三 九月に入り、半期末決算に向けていよいよ忙しくなる中、岩瀬はこれまでにないほど不調だった。とにかく体がだるい。何かしら病気を自覚する症状があるならまだしも、特にないのだから手の打ちようがない。 先日、また吾妻に言われてしまった。 『あの……最近、ずいぶんお疲れに見えるんですけど……夏バテですか?』 たぶん、課内にひとりの女性社員だから、細かいところまで気を配ってくれているのだと思う。ありがとう大丈夫だと素直に返せたが、ほほ笑んで見せることはできなかった。 ……夏バテか。 そうかもしれないと思う。だが、そうではないとも思う。 経営企画部に配属になって五年目で、課長職に就任してからは三年目を迎え、半期ごとの多忙にはとっくに慣れている。今は管理職で、課を統括することが主な仕事で、実際のマーケティング業務に携わることはめったにない状況だ。 体力的に無理をしているとはとても思えず、心的ストレスにしても、進行中の業務に問題はないのだから思い当たらない。ただ、体がだるいだけだ。 ……まいった。 上半期に実施したキャンペーンの効果測定結果や、新商品の消費者満足度調査結果などの報告書が次々と上がってきているのに、読み通すにも、いまひとつ集中に欠ける。 それらを元に各商品の販売実績を評価して、問題点を洗い出し、同時に年間販売計画における達成度を算出し、次期の中期販売計画の立案まで行わなければならないのに、意欲的に取り組めなくなっている。 そのすべてを自分ひとりでするわけではないが、仕事を割り振るにも、上がってきた書類を承認するにも、課長の自分が細部まで把握していることが前提だ。でなければ相談にも乗れないし、書類の過ちにも気づけない。結果として、業務の進行を滞らせてしまう。 しかし、体がだるくてならない。仕事に集中できないことが一番悩ましいのだが、八月が過ぎる頃から、家では何もする気になれなくなった。 いつからか、平日は朝食を抜くようになり、夕食も外食か弁当になった。わざわざ自炊しないまでも、炊飯だけして買ってきた惣菜で済ますこともなくなった。 今では休日もそうで、すっかりキッチンに立たなくなっている。以前よりゴミが増えて、だが集積所に運ぶことすら億劫でならない。掃除に至ってはほとんど手つかずで、室内が荒れていると自分で感じられるくらいだ。 とりあえず、会社に行くのに身だしなみが乱れていることは絶対に自分に許せないので、ワイシャツに困るまでの事態には陥っていない。ほかも、必要に迫られて自分で洗濯しているが、しょせん乾燥まで全自動だ。 どうしてこんなふうになってしまったのかと思う反面、これで生きていられるのだから構わないとも思う。 ただ、思い当たる節がないではなかった。 嶋田が最後に来た土曜日の翌週は、お盆に合わせての夏季休暇で、メーカーらしく全社をあげて、まるまる一週間が休みだった。 その間に実家に顔を出しに行ったが、弟夫婦が同居している状況では離婚したばかりの身としては肩身が狭く、数時間で帰った。 残りの日々は何もすることが思いつかず、暇を持て余してジムに行こうとしたらジムも盆休みで、目的もなく出かけることは元から性に合わず、そうして家にいるうちに、あれほど前向きに取り組んできた家事がばかばかしくなった。 真夏の午後に窓を開けて、ソファに仰向けになって、ぬるい風に吹かれながら何度目になるかわからない文庫本を読んだ。なんとなく、この休暇中に嶋田がまた来るような気がしていた。しかし、どう考えても二度と来るはずがなかった。 同性の上司を押し倒して凌辱まがいのことをしたのに、やはりその程度の気持ちだったのかと思った。一瞬でも嶋田を受け入れそうになった自分を思い出し、羞恥に耐え忍んだ。強引に奪われたキスに酔い、組み敷かれて、劣情を手で育てられて快感に襲われたのだ。 自分が、ひどくつまらない人間に思えた。ひとりで暮らしていけるようになったところで、どうなるものでもないと思った。 現に、一週間の休暇を与えられても楽しめる趣味も少なく、何をする気にもなれなくて、思い出しても仕方ない男を思い出すばかりだ。 