Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    不惑の果実
    ‐3‐




     二

    「うわ、危ない!」
     嶋田が隣から大声を上げるから、びっくりして本当に指を切りそうになった。
    「ちょっと黙っててくれないか」
     少し苛立って岩瀬は言う。自宅のキッチンで、まな板に向かっている。
    「でも、もう見てられなくて――やっぱ、俺がやりますよ」
    「見てなくたっていいじゃないか」
    「けど、マジ包丁握ったことないって感じで」
    「事実なんだから仕方ないだろう」
     ひとりで暮らすようになるまで包丁を手にしたこともなかった。手伝いは愚か、はるか昔の家庭科の授業でも握った覚えがない。
    「不器用じゃなくても力が入りすぎです」
    「数をこなせば慣れるだろう」
    「なら、俺のいないときにやってください」
     とうとう嶋田が手を出してきた。
    「あっ」
    「ちょ、課長っ?」
     岩瀬は驚いて包丁を置いたのだが、左手の人差し指が、ぱくっと嶋田の口の中に消える。
     ――え。
     指先を舐められる生々しい感触にドキッとしてもいられない。あえて睨みつけてやった。
    「おい。切ってないぞ」
     だが、きょとんと上目遣いに見つめ返され、かえってしどろもどろする。
    「きゅ、急に手を出したから、驚いただけだ」
    「――あ、本当だ」
     口から岩瀬の指を抜いて、しげしげと見て嶋田は言う。それなのに放そうとしない。
    「すみません、早まっちゃって。血を見るの、嫌いなんで」
     そんなことを照れた笑いで言われ、岩瀬はなかば強引に左手を引いた。思わず顔を背ける。勘違いにせよ、唐突に指を舐められたのだ。
    「でも、これじゃ『千切り』じゃなくて『百切り』?」
     嶋田があからさまに話を変えてくるから、目を戻せなくなる。
    「うるさいな」
    「でも太いほうが、歯ごたえがある?」
    「私が知るか」
     くすっと嶋田が笑う。それがやけに楽しそうに耳に響き、岩瀬は顔が熱くなってくる。
     ……まいったな。
     こんなはずではなかった。もう八月なのに、嶋田はいまだに土曜日になるとやってくる。今日で四度目だ。これでは嶋田と慣れ合っているのも同然ではないか。
     会社では気をつけている。もっとも細心の注意を払うまでもなく、勤務中に私情の入り込む隙などない。
     九月末の半期決算まで一ヶ月余りで、夏物製品の売れ行きの調査分析で毎日が忙しい。特に化粧品は、秋の新製品の販売戦略を打ち立てる前に結果を提示する必要があり、嶋田に至っては生半可ない忙しさだ。
     なのに、来るんだよな――。
     既にトイレもバスルームも自分で掃除できた。自炊にも手を出して、料理本よりテレビの料理番組、それも子ども向けのほうが実際的だと、これもまた嶋田から聞いて実感するまでになっている。
     そういったことが嶋田にわからないはずがない。平日は仕事で忙しいのに、せっかくの休日をわざわざつぶしてまで来る理由がなくなっている。最初が強引だったから、部下の立場では引くに引けないか。
     それもないだろう。上司の自分に向かってでも、もう平気そうですねと、嶋田なら一言で済ませられるはずだ。
     ……お互い、子どもじゃないんだから。
     公私の区別ははっきりつけてきたつもりで、自宅にいて嶋田と仕事の話になることは一度もなかった。当然、その逆もしかりだ。
     それなのに、七月の末に吾妻に言われた。
    『課長、あの……お元気になられたようで、よかったです。前より明るい感じですよ』
     仕事の報告のあとに、ニコッとした笑顔を見せられ、危うく照れそうになった。そんな自分もどうかと思うのだ。部下の何気ない一言に、オフィスにいて動揺しかけたとは――。
     私が前より明るいなんて……。
    「ま、キャベツの千切りなんて、こんなもんでしょう」
     包丁の音がやみ、嶋田が得意そうに顔を向けてきた。岩瀬はまな板の上に目を向けて、ムスッと返す。
    「――なるほど。さすがだな。私にそう言わせたくて、餃子を作ろうと言い出したわけだ」
     自分が料理初心者と知った上で嶋田は材料を買い込んでやってきたのだから、そのくらい言ってやりたかった。餃子なんか手作りしないまでも外で食べられるし、冷凍食品でも惣菜でも買える。そんなことは、もう知った。
    「ちょ、違いますよ! 手作りの焼き立てがおいしいって、課長が言ったんじゃないですか。でも自分にはまだ無理だとか、なんだとか」
    「そうか、私のせいか。だが作ってくれとは頼んでいない」
     分が悪くなって岩瀬が言い返せば、嶋田も引き下がらない。
    「なんで、そんな意地悪言いますかね。ぜんぜん課長らしくない――って。もしかして自分ができないからって、拗ねてるんですか?」
     ギクッとして、岩瀬は咄嗟に嶋田を見上げた。目が合って、フッと口元で笑われる。慌ててまな板に目を戻した。また顔が熱くなりそうで、口早に言う。
    「それにしても、こんなにキャベツが残ってどうするんだ? 持って帰るか?」
     嶋田がキャベツを半玉も持参してきたものだから、かなりの量が余った。
    「明日、ご自分で野菜炒めでも作ったらどうですか? ニラも残るし、昼はインスタントラーメンにでも乗せて、夜は普通におかずで食べられますよ」
    「同じものを一日に二回」
     笑い含みにさらりと返され、げんなりしかけたが、嶋田はそんな食べ方をしているのかと思ったら、急に笑いが込み上げた。
    「……なんですか」
     くくっと喉を震わせる岩瀬に、嶋田は怪訝そうに顔をしかめる。それが余計におかしくて、岩瀬は笑いながら嶋田に目を戻した。
    「悪い、きみのイメージじゃなかったから」
    「どんなイメージですか。俺だって、会社にいるときと家では違いますよ」
    「いや、すまない、家でも男前でいるようで」
    「男前って……」
     嶋田は見る間に頬を染め、あたふたと言う。
    「風呂上がりにパンツ一枚で、ビール飲みながらエロDVD見ることだってありますよ」
    「そうなのか? だとしてもイメージダウンと言うほどでは――」
    「課長っ、それもイメージ違いますって!」
     真面目に答えたつもりが、きつく返されてしまった。
    「トランクス一枚で畳に座って、缶ビール飲んでプハーッで、エロDVD見てニヤニヤですから!」
    「あ、ああ……」
     妙に意気込んで言われ、岩瀬はたじろぐ。ソファに優雅にくつろぎ、ビールもグラスに注いで、平然とエロDVDを見る嶋田を想像したのだから何も言い返せない。
     ……なんだ、違うのか。
    「とにかく。野菜炒めは、味つけをちょっと変えればいけますって。あとで教えますから」
     わざとらしく表情を整え、嶋田は千切りにしたキャベツとニラを細かく刻み始めた。
     その様子に岩瀬はまた笑ってしまいそうになりながら、前もって聞かされた手順どおりにボウルにひき肉を移した。そこに嶋田が刻んだ野菜を入れて調味料も加え、全体をこね始める。
     それからも、こうやって皮に包むんです、見ればわかる、などと言い合いながら、ふたりで餃子を作った。嶋田が焼いているあいだに、冷蔵庫から缶ビールも取り出して岩瀬が食卓を整える。
    「いただきましょう」
     これまでと同様に、向かい合ってダイニングテーブルに着いた。約束したわけでもないのに嶋田が昼前に来るから、毎回こうなっている。
    「これは、課長が包んだヤツですね」
     餃子をひとつ箸で取り上げ、嶋田が笑顔を向けてきた。まるで相手にせずに岩瀬が無言でビールを飲み始めると、呆れたように言う。
    「だから違いますって。初めてでも、ちゃんと皮が閉じてるなと思っただけです。俺なんて、最初は焼くとパカッと開いてましたから」
    「――そうなのか?」
     つい答えたら、嶋田は照れた笑顔になる。
    「うちって、餃子のときは必ず手伝わされたんですよ。五十個もひとりで包むのは大変なんだから、自分が食べたいなら手伝えって」
    「……なるほどな」
     岩瀬は深くうなずく。そういった家庭環境からも今の嶋田があるのだろう。自分とは大違いだ。学生のときは勉学に励み、社会人になってからは仕事に打ち込むだけで、ほかは何もしてこなかった。
     本当に、そうだ。
     今さらのように思う。嶋田も覚えていたように、『自分にできることを見つけて動け、自分にしかできないことを探せ』は自分には座右の銘だが、裏を返せば『自分でなくてもできることは、ひとに任せろ』と受け取れる。
     仕事で部下を育てていく上では、それも間違いではないだろう。だが、万事それでは間違いと言うしかない。生活においては、むしろ『自分にできることを見つけて動け』だ。
     知識として身についたことを生活に生かす発想もなかった。自社製品の使い道を自分に指摘したのも嶋田で、それでようやく知識と生活が結びついたありさまだ。
     ……四十にもなって、誰の助けもなければ生きていけなかったか。
     思って、ハッとする。今もそうではないか。ひとりで暮らしていけるようになると決めたのに、目の前に嶋田がいる。
    「きみは、いい家庭を築けそうだな」
     少し迷ってから岩瀬は口を開いた。嶋田は缶ビールに唇をつけたまま目を向けてくる。
    「いいのか? 毎週こんなところに来ていて。もう私は手を借りるまでもないし、きみにも食事をする相手がほかにいるだろう」
     途端に目を大きくした。身を乗り出すようにして、嶋田は岩瀬を覗き込んでくる。
    「やっぱり、ご迷惑でしたか? 土曜日だけならいいかと思ったんですが」
    「そうじゃない。きみのことを言ったんだ」
    「俺は――」
     うろたえたように視線を横に流す。椅子に座り直し、言いにくそうに続けた。
    「六月まで大阪にいたわけですし。今は誰もいません。課長は不本意かもしれませんけど、俺は課長とこんなふうにできて楽しいです」
    「きみ」
     岩瀬は渋面を作ってしまう。きっとこんなふうに返されると、どこかで予感していたのだと思う。だから今日まで、このことに触れずにきた。
     嶋田の、プライベートだ。
     言葉が続かず、岩瀬は餃子に箸を伸ばし、ビールを飲む。真夏の休日に、昼間から気兼ねなく楽しめるはずの献立が、急に味気なく感じられた。浮かんだことが、つい口に出る。
    「きみは……会社の人間じゃないか」
    「――え?」
     嶋田の声に重なり、玄関の呼び鈴が鳴った。岩瀬はハッと顔を向ける。
    「すまない、今日だった。少しはずすが気にしないでくれ」
    「課長――」
     言いながら岩瀬は立ち上がり、足早に玄関に向かう。インターフォンで確認するまでもなく、来客が誰かはわかっていた。
    「お休みの日に、すみません」
     ドアを開けるなり、元妻は深々と頭を下げた。感情を映さない顔で岩瀬を見上げてくる。
    「これで全部のはずだが」
     岩瀬は、下駄箱の上の小引き出しから四本の印鑑を取り出して渡した。前もってメールで連絡を受けていたから、あらかじめ用意しておいた。岩瀬名義の銀行口座の届け出印が、手持ちのものと違っていたそうだ。
    「……どれも違うわ。わたしが買ったものだから、ご存じないのね。――いいかしら?」
     出ていった家に上がるのは気が進まないだろうと踏んでいたから玄関で済ますつもりでいたが、本人が上がると言うなら断れない。
    「――どうぞ」
     嶋田が気にかかったが、今さらどうしようもなかった。こうなることもありえると予測できなかった自分のミスだ。
     元妻は、リビングまで来て足を止める。嶋田に顔を向け、しかし眉をひそめただけで寝室に入っていった。
     嶋田も誰が来たのかわかったようで、ちらりと岩瀬に視線を寄越した。だが何も言わずに顔を前に戻した。
    「ごめんなさい。わたしが、ドレッサーからクローゼットの小物入れに移したんだわ」
     ほどなくしてリビングに戻ってきて、元妻は岩瀬に小さく頭を下げた。
    「きみしか使ってなかったものなら、返さなくていいから」
     岩瀬は穏やかに言うが、元妻は首を振る。
    「わたしにも必要ないものですから」
     そのとおりだろう。しかし気まずい。
    「お客さまがいらしてるなんて思わなくて」
     元妻は嶋田に視線をやる。口元で冷ややかに笑った。
    「ご同僚ですの? 志信さんがどなたか招かれるなんて、おふたりで食事もされるなんて、だまされたみたい。わたしがいたときは一度もなかったのに――お邪魔しました」
     口早に言って玄関に出ていった。岩瀬は肩が落ちる。土曜日の昼過ぎなら家にいると、自分から伝えたのだ。玄関で手短に終わり、嶋田に会わせることはないと思い込んでいた。
     会ったところで私が困ることはないが――。
     嫌味とも取れることを聞かされるとは思いもよらず、嶋田にすまない気持ちになる。のろのろと席に戻った。
    「先においとましようとも思ったんですけど、かえって失礼かと思って。ご紹介に預かるわけにもいきませんし」
     遠慮がちに嶋田から声をかけてきた。岩瀬は胸がいっぱいになる。吐息交じりに返した。
    「いや、いい。きみに落ち度はない。むしろ、悪かった。日を変えればよかった」
    「俺は、べつに――」
     手元に視線を落とし、嶋田は箸を取り直す。残り少ない餃子に伸ばして、ぼそっと言う。
    「課長にも敬語で話す方なんですね」
     そういう育ちなんだ――喉まで出かかった言葉は飲み込み、岩瀬も食事に戻る。
    「離婚されて一ヶ月半ですか。課長がひとりになられて、気になってたんだろうな」
     しかし、しんみりと言われたことに違和感を覚える。
    「……それはないだろう」
     自分でも、なぜ今頃と思わなかったわけではない。岩瀬名義の口座がまだあったとは、意外だった。
     解約や名義変更の際に、取りこぼしたか。印鑑を借りに来るにも、どうして今頃――。
    「志信さん、って呼んでました」
     嶋田は飲んでいた缶ビールを静かに置き、まっすぐに岩瀬を見つめてくる。
    「俺も、そう呼んでいいですか――?」
     岩瀬はうろたえる。迷いのない眼差しに気圧され、喘いで返した。
    「……駄目に決まっているだろう」
     自分でもわからない。胸が突如ざわめいて、鼓動が乱れる。顔も熱くなるようで、どんな冗談かと思う。
    「どうしてです? 会社にいるわけでもないのに。公私の区別をはっきりするなら、『課長』と呼ぶほうが変じゃないですか」
     微塵のためらいも見せずに嶋田は続ける。
    「俺には、『岩瀬さん』と呼ばせてもらうのも変です。新人のとき、そう呼んでましたから」
    「今さら、わざわざ変える必要があるか?」
     どうにも答えようがなくて、岩瀬はそう口走った。途端に、きっぱり返される。
    「たった今、変えたくなりました」
     嶋田の真剣な眼差しに捕らわれる。ごくりと喉が鳴った。嶋田の真意を探りあぐね、胸が苦しくなる。
    「……無茶を言わないでくれ。きみらしくもない」
    「俺らしいって、なんですか」
     顔を背けても嶋田の声が追ってきた。岩瀬は居たたまれない。
     だから――。
     こんなはずでは、なかったのだ。嶋田もここに来なければ、こんなことを言い出すはずがなかった。きっかけを作ったのは、自分だ。それは、わかっている。しかし嶋田の厚意を無下にしないにも、初回で十分だったはずだ。
     だから――これでは本末転倒だ。
     ひとりで暮らしていけるようになるのではなかったか。むしろ自分は、嶋田を利用するような気持ちでいたのではないかとさえ思う。
     それが今では、土曜日になると嶋田がやってくることがあたりまえのように思え始めている。挙句に、名前で呼んでいいかと問われて胸が騒いだなんて――。
    「……すみません。いい気になりすぎました」
     しょげた声がひっそりと耳に届き、岩瀬はそっと目を戻した。
    「俺――今日は、これで帰ります」
     うな垂れてつぶやき、嶋田は立ち上がる。
    「片づけもしないで、勝手を言います」
     浅く頭を下げると、身をひるがえして玄関に出ていった。
     岩瀬は深い溜め息を落とす。テーブルに肘をついて、額を支えた。大皿に残った餃子と、嶋田が使った箸が目に入る。座っていた前に、きちんとそろえて置かれている。
     ……そういう男だよな。
     一言も返せなかった。嶋田をなだめることも引き止めることもできなかった自分が情けない。帰ってくれて安堵している。またしても、嶋田に気を遣わせた。
     淋しく感じるのはなぜだろう。自分はどうしたいのか――それがわからない。
     嶋田を引き止めたかったのか。これまでのように一緒にキッチンに立って、つまらないことを言い合いながら洗い物をしたかったのか。そんなことは間違っていると思うのに。
     そこまで慣れ親しんだか……。
     会社の部下なのに――思って、苦笑した。
     ここに来ることが楽しいと嶋田は言った。元妻ともしたことがないことを嶋田として、自分も確かに楽しかった。


    つづく


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