次の土曜日を前に、岩瀬はためらう。携帯電話は主に仕事に使っていて、自分から私用に使うなどほとんどない。 でも――。 デスクに呼びつけて嶋田に言えることではない。ワイシャツを買ってきてくれと頼んだこと以上に気が引ける。こっそりメモを渡すのも変だ。いっそう秘密めいたことになってしまう。 ……秘密って。 金曜日の午後のオフィスはどことなく慌ただしい。窓際の課長席にいて、岩瀬は小さく吐息を落とした。ノートパソコンのモニターから、そっと嶋田に目を移す。いつもの余裕ある横顔で仕事に集中しているが、この一週間は妙にぎこちない態度を見せられたことを思う。 秘密……違いないな。 週に一度でも、一ヶ月に渡って部下が上司の自宅に訪れていたのだ。安易に口外できることではない。そうとわかっていて、自分はやめさせなかった。 腹を決めて、岩瀬は携帯電話を取り出す。デスクの陰で開いた。外出を伴う仕事をしている部下のアドレスは登録してある。嶋田に宛ててメールする。 視界の端で嶋田が動いた。携帯電話を取り出したに違いなく、うつむいた姿勢で硬直したようになる。 それも当然で、互いに見える位置にいるのに上司がメールを送ってきたのだ。パソコンでの社内メールならともかく、外出中にしか受信がないはずの携帯電話に。 こちらに顔を向けてくるかと思った。だがそうはならずに、少しして手の中の携帯電話が震えた。 岩瀬は視線を落として、嶋田からの返信を読む。予測したとおりの内容に、ホッとした。 嶋田には、これまでの礼に夕食をごちそうしたいと送った。その一文で、今後は自宅に来ないでくれと、嶋田になら伝わると思った。 嶋田からは、今日は定時で上がれそうなのでご相伴に預かりますと返ってきた。つまり了承したということだ。 肩の荷が下りたように感じる。これで嶋田との関係は、元どおりに単なる上司と部下だ。 淋しく胸がざわめくのを感じ、それを打ち消すように岩瀬は携帯電話をしまった。何も間違っていない。自分に、そう言い聞かせる。 その後、毎週金曜日に開かれる定例の部長会に、また出ることになった。化粧品の直営店は三店舗あるが、従来の通信販売に比べて昨年度までの実績がかんばしくなく、今年度に入ってから撤退か増強かが検討されていて、直近の経営報告書の説明を求められたからだ。 説明が済んだら退席できると思っていたが、部長会が終わるまで残された。その後も専務と経営企画部長と話し込むことになり、席に戻ったときには定時を大幅に過ぎていた。 嶋田が見当たらないことに少なからず驚く。デスクに目を向ければ、既に退社したことは明らかだ。携帯電話を取り出し、オフにしてあった電源を入れたらメールを着信した。嶋田からだ。 『今日はご多忙のようですので、明日の夕方お伺いします』 失敗したと思った。仕事が終わったなら、オフィスに残っていられるわけがない。始めから外で落ち合う約束にしておくべきだった。 ……また、うちに来るのか。 曖昧な自分のせいだ。自責するも、明日も嶋田が自宅に来ると思うと、気分が浮き立つようでたまらなかった。 翌日の土曜日になって、岩瀬は朝から掃除を始める。キャビネットの上などは、クロス類も含めて何も置かないほうが掃除しやすいと嶋田に聞いたとおりにしているから、自社製品の使い捨てハンドモップでさっと拭くだけだ。ソファやほかの家具も同様で、掃除の基本は上から下だということも嶋田から聞いた。床に掃除機をかけたら、トイレの掃除も終える。 マンションのゴミ集積所は、分別さえできていればゴミをいつ出しても構わないと管理人に確認を取ってからは、土曜日にまとめて出すことにした。そのついでにクリーニング店に行く。土曜日になると嶋田が来ていたから否応なく思い出して、結局はマンションの近くの店を利用している。 ひととおり終えて、自炊して昼食を取る。土曜日に家にいて昼食をひとりで取るのは、まだ二回目だと思った。元妻が出ていった週と、今日だけだ。 日曜日なら毎週のことで、祝日もそうなのに、やけに味気なく感じられた。嶋田の笑顔が目の前にないからのように思える。 家族といた三十八年間と、元妻といた一年余りを思った。それに比べて、嶋田とふたりで昼食を取ったのは、たったの四回だ。 一緒に作ったりしたからか――。 溜め息が出た。朝から家中を掃除したのも、もう自分ひとりで十分にやっていけると、無意識にも嶋田に示そうとしたからではないか。 ……なんだかな。 そうまでしなければ、断っても嶋田はまだ来ると思ったのか。断っても、来週も来ますと、嶋田に言われたかったのか。 だから……こんなはずじゃなかったんだ。 使い終えた食器を持ってキッチンに立つ。ひとり分の洗い物をして、気持ちが暗く沈む。 嶋田は夕方に来るとメールで伝えてきたが、実際には何時になるのか。それまでの時間、自分は何をしていたらいいのか。 家にひとりでいて待ち人をするなんて、初めてだった。こんなにも不安定に心が揺れるものなのか。 とりあえずソファに腰を下ろすが、とっくに読み終えた朝刊しか目に入らない。通勤鞄から読みかけの文庫本を取り出してきて開くが、少しも頭に入ってこない。あきらめてテレビをつけても雑音としか感じられない。嶋田が来たらどんな顔をしたらいいのか、そんなことが気にかかる。 今ならまだ人生をやり直せる――元妻は、そう言って出ていった。自分こそ、そうだと思った。同じ過ちを繰り返さないためにも、自分に欠けていたものがあるなら、補って当然だ。部下に恥をさらす覚悟で嶋田の手を借りる気になったのもそのためで、ほかには何もなかったはずだ。 だから、淋しいとか――。 思いかけ、岩瀬は慌てて首を振った。 やっぱり、外で落ち合ったほうが――。 もともと外で食事をして、礼をするつもりでいたのだ。今からでも遅くない、みすみす家に来させるまでもないと、どうして思いつかなかったのか。 時計を見ればまだ三時前で、しかし携帯電話に手を伸ばしたら玄関の呼び鈴が鳴った。ギクッとしたそのままに、インターフォンのモニターに嶋田が映し出される。 「すみません、早すぎましたか? 下で電話しようと思ったんですけど、エントランスがちょうど開いたので入ってきちゃいました」 いつもの悪びれない笑顔で言われ、一息で脱力した。自分がどんな思いでいるかなど、嶋田には知れようもないのだ。 話してないのだから――。 岩瀬は玄関ドアを押さえて浅くうな垂れる。 「……今日限りにしてくれないか」 「はい?」 「もう来ないでほしいと言っている。昨日は、これまでの礼に夕食に誘ったんだ」 きっぱり告げるも、嶋田の顔を見られない。 なぜなのかわからない。正しいことを口にしたはずなのに、罪悪感に胸がせめぐ。 間があって、嶋田の声が落ちてきた。 「……そういうことでしたか。デスクにいたのに携帯メールなんて、社内恋愛でデートの約束するみたいでドキドキしたんですけど」 「きみ――」 茶化されたとしか聞こえず、岩瀬はムッとして顔を上げる。表情を険しくした嶋田と目が合い、小さく息を飲んだ。 「わざと言いました。仕事帰りに誘ってもらえたなんて初めてで、また一歩近づけた気がして喜んでたんです。そこまでご迷惑だったとは、少しも気づいてなくて――帰ります」 「し……嶋田!」 たちどころに背を見せられ、思わず声が出た。しかし嶋田は毅然と去っていく。焦って靴を履き、岩瀬は玄関を飛び出す。 ここで追ってはかえって酷だと、わかっていながら止まらなかった。嶋田を思うなら、あえて突き放して正解だ。もう来ないでくれと、自分が言ったのだから。 しかしエレベーターの前で追いついてしまう。岩瀬は息を切らして嶋田の腕を捕った。 「礼が、したいんだ」 「していただくまでもありません。始めに言いました。あなたのお役に立ちたくて、やりたくてやってきたことですから」 うろたえて、岩瀬は返す言葉に詰まる。『あなた』と呼ばれた。ごく一般的な二人称だと自分に言い聞かせるが、動揺は消えない。 「俺の自己満足だったと思ってもらえばいいです。それなら礼には及ばないでしょう?」 いっそ冷ややかに見つめられた。 「しかし――」 「……どうして、追ってくるんです」 嶋田はつらそうに視線を横に流し、苦しい声を漏らした。岩瀬は答えられない。どうして追ってきたかなど、自分のほうが知りたい。 「しかし、きみは――新人のときに私に世話になったからと……言わなかったか?」 無理に続けたら、上ずった声がそんな言葉を並べた。 「――そうでしたね」 嶋田はつまらないことを聞いたように肩を落とす。そんなふうにされては引っ込みがつかず、岩瀬は勢いで言葉を重ねてしまう。 「それなら、こんな形ではなく、仕事で返すべきだとは思わないか? きみなら、わかっているはずだ」 自分で言ったことに、ハッとした。