ひとりで暮らしていけるようになったら、どうするつもりだったのか。それがわからなくなっていた。離婚の経験から決心したことだが、ひとりで暮らしていけるなら伴侶などいらないではないか。そう思うなら、なぜ結婚したのだろう。結婚するより、自活できる努力を先にすべきだったのではないか。しかし離婚してひとりになったから、自活能力がないと気づいたわけで――。 そんな思いが浮かんでは消えて、一週間を過ごした。嶋田は、やはり来なかった。休暇が終わっても、休暇中の生活が抜けずにいた。だらしなくなる一方で、今では何をするにも虚しく思えるほどになっている。 だから体がだるくてならないのかもしれない。仕事はまだこなしていられるが、仕事を離れると、仕事をする意義さえ見失いそうになる。 なんのために働いているのだろう。出世欲など今はほど遠く、仕事をする意欲も薄れて充足感がない。生活のためでしかないなら、いっそ笑えた。こんな、どこにも張り合いを見いだせない生活のために自分は働いているのか。 でも、ひとりで暮らしていくということは、こういうものかもしれない。 ――朝は決まった時間にちゃんと起きて、余裕をもって出社できているだけましだ。 課長職の責任を果たす義務があるから続けていられるのだと思う。仕事が半期に一度の忙しさであることにも救われている。勤務中は、ほかのことを忘れていられる。 しかし嶋田はデスクワークが多くなって、課長席から目を上げれば視界に入った。以前と何も変わらず、見慣れた横顔でいつも仕事に集中している。それが胸をきしませる理由を岩瀬は考えたくない。 課長の岩瀬がそんなふうでも、経営企画部一課の社員たちはそれぞれの仕事を完遂し、九月の最終週には、定例の課内会議で経営陣に提出する書類の見直しがされた。 作成した担当者と承認した岩瀬に見落としがないか、担当外にもわかるミスや、担当外にはわかりづらい記述を修正するためだ。それは同時に他の社員の仕事を知る一助にもなり、岩瀬が課長に就任して始めたことだった。 会議の進行は在籍が一番浅い社員が務める。これも岩瀬が始めたことで、課の業務を早期に把握するためだ。今は嶋田が該当する。 会議室では壁のホワイトボードの前が指定席になり、岩瀬はその隣に座る。週に一度のことが、嶋田が自宅に来なくなってからは妙な緊張を伴うようになっていた。 「では次に、衛生用品の下半期の中期販売戦略に移ります。平野主任、お願いします」 勤続八年目の嶋田は慣れたもので、質疑応答も交え、淀みなく進めていく。岩瀬は会議資料に視線を落とし、間近で響く低音の声をどこか心地よく聞いていた。 「――岩瀬課長?」 ひときわ明瞭に聞こえてハッとする。 「平野主任から質問です」 「脱臭スプレーの新商品は、結局どうなりました? 私もうっかりしてたんですけど、空欄にしたままで――」 勢い込んで平野に問われ、冷や汗が出そうだった。会議中だというのに、ぼんやりしていた。しかも質問されたことは明らかに自分のミスだ。 「発売前にモニター調査をすることになった。販売戦略は結果を見て立てるそうだ。その意味で、一覧からは削除しないで空欄に斜線を入れてほしい。連絡が後手になって悪かった」 「わかりました」 先日の課長会で決まったことで、平野には昨日中に修正を伝えるつもりだった。完成したはずの書類に空欄があったのだから、誰に指摘されてもおかしくない。 ……これじゃ、平野のミスのようだ。 とうとうやってしまったという思いが湧き、自責の念に流れそうになる。吾妻が驚いた目で自分を見ていて、それにも責められるようだった。 「ほかにありませんか? ――では最後に私からですが、化粧品の直営三店舗の経営実績報告で、まず上半期の売り上げ推移は――」 場の空気を変えるように、いともあっさりと嶋田は次に移した。他の社員たちも釣られるように次の会議資料を開く。途端に、誰もが軽く息を飲んだと岩瀬に伝わった。 化粧品の直営三店舗の販売実績は、嶋田が担当についた七月から、そろって右肩上がりになっている。まだ三ヶ月分の実績ではあるが、岩瀬が何度か部長会で説明を求められたのも、このことについてだった。 「――以上になりますが、ご質問があるようでしたら、お願いします」 ひととおり説明を終えて嶋田が問いかける。 「最後の、販売員の雇用形態についての意見部分なんだが――」 平野が言いながら顔を上げた。納得しかねるような眼差しを岩瀬に向ける。 「これは、業務範囲を逸脱してませんか」 それは岩瀬も事前に目を通して感じたことだった。深くうなずいて見せ、平野に答える。 「もっともな疑問だが、経営管理という観点から考えると、逸脱とは言い切れないと思う。今回は、これで出してみるつもりだ」 「……わかりました」 課長の判断なら口ははさまないという様子で平野は押し黙った。岩瀬はもどかしさを覚えるが、今は平野を納得させる説明はできない。社内にも秘密はある。 「ほかはよろしいでしょうか? ――課長、お願いします」 今のこともまったく意に介さない口調で、嶋田が閉会を促した。それを受けて岩瀬は、修正が生じた報告書は翌日の正午までに再提出するよう伝え、全員に半期決算前の多忙をねぎらった。 「では、終わります。お疲れさまでした」 嶋田の声で一同礼をして、それぞれ会議室を出ていく。岩瀬は頃合いを計って、嶋田を呼び止めた。 「このまま時間いいか?」 少し驚いたように振り向き、嶋田は椅子に戻る。岩瀬は、最後のひとりが会議室を出てドアをきっちり閉めるのを見届けてから口を開いた。 「さっき、平野主任から質問に出たことなんだが、もう少し聞かせてくれ」 「なんでしょう?」 嶋田が報告書に書いた意見は、直営店ごとに販売員のひとりは正社員か、それに準ずる雇用形態にするべきという内容だった。 今はどの店舗も全員がパートタイム雇用だ。そのうちのひとりが各店舗の責任者になっていて、売り上げの管理と発注を担っている。他の販売員とは、時給で優遇されている点で違いがあるが、責任者の立場としては弱いと嶋田は指摘する。 「実際のところ、今の責任者を社員にできたとして効果は見込めるのか? 見合うだけのリーダーシップがあるか、聞きたいのだが」 現場の様子までは岩瀬は知らない。直営店の担当社員が上げてくる数値で判断してきた。 「その点については割愛しすぎたかもしれません。直営店の一番の問題は、離職率が高いことだと感じています」 嶋田が言うには、各店舗に責任者を置いても、経営企画部の担当社員が店長に等しい状況では組織としてまとまりにくい。その結果、販売員に帰属意識が薄く、仕事での達成感が得にくくなっている。短期間で辞職してしまう傾向も、そこに原因があると考えられる。 「どうしたら売り上げが伸びるか、ひとりひとりに訊くと意見が出てくるんですよ。でも、訊かないと出てこない。経営企画部の社員が指導するものと思い込んでいるから、常に受け身なんです。それに全員が同じ立場だから、誰かの接客態度に疑問を持っても指摘まではしない。身にかかる火の粉は払う程度ですね」 「表向きだけでも仲良しグループでいようということか――」 「そうなりますね。でも、意欲はあるんですよ。引き出せる状況にないことが問題です」 「――なるほど。そのあたりを刺激して、販売実績を上げたか」 岩瀬は感心するしかない。何ごとにも率直で、物怖じしない嶋田だけのことはある。 ……本当に、何ごとにも率直で、物怖じしない――。 押し倒されたときのことが脳裏をよぎり、慌てて消した。今は会社にいて、仕事の話の最中だ。だが、乱れた鼓動は元に戻らない。嶋田の視線から逃れたくて、浅くうつむいてしまう。 「……これはまだオフレコなんだが」 気を取り直して口を開いた。このタイミングで話していいかどうか、もう一度逡巡する。 「化粧品の直営三店舗は、撤退か増強かが、検討されていた」 うつむいていながらも、ひとつひとつ言葉をはっきりと伝えた。 「――えっ」 驚いてあたりまえだろう。異動からこの方、そんなことは一度も耳に入れずにきた。折々の業務報告を受けて、売り上げを伸ばしていることをねぎらってきたくらいだ。 「だが、担当者が変わっただけで急に業績が伸びた事実を大きく見て、下半期は増強路線で行くことに決まった」 そこまで言ってから嶋田に目を上げた。なかば呆然とした顔になっている。 「お手柄だな。下半期の業績次第では店舗を増やすことも検討されるはずだ。引き続き、励んでほしい。今後も業務報告に意見を添えてくれて構わない。その程度の責任は十分にとれる。意見が通るかどうかは、上の判断によるが」 伝えたかったことを言い切り、岩瀬は立ち上がる。会議資料をそろえながら続けた。 「先に言ったとおり、この件はまだオフレコだ。社内もそうだが、直営店でも口外しないでくれ。きみなら守秘義務を守れるだろうが、あえて言わせてもらった。時間を取らせたな」 「ちょ、待ってください!」 席を離れた途端、腕を捕られた。 「そういうことでしたら、お願いがあります」 真剣な顔が見上げてきて、それなのに岩瀬の鼓動はドクンと跳ねる。うろたえた。嶋田が強く腕を握ってくる。 「直営店の販売員たちをねぎらってほしいんです。安直な案ですが、慰労会を設けてもらえませんか。会費制で構いません」 岩瀬の動揺に気づかないのか、嶋田は表情を崩さずに言った。 岩瀬は手近な椅子を引き、よろよろと腰を下ろす。嶋田に握られている腕を会議机の上に置き、もう片方の手でほどくが、無意識でのことだった。 「あ……すみません」 だから何を謝られたのか、飲み込めるまで一瞬の間があいた。慌てて顔を背ける。嶋田の体温が腕に残っていて、机の上から引っ込めたいのに、そうすることが恥に感じられてできない。 「課長、あの……今の件、無理ですか?」 遠慮がちに問い直され、抑えようとしても深い吐息が溢れた。鼓動が乱れている。 「無理と言うか……前例がないからな――」 「……課長」 嶋田は唸るように言う。 「前例がなくても考えてもらえませんか。と言うか、前例がなくてあたりまえじゃないですか? どの店舗も同時期に急成長したんですよ?」 「それは――きみの尽力じゃないか」 ほとんど喘いで答えた。 「だからねぎらってほしいんです。俺ひとりが感謝したって個人なんですよ。本社が感謝していることを伝えてほしいんです。さっき話した、帰属意識の向上につながります」 熱弁をふるって返され、岩瀬はたじろぐ。 「本社が感謝しているのは事実だが、そういう名目なら、なおさら私の判断では――」 「なに言ってるんですか。判断を渋るなんて、課長らしくないです。しょせん職場の飲み会ですよ? 上に報告が必要だとしても、一存で決められませんか?」 言われたとおりだと思う。判断に迷うなど自分らしくない。嶋田の言い分にも同意している。本社としてでなくても、課として感謝を示せるなら事足りると思うのだから、自分の裁量の範囲内だ。 だが、そうなると同席しないわけには――。 「売り上げが急に伸びてきたことは彼女たちが一番わかってますし、本社にねぎらわれるなら達成感が違ってきます。下半期の業績にも影響します、きっと」 ダメ押しのように嶋田は言い加えた。岩瀬は、また深い吐息を漏らす。 「――わかった。もっともだと思う。ただ、そういう趣旨の飲み会は敬遠されないか?」 「その点は大丈夫です。俺が話しますから」 きっぱりと返され、苦笑してしまった。 「相変わらず、自信たっぷりだな。――いいことだ」 言ってから、まるで嫌味だと自嘲した。 でも……本当にそうだ。私にあんなことをしたのも、すっかり忘れたみたいで――。 ズキッと胸が痛んだ。もはや鼓動は早鐘を打つようで、息をするにも覚束なく感じられ、すぐにこの場から立ち去りたいと思う。 「ひとまず、決定事項として部長に話すから、それまで待ってほしい。あとは任せる」 「わかりました」 立ち上がったら、頭がフラッとした。よろけて、岩瀬は会議机に手をつく。 「大丈夫ですか!」 咄嗟に立ち上がった嶋田に支えられた。背後から包み込むように寄り添い、肩を抱いてくる。横から顔を覗き込んできた。 「真っ青じゃないですか。もう一度座って、しばらく休んだほうが――」 「いい!」 自分で驚くほどの声が出た。しかし岩瀬は止まらない。 「私にさわらないでくれ!」 うつむいたまま吐き捨て、ぎゅっと目を閉じる。肩に回った嶋田の手がビクッとした。 「でも……聞けません。八月の終わり頃から、ずっと顔色を悪くされてる。ちゃんと眠って、食べてるんですか?」 「きみには関係ないだろう!」 思わず睨み上げた。鼓動が激しくて、胸が苦しい。 「きみは元気そうで何よりだなっ」 何を口走ったか考えたくない。口を開けば感情が暴走するようで、岩瀬は唇を固く引き結ぶ。 それなのに、嶋田から逃れられなかった。足が動かない。急に頭を上げたからフラフラする。それ以前に、嶋田の眼差しに捕らえられ、心臓を鷲づかみにされたみたいに感じる。 「……嫌だ」 岩瀬は喘いだ。一分の迷いもなく、自分をまっすぐに見つめてくる嶋田の眼差しが恐ろしかった。胸の底まで見透かされそうだ――。 「……どうして俺が元気だなんて言えるんですか」 しかし、嶋田の唇から低く掠れたつぶやきが聞こえた。嶋田はわずかに眉を寄せ、痛みをこらえるような顔になる。 「会社では、しっかりしてるしかないでしょ。異動して初めての半期末決算だったし、少しも気が抜けなかったのは、俺だけじゃなくて、みんながそうじゃないですか。課長だって、ぎりぎりで踏ん張って……だから心配くらい、したっていいじゃないですか! 吾妻さんも、声かけたりしてるでしょ! 同じ職場にいるんだから普通のことです!」 最後は耳元で小さく叫ぶように言われ、岩瀬はまた頭がフラッとした。急激に苛立つ。 「ああ、そうだな。普通のことだ。そこまで気が回るなら、プライベートに口を出すな!」 「無理ですって!」 即座に言い返され、胸が裂けそうになった。 「なんで、きみはそうなんだ! きみがそんなだから、私はめちゃくちゃだっ」 「俺だって、そうですよ! 思いきりフラれたんですよ? あんなことして自己嫌悪でぐちゃぐちゃだ! 会社に来て、仕事してるだけマシだと思ってくださいよ!」 「それは、私だろうっ?」 「だから俺もそうなんですって!」 一歩も引かずに叩き返され、自制を失った。 「なら、私のせいだと言うのか!」 「言いますよ、お互いさまじゃないですか!」 さらに叩き返され、感情に振り回される。 「きみが一方的にしたことだろう!」 「一方的なんて、ありますか! あなたが傷ついたなら俺も傷つきますよ、どっちも人間なんだから、そういうもんでしょ!」 「力でねじ伏せたくせに、よく言えるな!」 う、と嶋田は声を詰まらせた。見る間に顔を強張らせていく。 岩瀬は呼吸を荒くしていた。ここは会社の会議室だ。今のやり取りが外まで聞こえていたなら、失態に違いなかった。 たまらず、会議机に片手をつく。そうして崩れそうな体を支えた。頭はずっとフラフラだし、激情が込み上げて胸が締めつけられる。 「……あなたには、そうなんですか。あなたを力でねじ伏せたなんて……俺は――」 岩瀬は、うつむいた陰で眉間をきつく寄せる。会社にいて、『あなた』と呼ばれた。 「なんか……奥さんだった人の気持ちが、わかる気がします。どんなに思っても、あなたには伝わらない」 だが、それにはギクッとした。これまでとはまったく別の理由で鼓動が駆け出す。 「俺……マジに思い違いしてたみたいだ。まだ終わってない、望みはあるって――思ってたのに」 どんなに嶋田から言葉を投げかけられても何も返せなかった。机の木目を視界に映し、岩瀬はわななく。 「――もう何も言いません。でも、しばらくここで休んでください。俺は戻りますから。三十分しても戻られなかったら、吾妻さんに呼びに来てもらいます」 背後から、すっと嶋田の気配が消えるのを感じた。会議室のドアが、かすかに音を立てて開く。 行かないでくれと叫びたかった。しかし、その衝動が信じられなくて声にできなかった。 会議室のドアが閉まる。ひとり取り残された静けさが身にまといついた。 岩瀬はへなへなと椅子に崩れる。そうして、冷たい木の机に突っ伏した。 今は休んでいい――三十分すれば、吾妻が呼びに来てくれる。だから、休もう。ひどく疲れた。嶋田が、むき出しの感情をぶつけてくるから――。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |