤野にせがまれてホールで弾いた曲だ。
    「水谷から楽譜借りた。伴奏、弾けるようになったから。あのとき弾けてれば……でも、もう弾けるから。もう一度、聞きたい」
     きっぱりと振り仰がれ、渡瀬から顔を隠したいだけで慌ててヴァイオリンを構え直した。
    「――いいよ」
     嫌とは言えない体勢を自分で取ってしまい、そう答えた。渡瀬のアイコンタクトを受けて、郁也は気持ちを込めて弾き始める。
     やわらかな曲想に漂い、心が泣いた。だが、今も乱れはしない。ヴァイオリンはいっそう澄んで歌い、渡瀬のピアノと豊かに響き合う。
     渡瀬……なんで、ここにいる――?
     この上なく満たされるのに郁也は淋しくてならない。弾き終えると、何か言い出される前に雑談に流してしまう。
    「楽譜借りたなんて、水谷と仲いいんだ?」
     これで終わりと言わんばかりに、背を向けてヴァイオリンのケースを開いた。
    「仲いい、って言うか――桧原の伴奏断ったとき、俺が伴奏したの、水谷だから」
     昨年度の学年末試験の話だ。言われたことに納得はするが、嫌な気分になった。
    「でも……ぼくが弾くのを聞いたんだから、ぼくも楽譜持ってるって、わかったのに」
     自分の口から出てきた言葉に不快感が増した。まるで嫉妬だ。いや、嫉妬だろう。
     だって……ぼくと合わせる気だったら、普通、ぼくに借りるだろ。なんで水谷に――。
     思って、胸がきしむ。渡瀬が自分を避けているなら当然だ。たかが楽譜の貸し借りで、自分は嫉妬するのか。
    「聞いてるとき、つい言っちゃったんだよ。この曲なんだっけ、って。水谷、そばにいたから教えてくれて、楽譜貸そうかって言って――借りにくかったけど、見たかったし」
     言い訳のように背後で並べ立てられ、郁也はムッとする。ひどく悲しくなった。
     渡瀬に伴奏してもらう約束があったわけではない。渡瀬が言い訳する必要などないのだ。
     ここに来たのだって、ただの偶然だし。
     渡瀬とは、偶然でしか何もありえないのか。コンチェルトでの共演も、あの店で居合わせたことも、体を交えたことさえも。
     ヴァイオリンをケースに入れ、ふたを閉じる。強く押さえて、そこから両手が離れない。
     体が震えている。さっきとは別の涙がこぼれそうになる。渡瀬に訊きたいのに訊けない。自分を避けているのは、あの夜を後悔したからか――なぜ、今いるのか。
     重い静寂に包まれた。郁也が何も返さないからか、渡瀬も黙っていた。
    「あの、さ。次の試験は、俺が伴奏――」
     不意に渡瀬が明るく言って、郁也は素早くさえぎる。
    「ごめん。今やってるの、『シャコンヌ』だから。無伴奏なんだ」
     取り繕うようなことは聞きたくなかった。
    「――そうなんだ」
     落胆した声を背に受け、唇を噛みしめる。
     しょうがないじゃない……本当なんだし。
     ふと、ピアノが歌い出した。郁也もよく知る、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』だ。
     なんで――。
     ゆるやかで、やさしい旋律――美しい和音の響き。抗い得ず、心が溶ける。聞き惚れて、新しい涙が頬を伝う。
     渡瀬のピアノは、こんなにも大らかで純粋だ。自分の胸のうちを洗いざらい明かしたい衝動が突き上がるのに、そうしたら醜いように感じられてしまう。
     ぼくの、気持ちなんて。
     可憐な小品は、涙の引かないうちに終わる。感動を伝えたいのに、郁也は声を出せない。
     かすかに溜め息が聞こえた気がした。背後の緊張が、フッと解ける。
    「……好きな人と、うまくいった? 桧原のヴァイオリン、歓びに溢れて聞こえた」
     ビクッと肩が大きく揺れた。こちらを見ているなら渡瀬にも知れたはずで、焦りで鼓動が駆け出す。どうしても抑えられない。
     歓びに溢れて、なんて――ヴァイオリンは、心を映すから。
    「うまく……いったのかな」
     震えそうな唇で答えた。ほかに答えようがなかった。抱かれた理由を渡瀬は知っていて、抱いたことを後悔しているようなのだから。
     嘘じゃないし。キスされそうになったんだから――。
     だけどもう、その人のことは好きではないとは、口が裂けても言えない。本当は、渡瀬を思って弾いたなんて。
     背後で、渡瀬がピアノを離れたとわかった。
    「――応援してる」
     低く残して、足早に練習室を出ていった。
     郁也は、やっとヴァイオリンのケースから両手を離せる。たまらずに顔を覆った。
     応援してる、なんて……っ!
     どんな思いで受け止めればいいのか。言葉どおりの気持ちで渡瀬は言ったのだと思う。
     もう――絶対に、ダメだ!
     嗚咽が声になって漏れた。たった今までの、渡瀬と過ごせた幸せな時間が胸を引き裂く。
     なんで、こんなことに――。
     経験したいなどと、どうして渡瀬に言ってしまったのだろう。断言できる気持ちではなかったのに。あの店で会うより前に、渡瀬と会えていたらよかったのか。
     ……会ってたじゃないか。
     学年末試験のピアノ伴奏を頼みに行って、会って話した。演奏の確かさは事前に聞いていて、顔と名前はそのとき覚えた。
     だけど、特別な感情は湧かなかった。だがそれも、そのときは同性が恋の相手になると気づいてなかったからだ。
     気づいてたら――。
     わからない。伴奏を断られて、結局はそれきりだったかもしれない。それなら、これはもう避けられない運命だったと思うしかない。
     あの店に自分が行ったのも、そこで渡瀬に会ったのも、一夜のうちに体を交えたのも、そうして渡瀬が好きになってしまったのも。
     ……セックスしたから好きになったなんて。
     言えるわけがない。抱かれたことからして、軽率だったに違いないのだから。
     ……初めてだったんだ。
     何を悔いるにしても、渡瀬に抱かれたことを悔いる気持ちにはなれない。あの夜は甘い記憶だ。渡瀬がどんなつもりだったとしても、愛しむように抱かれたと思えてならない。
     悔いるなら、こんな結果を引き寄せた自分の軽率さと、渡瀬を後悔させてしまったことだ。あの夜と渡瀬を忘れるなんて、できない。
     ――だったら!
     この思いは恋に違いなかった。きっかけがどうあっても、決して報われなくとも。


     合同練習の最終日、あとはリハーサルを残すだけという日、郁也はステージに出る前に楽屋の隣の小部屋に入る。外部から演奏者を招いたときに用意される部屋だ。
     ヴァイオリンを構えると、胸の底の淀みを吐き出すように弾き出した。無意識のうちに奏でた曲は『スケルツォ・タランテラ』で、始まりが恐ろしく速い曲だ。
     ひたすらに弓と指を動かした。でなければ、合同練習に参加できそうになかった。
    「郁也……大丈夫?」
     いつからいたのか、弾き終えたら扉を背に藤野が立っていた。怪訝そうに見つめてくる。
    「そんな弾き方して――」
    「気にしないで。気が済んだから、行こう」
     郁也らしくない、と言われる前にそう返した。先に立って、ステージに向かう。
     どうにもならない気持ちでいたが、藤野に言ったとおりに、思いきり弾いたら気が済んだ。こうなった原因は考えたくない。
     前回の合同練習のとき、渡瀬から目が離れなかった。水谷と親しそうなことを聞いたからか、水谷にも目が行ってならなかった。
     そうして気づいたのだ。ふたりは、ただの友人関係と違う。少なくとも、水谷は恋愛の意味で渡瀬が好きだ。きっと、そうだ。
     応援してる、なんて……だから言ったんだ。
     どんな経緯からでも一度は体を交えた相手だから。自分の恋がうまくいっているなら、相手にもそうあってほしいと願う気持ちだ。
     ……ずっと避けてたのに。なんで練習室に入ってきたりしたんだよ。
     うれしかったから、あれからまた避けられていて苦しくてならない。理由が水谷にあるなら、なおさらだ。
     ぼくなんて、ほっとけばよかっただろ。好きな人とうまくいったか、訊くなんて――。
     それが知りたくて渡瀬は練習室に入ってきたのか。自分を抱いた後悔から、気になっていたのか。自分がうまくいったなら、水谷と心置きなくつきあえるから。
     ……ぼくは、渡瀬が好きなのに。
     もう、言えないだけでなく、言っても無駄とはっきりした。渡瀬には水谷がいる。
     行き場のない思いは、ヴァイオリンで慰めるしか知らない。何もかも忘れたくて、少しでも満たされたくて、恐ろしく集中して弾くからヴァイオリンが泣いてならなかった。
    「やっぱ変だよ。浮いてたわけじゃないけど、ちゃんと歌ってたけど、なんか悲鳴聞いてるみたいだった。本当に大丈夫なの?」
     合同練習が終わって、また藤野に言われた。オーケストラで弾いているのに、それも自分の後ろの列で弾いているのに、よくそこまで聞こえるなと、いっそ呆れる思いだ。
    「本番は、きっちり弾くから」
     そうとしか答えられなかった。そう自分に言い聞かせていた。
    「いいけど……郁也なら、できるだろうけど」
     藤野はまだ何か言いたそうにしていたが、先に楽屋に戻った。ヴァイオリンをしまい、バッグを取り上げ、さっさと帰宅する。藤野に気遣われることさえ、今の自分には重い。
     高槻とは、キスされそうになっただけで、あれから何もなかった。以前と同様に、淡々としながらも熱心な指導が続いている。そのことに安堵する反面、やはり自分は最初から相手にされてなかったのだと思った。
     ……バカだ、本当に。
     いったい何のために渡瀬に抱かれたのかと思う。抱かれたことは後悔しなくても、そうなった経緯は何度でも後悔する。
    「あー、もうっ!」
     声を上げて立ち止まった。路上にいて、人目について恥ずかしいとも思わない。自分にとって一番大切なのはヴァイオリンであり、渡瀬だろうと、高槻だろうと、演奏に影響が出るほど心を悩ませてはいられないのだ。
     本番まで、あと三日。
     ソロではないが、かえってオーケストラだから、自分の心も演奏も絶対に乱せない。
     今一度自分に誓って、歩き出した。あえて夕食のことを考え、ヴァイオリンもバッグも持ったままスーパーに寄った。自分で荷物を増やし、げんなりして帰宅を急ぐ。
     ――え。
     その横道を入れば渡瀬の住むマンションがあると知りながら、つい顔を向けてしまった。途端に、激しい後悔に襲われる。どんな状況だろうと、渡瀬が水谷とマンションに入っていくところなど見たくなった。
     せっかく凪いでいた感情が大きく波立つ。嫉妬と自己嫌悪で胸が渦巻く。
     嫉妬したって、どうにもならないのに。
     わかっている。すべて自分が招いたこと。嫌でも思い知った。自分は渡瀬を巻き込んで、浅はかなセックスをしただけだ。初めてで、とても甘美な経験になったから、あの快感が忘れられないだけだ。
     そうだよ――ぼくは、はしたない。
     そんなふうにでも開き直らなければ、渡瀬への思いを断ち切れそうになかった。
     だけど、そうやって、いつまで自分の本心をごまかしていられるか。ごまかしているとわかるから、そんな自分も嫌でならなかった。
     大きく息をつき、郁也は空を見上げる。空はただそこにあるだけなのに、触れる人の心を映す。音楽と同じだ。
     今、自分の目に映る空は澄み渡っているか――郁也は思わずにいられない。
     ヴァイオリンだけは、絶対に守ってみせる。はしたない音だなんて、誰にも言わせない。
     郁也の目に、穏やかに暮れなずむ空は美しかった。真昼の晴天の名残りを留め、藍色に沈み始めていた。


    つづく


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    素材:あんずいろ