それが当然と心得ながら、嶋田に甘んじたのは誰か。 「それはそれで、やってますけど?」 自信たっぷりに嶋田が視線を戻してきた。まったくそのとおりで、嶋田の仕事内容を熟知している岩瀬に言えることはない。 「否定しないんですか?」 岩瀬を見つめ、嶋田は小さく吐息をついた。 「――わかりました。俺に礼をされるつもりなら、外食は取り消してください」 そうして、疲れたように低めた声で言う。 「……ひとがどう言おうと、俺はあなたの、そういった真摯で公正なところに惹かれます。ご自分の損得を優先されてもいいのに」 岩瀬は消えてしまいたいほどの思いに駆られる。自分の損得を優先したから嶋田を家に来させていたと、嶋田はわかってないのか。 「もう十分に、きみに甘えた」 だから、恥じ入りながらもそう答えた。 「十分? あんなもんで十分ですか?」 嶋田は呆れたように薄く笑う。 「俺には足りません……これからだと思ってたので」 岩瀬は目が丸くなる。何を言われたのか、理解できない。驚くほど鼓動が速まり、そのことに動揺する。 「戸締まりして出てこられたわけじゃないですよね? ――戻りましょう」 促されるままに歩き出した。そうなってから、嶋田の腕をまだ握っていたと気づき、たじろいで放した。 「そうだな――夕食にはステーキをごちそうになります。松坂牛でも神戸牛でも、買ってくれませんか。売ってたらの話ですけど」 くすりと嶋田は笑う。その笑い方が、いつもの笑顔に比べてひどく男くさく目に映り、岩瀬は声も出なかった。 それきり玄関まで会話はなく、中に入ろうとしない嶋田を待たせている気まずさから、岩瀬は急いでエアコンを切り、財布も持って、嶋田の前に戻った。玄関の鍵を閉める。 「じゃ、行きましょう」 「どこへ――」 「いつものスーパーです」 こともなげに言われ、また鼓動が乱れる。ここから徒歩で行けるスーパーが、いつもと嶋田に言われるほどの場所になっていた。 まるで自分らしくなく、岩瀬は動揺を消せないまま、嶋田と連れ立ってマンションを出る。五分ほどの距離が遠く感じられ、そのあいだに嶋田も何か言うことはなかった。 ショッピングセンターに着き、スーパーに入ると嶋田がカートを取った。 「やっぱり、こういう店じゃ松坂牛はないですね」 精肉売り場に来て、くすっと笑った顔を向けてくる。いつもの笑顔だ。そうなって、岩瀬はようやく肩から力が抜けた。 「向こうの専門店になら、あるかもしれない」 ごく自然に返せたことに、胸のうちで安堵する。自分のよく知る嶋田に戻ったと感じた。 それからはこれまでの土曜日と変わらない雰囲気で、サラダと付け合わせにする野菜を買ってスーパーを出た。屋内の通路を隔てた先の、専門店が連なる一角に移動する。 「甘いもの、ダメじゃなかったですよね?」 洋菓子店が続く前に来て、嶋田が歩をゆるめる。にっこりと見つめてきた。 「デザート、買いませんか?」 「それなら――」 岩瀬も考えていたところだ。外食に代えるのだから、存分に振る舞いたい。思いついて、言ってみる。 「オペラはどうだ? チョコレートケーキなんだが、そこの店はなかなか本格的だ」 目指すショーケースの前まで来て、岩瀬は嶋田に指し示した。 「いいですよ。これにしましょう」 やわらかく笑って返し、ふたつ、と嶋田が店員に告げる。 「意外と濃厚な味が好きなんですね」 「小さいからな。薄味で大きなものは苦手だ」 「俺もです。だったら、洋菓子より和菓子のほうが口に合うんじゃないですか?」 「そうだが、ステーキのあとに和菓子と言うのも――そうでもなかったか?」 「いいえ」 そんなことを話しながら、包みを渡されるまで並んで待っていた。 「……志信さん」 呆然と呼ぶ声を耳が拾い、岩瀬は驚いて顔を向ける。 「どうして――」 訊きたいのは岩瀬だった。どうして元妻がそこにいるのか。 「先週の……」 嶋田に目を移し、やはり呆然とつぶやいた。その視線は、嶋田が手に提げているスーパーのレジ袋で止まる。きゅっと眉根を寄せた顔を上げてこられ、岩瀬は息もつけなくなる。 「やっぱり、わたしはだまされたの? 志信さんは、本当に誰でもよかったのねっ」 投げ放たれた言葉は岩瀬を凍りつかせ、元妻は泣き出しそうな顔になって身をひるがえした。その手を嶋田が咄嗟につかむ。 「待ってください、奥さん」 「もう、奥さんじゃないわ!」 キッと振り向き、嶋田をきつくねめつける。 「誤解されたようなので言います、私は七月に大阪から転勤してきたばかりですよ?」 「だからなんだって言うの、放してっ」 嶋田が手を放すと、肩で大きく息を継いだ。苦しそうに顔を歪ませ、ふたりを見つめる。 「これ!」 慌ただしくバッグを探り、取り出したものを岩瀬の手を引いて渡した。 「返しに来ただけなの、二度とお会いしません! 今さら異議を申し立てるほど恥知らずじゃありませんからっ」 逃げるように去っていく元妻を岩瀬は愕然と見送った。手には印鑑が握らされていた。 「あの、お客さま――」 おずおずと店員の声がして、差し出された小箱を嶋田が受け取った。それが目に映り、岩瀬は無理にも手を動かして印鑑をポケットに忍ばせ、財布を出して支払いを済ませる。 「これ、同じでしたね」 ケーキの小箱を手渡してきて嶋田が言った。嶋田も気づいたのかと思う。元妻の手にも、同じデザインの小箱があった。 嶋田は、静かにほほ笑みかけてきて言う。 「行きましょう。肉は、向こうですか?」 「嶋田――」 つぶやいたきり、岩瀬は歩き出せない。夕方にかかり、買い物客が増えてきているようだ。ひとの流れをよけようにも足が動かない。 「ダメです、俺に礼をしてくれるんでしょう」 きっぱりとした口調で聞かせ、嶋田は手をつかんできた。逆らえなかった。買い物客に押し流されるようにして精肉店に向かう。 「……お願いです。あんなことで傷つかないでください」 耳元で、低くつぶやくように嶋田が言った。 「今は、俺のことを考えてくれませんか」 「……悪かった」 しかし、どんな気持ちで嶋田とステーキの夕食を囲めと言うのか。 何も、変わりないか――。 岩瀬は、いっそ笑い出したい気分に襲われる。嶋田とも今日で終わりにするのだから、別れの意味合いでは同じだ。 元妻は、傷ついたか。たとえ誤解でも。 ……誤解、なのか? 嶋田は誤解だと言った。だが、誤解と言い切ったことこそ、誤解ではないという言い訳ではないか。 それを――自分は期待するのか。 「大丈夫ですか?」 さまざまな精肉の並ぶショーケースを前に、岩瀬は全身から血が引いていくように感じる。それなのに顔が熱い。鼓動も、とんでもなく速くなっている。めまいがした。 なんで、こんなことに――。 自分を、浅ましいと思った。 「何がいいんだ」 ショーケースから目を移せずに問いかけた。 「そうですね。――素人が焼くなら、脂身が少ないほうがレアでもうまいかな?」 何ごともなかったかのように明るく答える嶋田に、岩瀬は胸が締めつけられる。 たぶん、一番傷ついたのは嶋田だ。 「このヒレを二枚ください」 心はどこか遠くへ飛ばされたまま、店員に向かって告げた。 「あと、そっちのステーキソースも」 そこまで声にして、やっと現実感が戻ってくる。今さらのように米沢牛と書かれた値札が目に止まり、厚みがあっても一枚が三千円では、嶋田への償いにもならないと思った。 「持ちましょうか?」 「いや、いい」 精肉店を離れて出口に向かう。嶋田が足を止めた。 「ちょっと寄らせてください」 すっと離れ、ワインコーナーに入っていく。 「ここ、なかなかの品ぞろえですよ。意外と言っちゃ、悪いかな」 岩瀬が隣に立つと、ニヤッとして顔を向けてきた。岩瀬の肩越しに店員を呼ぶ。 「アイスワインのハーフボトル、ありますか」 そうして持っていたボトルを岩瀬に見せた。 「これ、カベルネ・ソーヴィニヨンですけど、渋みの強い赤ワインでも口に合いますか」 「それほどワインにこだわりはないよ」 嶋田が飲みたいなら、それでいいと思った。嶋田は満面でやわらかく笑う。 「じゃ、これを二本と……アイスワインは、それを」 店員が持ってきた三本から一本を選んだ。 「赤ワインを二本も買うのか?」 「一本は、持ち帰ります」 いたずらっぽい目を向けてきて、けろりと言った。ドキッとして岩瀬は固まる。鼓動が駆け出したことを驚く思いで感じた。 「ここは持ちますね」 嶋田がレジに向かったと気づいて慌てた。 「いや、いい! ここも私が――」 しかしケーキと肉で両手がふさがっていて、もたついた間に終わってしまった。 「私が払うと言ったのに」 いっそ子どもじみて岩瀬は不平を漏らす。嶋田は何も言わずに小さく声を上げて笑った。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |